『川中島の合戦』に関する新説を読みました。
【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して位と兵を与え、自分の子飼いの武将を育成するための格好の利用場にしていた。
ただ上杉と戦争する気はなく、お互い、ある程度、馴れ合いの部分があった。
それだけに、川中島の霧の中で敵軍に遭遇したとき、
「やる気が無いように見せかけて、実はそれは罠で、本当は本気で、こちらを殲滅する気だったんだ!」
とお互いの将兵が思い込み、死に物狂いの乱戦になり、互いに多数の死者を出した。
疑問に思ったことを質問します。
1)川中島の合戦は5回もなかったという学者もいます。本当に5回も戦ったのでしょうか?
2)川中島の合戦のように5回も同じ場所で戦った合戦はありますか?
3)織田軍は略奪行為をしなかったのに、なぜ武田軍と上杉軍は敵地で略奪行為をしたのでしょうか?
4)上杉謙信が単騎で信玄の陣地に乗り込んで、信玄に斬りつけて軍配で受けたという話は事実でしょうか?
5)両軍が急接近して多数の死傷者が出たのは、“霧”の影響だというのは事実ですか?
6)軍師・山本勘助の「啄木鳥戦法」は事実ですか?
7)あの当時に軍師という役割は確立されていたのですか?
8)山本勘助は実在したのですか?
No.6
- 回答日時:
1)同じ場所で5回も戦ったのは、決着がつかなかった事と大軍を展開するのに必要な地形を備えていた点、善光寺という経済中心地に近いので争奪の為戦いの場になりやすかった点、武田方は海津城という前進基地を設けていたなど色々考えられます。
3)戦時における略奪や青田刈りなどは通常の行為で織田軍の皆殺し戦法は徹底したものでした。 兵糧の現地調達は常識でした。
4)一軍の本陣には主将の護衛兵がつめており大将同士の一騎打ちなどおこりえません。 後世の捏造です。
ただ川中島合戦では信玄の弟が戦死していますから別の所で激戦があったことは事実です。
5)川中島はかなりの大川があり川霧が発生し易い地形で早朝薄暗い時にお互いに敵の接近に気付くのが遅れた事は考えられます。
上杉軍としては越後への撤退途中で待ち伏せにあったと思い必死で退路を切り開こうとしたでしょうし、武田軍は意外にも無傷の上杉軍が目前に現れたので混乱したでしょう。
双方必死の戦闘になったと思われます。 戦闘の初期は上杉軍が多数でもあり優勢でしたが別動隊が駆けつけてからは追撃戦となり上杉軍の死傷者が増加しました。
6)啄木鳥戦法が山本勘助の信玄であったかどうかは不明です。
しかし長陣は武田軍にも不利でしたから打開策として兵力の勝っていた武田軍が軍を二分しても十分戦えると判断したのは当然だったと思います。 ただ山を攻め登ったのではなく攻め上ると見せかけ、上杉軍の混乱を期待したのではないかと思います。
7)軍師という役割に相当する者はまずなかったと思います。
No.5
- 回答日時:
1)上杉・武田が北信濃へ出兵したのが五回あり、学者によっては川中島合戦に数えない場合があります。
第一次:旧村上領を荒らし回る上杉勢を、武田勢が捕捉できぬまま、二十日ほどで上杉勢が撤退(川中島で合戦はない)
第二次:小競り合いをしながら半年間、対峙
第三次:北信濃に出兵した上杉勢が、上野原で武田勢を破る(川中島で合戦はない)
第四次:川中島で大規模な遭遇戦(いわゆる川中島合戦)
第五次:上杉勢が決戦を指向するも、武田勢は決戦を回避
2)川中島でも、合戦になったのはせいぜい三回(激戦は一回)です。他の方も御書きですが、同じ場所で二回も激戦になった国府台合戦は珍しい例でしょう。
北信濃における武田・上杉の対決は、信濃の商業を支配する善光寺の、巨大な商業利権欲しさなので、善光寺の周辺で繰り返し戦いになりました。
3)織田信長が当時の常識に反し、「略奪した者は容赦なく死刑」とやったからです。合戦での略奪は日本中で当たり前でした。
4)近衛前嗣から上杉政虎への書状(この点、ウィキペディアの記事は誤り)に、「自身太刀討ちに及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候」とあるので、謙信自身も敵と戦っただろうと推定できますが、相手が信玄とは特定できません。というか、常に本陣には大人数がいますから、総大将同士の一騎討ちなど、およそありえない話です。
5)霧のせいで遭遇戦になったというのは、可能性が高いと思いますが、事実かどうかを照明する方法がないかと。
6)小説「甲陽軍艦」の中のお話です。
7)今の言葉でいう軍師は、今川家の雪斎くらいでしょうか。武田家にも上杉家にも存在しません。
8)市河文書↓で実在が確認されています。
http://www.city.kushiro.hokkaido.jp/icity/browse …
No.4
- 回答日時:
1)川中島の合戦は5回もなかったという学者もいます。
本当に5回も戦ったのでしょうか?5回ほど川中島に双方出兵したと言うことのようです。
2)川中島の合戦のように5回も同じ場所で戦った合戦はありますか?
北条VS里見の国府台の戦いが二度ですね。ただ、国府台の戦いは二度とも激戦でした。もしかしたら、出兵だけして睨み合いで終わったこともあったかもしれません。WIKIPEDIAで見たら第二次国府台の戦いも 1563年と1564年の二回別の戦いのようです。
3)織田軍は略奪行為をしなかったのに、なぜ武田軍と上杉軍は敵地で略奪行為をしたのでしょうか?
義昭を奉じての京都進駐が有名なだけで、刈田狼藉は、通常の戦闘行為です。
4)上杉謙信が単騎で信玄の陣地に乗り込んで、信玄に斬りつけて軍配で受けたという話は事実でしょうか?
これは作り話でしょう。
5)両軍が急接近して多数の死傷者が出たのは、“霧”の影響だというのは事実ですか?
戦国期の戦いは基本的には睨み合いで、殲滅戦という形式を取ることは滅多にありませんでした。滅多にない出来事が歴史に残るのですが。戦上手とは、いかにして、相手が「俺の方が有利だから戦おう」と思って出撃したら「あれ!俺の方が不利じゃん」とさせるかにあります。厳島の戦いや三方原の戦いのように、自軍有利の場所に、相手から進んで来させることが、最重要です。その意味で、霧のため遭遇戦は珍しい。
6)軍師・山本勘助の「啄木鳥戦法」は事実ですか?
これは 不明
7)あの当時に軍師という役割は確立されていたのですか?
占い師という意味での軍師はいた
8)山本勘助は実在したのですか?
実在はしたようですが、巷間言われているようではないようです
概要の新説は相当に、ひねくれた話ですね。
新規登用=前線に近い地域の武士が前線に立つのは、普通のことですから。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
1)わかりません。
基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。ここで夢をぶち壊してしまうようなことを書いてしまいますが、川中島の合戦としてイメージする第四次川中島合戦は、実際はあのような戦いではなかった、とする説が最近は有力です。つまり構成の作り話ではなかったか、ということです。啄木鳥の戦法を始め現実的ではない話が多く、また最も疑問視されるのがあれだけ両軍に大損害が出たといわれていながら、その半年後には上杉、武田両軍とも何事もなかったかのように出兵をしているからです。
2)記録に残っているものはないでしょう。しかし、そもそも川中島の合戦そのものが合戦と呼ぶにふさわしいものかどうかが疑問なので、ふたつの軍勢が同じところで何度もにらみ合った(あるいは小競り合いをした)というのはあったかもしれません(それが資料に残っていないというだけで)。
3)織田軍は永禄11年に足利義昭を奉じて上洛したときに、確かに略奪はしませんでした。ただ、それは略奪の禁止を信長が厳命したからです。それ以外の時には織田軍といえどもいつも品行方正というわけではありませんでした。比叡山は焼き討ちにしていますし(当時の常識からすると略奪より罪深い)、一向一揆に対しても全く容赦していません。虐殺や強姦など茶飯事だったでしょう。また、戦国時代には相手の領土に攻め入って田畑を刈り取ったり、農村を焼き討ちにしたりするのは「戦法のひとつ」でした。信長は兵農分離を進めたことをご存知ですよね?これのメリットは農業が忙しい時期に攻め込んで田畑を刈り取ってしまうという嫌がらせが出来ることです。信長は美濃攻略でこの戦法をひんぱんに使い美濃衆を追い込んでいきました。
4)ウソです。SF映画インディペンデンス・デイではアメリカの大統領が自ら戦闘機に乗って戦いましたが、そのくらい荒唐無稽な話です。でも、そういう話があると面白いからそうなりました。
5)わかりません。あなたが示した説もあくまで「新説」にすぎないからです。あくまで個人的印象ですが、多くの人の賛同は得られないだろうな、という印象です。
6)これもウソといっていいでしょう。啄木鳥の戦法の最大の問題は、「甲陽軍鑑にあるだけの軍勢が妻女山に回ったとしたら、計算上先頭が妻女山に到着したときには最後尾はまだ海津城を出発していないことになる」からです。
余談ですが、謙信が陣取ったという妻女山ですが、川中島の北に「西条山」というのがあるそうです。この西条山と妻女山を間違えていたのではないかという説があります。この説に従うと、謙信の配置を見て信玄がまず海津城に入った動きは極めて合理的になりますが、その後の合戦の展開がどうなったかが全く不明という欠点があります。
7)軍師という役割はありましたが、#1さんも書かれているように占い師的な役割が大きかったようです。
8)いたことはいたみたいですよ。ただその実態については不明です。
No.2
- 回答日時:
どれも証拠がない話ですね。
1あったと思われていますが、戦ったのか、小競り合いをしたのか、睨み合っただけなのか微妙ですね。
3織田だって略奪はしていたでしょう。ただ傾向として、織田は派遣思想で動いていて奪った土地はすべて占領する前提であったのに対し、上杉の川中島や武田の上野出兵は、攻め込まれるくらいなら攻めてしまえという半防衛的な意味合いがあって、その地に対する執着が薄かった、面があると思います。あと織田は降伏した勢力に対して、軍役とともに厳しい兵糧の徴発を行っています。また上杉や武田がいつも峠越えや山越えで戦っていたのに対し、織田は街道沿いに軍を進めた戦争が多かったので、食糧供給が安定していたかもしれません。
4多分作り話でしょう
5霧の影響で急接近したのは事実でしょうが、はたして”急接近してしまった”のか、”急接近できた”なのかわかりませんね。
6信憑性はありません。
7そんな名称や役職はないでしょう。ただそのような役割をした側近はいたかもしれませんし、いなかったかもしれません。傅役・寵愛した小姓や家臣(武田の香坂、徳川の伊井)・軍僧などと相談しながら戦略を練ったと考えられます。
8昔は甲陽軍艦にしか出てこなかったので作り話だと思われていました。ただ別の記述が見つかったので、武田に山本菅助なるものがいたとはみなされています。ただいるかいないか?がやっといたんじゃないか?となった状態で、とても軍師云々といったレベルの話ではありません。
No.1
- 回答日時:
いくつか答えられる部分だけで失礼します。
2)あれ程の大軍同士がぶつかり合う戦いが同じ場所、同じ勢力で何度も行われた例は日本史には無いでしょう。川中島の戦いのように中央政権に影響しない地方の一地域の争奪戦が歴史の本流に関係無いにも係わらず後世に強く記憶されている事も他に例がありません。
3)それが当時の戦争の常態だからです。上洛時の織田軍の方が寧ろ異常なのです。当時の軍隊は補給体制を完全に自己完結出来ないのが普通でした。大規模な水運を利用出来る場合は例外ですが、長躯遠征する場合、普通は戦闘部隊の移動速度に補給部隊が追随出来ません。従って進路上にある村落や田畑より糧秣を略奪しなければ早々に食料不足に陥りますが、一箇所で徴発できる食料には限りがあるため通常長期の停止も不可能でした。第四次川中島の戦いに於ける初期の陣取り合戦も食料の残量を睨みながらのチキンレースであったと考えられます。海津城を包囲され、完全に補給の道を絶たれる恐れに焦れた武田軍が行動を起こしたのが戦闘の発端ですが上杉謙信も内心冷汗物だった事でしょう。
6)啄木鳥戦法と同様の機動は第二次ポエニ戦争のカンナエの戦いにおけるカルタゴ軍や、フリードリヒ大王の斜行陣型などにも類似しており、戦理に適ったものです。長篠の戦では当の武田軍が同様の戦法によって敗北しており、事実と見ても不自然ではないでしょう。
7)当時の軍師は近代軍の参謀のように専門的な軍事職能者ではありません。吉凶を占う呪い師のような能力も要求されたようです。
8)実在した事は古文書によって確認されています。信玄の出した書状を読み上げる役を仰せつかっている位ですので信玄の側近ではあったようですが、軍師であったかどうかは不明です。
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