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毛利秀元は、もともと毛利輝元の嗣子でした。輝元に実子の秀就が生まれたために身を引いて別家を立てた人で、官位は正三位参議と高く、関ヶ原の役以前は山口20万石を分知され「毛利家一門筆頭」であったようです。輝元の陣代を度々任され、優れた武将として多くのエピソードを持っています。

関ヶ原の役の後、防長2国に押し込められた毛利家の中で、長府5万石を分知されて「一門筆頭、正規の大名」の立場になったわけですが、秀元本人はともかく、2代目の光広、3代目の綱元はいずれも四品に上り、将軍の偏緯を与えられています。綱元は侍従にも任じられています。この「四品、侍従、将軍の偏緯」と言う待遇は、国持大名である毛利本家の当主と同じです。5万石の大名としては、他に例がない厚遇と思われます。
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/chugok …
4代目・5代目は四品には上っても将軍偏緯は与えられず、秀元の直系が途絶えた6代目以降は「普通の5万石の大名」扱いになっていますが。

秀元は江戸時代に「戦国の最後の生き残り」的な尊敬を受けた人だったようですが、1651年に生まれた3代目の綱元(秀元の孫)にまでその余慶が及んだということでしょうか?4代目に至り、将軍の偏緯を受けなくなったのも何か理由がありそうです。

A 回答 (2件)

類似の質問が以前ありました。


http://oshiete.homes.jp/qa2740833.html

ご質問の主眼が以前のものとは若干違うような気もしますが、私も回答しているので、いちおう紹介しておきますね。

この回答への補足

私なりに考えてみたのですが、「長府家三代綱元の長男の吉元が毛利宗家を継いで、毛利宗家が秀就流から秀元流に移った」事実があるのですね。吉元は徳川将軍家の吉宗(以後、将軍位は吉宗の子孫のみが継承)に当たる存在で、吉元の後の毛利宗家当主は全て吉元の子孫、もしくは吉元の曽祖父である秀元の子孫であるようです。

幕府としては、破格の厚遇をしていた長府家(毛利秀元の直系子孫)が毛利宗家を継いだことで「毛利宗家と長府家が合体した」と看做し、長府家への厚遇を段階的に廃したのでしょうか。

インターネットを調べますと、
「毛利宗家を継いだ吉元の長男の元朝は長府家を継ぎ、吉元の嗣子は元陳であったが、元陳が早世したので、長府藩主の元朝が毛利宗家の嗣子となって、吉元の弟の元矩が長府家を継いだ。但し、元朝は毛利宗家を継ぐ前に早世したので、結局吉元の六男の宗広が宗家を継いだ」
などと、「秀元系に移った毛利宗家」「秀元系が継承している長府家」「秀元の三男元知が初代の清末家」が錯綜して実に複雑ですね。

とりあえず、長府家の六代匡広以降は「毛利宗家(秀元流)の庶流」であることがはっきりしたので、石高相応の扱いになったと考えれば良いみたいです。

補足日時:2007/09/09 22:54
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この回答へのお礼

ご指摘有難うございます。
以前の質問について、質問文と回答3件を拝読いたしました。
質問文で「大広間下段の右側の列は越前宰相忠昌、毛利長門秀就、毛利宰相秀元、細川越中忠利、鍋島信濃勝茂・・・の順になっています」とあります。
石高を度外視すれば、毛利宰相秀元は、「関ヶ原の合戦以前に正三位参議の官位を得ている人であり、従四位下少将の秀就より官位が上です。正四位参議の松平忠昌よりさらに位階が上であり、参議叙任は遥かに前です。毛利家関係者は関ヶ原で「敗北した」あとも官位はそのままだったわけなので、席次をどうするか、幕府の担当者は頭を悩ませたでしょうね。

お礼日時:2007/09/09 23:23

>破格の厚遇をしていた長府家(毛利秀元の直系子孫)が毛利宗家を継いだことで「毛利宗家と


>長府家が合体した」と看做し、長府家への厚遇を段階的に廃したのでしょうか。

上記補足内容に直接お答えする知識を私は持ち合わせてはおりませんので、単なる感想でしか
ありませんが、厚遇を段階的に廃止という点は、極めて興味深いご指摘ですね。

他の藩の事例をきちんと確認する時間はないのでウラ覚えで恐縮ですが‥
・分家出身者が本家を相続したことに伴う、分家側の家格・処遇の変化
・養子の出身如何で家格・処遇が下がるケース
などが仮にあったとしても極めて異例なことだと思います。
(格上の家からの養子相続で、家格が上がる例はあったように記憶します)

勲功者・縁故者が別家を興すに当たり、その厚遇を一代限りとすべきか家格として固定すべ
きか。「ただの分家ではない本家に匹敵する別家」の処遇を決めかねたまま3代目まで続いて
しまい、その異例を解消する為に、更なる異例を4代目・6代目相続時にすかさず行って
段階的に解消を図った、ということですね。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
江戸時代初期の、毛利家に対する幕府の扱いは「毛利家の嫡流を二つ認める」というものと言えます。

仙台伊達家の宗家(仙台)と別家(宇和島)を、官位の面では同等に扱った例があるようです。

伊達宗家 http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/mutude …
宇和島家 http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/shikok …

宇和島家がしばしば侍従や少将に任じられているのに対し、宗家は従四位下(たまに上)に叙せられているのみです。石高では、実高で約10倍の大差がありますが、仙台の宗家と宇和島家とは官位でバランスを取っていた、と言えなくもないようです。この辺、江戸時代初期の毛利宗家と長府家の関係と良く似ていますね。

お礼日時:2007/09/13 20:15

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