質問がいささか曖昧になりますが、ご容赦ください。
質問の概要:
「自由とは何か」という問いについて、ある程度まとまった見取り図を持ちたいと考えています。「私は比較的まとまった観点から整理できるつもり」と考えている方、あるいは良い本を紹介していただける方はご紹介していただければ幸いです。
もう少し詳しく:
そして、「自由」の概念はいままでいろいろな話が語られてきたわけですが、切り取り方が人によってかなり違うので、「自由とは何か」という問いに答えようと思うと、非常に困難です。
個人にとっての経済的な自由/身体の自由/<精神>の自由/選択肢の多元性とかの問題、あるいは自由意志の問題とか。「自由な社会の設計」の問題としてのリベラリズム/リバタリアニズムの話とか、権力論とか、消極自由/積極自由とか。意志論の枠組みで捉えるとどうなるかとか、認識論の枠組みで捉えるとどうなるか、とか。ヘーゲルの自由とカントの自由はまた違うし、、、とか。………議論の単位にせよ、その切り取り方もあまりにも多様であると感じています。
まあ、ゆっくりと色々と勉強していけば、少しずつ見取り図ができてくるのかな、とは思ってはいますが、効率的に「コレはイイ!」といえるものがあると、よいなぁ、と思っています。
ということで、何かご紹介・整理いただければ幸いです。多分私にとって既読の文献などもいくつかご紹介いただいてしまうことにもなるかとは思いますが、そこのところは特に気にしませんので、お願いできればと思います。
ただし、なるべく紹介者の方が既にお読みになられた本でお願いできればと思います。
暇なときにご回答ください。
A 回答 (14件中11~14件)
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No.3
- 回答日時:
自由とは概念です。
自分が自由と考えていれば自由だしそうでなければそうでないということです
たとえば檻に入るという行為を一つとってみましょう檻に入ること自体
自由と考える人も居れば不自由と感じる人もいます。
熊が襲い掛かって民家に侵入してくるのなら檻の中は安全でしょう
しかし、逆に考えると熊によって檻の中に閉じ込められて不自由と感じれば不自由と言う事なのでしょう。
なので自由というのは考え方ということです。
また自由というのは意識的に考えるものから無意識的に発生するものまであります。
また自由というのは他世界から発せられたものと自分の世界から発せられたもの他世界でも自世界でもないようなところから発せられたもの
の3パターン存在します。
前者は「~になった」などの他世界発生的な形になるでしょう
中者は「~して~になった」などの自世界発的な形になるでしょう
後者は「~である」などの主客未分的な形になるでしょう。
要約すると
自由=概念{(無意識的、意識的),(自世界的、他世界的、主客未分的)}
という事になると思うんですがどうでしょうか?
ありがとうございます。熊の例はよくわかります。意識/無意識も、まあなんとなくわかります。
ただ、「自世界的、他世界的、主客未分的」という三分類は今ひとつ理解できませんでした。
「~になった」 は変化(特に変化の起点を必要としない)で、
「~して ~になった」 は変化の起点に主体(or自分)がおり、
「~である」 は状態
ということになると思うのですが、「~である」に主客未分的、という言葉が充てられる理由がわかりにくいです。「~になった」ということの方に主客未分化なものも、特に主体が関わらないものも両方含まれてしまうように感じるのですが。
No.2
- 回答日時:
自由を掲げる宗教が しばしば 自由を妨げることがあると考えます。
絶対のことを言う場合に 相対の世界の内容をもって話を進める場合などです。
これを交通整理することで ずいぶんわたしたちは自由になると思います。早く言えば 諸宗教の交通整理ということで 自由の定義よりは どうすれば自由になるかに片寄った議論ですが 次のように考えます。
§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと
世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。
Y=考えれば分かること。
(いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
為によって分かるようになると考えられること。
(科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
しうることがら。)
X=考えても分からないこと。
(いやむしろ 分かるか・分からないかが分からないこと。
(人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては
そのことの有無・可否・是非などを判定しがたいことがら。
(もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておく
ことがら。 )
ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。
経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義のなかに――あるいは 外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。
超経験の領域= X
超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
〔そしてこのような意味での〕神・
〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空
たとえば 経験領域における未知のことがらは はっきりと非経験 X ではない。未知は 不可知ではなく 非経験 X ではない。けれども 不可知も はっきりと 経験 Y であって 非経験 X ではない。可知か不可知か決められ得ないことが 非経験 X である。(不可知は そもそも 無いと言える)。
人間の精神は 人間も経験存在 Y であり 精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)
さらには 《無意識》はどうか。これも Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ絶対法則でもないだろう。
§2 《考える》と《信じる》
考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。
人間存在= Z
とすれば 経験領域 Y に対する人間 Z の関係が いまの議論では《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが 意味をなすかどうかは 分からない。
《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X )》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。
これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。
したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤーウェー》 X-Zd とも 《アッラー》 X-Ze 等々とも 言い得る。
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考して抱く神の像(――すなわち《神》と言っていても それは《考える》の問題= Y-Zi である――)ではないということである。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。
§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間Zの
歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。
これに対する答えは むしろ簡単である。
絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形( nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。
しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われる。)
議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮に変化を受けつつも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。
信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。
いま一歩進めるならば このおのおのの基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計の誤解やら対立やらを 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。
信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。
もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示をも含めて わたし Zi の X 体験および X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。
もし問題があるとすれば それは はじめの想定や規定の成否・当否にかかわるものであるはづだ。われわれはすべからく互いの差異を 自由に批評し合いつつも 認め合わなければいけない。
これによって たとえ自由とは何かを知らなくても 大いにわたしたちの世の中は自由の風が吹くように思われます。
長文ありがとうございます。そして、この程度の思考の複雑さについて耐えうる質問者であろうという判断を下していただき光栄です。
Xの規定の仕方が、私がかつて試みた発想とは少し違っていたので、面白く読ませていただきました。特に、考えると信じるという概念を規定する手続きは、こういう議論の仕方をはじめて知りましたので楽しめました。
ただ、「議論を端折るかたちになるが」までの議論の筋道は理解できたのですが、そこから先の落としどころが、ぼんやりとしか理解できませんでした。
「明確に 保持していることが 重要ではないだろうか」といったとき、「明確に保持」することとは何か?明確に意識する、ということでしょうか。Xそのものについて明確に意識することは原理的にできないので、Z、Y、Xとの関係性について明確に意識するべきだ、という理解でOKでしょうか?
ただ、「重要」という言葉が、一体に何にとって重要なのかのイメージがパッとうかびませんでした。brageloneさんは何か特定のイメージをお持ちのように感じましたが、無宗教と自由を掲げる宗教との対立なのか、ムスリムとクリスチャンの対立の話なのでしょうか?
そこらへんを少し敷衍していただければもう少し理解ができたか、と。
No.1
- 回答日時:
>「自由とは何か」という問いについて、ある程度まとまった見取り図を持ちたいと考えています。
ウィキペディアじゃだめなんでしょうか…?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1
日本語では反語である不自由(必要な条件が不足したり、欠けたりしていて、思うとおりにならないこと。不便なこと。また、そのさま。[goo国語辞書より])の反対の意味が自由であると定義すると、自由とは(必要な条件が満ち足りている、欠けていない、思うとおりになる、便利なこと)となりシンプルに定義できると思います。
◆「自由」に包括されるテーマ
・経済的自由
・身体的自由
・精神的自由
・消極自由
・積極自由
・自由意志
◆「自由」に関連するテーマ
・責任
・権利
・義務
・憲法
・挙げられているリベラリズム、権力論、意志論、認識論?
正直、関連するテーマまで見取り図に含めると膨大過ぎるのではないかと考えます。
確かに20世紀中盤ぐらいまでの、自由の観念について簡潔にまとめたものとしては現時点でのWikipediaの記述はそれなりにキュッとしてますね。20世紀後半の話として、フーコーの記述とかを加えると、さらに基本セットの話をカバーできそうな雰囲気ですね。
>シンプルに定義できると思います。
確かに一つの定義としては機能すると思います。ただ、その定義を用いることによる射程には(言うまでもないかもしれませんが)、かなり限界があるようにも思いますね。。。
>正直、関連するテーマまで見取り図に含めると膨大過ぎるのではないかと考えます。
確かに領域を一度しぼってしまう、というのは仰るとおりだと思います。領域の絞り方の検討をつけるのがいいのかもしれません。広げるにしても一度絞ったところで抑えてから、また広げるとかのほうがいいですね。
参考になりました。ありがとうございます。
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