メモのコツを教えてください!

18歳男です
人を傷つけたり迷惑をかけたりする人を叩く人、悪く言う人っていますよね
というかいるどころかほとんどだと思います。
僕ももともとそうだったし、それが普通だと思います。
でも、最近の自分は「自分だって人に迷惑かけたことあるし、傷つけたことあるよな、、、」と考えてしまって、犯罪者ですら悪く言う気になりません。
悪く思わないのではなく、自分は人を批判できるほどよくできた人間じゃないと考えてしまうんです。
だれかに傷つけられた人に「そんなやつ◯◯だから気にすんな!」みたいに加害者を悪く言って励ます方たくさんいますよね。優しさと考えるのが普通だと思うんですが、僕は「誰だって人を傷つけてしまったことあるはずなのにどうしてそんなに偉そうに言えるんだ。それよりも被害者の方に優しい言葉かけてあげなよ」と思ってしまいます。
そもそもいい悪いなんてだれが判断するんだろう。因果応報っていうけど良い行いか悪い行いかなんて誰が決めるんだろう。神様?
悪い人を批判する人はもしかしてほんとに人を傷つけたことのない聖人なのだろうか。
僕は定期的に「善悪」というものについてこうやってグルグル考えてしまいます。自分でも自分の意見がわからなくなってしまっててよくわからない文章になってたらすみません
みなさんの意見聞かせてください

A 回答 (8件)

お釈迦様も言っていますがこの世の中の人間全てが愚かものだと言うことです。


あなたの言うことももっともです。
人は皆誰かを傷つけ人に迷惑をかけ人に頼って生きていかないとダメな存在なんです。
そして人間としてどう学んでいくかこれによってその人が変わっていきます、、
人間として学ばずただお金を稼ぐとかただ勉強をすると言う人間は大人になり歳をとり地位や名誉があったとしても愚か者です。

どこどこの社長が不正をした、政治家が不正をした。
普通の人じゃ考えられない位のお給料をもらっているのに悪さをしてお金儲けをしようとしたりする人間がいますよね?

お金があるんだから良い人間になれるんじゃないかと勘違いする人がいますがそれは違います。

政治家だろうが金持ちだろうが人として学ぶことができない人は愚か者なんです。
だからどんな人間でも悪いことをしてしまうそれが人間なんです。

あなたはなかなかいいところに気づきましたね。

逆を言えばどんなに貧乏でもどんなに地位や名誉がなくても人間としてきちんとした考えを持った人はいくらでもいるんです。

ほとんどの人が人を傷つけたり悪いことをすると言う考えは大げさかもしれませんが、確かにそういう人の方が多いんだと思います。

悪い人を批判する人もはっきりって愚かなんだけどそれに気づいていないだけなんです。

SNSで中傷する人もそうです。
悪いことをした人に対して悪口を言うそれはその人も愚かだからするんです、でもそれに気づいていないだけ。

人間は皆愚かなんですだからこそ学ばないといけない、そしてそれに気づいているか気づいていないかというのが問題です。

僕は自分の周りで社長やお金持ちが愚かな死に方をするのを何人も見てきました。

あれだけみんなにちやほやされているのに最後はにくまれ愚かな死に方をしていくそういうものを見てきました。

人間としてどう学ぶかこれが問題なんですよ。
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>犯罪者ですら悪く言う気になりません。



倫理意識が未だに犯罪者と同じレベルなので「同病相憐れむ」なんですね。

犯罪、犯行に応じた以上の罪を背負わせることには反対ですが、非難されることをして非難されたくないとか、罪を償うことないとか、罪を軽くしてやれという気持ちは、私には全くありません。
「18歳男です 人を傷つけたり迷惑をかけた」の回答画像7
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まさにあなたは「石を投げなさい」のイエスキリストのような


崇高な思想をしています

他人は基本的にクズばかりで、
自分は平気でルッキズムやイジメ、集団無視、排除する、などをしているくせに、
いじめられっ子が無敵犯罪をすると、よってたかって叩く、それも「匿名で」

世の中の他人はクズだらけであり、そもそも道徳を受け入れるようなよく出来た脳みそを持っている人は少ないのです
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子供の頃の教育の弊害でしょう。

貴方が悩むのはシツケとして善悪を教えられてきたからです。

これからは社会を構成する一員として「何に気を付けないと私たちは未来を失うのか?」を考えていきましょう。

以下は長いので興味があればお読みください。

社会通念の善悪を考える場合は、社会が存続し人が幸福になる以上の目的はありません。これが宗教であると別の観点が存在します。そちらに関しては合理性とは別の話ですので論議の対象外とします。

●社会と共存するか否かを個人で決める

第一の前提として「社会と共存するか否か決める自由」が個人にあるという事です。「共存しないと怒られるので考えてもみなかった」という人はここから始めましょう。

「自分が選んだのだと自覚する」必要があります。

何故かと言うと「社会との共存を選ばなかった人」と戦う(滅する)「義務が社会人にはある」からです。そのくらい「社会」は「敵を許さないという」獰猛な生き物であり、自分の側に立たない人間と全力で戦います(つまり殺しあいます)。そういう物だと理解していないと行けないのです。

●社会は獰猛な生き物である

社会との共存を選んだ人が罪を犯した場合は「甘すぎる」くらいの罰則が適用されます。逆に「社会と共存したくない」と言う考えが見えると「厳しすぎる位の罰則」が適用されます。同じ罪を犯しても「本人の意向が反社会的であると判明すると容赦しない」という性質が社会にあるのです。

「少年法があるので死刑にならないと主張し、残酷な殺人
 を遊び感覚で繰り返した少年たちが死刑になった」

この話はご存じでしょうか。社会との共存を拒絶した人には「ルールの適用を超えて報復をしても良い(懲らしめて滅してよい)」という暗黙の了解があります。

●社会が望むこと

社会の望みは、社会を構成する(共存を望む)全ての人が幸福になることです。逆に「社会との共存を望まない人」が幸福にならない様にする事でもあります。この方々(社会との共存を拒否する人)が苦しんでいる場合は「良い社会」となります。

「苦しさや不満を訴える人が『社会の敵』である場合は、
 皆で良い仕事をしていると捉えるべき。なので自分が苦し
 いからと言って社会が悪いとは限らない。自分の姿勢が反
 社会的である場合は、社会は手ごたえを感じるべきなのだ」

つまり平等とは「社会との共存を望む人々」の間にしか適用されないのです。

●社会を成立させるための原則

「全ての人は自分さえ幸福であれば良いとするべき」

この原理を守りませんと社会が瓦解します。

この時に、

「自分が幸福になるためには、他の人が不幸になる必要
 があります」

と発想する人は反社会的な思想を持つとして滅せられるのです。自分の幸福は社会の幸福(人間一人分の寄与として)に結びついているはずです。

「全人類が自分さえ幸福であれば良いと考え、社会の規範
 を揺るがすことなく、これに全員が成功したとき、全人
 類が幸福になっているのである」

当たり前ですよね。

●社会における善と悪

善と悪を判断するうえでこれまでのお話を応用します。

・最初に反社会的思想を持つ人か否かを判別する
・反社会的思想を持つ人には敵対し可能ならば滅する
・それ以外の人と接するときは自らの幸福を優先する
・自らの幸福を優先するにあたり、自分が選んだ手段で上
 手くいかないときは自らの責任とする
・自らの問題であるのに他者に責任転嫁する人を悪とする
・反省し振り返り自己の幸福を強化する人を善とする
・自己の幸福を実現するための道程にいる人(善を目指す)
 人を助け、悪にはなるべく関わらないようにする

となります。

つまり「幸福を感じていないと悩み、どこを反省するべきか?」と言っている人は善を目指す人であり助けないと行けません。「不幸を感じると他者のせいだとする」人は悪であり、関わっては行けません。本人が反省し振り返り回復するか、そのまま消耗して消え去るかは天の采配に預けます。

そして「反社会的思想」を持つ人は善でも悪でもなく、滅する対象として自分たちが能動的に排除しないと行けません。善でも悪でもなく、敵であるからです。

●人の識別

人は「善」「悪」「敵」に分類されるという事です。

・善人:自己の幸福は自分の責任として、思い悩み成長する人
・悪人:自己の不満は誰か別の人の責任だとする人
・敵:そもそも人間に共感を持たず、社会を狩場としてしかとらえない人

そしてそれぞれには、

・善人:この人が思い悩んでいる場合は助けないと行けない
・悪人:この人には関わってはいけない
・敵:この人は積極的に排除しなければいけない

とするものです。

これに反した場合はどんな善人であっても幸福にはなれず「自分さえ幸福にできればよい(簡単に言えばノルマは一人分)」を果たせなくなります。

●人の道を外れるという意味

道義的な責任を追及する気持ちが強くなり「敵」ではない人を激しく攻撃する場合があります。これは「人の道を外れた」とされます。つまり「敵化」したという事です。

私たちの体内には臓器がありますよね。このうちの一つが調子を崩したとします。早く治ってほしいものです。しかし「調子を崩した臓器を敵だとして別の臓器が攻撃をした」としましょう。そのまま放置すると死んじゃいますよね。

「背に腹を変えられない。攻撃を続ける臓器の方を切除する
 しかないだろう」

自分らの「仲間を攻撃しても良い」と自分に許した段階で「敵化」したということです。この場合は悪を超えて厳しい対応で排除しないと行けません。人の道を外れたのです。

●ご質問の悩みへの応用

・悪を成した人を叩く人、それを叩く人ともに人の道を外れている
 これらの人は「社会の敵化」をしているのであり、関わってはい
 けない。攻撃性だけが判定要素となる。

・被害者に優しい言葉をかけることが善なのではない。被害者が責
 任転嫁をした場合は「悪」として関わってはいけない。被害者が
 思い悩み成長を目指した時は助けるべきである。

・良い悪いに関しては自滅するか否かで判断する。人には助けたく
 ないという自由があり、この票を多く獲得した人は助からない。
 これをもって悪の栄えた試しは無いとする。

●お花畑と言う傲慢

善でありたいという発想は「良い子は誰かに助けてもらえる」という甘えからきています。全ての人間は「自分さえ幸福であれば良い」というテーマと戦っています。他人も精一杯です。余裕なんてありません。誰も自分に興味を持たないという状態が普通であり正常です。

そのため、どんなに良い子であっても「不幸を感じた」としたら自分を優先しなかったツケが回ってきたという事です。

悪を成した人、被害にあった人に出会った場合は「自分も同じになるかもしれない」と怯え「どうすれば防げるのか?」考えないと行けません。そうであるのに加害者を攻撃したいと思ったり、被害者に同情したいと思うのは「自分は安全だろう」と甘く見ている本音の表れになります。どちらも現実逃避をしているだけですよね。

他者の事例を見て「安全確保を自律的に行う人」が多ければ、社会は強くなるのです。

●総括

これまでは守られる側として善悪を教えられてきたわけです。今後は「本当の善悪」を知り「社会を維持する構成員」として貢献しないと行けません。

私が貴方にアドバイスをしたのは(貴方が)「善を目指し自己反省している」からです。もしここで社会が悪いとか、○○が悪いとか、責任転嫁をする人ならば「悪人として」私は関わらないでしょう(責任転嫁をする人は禅の入門でも断られる)

そして誰かを攻撃するまで至っている(人の道を外れている)場合は「違法である」と警告し、場合によっては通報します。

つまりシンプルに「責任転嫁」「攻撃性」の二つで「悪」と「敵」を判別し「その人が語る正義の理由」は無視しないといけません。

自己反省によりアドバイスを求める人のみ助けましょう。それ以外のすべてにおいて他者に興味を持ってはいけません。自分を強くする目的でのみ(幸福にする目的でのみ)興味(危険防止の参考とする。良い方法として自分に採用する)を持つのが正しいのです。

こういった考え方やポリシーについて、

「天上天下唯我独尊」

とお釈迦様は言ったそうです。

貴方の悩みが深まるのは「自分の事だけでいいんだよ?」と大人がはっきりと言ってくれないからでしょうね。自分を滅ぼす善などないのです。「神様が助けてくれないと幸せになれない」様であれば「自分は悪を成してきたのだ」と考えるのが大人です。善人であれば助けてくれる人が沢山いるでしょうからね。

以上、ご参考になれば。
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逆に言うと、悪いことしたことない人はいないんなら、悪く言っても平等だね。

悪いことを悪いと指摘できないのは、悪だと思うよ。他人に嫌がることを任せて、自分はいい位置にいるんだから、始末に負えないよな。
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能ある鷹は爪を隠しますわ。


ホントですわ!!
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ある程度の知能を持ってしまった人間が社会をうまく回すために作った道徳や善悪という概念は自然界には存在しないため矛盾が生じて当然です。

その矛盾を解消するために存在するのが宗教だと解釈していますよ私は。
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あなたもそうやって人を批判してるじゃないですか。


自分はいいの?
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この回答へのお礼

その通りです
僕もこうやって口には出さないものの悪く言ってしまっている
自分でも自分が許せないです
自分の行動に矛盾があるんですよね

お礼日時:2024/08/15 15:09

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