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ヨハネ4:13-14

イエス・キリストがスカルという村の井戸に水をくみに来たマリヤという女に語った言葉で

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

肉体的にも精神的にも潤って乾かない水というのがあるのでしょうか?
紀元前の当時でも「水」は天からの恩恵で貴重で命の根源のように崇められてはいたと思いますが、永遠に人の内で湧く水とは何を示しているのでしょうか?

A 回答 (13件中11~13件)

このサマリアの或る〔名前は分からぬ〕女は その物語のくだりにあるように 連れ合いを何人か替えており いまも結婚しているわけではないという境遇にあります。



ふつうは朝に共同井戸に水を汲みに来るのですが そういう人生の後ろめたさからか かのじょは ひとりでひっそりと 遅くなってから やってきています。そんなこころの疾(やま)しさを どうにかしたいと思っていたのでしょう。

その心を癒すような魔法があるのかと いぶかったのだと思います。《一度飲むと もうのどが渇かないようになる水なんて あるんですか?》と。

その心に イエスは たとえで答えたという場面です。永遠の後ろめたさに連れ行かれるような恐れを感じているかのじょに イエスは 大丈夫ですよと言ったのだと思います。その言葉のあやとしては じつは わたし(=イエス)が その永遠に人の内で湧き出る水なのですとまで答えたのだと考えます。(大ほら吹きでしょうね)。

でも サマリアの女は わかったようです。たとえば肉体だとか魂( anima ∽ animal 動物)だとかあるいは精神だとか心だとか そういう経験世界を超えた領域があるかも知れないと。あれば この目に見える経験世界の恐れや苦労など なるほど へっちゃらだと。

そんなお話しだと解釈します。(解釈は 自由でしょうし 実際 いくつか考えられると思います)。

この経験世界を超えた領域とは そんなものがあるとも無いとも分かるわけがありません。そこで 人はこれを 霊つまり幽霊などと呼んだりします。魂が この霊の意味で使われることもあるようです。広く心という場合もあるでしょうし あるいは この霊なる永遠に湧き出る水を もしそれがあるとするなら 飲むというのは ふつうは 精神をとおしてだと言うのだと思います。精神=身体のつまり人格の全体でだと思いますが。
(雲をつかうような話しです。雲をつかむような話しが 人は 好きなのかも知れません)。
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この回答へのお礼

brageloneさん。お礼が遅れ申し訳本当にありません。参考になりました。
初めて「大会(たいえ)」という能楽で命の恩人と勘違いした天狗が僧侶に願いを叶えてあげるという。僧侶は「お釈迦様が説法をこの目で見てみたい」。天狗は「決して信心を起こして手を合わせてはいけない」和尚は承知して目をつぶる。和尚が目を開けるとキンピカのお釈迦様が現れ台座に立ち説法を始めた。和尚さんは涙を流し感激してつい手を合わせてしまう。すると天の観音様に知れ触れ天狗に「幻想を見せてはいけない」という。天狗が見せた幻想は消えてしまう。…大まかにいってこういうものでした。

人間として生きていたキリストも釈迦も当時は実在して多くの人の心を潤したり清らかに出来たでしょう。でももう居ない。絶えない乾かないという水の幻想でもいいから与えて下さいって思います。もう居ない人なのは承知で人々の心の中にずっと想われているから、それぐらいのことをしたって懇願してたとかかな。

宗教も哲学も先人が為し終えた身体を使った経験や知恵、精神の証明や仕事を利用して、誰にでも理解出来るように言葉に翻訳されたもので容(かたち)人格を残しているのではないのですよね。人間は見えるものが納得しやすく出来てるから「水」の比喩が現実に近いと使われたのと思いました。

幻想=ファンタジーというと頭の中に浮かぶのが「ホテルカルフォルニア」で、「ここから出て無事帰れた者はいない」というメッセージ。

その疾しいマリア(って何人いるのか?聖母マリアとは別人ですよね?)もファンタジーの人で私と似ているかもしれない。『リアルで、現実を受け入れ愛しなさい』ってことなのかな?今も水のように私は注がれて溺れないよう言葉の海で泳いでいるのですが、いつか彼岸に辿りつく。別れも来るし、それも現実として受け入れなさい?辛いがしょうがないので自力で何だか解らない言葉を、>イエスは 大丈夫ですよと言った←出せと!「大丈夫大丈夫」を私のおまじないにします。

お礼日時:2007/12/08 01:23

[永遠に人の内で湧く水とは何を示しているのでしょうか?]


生命(いのち)のもと、生命(いのち)の泉のことですね。いのちを心あるいは魂と置き換えればいいんですね。肉体とそれに宿るいのち(魂)が人間の真実である。水を飲んでも魂の飢えを乾かすことはできない、わが教えはあなたの魂に潤いを与えるといってるのですね。その潤いがあなたの永遠の命の泉への誘い水になるということですね。仏教的にいえば水は悟りへのきっかけという意味ですね。 
いや、飽食の時代に多くの人達が自殺をする現状をみれば、水は生きる希望と考えてもいいですね。そのほうがわかり安いかもしれません。
参考に
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この回答へのお礼

mmkyさん、ありがとうございます。
私はつい最近まで魂(たましい)と塊(かたまり)は同じ字だと思っていましたが(冷笑)字の形容は似てても内容は違って、魂(たましい)=生きて宿る心と生きていたものの心も合わせて解釈して問題ないなら、精神世界に孤立するような塊(かたまり)の有限はないものなのかな。魂(たましい)に個々の境界や分断させてる異質なものがないのかどうかは詳しくないです。現実に似て人間らしく差異を指摘し合ってたり妥協があってもなかなか新鮮味があって良い感じかとも思う。

生きる希望を与えるというのは溢れるほどに与え続けるのでなく、「誘い水」というきっかけだけで、自分の中から、どこからか解らずとも出せてしまうようになるのだとしたら偉いのは自分でしょうか?きっかけを与えた人でしょうか?

きっと潤ったら意地や虚勢を張ったりに翻弄されなくて、というかする必要もなくなって楽になれそう。

ここのマリアは若い女性でしょうね。未だ社会が歪んでいるのか、私も歪んで鈍感だったけど若かりし頃は希望を自力で出してギリギリ絶えて、「水を下さい」って言わ(え)なかったんです。今ではあの頃より随分乾きに絶えられないような変貌ぶりで神経質になってる。いかん、いかん、しかし潤うことなくそのまま衰えゆく可能性が高い(苦笑)。立派でもない情けないものでありながら「老い」も私の味方をして悟りへの道になると(謎)。

お礼日時:2007/11/12 02:03

ご存知かもしれませんが、イエスという人は比喩を多用する人です。


なので、「この水」は井戸水でそのままですが、「わたしが与える水」は物質としての水というより精神的な意味での水ととらえるのが定石だと思います。
したがって、「わたしが与える水」をもらったとしても、物質的には渇きを覚えることになるでしょうが、精神的には満たされているということになります。
「肉体的にも精神的にも潤って乾かない」という意味ではないと思います。

貧しいけれど幸せな人もいれば金持ちだけれどもちっとも幸せでない人もいる。
精神が満たされていることは物質など関係ないのだ、というところでしょうね。
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この回答へのお礼

nabayoshさん、ありがとうございます。
やはり精神的に満たす=幸せ。ということの例えで、人は一人で生きていけないものだから勿論誰か、そしてみんなと共有しうる水のことなのかとも思います。「信仰が永遠に自給自足できる水」ということかな。

「水の不思議」でネットサーフィンしてて、水は身近な存在なのに今だ謎が多いので驚きました。
奇跡的に地球は水を保持できる条件があって生物が生まれたことや、タレスが「水は万物の根源」として、後に元素ではなく水素と酸素の化合物(H2O)と知られても、現代科学でも理論に合わないらしく謎だらけ。心も謎だらけでどこか似てます。人体の成分もほとんど水ですし、心も水ではないか?と勝手に創造してました。

アタラクシア(不動心)という語源も水(アクア)から来てるとして、乾いていてこそ少しの水が精神的に充分に吸収しようとし、醍醐味を感じる染み渡るように満足を味わえ溢れるほどになれるのかな。幸せに成りたくてわざわざ貧しくする人もなさそうですが(笑)絶対的な目標のある人生は幸せってものかもしれないですね。

お礼日時:2007/11/11 22:53

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