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今脇の道路を通った「宣伝カー」から「キリストを信じるものは救われる!!」と連呼してましたが、具体的に何をすればいいんですか?
たしか聖書に「信仰ももし行ないがなかったなら死んだもの」とあったような。ということは「信じています」と言うだけじゃダメですよね。

A 回答 (19件中1~10件)

このことについてはいろいろ考えさせられている者のひとりです。

イエスを信じる者の一人です。

キリストは十字架にかけられたとき、同じ場所で隣に十字架にかけられた罪人がイエスキリストを信じた時に、その罪人に向かって、おまえは今日パラダイスにいるといいました。このことはたとえ罪人であっても、イエスをキリストと信じれば罪は許されてパラダイスにゆけるという意味だと思います。また、マクダラのマリアという売春婦に対しても、マリアがイエスと信じたときに、イエスはあなたの罪は許された。もう罪は犯すな。といっています。したがって、イエスを信じれば救われるということになりますが、マリアにたいしてもう罪は犯すなといっています。したがって、信じれば罪は許されますが、その後罪を犯さないような行いをしなければなりません。キリストを信じた人がその後何をやっても自分の罪は許されるとはイエスはいっていません。このことが行いがないならば死んだようなもの。すなわち救われないということです。イエスを信じたといっている人が聖書に書かれていることや、イエスのいった言葉に明らかに反する行為をしている人はイエスを信じているとはいえないと思います。過去のプロテスタント教会で社会的に許されない罪を犯していたクリスチャンといわれる信者がことことを理解せず、何をやっても許されると言い放っていましたが、イエスはこのような人が自分を本当に信じているとは判断しないと思います。

長くなりましたが、結論としてはイエスキリストを信じれば救われますが、本当に信じているかどうかはその後の行いから、最後の審判のときにイエスは判断します。また、このことはあくまでも個人とイエスとの関係になりますので、他人が介入する余地はありません。こころの問題です。本当に救われたいと重いっているのでしたら、イエスの言葉を実践しようとしますので、行動が伴ってきますし、そうでなければ先に述べた信者のような生き方となります。
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聖書の話だったら、やっぱり教会で教育を受けた方がいいですね。



日本には教会がすくないですが、香港にはたくさんあるので、多分日本より勉強チャンスがもっとたくさんあるかな。ケーブルテレビでもイエスの教えのTVステーションもあるし。

聖書の解説書を参考しても、やっぱり牧師より書いた方のほうを参考したいいと思います。

聖書は哲学だけではなく、聖書にはもう書いてあって、神様の話・教えですと書いてあります。イエスは神様の変わりの代表で、人間の形で世間に暫定に住むと聖書に書いてあります。

哲学のように分析では充分理解できないと思います。内容を理解する時、まず科学や哲学の考え方からではなく、愛から始めましょう。 神様はあなたを愛している時、どのようにこの件であたなに愛を伝えますか。。。という事が大切ですね。
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♯5です。



イエスもブッダも素晴らしい哲学者です。それは理解しています。
しかし、宗教団体というものは教祖の言葉を語り、信者から金を集めそれで生活しています。では宗教家は何をしているか?ロクなことしてません。詐欺集団みたいなものです。
なので、教祖の教えと宗教団体は全く別物なんですよ。
オ□ム真理狂なんて問題外ですが。
また、宗教には俗悪な人が集まり易い傾向があります。何故なら自分に無いものに憧れてくるからです。
また、宗教関係者には教祖の教えに陶酔し、自分がその組織に所属しているという満足感からまるで天下を取ったかのように錯覚している人もたくさんいます。
また、ロクに世間も知らないくせに若いうちから皆から先生と呼ばれたりして………、、

私はそんな狂った人たちをたくさん見てきました。
だから言っているんです。

とにかく、教祖の教えと教会は別物です。
イエスが生きていたら宗教裁判や火炙りを許しただろうか?
こんなキリスト狂を認めるならば、あのオ■ム真理狂も認めなければならなくなりますね。
違いますか?
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>「信じています」と言うだけじゃダメ


もちろんそうです。 結論から申し上げると「募金」に応じるだけでも良いのです。

さらに付け加えるならば、団体の一兵として
私(上官)を信じなさい
自分達の正しさを信じない
迷えば、地獄(さ迷い)に落ちます
キリストは勝利宣言してます。 つまり最終的に勝つ側に味方して協力しなさい。

という事です。 疑う事や考える事は認めません。 
全ての事は、「神の行い」によって説明できますから。

N0.1さんの回答がきっかけだ思いますが、延々と回答が続きそう・・・
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香港だったら、道で呼ばないで、


教会で解説会を行い、ポスターやカードを印刷して、
友達に配ったり、メールで送ったり、などの宣伝を行います。

イエスを信じるというのは、イエスについて認識がないと、無理ですね。

私は2年間教会のコースで勉強して、よく理解してから浸礼を受けたんです。
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 「キリストを信じるものは救われる!!」このキリストは、イエスキリストのことだと思われますが、このイエスをどのように信じるのかが大事です。

イエスを同じ人間と信じるのも、神として信じるのも同じ信じることと言えるのではないでしょうか。

 まずはイエスがどのようなお方で、何を語ってきたのかを知りましょう。これは新約聖書の中の福音書を読むとわかります。

 イエスは自分の中に神が存在すると説きました。「自分を見たものは神を見たのである。」これは神殿や偶像を否定し、人間の中に神が存在すると言ったのです。イエスはユダヤ教からみれば異端者でした。

 信じることで行いは自然にできるようになります。人間に惑わされないで、自分の中に神は存在すると信じましょう。

 宣伝している方達も人間です。惑わされてはいけません。 
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まず信じましょう。

行動はその後です。

どうすれば信じる事ができるのか?
何もする必要はありません。単純に信じてしまえば
救われるのです。

救いというのは神様からの一方的なプレゼントですね

救いというのと行いというのはまた別のものです。
今あなたがやるべきことは「信じること」です

信じた後、救われたと言う確信を得て何か出来るのかを考えましょう。

聖書には段階があります。
信仰ももし行ないがなかったなら死んだもの・・・
と言う言葉は信者さんに言ってる言葉
これはヤコブ書という所に書いてあるんだけど
このヤコブというのは本当に信じている12部族の
人に当てた手紙なんだよね。まだあなたには早すぎますね。
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今日は。

香港のロボコンです。キリスト教の教徒です。
皆様も聞いたことがあるかもしれませんから、長い話をまず言いませんね。

簡単に言うと、聖書のアダムは元々神様と一緒にエデンで住んでいて、永遠の命が得られます。但しアダムの裏切りで永遠の命をなくしました。裏切りは神様とって罪で、死んでから永遠の火(地獄)に行くことです。

ですからアダムも子孫(人間)も死んでから永遠の火へ。

でも神様は皆を救うように、イエスを派遣して、人間の形で全世界の人間の為に犠牲することにしました。

アダムは一人の罪で、皆罪になりましたので、神様はイエス一人の犠牲で皆を救います。

聖書をよく勉強すれば、イエスの正しさ、性格、考え方、神様との関係、彼の生まれ・犠牲・復活をよく理解してから、本当の神様はヤウェ・イエス経由で人間は神様との関係が回復になって、将来死んでから、霊は永遠の命があります。

ということで、その宣伝カーはそう言いました。

詳しい内容は、とても長いので、興味があれば教徒にいちいち聞かないとね。

よろしく!
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#3です。



>これもパウロの言葉ですから、間違い?

「間違い」ということでもないのです。

「認識力の違いによる差が現れている」と表現した方が適切かも知れません。
パウロは、「(パウロ)自身の認識力の範疇で悟り得たことを語っている」ということを言っているのです。

こうしたことはパウロに限ったことではなく、誰であってもそうです。
「その人自身の認識力の範疇において悟り得たことでしか語れない」ということです。

>「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(第2テモテ3-16)

たとえば、ここでパウロが言っている「聖書」というのは、いわゆる「旧約聖書」を指して言っているのでしょうね。
yoohoo_95さんは、パウロ自身が書いたというこの手紙も含めて、「聖書」と解釈してはいませんか?(^^;


>イエス様の「救われる」事に関する違った見解とは何でしょうか?

たとえば、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨(みむね)を行う者だけが、はいるのである。」(マタイ7-21)などはどうでしょうね?

ある人の人生において、イエス様が「主(父)」とお呼びになられていた方の存在を、全く知らずに終えたとしましょう。
しかしながら、その人の人生は、父の御旨に適(かな)った人生であったとしましょう。
「イエス様御自身の教え」に従いますと、こうした人であっても「天国に行ける!」となります。
ところが、「パウロの教え(パウロ神学)」や「キリスト教会の教え」では、「天国に行けない!」となるのです。(「信仰」の部分がありませんので。)

>内部分裂しているという事でしょうか?

そうではないのです。

パウロ神学的宗教思想は、その当時の人心を獲得し、信者を増やして行くために有効な手段だったのです。
今でこそキリスト教は世界宗教となっていますが、当時は新興宗教の一派に過ぎなかったのですから、ある程度短期間のうちに勢力を持たないことには、反対勢力につぶされ、消え失せてしまうことになることが予想されたからです。
こうした歴史的背景もありますので、布教のために、イエス様の思想とは異なるものがパウロ神学には含まれているのです。
世界宗教となった現在においては、パウロ神学の功罪の両面を、冷静に分析し、判断出来る余裕が出て来ているのです。

「ダビンチコード」などが出て来てヒットしていますが、人々は、キリスト教にはパウロ神学などで湾曲された部分がかなりあることを本能的に感じていて、「真実のイエス様を知りたい!」、あるいは「イエス様の真実の教えを知りたい!」という欲求があったりするのでしょうね。
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No.4 へのお礼:


> ただ、宣伝カーで言ってるという事は信者じゃない人に
> も伝えている。となると、簡単でいいから

 ここが、「となると」で繋がらないのがキャッチピーというものです。「疑問に思って詳しく知りたいなら、話を聞きに来なさい」というスタンスでキーワードだけ流すのが、キャッチコピーの「キャッチ」たる所以です。

 ちなみに、キリスト教と言っても具体的な内容は様々流派がありますよ。カトリックであればヴァチカンの見解で基本的に聖書解釈も教義も統一されていますが、プロテスタントは極端な話、一人一派です。カトリックの解釈権に楯突くという意味で「プロテスタント」なのですから、「オレはこう解釈する!」と言った瞬間、一派が立ちます。
 ま、当然ながらグループで研究して内容が深いプロテスタントもいますし、ほんのうすっぺらなプロテスタントもいるわけです。
 件の宣伝カーの主がどうなのかは、私は知りません。

> 単純に「信じるものは・・・!」では全く騒音でしかな
> いような。。。

 非見込み客にとっては、宣伝は騒音です。
 お店の呼び込みと一緒ですね。
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