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今脇の道路を通った「宣伝カー」から「キリストを信じるものは救われる!!」と連呼してましたが、具体的に何をすればいいんですか?
たしか聖書に「信仰ももし行ないがなかったなら死んだもの」とあったような。ということは「信じています」と言うだけじゃダメですよね。

A 回答 (19件中11~19件)

クリスチャンです。



これはよく、「信仰義認(信じることによって救われる)」のか、「行動義認(正しい行いによって救われる)」のどちらが正しいかで論争になるところですね。

 先に結論を言いましょう。キリスト教は「信仰義認」が教理です。

 これは大変誤解されやすいのですが、信じていれば何をしても良いわけではありません。
 C.S.ルイスが大変良いたとえで表現をしていますが、「はさみの二つの刃のようなもので、どちらが大切かという議論は意味がない」のです。
 イエスが最も大切な律法は何かと聞かれたときの答えが、私たちの行動の指針になります。
「心を尽くし、精神を尽くし、汝の主である神を愛せよ。これが一番大切な第一の戒めである。二番目は汝を愛するように汝の隣人を愛せよ。これは第一の律法と同じように大切なことであり、これ以上に大切なことはない。」
 これがイエスの私たちに求めたことです。
 これを行うことがクリスチャンの究極の目的でしょう。
 では、なぜ信仰義認なのでしょうか?
 それは、私たちは行動だけで義とされることはないからです。人間の義は神の目から見れば非常に不完全で、それだけで神の目にかなうことはないのです。
 だから、もし、私は良い行いをしたから天国にいけると考える人がいるならばそれは完全な間違いです。キリスト教はそれを、最も厳しく戒めるのです。
 結局、人間は、信仰と、不完全だがキリストの律法を守ろうと心がけることによってしか救われないということです。
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私はキリスト教ではなく、ごく普通の仏教なのですが、以前に洋画で「十戒」というタイトルの洋画を見ました。

(と言っても、数十年前ですが・・・)
その中で確か、人が守るべき事を十個(十戒と言う事ですね)神から与えられました。
基本的に?その十個の事柄を守りなさいという事なのではないでしょうか?
映画の中では下記のようになっていました。

一、我は汝の神ヤーウェ、汝をエジプトから導いたもの、我の外何ものも神とするなかれ
二、汝自らのために偶像を作って拝み仕えるなかれ
三、汝の神ヤーウェの名をみだりに唱えるなかれ
四、安息日をおぼえてこれを聖くせよ
五、汝の父母を敬え
六、汝殺すなかれ
七、汝姦淫するなかれ
八、汝盗むなかれ
九、汝隣人に対して偽りの証をするなかれ
十、汝隣人の家に欲を出すなかれ

もう少し、現代の言葉にすると下記のようになるようです。

(1)あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
(2)あなたは、自分のために、偶像を造ってはならな い。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
(3)あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
(4)安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
(5)あなたの父と母を敬え。
(6)殺してはならない。
(7)姦淫してはならない。
(8)盗んではならない。
(9)あなたの隣人に対し偽りの証言をしてはならない。
(10)あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

下記のURLで、それぞれの事が説明されていますので参考にしてみたらいかがでしょうか?

http://www.interq.or.jp/www1/aki1/luther01.htm

http://plaza.across.or.jp/~sugino/jyukkai.html
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キリスト教に拘らず、仏教もイスラム教もみな神を仏を信じよと教えます。

本当は目先に惑わされて、きずかない(目と耳)に頼りすぎている我々に心で聞いたり見たりしなさい、すると本物がわかってくる。そのためには、無心の心を得なければならないのです。そして雑念を捨て、信じるべき自分で選んだ神を仏を信じ祈るのです。信ずべきものは、いろいろ勉強して自分が一番そうだと思うものである。もしくはなにかの、ひらめきによってでもいい。信じることはいつも自分に問うこと、祈ること、そして何かを自分の心の中ににもつ。そうすると「宣伝カー」にまどわされることもない。そこから信ずるものは救われんとなる。
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信じるものは足元掬われる。

という話もあります。
妄信はだめでしょう。
信念というくらいで、ゆるぎない心がないと、「信じた」とは
いえません。信仰というのは強固な心構えのことです。

神を信じる前に、人を信じること、自分を信じることを考えて
みましょう。
自分は信じられないですよね。今日やろうと決めたことが
いつのまにか先延ばしになっている。
「弱い自分がいた」というのは別に姉歯さんに限ったセリフでは
ないです。

では、人を信じられるか。これは自分よりは簡単です。こいつは
絶対にオレを裏切らない。一生自分の味方だ。そう思う相手を
見つけたらずっとゆるぎない気持ちで信じとおすだけでいいです。

相手は信頼を揺るがすようなことをし始めるかもしれません。でも
仮にその人が何をしでかしてもその結末は自分が一緒に尻拭い
する。そういう覚悟を持ってつきあってあげることで、相手も
自分を深く信頼します。

キリストは、友人や恋人のように日々行動して心配かけたり
しませんから、キリストの何を信じていいのか私もわかりません。
おそらくキリストは私の内面にいて声をかけてくれることがある
のかもしれません。
自分という、最も信頼のおけない人間を信じるのには、自分の
内面にキリストという別の人格を置いて彼を信じることで自分
を信じることが可能になるのかもしれません。
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キリ■ト教はかつてその権威を傘に、宗教裁判、魔女狩り、火炙り、戦争と侵略、偽善………


やりたい放題でした。
裏返して「信じない者は救われない」、これはある意味「脅迫信仰」かもしれませんね。

日本でも末法思想とかありましたね。
ひたすら「南無阿見陀仏」と唱えれば極楽浄土に行けますよ。など。(唱えなければ地獄行きだよ、ということ)
これも脅迫信仰と呼ばれるものです。

いかなる宗教も神なども信じてはいけません。(信じるのは自由ですが)
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この回答へのお礼

ふむむ。無神論、無宗教の方のご意見ですねぇ。有難うございます。

お礼日時:2006/05/02 17:08

 あなたがカソリックなら、教会の言うとおりミサに出てサクラメントを欠かさないようにしましょう。



 あなたがプロテスタントなら、真面目に公正に仕事をしましょう。

 簡単に言えば、そういうことです。
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この回答へのお礼

なるほど。まあ信者の方はそうなるんでしょうね。ただ、宣伝カーで言ってるという事は信者じゃない人にも伝えている。となると、簡単でいいから「・・・するように日頃から努めましょう、それは救いの一歩です」なら分かるんですが、単純に「信じるものは・・・!」では全く騒音でしかないような。。。

お礼日時:2006/05/02 17:06

>キリストを信じるものは救われる!!



これは聖書にも出て来るパウロの言った言葉だと思います。

パウロの言ったことを信じるならば、その通りになさるとよろしいかと思います。
(「信教の自由」は日本国憲法でも認められていますし、聖書を読んで、どんな信じ方をしようとも、その人の自由ですから。)

私自身は、この言葉は信じていません。
イエス様は「救われる」ということに対して、違った見解を持たれていましたので、私自身はイエス様の見解の方を信じています。

1.イエス様御自身の教え
2.パウロの教え(パウロ神学)
3.キリスト教会の教え

それぞれは、かなり内容が異なっていまして、もはや「異質」とまで感じます。

この回答への補足

有難うございます。ただ????です。
あの宣伝カーはキリスト教ではなくてパウロ教?(笑)

イエス様の「救われる」事に関する違った見解とは何でしょうか?
という事は聖書は勿論イエスとパウロの両方を載せていますが、内部分裂しているという事でしょうか?
2テモテに「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」とあるのに? あ これもパウロの言葉ですから、間違い?

補足日時:2006/05/02 17:00
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この世の真理は、「信じる物は(足元を)掬われる」といった所でしょうか。


信者と書いて儲けと読むのです。

閑話休題。キリスト教についてでしたね。
あまり詳しくはないので参考程度に。

キリスト教の教えにおいて救いとは神から与えられる物であり、
それを得ようとする為に、見返りを求めて何かを行う事を良しとしないと聞いた事があります。
その人の心や行いとは関係無く、必要なのはイエスを救世主として信じる事。
イエスという救い主が居て、そのお陰で救われる、赦される。その信仰心であると。

だから、別に教会に礼拝に行ったり、お金を納めたりする必要は無いはずです。
>イエスを信仰し、そこから自ずと生まれる思いから礼拝したり、お金を納める事は構わないのでしょうけど。

「信じています」と言う必要も無く、言うだけではダメで、心からイエスを信じられれば救われるんじゃないですかね。


俺は無宗教で、神からの救いも求めていないので、信じていませんが。(ぇー
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この回答へのお礼

>言うだけではダメで、心からイエスを信じる
ピンとこないですねー。
それじゃ「行ない」はないですよね。
まあ 有難うございます。

お礼日時:2006/05/02 16:49

お金持ちと貧乏な人が、どこかにお参りに行って、



お金持ち→一杯寄付
貧乏人→わずかなお金

の寄付をした時、イエスが、貧乏人の方が自分の苦しい中からの寄付のため、余裕のあるお金持ちが一杯寄付したのより心がある、と言った話がありますが、信じてマス、と言う言葉でなく、自分の身を削ってでも人のために尽くすこと、そして、それが人の助けになるのであれば、と思える心が、結局は、自分の心の平安(豊かさ)に繋がる、と言う意味で「救われる」だったと思います。

なので、「心を清め、他人に仕えよ」の精神ではないかと。

しかし、宣伝カーで「キリストを信じるものは救われる!」の方々は、かなり”行い”をしすぎ。
だって、あきらかに騒音・・・・
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この回答へのお礼

>自分の身を削ってでも人のために尽くすこと
確かにそうですよね。
そういう事(具体的に何をすれば)を短くていいからアナウンスすればいいのに、ただ「信じるものは・・・!!」ではほんと 騒音ですよ。

お礼日時:2006/05/02 16:36

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