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哲学のカテゴリーで良いかわかりませんが、宜しくお願いします。
私は本や映画を楽しむのが好きです。そのせいかわかりませんが、どうも周りの人より理屈で考えてしまう所があるようですが、そういうところが自分の欠点だとは全く思えません。私にも友人がいて、一緒にご飯を食べたりお酒を飲んだりすることはありますが、どうしても自分と対等な能力があるとは思えません。趣味を突き詰めたり、向上心を持ったりしていないからです。話していても、吸収できる知識とか教養がないし、受身でいるような人ばかりなので、こちらから遊びに誘う時はいいのですが、あちらからは誘ってもらえません。最近はミクシイなどでオフ会に出て友達を作るようにしていますが、普通の会社員ではない人が多いせいか、ちょっとした事で非常識な感じを受けます。なんだか信用できない気がしてしまうのです。連絡が遅いとか名前や年齢を内緒にするとかなどですが…
例え何も出来ない人でも、人間的に素晴らしく素朴な生活を送っているとかなら、会っていて楽しいかもしれませんが、そういうものも感じません。
人を見くびるな等と言う意見はいりません。どう客観的に見ても、人にはレベルというものがありますから。ですが、自分よりも何か尊敬できるとか、楽しく遊べる友達は欲しいです。どこに行けばそういう人と会えるのか、または気楽になる方法があれば教えていただきたいです。

A 回答 (22件中11~20件)

友人に期待しすぎているのでは?



友人と言うか、人に段階別のレベルを適応しているところがすでに何か他者に接する態度として勘違いしていると思います。それぞれの価値観を認めてあげれば、相手が何を考えているかわかります。自分に合うか合わないかをヒエラルキー化しているところが変。

私もミクシーでまともにプロフィール書いていない人からきちんと書いている人まで闇雲に会ったことがありますが、確かに仲がよくなった人がまるで皆無です。ただ、レベルとか問題じゃなくて、お互いに時間が無く、趣味の共通点が無かっただけだと思っています。

尊敬できる友人とありますが、そもそも友人はすべてが尊敬できる人などいません。尊敬できる部分があるかわりに、友人だからこそ綻んだ部分が見えてしまうもの。そういう部分を受け入れてこそ、あなた自身が尊敬される人になればいいのではないでしょうか。人に影響を与える人になれるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

それぞれの価値は大なり小なりあるでしょうね。
しかし、人と会えば交通費なり食事代なり時間なりかかります。小の価値しかないとわかっている人の為に出掛けて行く程、暇ではありません。人とは無意識のうちにそういう差別化をしているはずです。
全てを尊敬できる人なんていません。欠点があっても、いい所が目に付くならそれは有益な人です。いい所とは、博学であってもいいし、ひょうきんであっても、美貌でも、何でもいいです。ぐうたらであるという事があまりにも目に付くと軽蔑の対象になるだけです。

お礼日時:2007/11/30 12:10

何かしら付き合っている人に対して尊敬できる、尊敬したいと思える部分を持っていて欲しいというのは 仕方ない気持ちですよね。



でも友人に尊敬というのは多分必要ないと思います。
あこがれる・尊敬するという気持ちがあるということで 自分が未熟ということですから、
私は本来 人を尊敬し「すぎる」・あこがれ「すぎる」、というは 何か間違っているような気がします。
友人といえる関係ではないと思います。

自分の道を切り開いていたら、そこに友がいた。そして時に 思いがけない有力な示唆、視点を与えてくれる。
それがイイと思います。

そういう友人に出会うための確率を作るための 自分の機知・道の幅を広げることが大事かなと思いました
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この回答へのお礼

「尊敬」というものは何も特別な感情ではないと思います。
趣味や仕事に打ち込んでいて、頑張っていれば、ああ私も頑張ろうと思えたりしますし、お話が上手だったら、会っていて楽しいから、また会おうとします。相手を尊重できる・大切にするという事は尊敬できる事です。相手に憧れの存在で居てほしい訳ではありませんよ。
私自身は自分磨きは一生懸命しています。

お礼日時:2007/12/03 11:39

尊敬できる友達、というのは


求めて得られる類のものではないと私は考えています。

> どこに行けばそういう人と会えるのか
何らかの目的を達成するために通るべきようなところ
例えば目的を達成するのに必要な場所、には
同じ志を持った者たちが集います。
例えば、極端な例えかもしれませんが
マラソン世界記録を目指す者たちは、競技場に集います。
このような者たちが、記録を競って切磋琢磨していく過程で
結果として「尊敬できる友達」が出来るのではないでしょうか。
尊敬できる友達、とは、ある意味で「ライバル」だと思います。
尊敬できる友達、とは、私の経験上では
一緒にいるときは「イヤなヤツ」「邪魔なヤツ」です。
自分の目的達成に向けた、最大の障害だったりします。
そして、ある意味で「敵わない所がある」から
尊敬してしまうのだと思います。
つまり、尊敬できる友達を得たいのであれば
何らかの目的~それは「友達をつくる」といったことではなく
レベルを競うようなこと~を持ち
その目的達成に向けて一人精進を繰り返すべきだと思います。
一見逆説的ですが、相手のレベルを問う以上
自分のレベルを問われる場(実力が試される場)に行くべきです。

> 気楽になる方法があれば
レベルを競う、というのは、気楽とは逆のベクトルです。
気楽になりたかったら、レベルと問う(比較する)のを
やめるべきではないでしょうか。
世の中にはたくさんの人がいます。
そして、ひとりひとりの能力や価値観は多種多様です。
その多種多様なありよう=バリエーションがあるということを
素晴らしいことだと思えば、他者に対して寛容になれ
結果、気楽になれると思います。
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この回答へのお礼

趣味の習い事などはしています。そこでは和やかに談笑しつつ手腕を磨く事はありますが、皆で集まって協力しあうような趣味ではないので、その後食事を一緒にしましょうという雰囲気にはならないんですよね…
気楽になる方法と書いたのは、もし尊敬できる友達を作るのが無理なのならば、一人でも満足できる考え方かはないかな?といった意味で書きました。無理矢理探せば、どんな人もいいところはあるでしょう。しかし、まったく私自身に関係ないところで素晴らしいとしても、結局関係ないのです。(例えば、バイクやフィギュアに詳しくても、すごいなぁで終わってしまって、私も頑張らなきゃとは思わないですよね)そういうことではなく、人望が厚いとか、何かなしえた人とか、魅力ある人に会いたいのです。

お礼日時:2007/12/03 11:47

私と付き合ったらどうでしょうかね?


まったく失礼きわまる書き出しで申し訳ありません。
まじめでもあり冗談でもあります。

一般論で論じて幾分価値のあることもあるでしょうし、個別論でいってもそれはそれでいいかもしれない?危険はありますが。

もっともここでは一般論をお聞きになっている。その境目はあるのかないのか?おそらくおのおのの常識イメージというものによるんでしょうね。

私は、ずいぶんと友達がいなかったので、個人行動して、身近な博物館美術館を制覇して雑学を入れたり、興味あることを書物であるいは実践で当たって身に着けたりしました。詰まることろ、何がしかの「頭」あるいは「肉体可能性」がほしいと思ったんでしょう。それはたとえば、テレビを見ます。理屈がわからなくても見られるが、わからないで見るのは気持ちが悪い。だから、不要でもわかってやろうと。胃にものを入れてどう消化するのかその化学作用はいかなるものかをわかって食べた方がいい。そういう類です。つまりそういうことを質問者さんは望んでいる?

そういう「向上心」「好奇心」あるいは「変人」の集まりというものは、簡単に得られませんよね。世の人の95パーセントくらいは世俗に染まっているんじゃないですか?

なので、しばらく一人で充電したらどうでしょうか?社会的に孤立してるわけでないし、精神が崩壊することもないでしょう。無駄な付き合いしてすごす方がよっぽど内心つらいいらだっていると思いますよ。
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この回答へのお礼

garcon2000さんがどんな方か存じ上げませんし…(笑)お知り合いになる方法はなさそうですが…

一人であんまり向上すると、ますます世俗から浮き立ってしまいそうです。もともと皆とあわせるというより、知識面に置いて過剰な所があります。周りの人が言ってる事は、そんなこと本に書いてある常識じゃないのかなーと思うことが多いです。社会的に孤立も確かにしていませんし、気が狂うこともないでしょう。無駄な付き合いかもしれないと思いつつ、何か期待してしまいますね。

お礼日時:2007/12/03 11:55

質問者さんと回答者のみなさんの、見事なまでのやりとりの「ずれ」を拝見していて、内心「好きにやりあっていれば」と思っていましたが、久しぶりにログイン・パスワードを思い出した記念に少し書いてみます。



尊敬できる友人が欲しい、とこのと。

つまるところ「出会いは僥倖」だと感じています。求めて得られるものではない、と思います。付言するまでもありませんが、この場合の出会いとはなかなか得られない求めていた人との「出会い」のことです。

他の方たちのように立派なことは言えません。心に染み入った部分のみを参考としてください。

個人的な非常に狭い経験から物申せば、質問者さんに「求めるこころ」があれば、天の配剤がやがて齎されるでしょう。聊か宗教的な響きに聞こえるかも知れません(その意図がないのは言うまでもないことです)が、「出会い」はつねに稀少です。こちらのアンテナを24時間感度120%全開にして、つねに求めていてなお10年に1回かそこら、という程度の頻度だと思います。あるいは宝を目の前にしていながら気づかず素通りしているかもしれません。だから、「出会い」というのでしょう。

また、そういった「出会い」に恵まれても、人間関係には「相性」という目に見えないやっかいなものもあり、こちらの一方的な片恋慕に終わる、ということもあるでしょう。だから人生はままならないともいえます。

端的に申して、「尊敬できる相手」には不可抗力的に「吸い込まれ」ます。選択の余地は残念ながら「ない」ものだと思います。だから求めても求めきれるものではないのです。その人の前に出れば、いつもちっぽけな「私」を意識し、そのくせそれが自己嫌悪につながらず、ともに時間と空間を共有して「楽しい」という、ほとんど奇跡に近い一瞬一瞬を経験します。
そういった御仁が身の回りにごろごろ転がっているはずもありませんし、「楽しく食事したり」、「楽しく遊べる」ことはありません。すべてはそれを他者に感じ取ることができる「感受力」をこちらが備えているかということに尽きます。

管見では、そういった尊敬できる方は、他のどなたかが仰っていたように、同世代ではなく少し年齢の離れた年上の方であることの方が多いようです。そして、そういう方たちの圧倒される知識量・経験量もさることながら、その強烈な個性のため「尊敬できる部分」と「押される部分(つまりこちらが受身になる部分)」がどうしてもあり、その両者が好悪という判断基準からときには「鼻につく」こともあります。完全に100%「尊敬」できるような人はいないのですから、これは致し方ないことかもしれません。

人間をレベル分けすると不毛な負のスパイラルに陥ることになります。思っていることと表白することは別のことです。斯く申す当方も、近頃ではあまり「レベル」については考えなくなりました。すなわち、時間の無駄だからです。

なかなかご期待される回答にならなくて申し訳ないのですが、生身の人間への出会いは、対象を恋愛にしないのであれば、そう期待できるものではないと思います。それは「レベルの低い人間が多い」ということも一つの要因でしょうが、質問者さんの感性に合うような人(という意味ではどの方にも言えることです)はなかなかいない、ということです。

自分の探していた人かどうかは、少しやり取りしてみれば分かります。そして、他者と出合ったときにそう思えるよう、ご自分を日々高めていかれた方が、徒労のほうが多いかもしれない「友だち探し」より、よほど有意義ではないでしょうか。
一回しかないかけがえのない人生ですからね。

最後に、「気楽になる方法」ということですが、別に気楽にならなくても自分自身で人生のテーマを決め、それを日夜徹底的に追究すれば、「気楽になる方法」を求めている暇はないかもしれませんよ。
何かに夢中になっていればいずれ「出会い」はあるでしょう。

ご自愛ください。
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この回答へのお礼

せっかく良い事を書いてくれていても、なぜわざわざ「好きにやりあっていれば」などと無駄な事を書いて台無しにするんですかね。
レベルについても、もちろん思っているだけで、表白出来ないから今回の悩みが出てくるわけです。
恋人も友達も、焦らなくてもそのうち出会えるよ、と世の人はいいますが、じっと待っていては一生会えないかもしれません。ムダかもしれなくても行動するのが、一生懸命生きるという事なのではないんでしょうかね。

お礼日時:2007/12/03 12:01

#7です。


>そういう人と知り合って付き合うにはどういうところへ出向けばいいのでしょうか。

貴方の趣味か、あるいは人生の目標でこの人のようになってみたいと言う方はいませんか。その方の個人的な弟子にしてもらえば、きっとその方を心から尊敬出来るようになるかも知れませんよ。

遭遇は偶然に支配されてはいますが、それでも、貴方がその機会を作ることを意識することによって、遭遇の機会を増やすことは出来ます。人を尊敬出来るようになるためには、貴方にその決意があり、積極的であることが大切です。幸運を祈っております。
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この回答へのお礼

弟子ですか…落語やお茶の世界の事としか認識できないのですが…
魅力的な友達には積極的に近づくようにしていますが、弟子というのがちょっとどんなものかわからないのですが…
偶然を待っていてはどんどん年老いていきそうなので、積極的に動くようにしています。

お礼日時:2007/12/03 12:11

その友達のいいところを探していますか?


僕は、まず知り合った人の「いいところ探し」をします。
自分なりにやってきました。

以前は、人の気に入らないところばかりが目に付いてしまい友達にも否定的な目で見ていました。
ところが、ある時から「いいところ探し」をするようになりました。
すると、「こんないいところがあった」と思えるようになり気持ちが楽になりました。


最近は目の前に起こることに対して、感謝できるようになって来ました。
例え自分に不都合な事が起こっても、「これは自分を成長させるチャンスだ」と思えるようになったのです。

まずは、与えられた環境に感謝できる自分になりましょう。
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この回答へのお礼

探していますよ。
ただ、嫌な所が見つかると、良い所よりも嫌な方が気になりますね。
不都合な事は出来るだけ最小限にしたいです。

お礼日時:2007/12/03 12:17

ANo.10です。



映画や本が好きで自らの人生の演出にも向けて哲学的?(といえるか判りませんが)に創作してみようとするとします。

映画や本には・必要な教養を得る為のものと
      ・面白い気楽なもの
      ・面白く気楽になれると感じさせるもの
                    があります。

必要な教養は心を生かす上で不可欠だからで、それなくして気力や方向性が見出せなくなり自分を使うことが虚しく重苦しい生になる。

面白いものは苦悩を紛らわすのに一時的な快感をもたらす「心のご馳走」で面白くなかったとしても「よく味わい楽しむべき」と強迫観念の自己暗示に依れ自信を削ぐもの。


面白く気軽になれると感じさせるものは、溺れる人が助け人を選り好みも出来ないように、自分が救われることが第一で、相手の人格や将来・希望など考えないまま得ようとするあまり、心に必要な誇りをなくしてしまうもの。

という分類を留意して鑑賞したり創作することが可能です。


     >なぜ尊敬したいのが失敬なのでしょうか?

ですが、周りに尊敬出来る立派な方ばかりになると今度自分が大変です;「尊敬」を受けるには自分が利己的であることを証明し尽さなければならず、その為にどれだけ自分を犠牲にして他者を敬っておく必要に晒されるでしょう。

私が尊敬するのは保証のない自由という試練金に耐えうる無謀というか、無茶苦茶な人で、以前私がした質問「尊敬しますは差別用語ですか?http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3334534.html」のANo.10に例えでガンジーさんが出ていますが、彼は平和ノーベル賞を辞退しています。それはアジアの同胞独立の為に疾走した日本人藤原岩市さんと、インド独立の為に故郷であるインドに尊敬されるため帰ることも出来なかったモハーンシン大尉がいたから、ガンジーは「自分はたいしたこともない」と悟ったのです。それでもガンジー尊敬しますが!

哲学は人生という名の映画や本の内容と思っています。上記3つの分類で人に対しても理屈をこねてみるのもいいでしょうね。そしてそいういう「尊敬出来る人」は貧しい人ではありません。「武士は食わねど高楊枝」与えて、自分の意志の欠片を拾って満足する人です。私は盗んでばかりで師のようになりたいながら自分のアホさばかり拾いますし、戦う気力も尽きかけです(苦笑)

「チャンスの女神に後ろ髪はない」ということで気付かなかっただけでチャンスを撒いていってくれていたかもしれません。そして自分からも「尊敬したい人」に向けて種を撒かなきゃですね。友愛も育むことですからね。
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この回答へのお礼

再びありがとうございます。リンク先も読みましたが、ガンジーが誰でも出来る事を自分はやっただけだ、と言うのはわかりますが、(逆に言えば、人が自分と同じ事をしたとしても、たいしたことはないのです)だからといって尊敬が失礼という事にはまったく関係ないと感じました…
確かに立派な人ばかりになったら、今度は自分が卑下の対象になって、身の置き所がないかもしれませんが、いきなり正反対の事を想像しても、あまり意味のある事ではないでしょうね。
種を撒き撒くって、目が出ないことに嘆いています。

お礼日時:2007/12/03 12:27

そうですね。

それは自然な感情だと思います。
皆初めての場所、初めての人については防衛心「知り合い程度」だと人ってなかなか本心や本音で語りませんよね。現代の社会性の特徴?いずれにしろ私はそういう寂しさを感じています。本音で語る率直さや勇気、それを受けた相手も、本音の素直さや勇気を尊重する思いやりを持てないのかなと。場所を変えてもひとりひとりの対人関係でのスタンスが変わらなければ「何か」を期待して出向く側にとっても同じ結果ではないかなと。
質問の「友達」に対する不満というのは「知り合い程度」の中に生じるもどかしさ(これは私個人の、ですが)、実は同じようなもどかしさ、への不満なのかなと思いました。

ご質問者様の気持ち分かりますよ。私も向上心がない人は嫌いです。自分が人一倍不器用で居場所がなくて、生きるのがしんどいからエネルギーが内省に向かうのでしょうね。すれば自然に抽象的なもの(=哲学的なこと)に自己を依拠せざるを得なくなる。それが私を生かすことでもある。私自身仕事、趣味(音楽)、勉強、ボランティアの日々で時間がいくらあっても足りない生活ですから、逆にやりたいことが分からないと暇している人が羨ましいです(という皮肉を許してください(笑))。
いろいろな領域で密度が濃いものは、空白があるところは空白のままで反比例する。空白があるところに啓蒙しようとしても感受性がなければそれでおしまい。それは他者と相対的に関わったときのひとつの想いでもあるのですが、社会全体にたいしても、今は大人になっても何がしたいか分からない人が増えているアイデンティティ不全状態にあるモラトリアム時代ですからやっぱり頑張って欲しいという期待はあるんです。(精神疾患でいう「頑張り」は逆効果ですのでこれはおいておいて)

「人の意見はいろいろあるのは当然。だからほっておいてほしい」と「そういう人達」言うんです。で、相手の趣味といったら飽食、酒、風俗を食い散らかす人なんです。それほど暇なら社会のために貢献してもいいんじゃないの。この豊かな日本で貧しい発想だ、やっぱり日本はボランティア人口世界最下位。と思ってしまうですよね。こういう話をするたびにその反応しかない。「個々の意見が違うのは当然。あなたはそれを言い訳にしてる」とやっぱりレベルってあるんです。でもそれは人間性のレベルのことじゃなくて向上心や好奇心、バイタリティの領域でのレベルのことを言ってるんです。
社会全体に求める理想論なら必然的に個人レベルに対しても求めてしまうわけですが、個人の集合体が社会ですからこの程度ではもう日本はダメかなと(笑)。
相手と好影響しあわなければそういう相手と付き合わなければいいことでもあるし、他のよいところを見て付き合うこともできるわけです。私とその相手の関係性は男女の間柄でした。でも男としてバイタリティのなさは男の色気のひとつであるタイプ的に相容れなかったので好きになれなかったし、お互い違うんじゃないかと考えてたので別れましたが、いい人だったし私に自信を与えてくれた人でもありました。だから相殺(笑)。

でも人間関係って不思議で、尊敬できるという前提で好意を決められないんですよ。今の好きな人は尊敬できないです。どうしようもな人なんで(笑)。でも片思いだけれど「好き」には変わりない。恋愛感情を持つ前に客観的に彼のことをみてた時分には友達にすらなれないと思ってました。あぁ恋愛て本当に面白いね(笑)

でもその彼も音楽という同じフィールドにいて、かつ彼のほうがこの世界で20年以上の先輩であるからやっぱりそういう部分では尊敬できるんです。
また私には趣味があって先生についているのですが、ピアノという世界の中では教え、教えられる立場である限り先生を尊敬できる。ジャズについての知識や理論は豊富、そういう自信が生徒を安心させるし人当たりもよいし生徒のプライドと成長を尊重してくれる。先生もプライベートは何やってるか分かりませんけれど、私には関係のないことですし、例え複数の女性関係があったとしても私と女として関わらない限り「意外にスケベやなぁ」と思うだけです。でも生徒からしたら彼は本当に素晴らしい先生なんです。

さて、回答の中に友達に対しての差別という意見がありますよね。それは友達という漠然とした個人によって違う定義に基づいているからでしょう。友達を常に尊敬できる人じゃなければ疲れますし現に友達だからこそ互いに「尊敬」されるような言動を維持していかなければならないのならそれは「神様」です。もっとも「俺様」なる「カミサマ」はそこいらじゅうにいますけれどね(笑)。

>自分と対等な能力があるとは思えません
>何か尊敬できるとか、楽しく遊べる友達は欲しいです

逆に自分が尊敬される、例えば先輩や先生などの立場に立った時、どうしても仮面を被らざるを得なくなる。でも楽しくということはある程度「素」をださなければなりませんから相反してしまうんですよね。そういうとき自分を見くびらせない程度の「素」を出さなければならないけれど、私はそれができる人こそ尊敬します。また絶えず今の自分を超えていく努力をしている人。自分が辛いときにも、特定、不特定多数に限らず相手を思いやれる人。でもそういう人と対等に向き合うと衝突してしまうときもある。ボランティアやってて、そういう人に出会いました。尊敬はその人個人のことなんですけれど、目的に対する情熱や持続性、バイタリティに溢れ、文句や愚痴は凄まじいが行動に示している。でも衝突して一度別れました。それでもやっぱり尊敬できると思うから自ら再会したんです。
そう思われる人は本当に尊敬されるに相応しい人なんですよね。そしてその人に対し自分が謙虚になれるかどうか。実際頭下げる必要はないけれど、そういう気持ちもてる相手は稀有な存在ですし貴重です。彼女とは友達ではないけれど、ぬるま湯的な友達よりもずっと相手のことを評価していると思いますね。

そしてなんかこの尊敬って「いい人」という社交辞令と同様、なんか偽善ぽく聞こえてしまうんですね。
尊敬とはその人への評価を過剰に一般化することによって安心感を得ている、これもレッテル貼りのひとつかもしれない。


>会社と家の往復で友達が自然に出来るでしょうか。

それは私からみたらそれこそあなたの不満、抗弁である「言い訳」にすぎません。とかく人は「忙しい」を口実にしますが、本当に忙しくてできないのなら自分の不可能性を正しく説明できるはずです。「尊敬できない人」も同様、その人への評価や客観をきちんと説明できるはずです。

>普通の会社員ではない人が多いせいか、ちょっとした事で非常識な感じを受けます

これは偏見かなぁ。会社という非常に緊張を強いられる超自我が必要以上に強迫観念化されたような世界、それからの開放を求めるところ、がその「非常識」だと考えられませんか?非常識な人達も会社員であるからその世界では常識人、逆に会社員でも非常識な人、会社員やってる間は常識人だが一歩外に出ると非常識人やもしれず。
コミュの連絡には便利なので私もやってますが他のことではミクシィなんてくだらないですよ。深く知らない相手のことを歯が浮くようなセリフで紹介したり、どーでもいいようなことを日記に書かれたり。

でもご質問者様は尊敬できない人とはイヤだが逆に尊敬できる人の世界の中で「上から目線」されるのも自分のプライドが許さないという拮抗状態にあるのでは?今私が親しんでいる音楽の世界なんて当然年功序列じゃないですから、経験者が年下の場合「下から目線」されて辛い思いをしたこともあります。そういう場所には私はもう出向かないと決めましたけれど、でもやっぱり経験値というレベルでは彼らが上なんです。彼らの言うことも一理あるから学ばせてもらったと素直に自分の糧にしてます。教わったのは特定の相手ではなく、複合的な音楽というフィールドの世界での一部として。人間も同じで、尊敬されるところもあればその人の中にコンプレックスもあれば卑下されるところもある。また、その人の何をどのように見るかというのは相手の見方や関係性によっても違う。

もっとも「友達」に対する定義なんて人それぞれです。定義をさらに深刻にもつこちらからみたら、単なる知り合い程度を「友達」と呼ぶ人もいれば、普段は自分の考え方すら表明しあわなくても相手に何かあれば助けることができるのも彼らの友情関係でしょう。見返りがなくても尊敬できるからおのずと行動してしまうのは損得がらみの利害関係でもない。目的をもって辛いことが我慢できるなら仲間以上に「同志」と称する方が妥当かもしれない。また同じ経験や時間を共有してケンカしたとしても次の日笑って再会できるなら友達といえる。また何年も会ってないが「心友」であれば友達ということもできる。普段会えなくてもたまに会ったとき同じ価値観を互いの中にひとつづつ見つけることができれば結果的に「友達」と呼べるかもしれない。・・・

という私には今友達と呼べる人はいないけれど、知り合い程度の人達について述べてきました。友達を探すために何かをするという気にはなれませんしそれ以前に心に問題を抱えているので、自分も実践の場でこのように今見えているものしかいえないし、またこれからフィールドに出向くたびに定義が変わるかもしれないですが、人間関係こそは自分の成長の場だと思ってます。ただ条件のあった友達を探しに行く、ということだけはしてません。他の回答者がよいことを言ってたように行動の副産物と思ってます。

最近会社の上司から「あなたは人を寄せ付けないオーラがある。老婆心で言うがそれは仕事をする上でプラスにならないから気をつけるように」。ある人にも「憮然としている、自分はあなた達とは違うのよと言われているものを感じさせる」と言われショックでした。前からも同じようなことを言われてました。どこにでも道化を演じてきて、それこそ自ら見くびられることを引き受けていたのに!?そしてそれに対して許してきたのに?押し付けがましくない程度に人に気を使って、隠れたところで傷つけないようにする配慮は、よく傷つけられてきたからこそ私なりの理解なのに・・・。でも私自身が気づかなかった何かを人が読み取ってたんですね。対して「人あたりがいい」「面白い」「大好き」「素敵」という評価も頂戴しているのにその人らから誘われない、誘っても断られる謎は意外にこういうところにあったのかもって。
私としては「大誤解!自分に自信なんてこれっぽっちもない!不器用だし悩んでいて人に愛されたい普通の人!」と大きな声で是正したいくらいですけれど、やっぱり気難しいことを考えているとそういう雰囲気って無意識に生じてしまうのかなと。自分なりに人がどうでもいいと思うことも深く考えてそれを「賢い」と言われることもあるけれど、そういうある部分での絶対的な自信が相対的な社会というところでは逆効果になってしまうのではないか。それを見せないために意識的にバカやっても、人って案外無意識に感じ取るものじゃないかと思ってます。

聖俗兼ね備えている人間を相手にするという前提でもって、尊敬という概念を捨て、彼らという混沌の世界に自分も同じ人間だという概念をもって投じることができれば、相手の中に自分と同じもの(問題)を見つけることができると思います。
回答にも「人は自分の鏡」という意見がありますよね。社会学者のクーリーという人の概念です。自我は社会的に形づくられるものであってそれは決して孤立的ではないというのです。デカルトの「我思うゆえに我あり」はクーリーによると不十分な表現であって、とても孤立的な自我のイメージだが、「鏡」説では「人は自我は人との間で生まれ、発達するものである」という。そして「人間の完全な自己実現は、自己感情のうちに仲間の目的を取り入れ、自らの人生をその目的達成のための戦いに費やすことによって、初めて成し遂げられる」とも説いています。

改めて、自分を映し出す鏡と向き合うことは辛いし抵抗したくなる。人間関係て超面倒(笑)。でもそれを避け続ける以上、自分の見えているはずの本当の自分はそのフィルターの視野の中でかくれんぼしている。やっぱり人と向かいたい私ですので、ちょっとづつ鏡から目をそらさないでいこうかなと思うこのごろです。
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この回答へのお礼

知り合って間もない頃のもどかしさにイライラしているわけではないのです。無駄な投資かもしれなくても、出会えた人は大切にしているつもりです。「尊敬したい」と書きましたが、それが適わないのならば、言い方を変えるのならば、せめて「軽蔑させないでほしい」のです。なぜもっと気を使えないのか、マイペースで迷惑をかけるのか、不思議でならないのです。レベルの意味についてはそういうことです。ナニができるからレベルが高い訳でなく、精神性の問題ですね。もちろん何でもできるようになったほうがいいに決まってますし、努力してきたのだからその面では素晴らしい人です。とにかく仕事で疲れているから癒してほしいだの、休みの日はうちでゴロゴロしているだの、日々を大事にしていない人が多過ぎます。(たまにはいいでしょうけど)確かにその人の考えでそうしているのだから、勝手なんでしょうけど、自分を高めようとしているのなら、寝る時間も惜しいほどやる事は沢山あります。何も取り柄のない自分がもどかしくないのかしら、と軽蔑してしまうのです。
「会社と家の往復で友達が自然に出来るでしょうか。」と書いたのは、私のことでなくて、そういうぐうたらな人のことです。自分で動け、と。
「普通の会社員ではない人が多いせいか~」については、もちろん出来る人も出来ない人もいるのですが、例えばIT業界や編集の仕事をしている人が多いせいか、自分の与えられた仕事さえすればお金を貰える立場で居る為なのか何なのか、敬語がまともに使えない、連絡をまともに出来ない、TPOがわかっていない、冠婚葬祭の常識を知らないなどと言う事が顕著に表れています。会社員だからって必ずしも出来るわけではないのですが、人に使われている分、叩き込まれている感じはしますね。mixiは玉石混交なので、ほんとに玉は少ないです。くだらないと思うのもわかります。殆どはくだらないかもしれません。しかし、mixiか、習い事をするくらいしか、今の自分には人と知り合う場所がないのです。習い事は極めて女性的な個人的なものなので、あまり人脈が広がる事はなさそうです。スポーツや団体競技的な事は、やってみなくてはわかりませんが、いきなり入会金を払って賭けて見るのもリスクが高そうです。スポーツジムには通った事がありますが、あまり皆さん話はしないですね。もともと知っている近所の人たちとしか交流は取らない雰囲気でした。

お礼日時:2007/12/03 12:54

お礼ありがとうございます。

再びおじゃまします。

>尊敬が失礼という事
これは主に主観によるでしょうね、常々尊敬の対象とされてしまう人がいるので、私ではないですが、代弁します。
育った環境が良く自助努力したけれども、自分が経験出来ないことは多くの人の辛苦や搾取された資産(税金)やに支えられ、経験不足を代わってもらっていて「お陰様で」生のびてこれた感覚を知る、感謝という人間らしい感情を抱く人にとって尊敬は「支援者の気持ちも察せないお馬鹿さん」呼ばわりだからだと思います。

「尊敬を同情」、「共感を対等」として(無理矢理?)考えると、多くの人から同情されて可愛そうな自分って感じにならされるでしょ。自尊心のある人が慰めの同情を貰うことを生き甲斐にしませんよね。劣等感や嫉妬心があっては実力が疑われます。相手を尊重することが自分の生き甲斐であるはずなので。

労力や時間を節約しようと便利な乗り物に乗るよりも、自分の足で歩く苦労をする方が時間に追われなくなるようですよ。これも逆説ですが、昔の人や不便な暮らしの中では寿命が短かったから有限の人生がのんびり生きれるのです。

世界は広いですので、発展途上国に一人で長期旅しましょう!

孤高の哲学を持たない旅人っていませんから。日本人は少なくなっても面白い人に遇う確立は高いです。孤独な貧乏旅行者(のフリでもいい)などどこに行ってもお邪魔者でしかなれなく。仕事も義務もないし、常識や時間を忘れて話していたくなりますよ。

興味半分で来たものの昨日まで生きていた子供が喧騒の路上の真ん中で死んでいる、裸の赤ちゃんが一人で寝かされているのを見たりすると、優しくも出来ない、助けもしないで尊敬されたら辛いです。

私が尊敬したいのは「僅かな幸せを、充分幸せな人にまだ譲って、それでも無邪気さを失わない」そんな人達です。
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この回答へのお礼

お話がちょっと大きくなっていったので、わかる点もあるのですが、そこまでグローバルな行動が実際に私に出来る訳でもないので同意しかねますが…現在の境遇をまるきり捨てないと私の願いは叶えられないのでしょうか。それ程大それた望みでもない気がしますが。

お礼日時:2007/12/06 18:00

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