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聖書の内容を知りたいと思いつつ 手をだせないため今回質問させて頂くことに。その正確な歴史なども全く知らない、旧約って・・新約って・・のレベルです。
その内容を知らないまま 
中途半端な資料等だけが増えていき
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0174.html
http://www.bk1.jp/product/02570575
http://www.tokyo-lgff.org/99/Japanese/festival99 …
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0487.html
http://f35.aaa.livedoor.jp/~shinri/Jesus.html
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4401621891.h …
マンソン自伝あたりで このまま聖書じたいを全く知らず、こんなことをしていて良いのか・・?その内容を全然知らないままとは、*諸外国のカルチャーの半割を誤解していることに・・?と思い
クリスチャン(になろうとした?)人に質問してみたところ 「神父のもとで読まなきゃ、無理。」と却下されてしまいました。
自分でも開いてみると無理だな.と確信するのですが(詩的な比喩など???&歴史も???)
講義をとった時 創世記の部分が面白ろかった記憶があります。
内容が次第に預言者等の話に及ぶにつれ???に。
ヨブ記(あまり理解していなかった)と、小説:クムラン(こういうのは聖書の理解の深い人にはいらないカルチャーなんでしょうか)はすごく面白かったです。 
聖書じたいを読むのは確かに大変そうで また色んな説とか謎があるようで複雑すぎてよく分かりません。
遠藤周作などの入門などを読んでみましたが少し退屈して途中でやめてしまい・・・・。

信仰・宗教的な立場というより、mysteriousな歴史を興味深く学ぶにはどうしたらいいのでしょうか。
<*これらは所詮、正しく聖書を読まなければ、意味がない理解なのでしょうか。>
最後の↑特によろしくお願いしますm(_)m

A 回答 (18件中1~10件)

最初に掲げられた松岡正剛の『クムラン』評を読んで 信仰とは何の関係もないと見限りました。

(文学としては別であるけれども 信仰と関係あるとも ないとも 決められないというものです)。あとの参照サイトは 読んでいません。 

キリスト信仰について わたしなりに解説します。

旧約聖書の『詩篇』でその詩作者は述べます。

   主はわたしに言われた。
    ――きょうわたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ。わたしは
    もろもろの国を嗣業としておまえに与え 地の果てまでもおまえ
    の所有として与える。・・・
    (『詩篇』2:7-9)

所有権が勝手に決められることは めちゃくちゃですが まづは 表現じょうの問題だと思ってください。

ただ このような事件――単なる神がかり? あるいは 自己満足?――に出遭って《主を父とした人間》は その後たとえば 預言者イザヤとしては この《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。

   これは主がわたしに油を注いで 貧しい者に福音を宣べ伝えることを
  ゆだね わたしを遣わして心の傷める者をいやし 捕らわれ人に放免を
  告げ・・・(中略)・・・るためである。
    (『イザヤ書』61:1-3)

すでに時は飛んで イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。

   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。

    《主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。主がわたしを
    遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放  
    を・・・告げ知らせるためである。》
    (つまり『イザヤ書』61:1-2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 
     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
     実現した。
  と話し始めた。
     (ルカ4:17-21)

人間と神との関係の歴史が――人間の言語による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。理論の問題としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。

これで(――つまり その後まもなくのイエスの十字架上の死と復活というふうに伝えた人類の井戸端会議をとおしたあとで――) われわれ人間は ひとり残らず 神の息吹きが吹きかけられているというかたちだと思います。

ということは その限りで キリスト・イエスのお蔭だというその反面で その神は こころ根に霊として宿るとはいえ もはやわれわれが詮索する必要がなくなっている――そういうことだと考えます。


ついでと言うといけませんが 三位一体について たとえだけでしたら 次のように捉えるとよいのではないでしょうか。

神は光と言いますから そのたとえですが 父なる神は 光源です。これから出る光は 子なる神です。光の源にせよその発耀にせよ 光が持つ明るさや暖かさ これが 聖霊です。それぞれ位格(ペルソナ)が違いますが 光として一体です。

そして このとき神にあっては 光の発出などに伴なう時間的な隔たりは何もないというわけになります。

イザヤ書の巻き物を読んで講解したナザレのイエスなる人間は この光耀としての子なる神が 肉に作られた存在であると言います。

詩篇の作者やイザヤらが 父なる神の子となったと表現したのは 神(その存在は 人間にとって つかみ所がないので 霊と呼びます)のちからを分有しているという意味だと理解します。

子なる神がイエスという人間となったというのは ふつうの人間であると同時に まったき神であったと捉えるようです。特にこの表現内容は いわゆるドグマです。論証不可能です。(ゴータマ・ブッダも同じようだということですが)。

最後に 『エレミヤ書』の次の箇所が端的に表わしているところは 重要だと思います。

   しかし 来たるべき日に わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれ
  である と主は言われる。
   すなわち わたしの律法をかれらの胸の中に授け かれらの心にそれ
  を記す。わたしはかれらの神となり かれらはわたしの民となる。その
  とき 人々は隣人どうし 兄弟どうし 《主を知れ》と言って教えるこ
  とはない。かれらはすべて 小さい者も大きい者もわたしを知るからで
  ある と主は言われる。わたしはかれらの悪を赦し再びかれらの罪に心
  を留めることはない。
   (『エレミヤ書』 31:31-34)

《来たるべき日》が 歴史上のイエスの出現を表わし キリストは《あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい》(『マタイ福音』28:19)と言うのですから エレミヤの《イスラエルの家》も 全世界に広がったものと思われます。

面白いところは キリスト・イエスが《弟子にしなさい》と言うその反面で このキリストの後では もう《〈主を知れ〉と言って教えることはない》ようになっているということです。

やや論理に過ぎて 詭弁のように感じられるかと危惧しますが 骨組みは以上のようだと思います。
松岡を読む限りでは 『クムラン』は この信仰の問題とは 別だと捉えました。

この回答への補足

すみません、
>面白いところは キリスト・イエスが《弟子にしなさい》と言うその反面で このキリストの後では もう《〈主を知れ〉と言って教えることはない》ようになっているということです
ここの前後関係が分からなくなりました。
主を知れといって教えることも・・→<弟子にしなさい>とイエスが・・ ということかと思ったのですが

補足日時:2007/12/20 11:09
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この回答へのお礼

丁寧なご回答有難うございますm(_)m
聖書を引き引き;読ませていただきました。 こういった解説をして頂くと是非読みたくおもいます。

>人間と神との関係の歴史が――人間の言語による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。理論の問題としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか
全体として納得いたしました。

>所有権が勝手に決められることは めちゃくちゃですが まづは 表現じょうの問題だと思ってください
反発をする意図ではないのですが この点だけでなく言葉の節々に 表現上の問題であれ 暗喩的で指導的な、厳しい、契約の宗教という印象を受けます.

読むときには ご回答参考にさせて頂きます.

お礼日時:2007/12/20 10:43

断定的なことを言うのは控えたいけど、どうかなあ。


いわゆる聖書の「正しい」読み方って、そうとう曲者のような気がするけど。

聖典化されたっていうだけでもガチガチに閉じちゃっている書物なのに、
そのうえ輪をかけて閉じた世界観で武装するわけ?

卑近な話だけど、イラク戦争を正当化するために、
アメリカの教会でいったいどれだけの聖句が「正しく」引用されたことか・・・

ただひとつだけ言えることは、学問にせよ宗教にせよ、
テキストを読まずに周辺書物や資料をあさるのは本末転倒では?
・・・って、聖書って原書がないもんね。あは。
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この回答へのお礼

質問 回答 全体の流れに目を通さない人が多いみたいですね。

お礼日時:2007/12/23 19:55

すごく簡単にいうとあなたが聖書を読んで心に平安さえ残ればそれが今の正しさになります。


読んで気持ちよく慰めになる箇所や心が落ち着ける箇所があると思う
そこがあなたの聖書に対する回答になると思う。
信仰→神→イエスの言葉→聖書→平安となる箇所→神様を信じたという信仰です。

歴史的に言うなら旧約のイザヤ書あたりまでが正しくその前はところどころ間違っているところもあると思うし、訳した人の信仰によっても違いますからどれが正しいのか?なんていえるものではないし、最近の聖書を読んでなんかおかしいな?という人も多いからね。
口語訳は読めますが新共同訳になるとなんか途中で読みたくなくなるという人も多いから何が正しいのか?これはわからない。
要するに読む人の捕らえ方、人生経験で読み方も変わってくるからね
聖書は読んでいる人と神さまの関係、だからこのように色々な回答があり、また礼拝に行くと同じ箇所を学んでも牧師によって異なります
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この回答へのお礼

再度ご回答有難うございます。
心に平安の持てる箇所があればそれは勿論素晴らしいことでしょう。

>あなたが聖書を読んで心に平安さえ残ればそれが今の正しさになります そこがあなたの聖書に対する回答になると思う

このように断定されることは 相変わらず好ましくないですが
これ以上はやめますので分かってください

最近読み返したものがあります
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
べつの血液といれかわるような奇跡でも起こらないかぎり いたるところで正体を暴かれつづける血液。公共の乗り物の中でも、街を歩いている時でも、なにかにつけて浴びせられる刺すような目指しにおびやかされている、いつも裸同然の血液。こっちの目を見ればそれと分かるだろうか?人間的な視線を失わないことよりも、むしろ強制収容所の記録「夜と霧」の囚人のそれのような 徹頭徹尾人間的な視線を獲得することに、僕の関心は、ある。

[ぼくの命を救ってくれなかった友へ]Herve Guibert
--------------------------ーーーーー
気分の悪い抜粋で申し訳ありませんが ここまで徹底的に事実世界で生きるような異人でないかぎり 
救いも信仰も微塵も信じないという人はあんまりいないと思うんですよ。なので繊細なところはそっとしておくべきなのでは?いう意味で前のお礼をしました。平安も同じです。

お礼日時:2007/12/23 19:52

No.3&11です。


★《宗教を勉強しようと思ったことすらない者ですが 信仰についてはおそらく 考えたのだと思います》
――やはり もう《主を知れ》と言っておしえることは要らないようですよね。茶化してはいけませんが キリストのキの字も言わずに 信仰者が 三分の一いる社会をと願っている者としては 説教などは似合わないと思っていたのに そのたぐいのことをやっていました。
 でしたら それこそ基礎が出来ておられますので どんな虚実綯(な)い交ぜのエンタテインメントが出て来ても 大丈夫だと思います。

あとは 個別に気になったことを取り上げさせていただきます。

★小説『クムラン』は読んでいないのですが クムラン宗団ないし『死海文書』については 《義の教師》くらいが 議論にのぼるのではないでしょうか。ただ モーセも 律法をもたらした・そう言ってよければ義の教師ですし 旧約の預言者たちだって 誰も信仰に見向きもしない時に それぞれ独りで義を説いたのですから クムラン宗団だけの問題だとも思えないようです。
 もっとも 文書発見のあと初期の研究の時期に 文書の隠蔽がなかったかという嫌疑がかけられているようではあります。(いわゆるキリスト教に都合の悪い内容の部分については 隠蔽しているのではないかと疑われています。これ以上はわかりません)。

★遠藤周作は キリストを《永遠の同伴者》として規定するのが特徴です。信仰によれば 毎日が瞬間ごとに 永遠の現在を生きることになるということですから 永遠の同伴者と言っても まちがいではないでしょうが 問題は 《文字は殺し 霊は生かす》だと思います。
 仏教における《同行二人》と同じかどうか分かりませんが・だから別ですが この《同伴者》を精神において想像力によって捉えることが行なわれているようなのです。信仰としてではなく 一種の教養として 格調高く《キリストが常にわたしに同伴している》という絵像を描くことに通じているようなのです。聖母マリアがわが胸にいる限り わたしは 清く強いといったふうに 想像力を逞しくするようです。
 《文字もイマージュも想像力〔のみ〕も 信仰を台無しにします》。《想像をとおして謎において神を見る(声を聞く)》という信仰の立ち場に対して 《精神において想像力によって想像物として神を描く》という方向に逸れがちです。

★神に性はない。ヤハウェーと言おうが アッラーフと言おうが 仮りにイワシノアタマと呼ぼうが 神の声は ひとつである。
 たとえいくつか多重音声となって聞こえたとしても 全体として一つにまとまっています。多神教だろうが汎神論だろうが 神はひとつです。
 女性アイドルあややの声をとおしてその奥に神の声を聞いたと仮りにすれば それは 女神の声になるのでしょうか。神じしんの声は 一つであり また この世の性差など持ち得ません。持ってもなんら関係ないほどなので 女神だとか母性原理だとか言いたい人も出てくるのでしょう。信仰の対象(=つまり非対象)を ムシン(無神)と言っても まったく 問題ないはづです。

★《契約》の厳しさ・おごそかさなどに触れておられました。
 これも いささか乱暴でしょうが それでも特に《新しい契約》としては もはや契約関係のすべてが 個人の信仰の中におさまったかたちで捉えてよいのではないでしょうか。ということは 主観を超えないし 超え得ないし あるいは上から権力をもって主観に契約を押し付けても何にもならないし 自由の違反になります。
 契約は 主観の自由および尊厳に おさまるという見方です。主観の外で 神と契約するわけがありません。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>教会体制は プロテスタントともども ただちに解体すべきだと
これは若干びっくりしましたが・・。共同体として機能せずに分散して続いていけばよい、続いていけるということでしょうか・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 たとえば親鸞という人は 出家した身で妻帯し 同じ門徒の人びとを 御同行・御同朋と呼び合って 共に生きるというのであって 何か宗派を開こうとしたものでもなかったと言います。それは 信仰のゆるやかな共同体としてあり 社会における共生のあり方を問題としており 信徒の集まりは 自分たちで話し合い 協力しあう自由な集会を目指したとも言います。
 (寺も僧侶も墓も要らないというふうな記憶がありますが そのあたり定かではなく 典拠も不確かです)。

 おそわるところによると サンガ(僧伽藍摩)つまり出家者の集まりを呼ぶその名には その特定の人びとのではなく 社会という一般的な人びとの集まりとして《四方サンガ》という概念もあるそうです。唐招提寺の《招提》とは 原語で《四方》の意味で 要するに四方八方というふうに《世界》を意味するそうです。世界から《招く》という意義による漢字の当て字もあるようですが つまりは・言いたいことは 社会そのものが 共同体であり サンガであるという概念のことです。

 日本語でも《やしろ》と言います。語源は 《屋の代わり》としての神殿だと思われますが 仮りに《八(や)・域(しろ)》と読めば 社会じたいとしてのサンガと同じ意味になるのではないでしょうか。《八(や)》は 四方八方の八であり 《域(しろ)》は 《領(し)る》の名詞形だそうで 領域となります。

 つまり言いたいことは 《やしろ / 四方サンガ》としての社会じたいが――宗教抜きの・一般概念としての――《教会》だということです。

 《主の家:キュリアコンkyriakon→キルへ Kirche; チャーチchurch》は 国家の域にまで広がった《教会=やしろ=四方サンガ》でしょうし 《民会:エクレシアecclesia→エグリーズ eglise; iglesia》は 市町村議会としての《教会=やしろ=四方サンガ》であろうと捉えられます。宗教抜きです。
 (ですから 《教会》という語は もう不要です。あるいは 結社の自由をしばるわけには行かないですから もちろん 信徒たちが自由に 集会を持つのは 自由でなければなりませんが)。
 (自由な集会として 順次 世話役の当番を決めて 自分たちで運営していけばよいのではないでしょうか。神父ないしはローマ法王などという聖職者の位は 要らないと思います。みんなで決めて 新しい聖職者を置いてもよいでしょうが)。

自由な放談に映るとしたら ごめんなさい。そんなところですが。
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この回答へのお礼

再度ご回答有難うございますm(_)m

>《文字もイマージュも想像力〔のみ〕も 信仰を台無しにします》。《想像をとおして謎において神を見る(声を聞く)》という信仰の立ち場に対して 《精神において想像力によって想像物として神を描く》という方向に逸れがちです。
何がひっかかっていたのか分かってきました・・
>《精神において想像力によって想像物として神を描く》という方向に逸れがちです
>《同伴者》を精神において想像力によって捉え
友人にも同じことが起きていたかもしれません。そしてそれによって挫折していく姿を見て 「これが宗教に挫折するということなのか」というイメージができあがっていきました。そして一般的には《精神において想像力によって想像物として神を描く》ものだと理解していました
一方
>《想像をとおして謎において神を見る(声を聞く)》という信仰の立ち場
私が宗教とは別に、このことを考える時 それは別のものだったという風に思われてくる面もあって
また
ご指摘して下さったように 主観・契約の外の立場によって招かれる<厳しい>という印象も
本来の厳しさと比較すればどうでも良い事に思われてくるかもしれないです

★神に性はない
信仰の対象(=つまり非対象)を ムシン(無神)と言っても まったく 問題ないはづです。
多神・没神 母性原理、○○原理等々・・についてはやはり
信仰の外の、神の声と別の話であるから という風に理解いたしました(_)


>つまり言いたいことは 《やしろ / 四方サンガ》としての社会じたいが――宗教抜きの・一般概念としての――《教会》だということです。
>社会そのものが 共同体であり サンガであるという概念のことです

このサンガの概念は素晴らしいと思います(_)

>神父ないしはローマ法王などという聖職者の位は 要らないと思います。みんなで決めて 新しい聖職者を置いてもよいでしょうが

キリスト教はコミュニティであるという印象が強かったですが
回答者さんのようにお考えになる方がいるということは勉強になりました(_)

信仰者でも何でもないものに深遠なご回答を下さりありがとうございます

お礼日時:2007/12/23 18:56

No.8です。



結構、人気ありますね この質問。
続々と各々の知識が提供されているのを眺めていると、さすがネット って思います。

>アテン教というのは「一神教」・・??ですか?

梵我一如みたいなものかなぁ。。。っ思います。
一神教というより唯一神信仰。
一神教って、いろいろある中の「この神様を信仰する」ってものじゃないですか。

唯一神てのは、他に無いってことですよね。 
神はこれ以外無いって感じでしょうか。


「聞け おおイスラエルよ、汝が神なる主は唯一なる神なり」
  ↑
ユダヤ教の祈りの言葉です。
意味わかりそうでわからなさそうで、微妙ですがなんとなく理解できそうな気がする文句ですよね。
でも本当に本当に理解して「そうなり~」っていえるのか?

エジプト語を英語に置き換えられたその祈りの言葉をここで書くのはめんどくさいので、今回はぶかせていただきますが、、、、
えっと、文字は別の言語になったとき、別の文字に転訛されるんですね。
で、エジプト語tはヘブル語ではdに置き換えられ、eはoになる。
すると、

「聞け イスラエルよ、我らが神アテンは唯一なる神なり」

そのまんまじゃん! ですよね。
本当に「神はアテンのみなり」って意味だと理解して「アメン」って言ったの~ って感じですね。

っていうか アメンってそれ アテン教の対抗馬・・・。


>クムランは二作目も読んでいないですが amazon検索してみると、
>フランス語で la derniere tribu というのがあるようで多分これではないかと思います。

あら! フランス語でも出てたんですね。
しかし、私フランス語 も 読めない。
スペイン語で簡単な解説してあるのを読んだんですが、神武天皇の名前でてきていて、やっぱりここに彼女はリンクしたか、、、って思いました。


>翻訳されないで自国出版のみ?になってるようです。

私が探した時は、言語がspanisだけでした。


>日本の神道が直接的にヘブライ教?に由来している(イスラエル族分散の時に 
>その中の一つの族が 日本に辿り着き亡命の中で自らの文化を保存させたから。)ということを発見していく・・!!?
>というような内容のようでした;

いわゆる日ユ同祖論的な内容ってわけですね。

神道がユダヤ教。いや アテン教。 うーーーん。

まあ、ちょっとずつ土地の神と習合していって、飲み込んじゃったって解釈すれば、梵我一如の解釈でいけば、オッケーなわけで。
ずっと飲み込んでいって、とうとう神道になっちゃった って感じでしょうか。

顕教のキリスト教と密教のアテン教。 うーーん。


蘇る神殿は2作目なんですが、壮大な内容で、まるで旧約聖書のドラマのようで、興味深いですよ。
門よりメシアが入っていき大贖罪をするわけですが、その描写がすごいです。
ヨハネの名を持つジェーンとの絆が、大衆者によって徐々に切断されていき別の世界へ属性が変化していく過程。
ジェーンの声なき悲鳴とは逆にアリーの神聖化が増していく描写はすごいです。
ジェーンが降りてき、アリーが登っていく。
ヤコブの階段のようです。
神を呼び出す描写がまたシュールで、これが宗教というものかと、感動を覚えました。

何千年もの時を生きるアリーの父親の描き方も納得いきます。
そしてトーラでラビを討つという描写も、単なる殺害ではない。
謎の男ともみあいになり、相手が、発掘した容器でアリーの頭を殴り、アリーが赤い液体を浴びたって描写で、作者は何を表現したいのかピーンと来ました。
赤い液体、、、神の経血、、、、アダマ、、、rebornだ、じゃあ 写字生のアリーは・・・・えーーってもうわくわくしました。
創作だとわかっていても、感動を覚えました。

アリーが徐々に神聖化していく過程、そして圧巻は大贖罪の儀式。
男の世界だぁ~って思いました。

信仰が成り立つ過程を、アリーが神聖化していく過程として、死海文書を通してうまく描写されており、やはり筆者は父親の影響を強く受けているんだろうなって思えました。


沈黙のユダヤ教。
信仰とはどういうものか。
エリエットは物語を通して、ユダヤ教の信仰の姿を見せてくれたような気がしました。

あらぶる女神とも言われるエリオット。

私は人が言う神というものは信じませんが、彼女の物語を通して彼らの神が姿を現した と言われたら、確かにいるかも・・・と思ったりします。

ユダヤ教の信仰の姿をうまく描写した人ですね。
ユダヤ教の信仰とはどんなものかと聞かれたら、この本をお勧めしたいです。

何年かやっていれば信心が深くなる 聖書をよみさえすれば信心深くなる というものではなく、信仰すればお徳になるとか代償があるわけではなく、経験を通して信仰と一体化していく。
ハシディームのアリーが本当の信仰に入っていく。

大贖罪が一体どのようなものだったのか、この本によってわかりました。

個人個人の贖罪は神がやり方を決めており、それで罪が消えていってたというのは旧約聖書に書いてあり、それは日本の大晦日と似たようなもの。
そして民族全体の穢れを清めるのが大祭司だった。
大祭司は民族を代表して民族全体の贖罪を担っていたわけですね。
そのための儀式を行いルールに沿って進行していき、メシアが法則にのっとり手順を行い真言を唱え、神を呼び出し神の前に立ち、民族全体の贖罪をする。

大贖罪って大晦日ってことでしょうか。

<大晦日を大つごもりともいった。「つごもり」は、晦日の別名であり、「月ごもり」が転じたものである>ってwikiに書いてある。


月って古代では女神の代名詞。
やっぱり 日本に伝わっていた~?って思ったりしました。
(月の経血で人間は作られたって神話がある。)

日本って信仰心無いですよね。
それで外国人が宗教をしているその姿に憧れたりする。
でも、日常生活に信仰が入りこんでいて、無意識においてやってしまっているとしたら・・・。
一体化しているわけで、そりゃあ 信仰していると気づかないわなぁ・・って思ったりします。


ユダヤ戦争でイスラエルは消えて20世紀になるまで形を作らなかったのか?
で、ここで3作目が登場して、いやいや 別の場所で再編されていたって言われたら、、、もう・・・。
日本の歴史が旧約の続編になるわけで、、、、アポクリファってわけですね。

天皇家。顔が・・・・ そして天皇家に嫁ぐ人たちの顔が。。。
やっぱり誰でもいいってわけじゃなく、系統があるんでしょうか。
一度遡ろうとしたことあるんですね。
やっぱり旧約同様、系図が途切れてそれ以上追えませんでした。

だからこそ、3作目が読みたかったんです。
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この回答へのお礼

再度ご回答有難うございます(_)
アテン教に関する説明有難うございました 
>本当に「神はアテンのみなり」って意味だと理解して「アメン」って言ったの~ って感じ
びっくりしました。アメンを聞く印象が俄然変わります。

クムランは二作目も強烈みたいですね
>アリーが徐々に神聖化していく過程、そして圧巻は大贖罪の儀式。
男の世界だぁ~って思いました。
信仰が成り立つ過程を、アリーが神聖化していく過程として、死海文書を通してうまく描写されており、やはり筆者は父親の影響を強く受けているんだろうなって思えました
儀式とか 神聖化の形体(という言い方は変かもしれませんが)はなぜか男性的という印象は確かにあります ご指摘されて 改めて そういう印象をなんで持ってるのかなぁと思いました。

>個人個人の贖罪は神がやり方を決めており、それで罪が消えていってたというのは旧約聖書に書いてあり、それは日本の大晦日と似たようなもの
>月って古代では女神の代名詞。
やっぱり 日本に伝わっていた~?って思ったりしました。
(月の経血で人間は作られたって神話がある。)
一方は祭司の取仕切りで 一方はkigurumiさんの仰るように 女神の代名詞 月ごもりというのは魅惑的なお話ですね・・・・・・・・・・

>でも、日常生活に信仰が入りこんでいて、無意識においてやってしまっているとしたら・・・。
一体化しているわけで、そりゃあ 信仰していると気づかないわなぁ・・って思ったりします。
同感です(_) 無意識に「救われてる」という意識がどこかにあるということかなと思います

お礼日時:2007/12/23 13:15

参考追伸まで


「モーセは超能力持ちだったのですか(!?)」
紅海をまぷたつにして数十万の民をエジプト軍から助けるのですね。
ビデオショップで「十戒」チャールトンヘストン主演の映画ビデオを借りて見るといいですね。
「いつも思うのですが、なぜイエスは青年期だけなんでしょうか?」
少年の日は・・???
少年の日々はエッセネ派の長老についてエジプト・インドなどを旅していたのですね。このあたりはエッセネ派が特殊な団体だったので隠蔽されてしまってますね。あげられている資料など参考に想像するといいですね。
「マグダラのマリアというお方のことでしょうか。」
イエス様が一番愛した女性ですね。弟子の1人ユダは厳格すぎてマグダラのマリアがもと娼婦であったのが気に食わなかったのでしょうね。嫉妬ですね。嫉妬で主をわずかな金で売ったんですね。
エルサレム(城郭)には1箇所閉じられた門があるんですね。この門から救世主が入るという預言の門ですが、その閉じた門の真下にマグダラのマリア教会があるんですね。こんなことからもイエス様が愛した女性であったことがわかりますね。愛の神イエスは過去は問わないのですね。その心しか見ないお方ということがわかりますね。
マグダラのマリアやサロメ、このあたりも隠蔽・隠蔽ですね。
「全然知りませんでした。土の上についていて残っているのですか?」
ローマの駐屯所からゴルゴダの丘(今はギリシャ教会がある)まではかなり遠いんですね。狭い階段道ですから途中の塗りたての壁に手を着いてるんですね。普通十字架を背負って歩ける距離ではないですね。このあたりは映画パッションを見ればわかりますね。そこも教会になってますね。またゴルゴダの丘のギリシャ教会ないにはイエス様を横たえた大岩もそのままありますね。私も触ってきましたが、2000年の思いが伝わってきますよ。
聖書を読んで行ってみることですね。聖書の重点箇所はすべてギリシャ教会になってますから何でものこってますよ。何故ギリシャ教会か?も歴史を学べばわかります。壮大なドラマですからね。更にその壮大な神々のドラマは今も続いていることがわかりますよ。それがわかれば聖書は卒業ですね。
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この回答へのお礼

再度ご丁寧に有難うございます。
>「十戒」チャールトンヘストン主演の映画ビデオを借りて見るといいですね
お勧めしていただきありがとうございます。借りれそうだったのでリストに入れました、相当長いみたいですが・・(汗)
>少年の日々はエッセネ派の長老についてエジプト・インドなどを旅していたのですね。このあたりはエッセネ派が特殊な団体だったので隠蔽されてしまってますね
そうだったのですか。

>私も触ってきましたが、2000年の思いが伝わってきますよ。
聖書を読んで行ってみることですね。聖書の重点箇所はすべてギリシャ教会になってますから何でものこってますよ。何故ギリシャ教会か?も歴史を学べばわかります。壮大なドラマですからね。更にその壮大な神々のドラマは今も続いていることがわかりますよ。それがわかれば聖書は卒業ですね

モチベーションが上がってきたようです(^^;)頑張って歴史も学びます;

有難うございました。

お礼日時:2007/12/22 10:39

正しく聖書を読まなければ、意味がない理解なのでしょうか。



この正しくというのはどのような意味なのでしょうか?
同じ聖書の箇所でも牧師によって違うのですよ~
ローマ人の手紙をコリントの人に読んでもらったらどうなりますか?
イエスの会話で弟子と群集との違いわかりますか?群集には譬えで伝え
弟子には正確にいい、ローマ人には強く、そして律法学者には容赦なくだから相手によって話す言葉が違うよね。だからあなたはあなたで御言葉を受け止めればいいの。
わかるかな~イエスが木の職人で私達は木であって手入れしてくれるのはイエスなの、
だから信じる者は救われるの、そこに条件ありますか?
少女よ安心しなさい あなたは救われた、ここにも条件はないよね
さてわたしの天の父の御心を行う人が・・・
この御心とはなんでしょうか?答えは主を信頼する人です。
私ここにいます。お話ください。と言う態度、これが契約です。
タレントの話し知ってるよね。
神は失うな、だから隠しました。「あんたは偉い」なんて言わない
使って失敗したらまた機会を与えてくれますよ。それを信じるのが信仰なの。信仰は「言葉は神であった」言葉を神の言葉として受け入れ信じ
行う事、契約というのは信じれば、救うという恩寵の契約で律法の契約ではないと言う事。
だから信じるものは救われる。ただ単純に、さて本論からずれてしまいました

旧約なんて本当かどうかわからない。ロマンを持って読んでね。
そうでしょう。鯨の中に入るなんて出来ないからね。

後三浦綾子さん、そして、いしい ひさいちなんかも面白いかな?
どちらにしても、旧約聖書の出来事から何を考えるべきなのか?
見る視点と知識によってみんな変わりますので「正しい」なんてありません。だから仏教においても色々な宗派があるのです。
基本は救われる事、個人の契約です、自分は自分 あなたはあなた
もし契約でないなら同じ文章で済むのだから教会にあてる内容は同じであっていいよね。
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この回答へのお礼

>この正しくというのはどのような意味なのでしょうか?
すでに補足させて頂いております。また、全体の内容・他の回答など少しでも目を通されているでしょうか。
>イエスの会話で弟子と群集との違いわかりますか?群集には譬えで伝え
弟子には正確にいい、ローマ人には強く、そして律法学者には容赦なくだから相手によって話す言葉が違うよね

↓↓↓

>だからあなたはあなたで御言葉を受け止めればいいの

申し訳ないですが少なくとも私には理解できない範囲の域のようです。それなら始めから誰に、律法学者に言ったとか何も把握しないで読んだらいいというか 別にそれ自体は全く障害にならないと思うんですけど・・挫折した友人にも伝えようと思います。

>わかるかな~イエスが木の職人で私達は木であって手入れしてくれるのはイエスなの、
だから信じる者は救われるの、そこに条件ありますか?
少女よ安心しなさい あなたは救われた、ここにも条件はないよね

そうですか。個人の理解と信仰領域までコーチまでして頂き、有難うございます。

>行う事、契約というのは信じれば、救うという恩寵の契約で律法の契約ではないと言う事。
だから信じるものは救われる

イエスに信仰を持っている方は ここまで普通人に 前置きから前提から何から、説明せねばならないほどに、理解されがたい、誤解されてしまうという背景を、私の浅はかさが 察すことができないために、こんなにも不愉快なお礼を書いてしまうのでしょうか。
失礼いたしました

お礼日時:2007/12/22 10:53

#7です。


できるだけ考えながら読むこと(読書の質)と、わからなければ誰かに聞いて自分で考えていては得られなかったことを得ること(読書以外の質)という基本姿勢があれば、聖書だろうが哲学書だろうが本を読むのはそんなに難しくありません。
どんな書物に対しても当てはまる一般論は#7の通りとして、では聖書特有な、なかんずく新約聖書に有効な読み方についての注意というのを付加しましょう。つまり応用ですね。

新約聖書はキリスト教の思想の根幹となるものですが、キリスト教を宣教するために、それが書かれた時点でイエスの思想はすでに歪められてしまっている、と考えた方がよいでしょう。
「契約をはずれるもの→×」という考え方も、キリスト教運営のために必要であったからの後付けなんじゃないの、というのが私の見方です。もちろんこの考え方は、キリスト教という宗教にとってみれば痛い腹と言えるかもしれません。
いずれにせよ、イエス自身はキリスト教の聖書がこんなものになるとは思ってなかったんじゃないかという風にも思います。
ですから、書かれていた時点でキリスト教に都合のよいような文言もわずかに盛り込まれていたりします。その辺を差し引いて読むのも、テクニックです。しかし、そのためには、まず基本的にみっちり読み込むことが大事です。

>異教徒がキリストを迫害するところで
>その時、イエスは言われた、「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです。」

これは読み間違いじゃないですかね。あるいは事実誤認か。
ルカの23章34節のこの箇所の直前を読んでみましょう。

されこうべ(ゴルゴタ)と呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そこでイエスは言われた。

彼らとは、「人々」ですよね。そしてこの人々というのは、群衆です。イエスを「殺せ、十字架につけろ」と叫び訴えた人達です。そして、実際彼らは自分が何をしているかわかっていなかった。時に権威を持っていた大祭司や律法学者たちが、この群衆を煽動したからです。
そして、この群衆というのは、その大祭司や律法学者の言うことを聞くのですから、異教徒ではありません。普通にエルサレムにいるユダヤ人です。つまり民族的には身内です。無知であるゆえにそそのかされた群衆に責任がないのは明白です。だから、彼らをお許し下さい、なのです。
ついでに、身内でない者たちの反応についてみてみましょう。この当時のこの地方はローマ帝国に支配されていましたが、その総督ピラト(当然異邦人)は、群衆がさかんに叫ぶので手を洗い(私には関係ない、責任がない、というジェスチャー)、裁こうとしませんでした。また、そのローマ帝国の百人隊長は、十字架の上に亡くなったイエスを見て「本当にこの人は神の子だった」と述懐しています。
イエスは総督ピラトに引き渡されて尋問を受けたわけですが、その時にこう言っています。

「あなたは、上から与えられていなければ、わたしに対してなんの権限もない。」
実際、ピラトはその地方を委任されて統治しているので、皇帝の命令に従うべき人です。ですからピラトについてもシロだと言います。
さらに続けてイエスは言います。
「だから、わたしをあなたに渡した者の罪はもっと重い。」
ここで罪が重いとされているのは、以前からイエスのことを殺そうと謀っていた者たちです。つまりは律法学者や祭司たちです。
十字架につける権限がない人に対して、十字架につけるように引き渡すよう動いた彼らです。

イエスをピラトのもとに連れていった時、イエスがどういう悪いことをしたのかを尋ねられて、(おそらくこう答えよと教えられていた)ユダヤ人はこのように言います。
「もしこの男が悪いことをしなかったのなら、あなたに引き渡すことはしなかったでしょう。」(ヨハネ)
「わたくしたちは、この人がわれわれの国民を惑わし、皇帝に貢を納めることを禁じ、また自分こそは王であるメシアだと言っているのを確かめました」(ルカ)
ヨハネの方は、具体性に乏しいですね。ルカの方は、事実無根です。貢納については20章20から、メシアであるという言質を引き出そうとして失敗したくだりは20章1からを読めばわかります。
まさか20章が伏線になっているんだとか、そういうことはぼーっと読んでいるとわからないところですけどね。

まあ結論から言うなれば、まだ読み込んでないんですよ。
正しくというより、じっくり読み込まないと、でしょうね。
もちろんマニアになれというつもりはありません。それは全く逆のことですからね。
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この回答へのお礼

再度ご丁寧な回答有難うございます(_)
>新約聖書はキリスト教の思想の根幹となるものですが、キリスト教を宣教するために、それが書かれた時点でイエスの思想はすでに歪められてしまっている、と考えた方がよいでしょう。
「契約をはずれるもの→×」という考え方も、キリスト教運営のために必要であったからの後付けなんじゃないの、というのが私の見方です。
いずれにせよ、イエス自身はキリスト教の聖書がこんなものになるとは思ってなかったんじゃないかという風にも思います

納得です。

異教徒は確かにいい間違いました。パッションで過激に描かれていた部分ですよね

詳しくご説明してくださりありがとうございます
>ですから、書かれていた時点でキリスト教に都合のよいような文言もわずかに盛り込まれていたりします。その辺を差し引いて読むのも、テクニックです
難しいですね・・・・・・・
どう読んだらいいかという意味で参考になりました!

お礼日時:2007/12/22 10:28

No.3です。



★《信仰・宗教的な立場というより、mysteriousな歴史を興味深く学ぶにはどうしたらいいのでしょうか》
――おそらくわたしの見解は これの逆です。同じくわたしの立ち場は個人の信仰のみです。教義・教祖・教団にもとづく《宗教》は御免蒙ります。

★《〈主を知れ〉と言って教えることはない》と預言されているのに 《弟子にしなさい》というように なぜ宣教するのか
――これにも 詭弁を弄します。わたしが このエレミヤ書の文句に気づいたのは ちょうど二千年ごろでした。それまでにも読んでいたはづですが 気づきませんでした。つまり もう宣教は要らないと わたしが気づいたのは すでに 布教・伝道が 世界の隅々にまで行き渡ったあとだったという事情です。
 (たとえば はじめにわたしが信仰を与えられたと思ったときには 自分が 《神の戦士》になると思ったものでした。戦いのための信仰ではないと考えて 《神の国の外交官》に変えました。そのあと いまのエレミヤ書の文句に立ち返ったという事情です。いまは 《春告げ鳥》くらいに名づけています。
 教会に行って 指導を受けなければいけないと思ったこともありましたが けっきょく その水による洗礼は受けずじまいです。今では 教会体制は プロテスタントともども ただちに解体すべきだと考えます。あまりにも人を殺しすぎました。ガリレイさん ごめんなさいではすまないと。二・三百年 様子を見て 再建するなら それもよいのではないでしょうか)。

参照サイトの中では 『ヨブ記』について触れます。

そもそも この信仰は たとえばアブラハムが アブラムと名乗っていたとき 

   主はアブラムに言われた。
   ――あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行
    きなさい。
   (『創世記』12:1)

という声を聞いて そのとおりに旅に出たところから始まっています。 (ここでも 神がかりの嫌疑が掛けられ得ますが)。
 (また 一説として このアブラハムにおいて信仰が始まり そのあと 時を遡って 始祖アダムとエワの時代にまで 観想を重ね 想像力を逞しくして 歴史をたどりつつ物語を得たのだと)。
何故自分がなのか あるいは どこへ行くかも 分かっているわけでなく かれは 七十五歳(同12:4)であったと言います。しかも このときの神の声では

    ――わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あ
     なたの名を高める。祝福の源となるよう あなたを祝福する
     人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上
     の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。
    (『創世記』12:2-3)

といった祝福の言葉も語られ 要するに のちのキリスト出現につながる信仰の系譜に発展する糸が 添えられています。

つまりいまわたしが言いたいことは 《〈行け〉と言われたから 行った》ということ これが 信仰だということです。
 俗にダヴィデだと言われる『詩編』の詩人は 《きょうわたしはお前を生んだ》と言われて この神との関係を歩みます。
 《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》と見知らぬイエスに言われて 漁師のペテロらは 《すぐに網を捨てて従った》(『マタイ』4:18-22)というようにです。

ヨブについても まったく同じだと考えます。ペテロ(弟子の筆頭として そのほかのすべてのキリスト者を含ませて言う場合が多いです)が ただちに声に従うとき それまでに すでに 内面においては 思いが熟していたかも知れないし そうではなかったかも知れません。ついて行ったあとで 真剣に考え 悩み 最終的に決断したという場合があったかも知れませんし そんなことは もう なかったかも知れません。
 ヨブは 要するに これ以上のものがあるかというほどの これでもか・まだこれでもかというまでの試練に遭いこれを引き受けました。心が錆びつきました。文字通り錆びつきました。倒れたところを背中を押されてのように 起き上がりました。《わが神 わが神 なにゆえわたしを見捨てたのか》と 誰かと同じように 叫んだのだと思います。
 でも 友人たちの説く因果応報説には見向きもしませんでした。耳を貸すのは 主の声だけです。そして これだけの話しです。(一般に言って 友人たちの話しに主の声がある場合はあると言わなければなりませんが)。

  《アブラハムは神を信じた。それで かれは正しい人と見なされた》
  (創世記15:6)とあります。
  (パウロ:『ローマの信徒への手紙』4:3)

とパウロが言うとおりに これだけです。
 つまり 信仰は 道徳でもなければ 倫理思想そのものでもありません。掟は ちなみに 《汝の神を愛せ=隣人を愛せ》です。それ以外の聖書の文句としての《文字は〔それにこだわるなら その人を〕殺し 霊は生かす》(パウロ:『コリントの信徒への第二の手紙』3:6)と聞きます。

・・・・あれっ 変なことに わたしは mintowall2さんに 《主を知れ》と言っておしえ始めているのでしょうか。
とりあえず このあたりにて。
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この回答へのお礼

再度丁寧なご回答有難うございます。
回答者さんが個人の信仰をお持ちの方であることは知っておりました。(_)
教団・歴史に関する解釈 信仰の始まりから
>《春告げ鳥》くらいに名づけています
までの経緯、立ち入った事情までご説明して頂き感謝しています。

>教会体制は プロテスタントともども ただちに解体すべきだと
これは若干びっくりしましたが・・。共同体として機能せずに分散して続いていけばよい、続いていけるということでしょうか・・


信仰に関する後半の部分、何も申し上げることがない 完璧なご回答だと思いますので、コメント差し控えさせて頂きます。

宗教を勉強しようと思ったことすらない者ですが 信仰についてはおそらく 考えたのだと思います。
聖書を読むときはもう一度ヨブ記をじっくり読みたいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/22 00:02

>mysteriousな歴史を興味深く学ぶ


それなら、ダニエル書などいかがでしょうか?
バビロンの王が夢の中で見た、金、銀、銅、鉄、粘土と鉄から成る像についての幻とその解き明かし(2章)や、ライオンや熊、豹、十本の角のある獣(7章)、羊と山羊の幻(8章)では、歴史上の強国の興隆についてが書かれてあります。(これらの記述は世界史の教科書と比較しながら読まれるとよいでしょう)
また、11章の、北と南の王についての予言では、バビロンの次に興ったペルシャやギリシャ帝国からはじまって、「終わりの時」(40節)に至るまでの主要な出来事(主に政治的?)が記されていますので、歴史を学ぶつもりでお読みになられても興味深いと思います。特に20節ではローマ皇帝アウグスツス、21節から24節ではティベリウスが皇帝になったいきさつや彼の経済政策について学べるかもしれません。
もしも、これらの内容が難解に思われるようでしたら、神学校を出られて聖書について専門的な知識をお持ちの、神父さんか牧師さんにお尋ねになられれば、きっとわかり易く教えてくださると思いますよ。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございますm(_)m
>それなら、ダニエル書などいかがでしょうか?

不思議な書のようですね、読むときには
是非注意したいと思います!!ありがとうございました

お礼日時:2007/12/21 15:50

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