人生最悪の忘れ物

本当を言えば「理由が正しければ倫理に反してもいい?」を聞きたいです
聖書にも神の命ならば自らの子を殺すのが正しいとされています。
法の下に行う死刑も言わば殺害です
この前テレビで「無罪なら私が殺しに行く」と言っている遺族がいました。
これは一種の殺害予告で逮捕されてもおかしくない状況です(動機もありますし)。
しかし遺族という状況では同情される立場になってしまいます。
しかしそれでは範囲が広すぎるのでタイトル通りにしました。
どうなんでしょう?
「正義のためなら法を破ってもいい」
「どんな事があっても法を厳守するべき」
どちらも正論に聞こえます。
例えをあげると自衛隊は自分が攻撃されない限り反撃は出来ません(というか自衛隊自体違憲ですが)。
もし領海内で日本の一般船舶が他国の船に攻撃されていても自らが攻撃を受けない限り反撃は出来ません。自衛隊法に定めてあります。
果たしてこの状況で自衛隊員はどのような行動をとるべきでしょう?
法を破って自らの正義を遂行するべきでしょうか?法を厳守し同胞を見殺しにするべきでしょうか?
僕は前者はとても危険な考えだと思います。
これが正しいのならもし自衛隊員が「この政府では国が滅び人がたくさん死ぬ!」と判断した場合クーデターも正義になります。
現にクーデターや革命で成功した国も実在します。
僕はここを教えてほしいのです。
己の正義が正義とは限りません。しかし法は決して正義の模範ではなく秩序を保つ為の決まりであるのです。
もちろん正義とは人間によって定められるものではありませんが、一般的な他人を救うというのは少なくとも正義であると僕は思います。
正義の意思か、秩序の法か、人間、国家はどちらを選ぶべきでしょうか?

A 回答 (19件中11~19件)

人々がいて家庭があって町があり、都市があり県があり国があるということでしょう。

法律というのは多くの人々、つまり最大多数の最大幸福を基準にできている規範ですね。従って好むと好まざるにかかわらず全員が遵守すべきものですね。
ただし、「最大多数の最大幸福」が担保されない状態に陥れば法律に反する行動も是とされる場合があるということですね。
個々におきる衝突事項が全体にどのような結果を生じるかは判断が難しいことですが、些細な衝突が全面戦争になる場合も多くあります。
そういう意味で民主主義では順法ですね。
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法は万能ではない以上、やむを得ない場合は法を破ることもあるというのが現実であるということで、


あらかじめ破ってもいいとか絶対厳守するというのとは別の議論です。

やむを得ず破る場合もあるでしょうが、後で本当にやむを得ないのかはチェックされるでしょう。
破ってもいいですが、不運にも後で「やむを得ない状況ではなかった」とされれば判断されれば処罰されるわけで、
それを考慮してご自分で判断するしかないです。
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公務員と一般市民とは分けて考える必要があります。


公務員の場合には、「法の上の平等」という減速があり、ある条件が揃えば他の人間に対しても同様なことをする/しない、義務があります。

ところが、一般市民の場合には、「法の上の平等」によって行為が規制される、ということはありません。特定の対象に対してある行為をする/しないは自由であり、国はこれを制限してはならないのです。

ご質問者は、この公務員の義務と、個人の自由を混ぜて考えていませんか。
公務員の場合に怖いのは、一部の人に限って利便を払うことです。これを見とめると汚職がやりたい放題になるので、国民主権の原則においては、法の上の平等は必須です。
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「正義のためなら法を破ってもいい」


この辺がさっぱり理解できませんが…

正義とは、正しい道義、つまり「人として正しくあるべき道」です。
法を破って成り立つ正義とは、何のことを指しているのか分かりません。

貴方が質問中で言われている「正義」なるものは、真の意味で正義ではありません。
(むしろ平和?ってことでしょうか?)

前提を間違えていると、議論は1点に収束しませんよ。
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>>理由が正しければ(正義の為なら)法を破ってもいい?



歴史をみれば、「正義のため」を旗印にひどい虐殺や犯罪が行われていたと思います。
また、その瞬間には、まわりから見ると、「不道徳・背徳的な行為」と思われていても、後世からみたら、「すばらしい勇気ある行動だった」と評価されることもあります。
キリストの処刑についても、その瞬間の民衆の評価と後世の評価では全然違いますよね。

日本でいうなら、人殺し集団ともいえる「新撰組」は善か悪か?って、これも難しい判断になりますよね?

本当に正義かどうか?の判断がつきにくいものは、世の中に多くあると思います。ですので、最終的には、「私利私欲の為にじゃあなく、皆の為に」と思って行ったかどうか、「動機」を問うしかないと思います。

「自分のためとか全く考えず、国民全員の為に犯罪行為をやった」と神に誓って言えるなら、それによって無期懲役になろうが、死刑になろうが、死後に地獄に落ちようが本望ではないでしょうか?それで、犯罪をやった本人も満足するでしょうし、その犯罪を許せないと思う人も、彼が処罰されることで満足するでしょうから。
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いま例として出されている正義とは


人それぞれが信じる考えに思えます。
それは明確になっていません。
勝てば官軍という言葉あります。
その正義とはあまりにも安定していません。

法とは人が人間であるために、
何千年もかけて作り上げてきた集大成です。
人が作る以上、完全ではなく、
時代に合わせて変化もしますが、
法は正義の下に作られているものです。

それは常に正しいことは
なんであるかということだと思います。

法は個人の考えではなく、
万人が時間をかけて作り上げた正義です。

way909さんの例えられた下記の部分ですが。

法を破って自らの正義を遂行するべきでしょうか?
法を厳守し同胞を見殺しにするべきでしょうか?

"一般的な他人を救うというのは少なくとも正義"
というのは、一時の感情ではないでしょうか。

もちろん私も他人を救うべきであると思います。

ただ法を厳守すれば、見殺しになるのでしょうか。
法の中で対応し、他人を救う判断が現場には必要なんだと思います。

正義の意思と秩序の法は二つに割り切れるものでしょうか。

すいません。わたしからの疑問が多くなってしまいました。

最後にわたしの答えは法を守るべきです。
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心情としては「正義のためなら破ってもいい」と


言いたくなるところですが、やはり法は厳格なルールです。
それを個人的・主観的正義で蔑ろにする事を容認してしまうと、
法治国家の意義を根本から揺るがすことになってしまいます。
「人道的・倫理的行動」と「正義」とは、似て非なるもの。
たとえ人間として立派なことをしたとしても、
法に背けばやはり犯罪者なのです。

クーデター云々に関しては、
そもそも一度立法府と司法を破壊することになりますので
後からいくらでも定義付けが可能です。
平時の問題とは切り離して考えた方がいいでしょう。
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法は順守です



法が全て正しいとは限りません
ですが法は正しい方向に直すことができます
正義であっても法に背き他人を傷つけることはあってはなりません

キリスト教?
残念ですがキリスト教の考え(教え)は法ではありません。
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「悪法もまた法なり」でしょう。



「正義のためなら法を破ってもいい」
一見正しいように思えますが、人の考えはさまざまです。
人間が100人いたら100通りの正義があります。
その行動が正義だと、一体誰が最終的に決めるのですか?
結局「時の権力者の主張=正義」になってしまう気がします。

>「無罪なら私が殺しに行く」
この例で言えば、殺した後に本人が法により裁かれるのが覚悟の上なら、止める理由はないと思います。
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