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白虎隊々士の服装は和装だったのでしょうか、洋装だったのでしょうか。
ウィキペディアの写真の像は洋装のようです。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F: …
白虎隊に相当数の洋装の隊士は居たのでしょうか、それともほとんどが和装だったのでしょうか。教えてください。

A 回答 (1件)

考えられる回答は和洋混在で完全に洋装の人、下半身が和装の人、上下とも和装の人の混在であったとおもわれます。



戦闘には洋装が適していますが、上下とも揃えることが出来るのはかなりの費用が必要であった筈です。

白虎隊は年齢により老年隊、壮年隊、幼年の白虎隊と分別された組織でしたから禄高身分とは別でした。

訓練は洋式軍事訓練でしたから、それに耐えうる服装であれば問題になりません。  

この回答への補足

(1)「白虎隊 中村彰彦 文春新書」の83頁に間瀬源七郎と永瀬雄次の身ごしらえに関する記述がありました。それは次のURLの「会津戦争・白虎士中二番隊の軍装 (41)」の記事と同じです。
http://shinsengumikaden.blog70.fc2.com/blog-date …
この中村彰彦の新書版には、他にも洋装を思わせる記述が散見されますが、白虎隊士がほとんど和装であったという記述は見当たりません。その他のことも回答者さんの回答と同じです。
(2)「人物往来社 会津白虎隊のすべて」の間島勲氏や前田宣祐氏によれば二番隊十九士中、大部分の人が洋装または和洋混成であった、とのことです(個人ごとに身なりが出ています)。その他の本も読んでみましたが、洋装を思わせる記述はありますが、それを否定する記述はありませんでした。
(3)地元教育委員会学芸員の話に寄れば、和洋混成はたしかであり、隊士や関係者で長命な人は昭和の初めまで生存していて、史料は多いとのことです。

以上、質問者もこのサイトの読者に対する責任があるかもしれませんので、余計なことかも知れませんが調べてみました。

補足日時:2008/01/05 14:28
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど、三種類の混在ですか。うなづけるところですね。
>上下とも揃えることが出来るのはかなりの費用が必要・・・そうでしょうねえ。洋服が安くなったのはごく最近のことです。昭和30年代頃まではひと月働いて、背広が1着やっと買えたような状態でした(ほとんどがオーダーでしたが)。幕末の洋服は滅法高かったでしょう。
それと、和裁しか知らなくても「頭が良ければ」簡単な洋服は縫えると、83歳になる姉が言っていました。戦後、物のない時代に和裁しか習っていない姉に、軍服地でジャンパーを作ってもらったりしました。型紙があればいいし、なくても現物サンプルの糸を抜いてパーツごとに分解して、その通り裁断し、真似して縫えば、似たようなものができるそうです。生地が分厚いと大変らしいですが。「頭が良ければ」というのは、立体のものから展開図がパッとひらめくような人という意味でしょうかねえ。
まあ、わかりませんが、母親や姉に洋服を縫ってもらった人がいたかもしれません。
>訓練は洋式軍事訓練でしたから・・・そうなんですか。下が袴であれば何とかなるでしょうし、洋服ならば文句なしというところなんでしょうなあ。
いずれにしても現地のシンボル像はどう見ても洋装です。こういうものにウソがあると地元の恥でしょうね。大変勉強になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/30 20:09

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