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 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が中心になるとは思いますが、天国や天使(み使い)といった概念を持った宗教の教義に関して質問です。

1、人間は死んで天国に生まれたら天使になるのでしょうか??それとも、天国の住民であっても天使とは違う者と扱われるのでしょうか??

2、また、天国に行った人間はどのような形で、人間界と関わりを持つとされているのでしょうか??それとも、天国に行った人間はこの世と関わりはもてないのでしょうか??
 
 天国や天使といった概念は、ギリシアや北欧の神話などが混ざり合って作られていると聞き及んでおります。ですから、一概にこうとは言えないものであると思いますが、どうぞよろしくお願いします。また、出来れば聖典や論書ような教義的な根拠を提出しながら、お話していただけると嬉しいです。無知な質問であるかもしれませんが、なにとぞご容赦ください。

A 回答 (20件中11~20件)

 No.4です。


 わたしの知識の先輩は アウグスティヌスです。引かせていただきます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ところでここに天使についての或る問いが生まれる。たしかに天使は神を楽しんでおり 幸福である。われわれも神を楽しんではいるが 地上の生においてはあるいは《鏡をとおして》 あるいは《おぼろげに》(コリント前書13:12) 神を楽しむにとどまる。その限りにおいてこのさすらいの旅をせいぜい我慢して終わらせようと熱烈に望んでいる。けれども天使の愛も例の二つの戒めに属しているかどうかを問うことも道理に合わないことではないであろう。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    *《二つの戒め》とは 次のようです。

    《あなたの主なる神を心をつくし 精神をつくし 思いをつく
    して愛しなさい》(マタイ22:37)。また《あなたの隣人
    をあなた自身のように愛しなさい。この二つの戒めに律法と預
    言者のすべてがかかっている》(マタイ22:39-40)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・
 隣人とは今必要としているときにはあわれみの義務を負い 将来万一必要なときには義務を返す人のことである。そこからこんどはわれわれに対してあわれみの義務を果たしてくれる人が われわれの隣人であるということにもなる。・・・〔けれども〕同じ主が《あなた方の敵を愛しなさい。あなた方を憎む人々にもよくしなさい》(マタイ5:44; ルカ6:27)と言われる時 この戒めが敵にまで及ぶとしたら あわれみの義務がすべての人にあてはまることが分からない人はいないであろう。

同じように使徒パウロも教えて言う。

   《姦淫するな 殺すな 盗むな 貪るな》。その他どんな戒めがあっ 
  ても《あなたの隣り人を自分のように愛せよ》のひとことにまとまるか
  らである。。愛は隣人に悪を行なわない。
    (ローマ書13:9-10)

 ・・・
 さらにあわれみのつとめをだれに果たすにせよ誰から受けるにせよ この相手の人は正当にも隣人と呼ばれる。(* これは 信仰の有無を問わないという意味のようです)。隣人を愛するようにわれわれが命ぜられているこの戒めの中に 聖なる天使も含まれていることは明らかである。天使は聖書の随所に容易に認められるあわれみのつとめを われわれに対して果たしている。
   (* このあたりが 天使と生者とのかかわりのシステムの一部
    でしょうか)。
 こういうわけでわれわれの主である神はみづからわれわれの隣人と呼ばれることを望まれた。というのは主イエス・キリストは 旅の途中で強盗のために害を受け そのまま放置され半死半生で横たわっていた者を助けた人にご自身をなぞらえたからである。(* =善きサマリア人の物語:ルカ10:25-37です)。
・・・
 けれども神の本質は卓絶したものでわれわれの本性を超えているのだから 神を愛するようにとの戒めは隣人愛と区別されねばならない。神はたしかに われわれに対して神のよさの故に あわれみを示し給う。けれどもわれわれが互いにいたわるのは われわれのよさのせいではなく神のよさのせいである。つまり神はわれわれが神を楽しむことができるようにあわれんでくださる。。しかしわれわれが互いにいたわりあうのは われわれを楽しむためではなく神を楽しむためである。
 (アウグスティヌス:『キリスト教の教え』加藤武訳vol.1ch.30)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 最後のあたりをも引用しましたのは われわれ人間の自由意志 これは 否定されるということではないのですが この人間の意志をも 神の意志は 凌駕しているということを 言おうとしているのだと思います。隣人を愛するというのも われわれが 自分の意志で その考えをもって おこなうのですが その愛が達する(あるいは 実現する)のは 神の愛にもとづいているというのだと思います。
 言いかえると 少し乱暴な類推になるかも分かりませんが 天使の愛の務めも 最終的には 神の意志によって 支えられている。もしこうだとしますと 天使と生者とのかかわりのシステムも すべては 神の思いによっていとなまれていると捉えるべきかと思われます。
 別様には 最終的に 人間の意志の自由が立てられるというふうにも聞いていますが(――《真理は きみたちを自由にする(ヨハネ8:32) / 最後の敵として死が滅ぼされます(コリント前書15:26)》――) それでも すべては 神のあわれみのもとにあるという理解になっていると思います。(ということは 天国と地上との関係のシステムは われわれ人間には 分からないというのが 実情であるかとさえ思われます)。
 もう少し 調べてみます。
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この回答へのお礼

 何度もありがとうございます。お世話になります。
>>隣人を愛するようにわれわれが命ぜられているこの戒めの中に 聖なる天使も含まれていることは明らかである。天使は聖書の随所に容易に認められるあわれみのつとめを われわれに対して果たしている。
なるほど、確かに天使が我々と関わりを持っていることが示されていますね。多くの方々のご意見を読んで「人間→天使→現世の人々との救済」という形も存在しうるということはなんとなく分かってきました。
 ただ、今度は逆にカトリックやプロテスタントといった主流といわれる教団はこの原理には否定的なようですが、それを否定する要因をご存知であれば教えていただきたいです。なんだか好奇心に任せて無理難題をおしつけているようでもありますが、なにとぞ容赦ください。

お礼日時:2008/01/14 17:38

1,2の質問に答える教義も知らず、出典もわかりませんが、


悪魔は神様の2番目のお気に入りの元天使で、
神様の一番のお気に入りになりたくて嫉妬して悪戯したので、
怒った神様が地上に落とした堕天使なのだと聞いたことがあります。
神様も贔屓があったり、負けず嫌いな天使とか
愛憎に染まった人間臭~い話です。
それほど嫉妬を大罪としたようですね。

**************************************************************

○天使(アラン定義集より)

これは使者、幸福な使者、待たれた使者、歓迎される使者である。
天使は老いたものではない。ただ、彼は新しい時を告げる。

天使は裁かない、天使は赦しもしない。彼は喜んで与える。
彼がもたらすものは証ではない。それは一つの音信(おとずれ)である。

「こんなことではいけない」
と、彼はあなたの髪を直すのと同じように単純に言う。

「あなたは呪われてもいないし、悲しんでもいない。
あなたは無用なものでもないし、勇気を欠いてもいない。
私があなたにそれを言うのは、それを知っているからだ。
ところが、あなたにはそれがわかっていない」

天使は論議しない。

**************************************************************

○天使(夢分析事典より)

天使そのものは、幸福、平和、愛情の象徴となっています。
とはいえ天使が登場する夢は、あなたが有頂天になって、
周りの人への気配りを忘れているのではないか、
という警告のメッセージになっています。
そうでないとすれば、心身ともに相当疲れているという暗示です。
日常生活からはるか遠いところまで逃げ出したい、と感じているのです。

**************************************************************


○その日の天使(恋は底力~power of love~/中島らも)

"the day's divinity, the day's angel"〈その日の神性、その日の天使〉

一人の人間の一日には、必ず一人「その日の天使」がついている。
その天使は、日によって様々の容姿を持って現れる。
心・技・体ともに絶好調のときには、これらの天使はみえないもののようだ。
逆に、絶望的な気分におちているときには、この天使が一日に一人だけ、
さしつかわされていることに、よく気付く。

こんなことがないだろうか。
暗い気持ちになって冗談にでも“今自殺したら”などと考えている時に
とんでもない知人から電話がかかってくる。
或いは、ふと開いた画集か何かの一葉の絵によって救われるようなことが。
それは、その日の天使なのである。

**************************************************************


すみません、宗教の教義と言えないものばかりで、
個人的な解釈(定義)に添って「天使」を集めてみました。

「天使」は修飾された表現で「ふっと心を軽くされた」り、
「蓄積した複合した汚れを善悪に分けずに一気に中和させ洗い流されたよう」
な、感じ方をした瞬間「君は天使だ!」
という表明がされたり見えてくるものだと思います。

「君は天使だ」と言われたこともあるし、
「生きる資格がない」「人間としておかしい」とも言われたことがある私;
人生は「乗り合わせ」と「タイミング」のバランス感覚も必要のようですね。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 私は仏教とですから、
>>「天使」は修飾された表現で「ふっと心を軽くされた」り、「蓄積した複合した汚れを善悪に分けずに一気に中和させ洗い流されたよう」な、感じ方をした瞬間「君は天使だ!」という表明がされたり見えてくるものだと思います。
こういった場合、「君は観音様だ。」ということになるだろうと思います。「天使だ」というほうが、現代人には伝わりやすいかもしれませんがね。
 いろいろ天使ということについての定義、ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2008/01/14 16:39

天使と言う言い方は疑問ですが一部の人は霊体として神と取次ぎまたは導くものとしてなりますね。

(カトリックのマリアに対する祈りがそうでしょう。)
私達は永遠の命を持つとされてます。また黙示録の中にあるあように
神の軍勢として加わる事も可能です。だからこの世と天国との架け橋になるという考え方もあっていいと思います

体は死んでも霊として私を助け保護する天使の役目をされる方もいるみたいです。

王は言った。「恐れることはない。それより、何を見たのだ。」女はサウルに言った。「神のような者が地から上って来るのが見えます。」
サウルはその女に言った。「どんな姿だ。」女は言った。「老人が上って来ます。上着をまとっています。」サウルにはそれがサムエルだと分かったので、顔を地に伏せ、礼をした。
この時サムエルはこの世にいません。

また一部だけでは理解できませんが
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。

しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。・・・
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 確かにマリア信仰というものを考えるとそういったことが言えるかもしれませんね。ただ、マリア信仰はキリスト教の教義によって神格化されたというよりは、地の神ガイヤなどの地母神信仰とのかかわりによるところが大きいように思うんですよね。ですから、教学的な部分で考えたときにマリアが神との取次ぎ役になれたのだから、人間全てがそうなれるというのは乱暴なようにも思います。

>>体は死んでも霊として私を助け保護する天使の役目をされる方もいるみたいです。
この考えは、ギリシャ正教なんかで言われる守護天使の考え方ですかね??そういった天使も、亡くなった方という印象よりも、私の知識不足かもしれませんが一応名のある天使じゃなっかったでしょうか??

>>墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。・・・
私もこの部分はきいたことがあります。しかし、私が聞いた解釈としては「地震によって遺体が起き上がった」というような意味だと聞いたのですがどうなんでしょう??

 ご回答を読んで関わりを持ちうるということは分かりました。しかし、その教義的な裏づけのあるシステムが分かりません。まだまだ勉強不足のものの、愚問かとは思いますが教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

お礼日時:2008/01/14 13:37

ラテン・キリスト教(カトリック・プロテスタント)以外には、あまり詳しくないですが、人間が天使になれるという教義は無かったと思います。



旧約・新約両方の聖書に出てくる天使はミカエルとガブリエルの二人だけです。
また、カトリックの正典『トビト書』を加えてもラファエルが加わり三人になるだけです。
他の天使達は、外典・偽典に出てくるか、民間伝承の神が天使と見なされた場合に限ります。
ここから、あくまでも天使とは神の御使いであることが解ります。

>1、人間は死んで天国に生まれたら天使になるのでしょうか??それとも、天国の住民であっても天使とは違う者と扱われるのでしょうか??

キリスト教では、天国に入った人は「最後の審判」の時に復活し神の国にあげられると考えられています。
復活というのは、「肉体を持つ」と言う意味です。
煉獄に行った人は、罪を清めれば天国に入ることが出来ます。
地獄に行った人は、復活することはありません。
(※これはカトリックのイメージであり、このイメージを確定的にしたのがダンテ『神曲』です)
つまり、天国とは「神の国」に入ることが許されている人が一時的に住まう場所なのです。

>2、また、天国に行った人間はどのような形で、人間界と関わりを持つとされているのでしょうか??それとも、天国に行った人間はこの世と関わりはもてないのでしょうか??

う~ん、あまりこういった教義は聞いたことはありませんね。
でも、ダンテの『神曲』でダンテを導いたのはベアトリーチェとその名を受けたウェギリウスですし、それを考えると、なんらかの形で関わりを持つこともあるでしょうね。
他にも、文学作品などで死者が生者を導くというのは多々見受けられますし。
まぁ、天使に導かれるより生前に親しかった人に導かれたいというのが人情なのでしょうか。

参考URL:http://www.angel-sphere.com/index.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。沸かしやすくそして詳しく説明していただき感謝します。URLも参考にさせていただきます。
 私は民間信仰(自然宗教・自然発生的にうまれた宗教)と創唱宗教(仏教、キリスト教等の教祖がはっきりしている宗教)はある程度分けて考えるべきではないかと思っています。しかし、現在では二つがお互いに交じり合い分けて考えることが出来ない部分について、教学としてはどのように対応しているのかなと思ったわけです。問1に関しては多くの方々の回答でおぼろげながら輪郭は見えてまいりましたが、問2がまだはっきりしません。
 カトリックの教義をよく表しているとされていますが『神曲』を基準に、教学を考えてよいものなのかという疑問もあります。
>>他にも、文学作品などで死者が生者を導くというのは多々見受けられますし。
>>まぁ、天使に導かれるより生前に親しかった人に導かれたいというのが人情なのでしょうか。
というご意見私も分かります。仏教ではそういったことが教義的な裏づけの元システムとして理論構築されています。けれども、キリスト教の教義ということになると、まだはっきりしません。
 なんだかお礼というよりは、私のぼやきになってしまいましたね。もうしわけないです。けれども、参考になるご意見ありがとうございました。また、何かお気づきの点ありましたら教えてください。よろしくお願いします。

お礼日時:2008/01/14 12:43

No.5です。


追記です。書き終わってこの問題に関する決定的なのを思い出したので。

旧約聖書外典(続編。新共同訳聖書についてきます)

それを読んで好きなように判断してくれればいいのですが。

トビト記に
天使ラファエロが出てくるのですが、その5章に

「ラファエロは答えた。『わたしはイスラエル人で、あなたの同族の
者です。仕事を見つけにここに来ました。」
「ラファエロは答えた。『はい、わたしは度々メディアに行っており、
どの街道もよく知っています。メディアに行った時に、その地方の
ラゲスに住むわたしの同族のガバエルの家に何度か泊まったこともあります」

天使がどうしてこんなこといったのか。嘘をついたのか、本当なのか。
所詮は、外典か、作り話か。それとも一種の「方便か」
まぁ、神のみぞ知るということで。
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この回答へのお礼

 続けてありがとうございます。
 私自身が、キリスト教初心者で「外典」がキリスト教徒の中でどのように扱われているのかということを、よく知りません。自分でも調べてみますが、教えていただけると助かります。よろしくお願いします。

お礼日時:2008/01/14 09:02

人間の歴史は伊達ではありません。



まずは定番、マタイ22章29節
「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」

これをどう解釈するか。

カトリックだと人間と天使は違います。
プロテスタントもルター派とカルヴァン派も違います。

イスラム教もコーランによれば違います。
正統派はあくまでガブリエルはガブリエルです。

さて、正統派は。です。仏教も一緒だと思うのですが
限りなくまっとうだけど異端として退けられたものや、
歴史上は存在したもの。そして、新興宗教、カルト
どこまでをそのカテゴリーにするかによりますが、

はっきりいって、キリスト教界にも人間は死後、天使になれるや
それどころか神になれると、大真面目に言うところもあります。

まぁ、仏教において左道密教を標準扱いすることには
無理があるでしょうから・・。それと同じようなものですが。

それが論外だとしても、扱いのやっかいな神秘主義というのもあります。

ユダヤ教だと正統派はもちろん天使は天使なのですが
エノクの存在がこの系統の筆頭に上がります。

「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」
創世記5章24節

あと、預言者たちが神と顔合わせて声まで聞いています。

で、預言者は死んだ後、天使になると言う考えが
神秘主義の定番にあります。カバラとか。

天使メタトロン=エノクというわけです。

特定の人間ができるなら全ての人間ができるという感じに思想が
広がるのは世の常で。神秘主義から行けば可能です。
密教みたいなものです。さすがに神は不可能ですが、天使には。

で、だから
1、人間は天使になれるとも言えるし言えません。
2、死後天使になって戻ってくるという神秘主義系統なら死んだ人間も
人間界にやってきて、あれこれやります。
正統派は行ったきりです。ずっと死後の審判待ちです。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。一神教初心者の私にも読みやすい簡潔で分かりやすい文章で助かりました。
 なるほど、確かに神秘主義、オカルテェイズムといっても良いのかもしれませんが、確かに厄介ですね。私個人の意見としましては、キリスト教に属している人が、自分の先祖(先祖という表現が正しいかはなんともいえませんが・・)が天使となって夢に現れた等の神秘体験をしたとしても、キリスト教教義に基づいていなければ、宗教的経験にはならないと思うんですよね。そういった自己の神秘体験を基礎において、宗教というものを考えるのは、私の好みの問題なのでしょうが好きにはなれませんし、宗教的経験とは呼べないと思うんですよね。
 そういった観点から考えるに、正統派と呼ばれる方々はどちらかといえば教義を基礎にしていると考えてよろしいのでしょうか??そうであれば、教義によれば人は天使にはなれないし、天国の住人となったとしてもこの世にあれこれ関わることはできないということでよろしいでしょうか??
 私自身が確かめておきたかったことを、学ばせていただきました。ありがとうございました。また、何かありましたらよろしくお願いします。

お礼日時:2008/01/14 09:00

 ご同朋の愚禿b...さん お久し振りです。

その節はたいへんお世話になりました。とても感謝申し上げております。これからもよろしくお願い申し上げます。

 さて 
★ 1、人間は死んで天国に生まれたら天使になるのでしょうか??
☆ との問いに際して 思い浮かぶのは 

   復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
   (『マタイによる福音』第22章23節)

です。イエスが直接に語っているところです。
 ですが b...さん 天使という主題については わたしは からっきし 無知です。と告白して ご勘弁をこうむらせていただくよう伏してお願いするほかございません。
 残念ながら 自分で関心を持って調べたことがありませんし ましてや わたしは キリスト者ですが 組織に属しておらず 神学も 神学として 勉強したことがないのです。

・上の引用文についてつけ加えることがあります。 アウグスティヌスが言うには 人が《復活の時には・・・天使のようになる》のだが 男女の性はまだあるのだと。なぜなら 《めとることも嫁ぐこともなく》という表現が用いられているからだと言います。
 その他 このことについて 確かな知識は ないと申し上げざるを得ないという情けなさです。
 〔《復活》については 《真理がすべてにおいて すべてである》(≒『コリント前書』15:28)と捉え 死後の問題とはわたしは考えていないという事情にあります〕。

☆ 天使ということで 思い出すこと・少しはあれそれと考えたことを つづらせていただきます。
☆ ひとつには パウロが わたしたち人間が 天使をも用いるのだと言っているところです。
   
   ・わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。
    (『コリント人への第一の手紙』6:3)

   ・天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになって
  いる人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
    (『ヘブル人への手紙』1:14)
   ・神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせ
  るようなことはなさらなかったのです。
    (同上 2:5)

 天使が人間より優れた存在であることをくつがえすことなく そうであるというのだと思います。
 
☆ 天使と聞いて 単純に思い出す文句は

   だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
  だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大し
  たことではありません。
    (『コリント後書』11:14-15)

です。単純にです。

☆ 天使のギリシャ語《アンゲロス》もヘブライ語《マルアク》も 共に《使者》の意だそうです。
 《ミカエル Michael 》という名の天使がいるとされていますが これは 
 《 Who ( Mi- ) 〔 is 〕 like( -cha- ) God( -el ) ?  
  = Who exists as God ? 》
という文から成っているそうです。《人間で神のごときは存在するのか?》と言うのであれば――この言葉じたいは 人間のものですが―― あたかも神からの使者が言っているかに感じられます。

☆ かのモーセが 十戒を授かるとき 神の声とともに 天使に出会うというようでもあります。

   〔エジプトを脱出して 放浪生活が〕四十年たったとき、シナイ山に
  近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れま
  した。
    (『使徒行伝』7:30; 『出エジプト記』3:2)

こうなのですが 天使の現われていない箇所も見られます。たとえば かのアブラハムの場合に

   ・主はアブラムに言われた。
   ――あなたは生まれ故郷 父の家を離れて 
     わたしが示す地に行きなさい。
   (『創世記』12:1)

  ・主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラ  
  ハムは天幕の入り口に座っていた。 目を上げて見ると、三人の人が彼に
  向かって立っていた。アブラハムは すぐに天幕の入り口から走り出て
  迎え、地にひれ伏して・・・
    (『創世記』18:1-2)

というようにです。前者は 声(ひらめきの如き)でしょうし 後者は 訪問者としての人です。また パウロの回心の場面でも

   ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天から
  の光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、
   ――サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。
  と呼びかける声を聞いた。
   ――主よ、あなたはどなたですか。
  と言うと、答えがあった。
   ――わたしは、あなたが迫害しているイエスである。・・・
     (『使徒行伝』9:3-4)

(《主よ》と呼びかけているのは 見知らぬ人への敬意からです)。
 何が言いたいかと申しますと 存在するのは 人と神とであること。その仲介に 天使という考え方も現われていると思われること これらです。
 観音菩薩が 先に《観世音》ととられたように 世音を観ずるというのならば この仲介としての天使に似ていると思われます。(世音→ブッダ→世音→わたし)。仲介は 表現の綾だとさえ思われるのですが。
 
 神学にくわしい方の教示があるといいですね。
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この回答へのお礼

 どうも、その節はお世話になりました。回答ありがとうございます。
 キリスト教教学において亡くなったとどうなるか?ということに関しては、
>>復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 (『マタイによる福音』第22章23節)
という言葉が、やっぱりこれがキーですよね。
 お答えの中の、
>>〔《復活》については 《真理がすべてにおいて すべてである》(≒『コリント前書』15:28)と捉え 死後の問題とはわたしは考えていないという事情にあります〕。
ということですが、古代人とてそんなに馬鹿ではないと思うんですよ。死後の世界があると、しておくことにも何らかの意義があると思うんですよ。現代人はえてして死後の世界は無いという回答を持ちたがりますが、古代人とてそういった現世主義のようなものがあったと思うんですよ。それを退けて、死後の世界があるという思想が主流になっていたのは、それなりの理由があると思うんですよね。どう思われますか??
 問1に関してや天使に関しての回答は参考になるものばかりでした。ただわがままを言えば、問2に関してのご意見伺いたく思います。ご存知の通り私は仏教特に浄土教が専門ですが、浄土教においては前回に回答したとおり、「還相回向」という浄土の住人が生者と関わるシステムが明かされていますが、天国の思想においてはそのようなシステムは明かされていないのでしょうか??ご意見伺いたく思います。
 キリスト教初心者で、支離滅裂なことを言っているのかもしれませんが、ご意見聞かせていただけると嬉しいです。
 

お礼日時:2008/01/13 17:00

>「人→天使」という教義はありますか?



人が天使になるってことでしょうか?
天使が何を意味するのかにもよりますが、仏教で悟りを開くと生き仏になるっての あったような気がします。

聖徳太子ってのは名前じゃなくて肩書きだと思いますが、外交官も大使って呼ばれますよね。
本名じゃなく肩書きで、公的任務を帯び、または特命を帯び、外国に派遣される最高位の外交使節。

日本って襲名って制度がありまして、ずっと名前を後の認められた人が襲名により名乗るようになり、それを名前だと思うと、人間の寿命をはるかに超えて生存しつづけているかのようになる。

で、世界最古の文学がありまして、最初は天も地も無かったのですが、アプスーとティアマトが支配しており、二人からラフトとラハムが生まれ、その二人から、アンシャルとキシャルが生まれた。
アンシャルは天上の属するものの精霊であり、キシャルは地上に属するものの精霊で、この二人から生まれたのが、アヌ(天の神)、
アヌの息子がエア。
と聞いて、アンシャル? エンジェルの元の語彙?って思ったんですね。


で、何代目かでマルドゥクがティアマトを倒して、八つ裂きにして、その八つ裂きになったティアマトの肉体で天と地を造った。
つまり原初に原初の最初の生み出すものを殺して、この世を作ったってわけですね。

で、その後、神々はマルドゥクに小言を言った。
「あなたは私達に受け持ちの場所を割り当て仕事を決めてくれたけど、私達が仕事をしている間、私達のために働き、私達を養うものを決めてくれなかった。
一体だれが私達の家事をみたり食事の用意をしてくれるんだ」

マルドゥクはしばし考え、「そうだ! 血と骨で小さな雛形を作ろう。それを人間と呼ぶのだ。神々が自分の仕事をする間、人間が神につかえ、神の用を果たせばよい」と思いついた。

でも年老いた神エアは「新しい血や骨でつくる必要はない。謀反人どもを使えばいい」と言って、マルドゥクとティアマトの戦争の時、ティアマト側にいた兵士に、この中で誰が戦争の張本人だと問いただし、彼らは「キングーが全てを計画した」って答えた。
キングーは引き出され、八つ裂きにされ、その骨と血で神々に仕える人間を作った。
マルドゥクに感謝した神々は、バビロンの町を作り宴会し、全世界に通ずる起きてと、運命を宣言し、ティアマトを倒した弓を取り、誰もが見られるように大空にかけました。
そして今日までこれらのことはづっと続いている。
人間は神のしもべです。
これを人間は虹と呼びます。
人間か虹を見るたび、神の掟をどこにいても確認できるようになったというわけです。
つまり神の掟=人間は神のしもべ。


キリスト教ではこの虹を神との契約だとしています。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%95%E5%A4%A9% …
『自由な意思を持つ天使たちに自分から従おうとする服従心など無かった。結果として、彼らは天界から追放され地上まで堕ちた天使は人間に、またさらに深く堕ちた天使は悪魔になった。 ちなみに、この説によれば人間は天使になれるとされ、悪魔は天使に戻れるとされている。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AA% …
『天使から人間へ成った初めての者
ウリエルは『ヨセフの祈り』の中で『わたしは人間達の中で暮らすため地上におり、ヤコブという名で呼ばれる』という奇妙な言葉を述べている。メタトロンなど人間から天使へ成った者はいるが、その中でもウリエルは記録の中では初めての者であると解釈できる』

おや メタトロン?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF% …


『エノク書ではメタトロンはエノク本人であると伺わせる記述がある。


確かにエノク書を最後まで読むと、それがエノク本人のことだとわかるのですが、、、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8E% …

エノク どこいっちゃったんでしょうね。

そもそもですね。 神というものに定義がなく、天使というものをあいまいなんです。
ケルビムは神の御使いとされますが、その形状を見ると、鷹のこと?って思えるんですね。

ツタンカーメンのマスクを見るとわかるのですが、蛇が頭に生えていますよね。

さらに
http://www.fitweb.or.jp/~entity/seisho/kerubimut …
『ヨハネ黙示録においては、神の玉座の中央とその周りには四つの生き物がいて、第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった(黙4:7)。』
というところからあうように、これ、古代のエジプトの王様のことじゃないかと。
エジプトのマスクによっては顔に鷹生えてますし。

相当な知恵者じゃないと、庶民を統率できませんので、庶民とは違う人間離れした存在として神格化されていったんじゃないかと。
で、彼らは神ともされ、いつの日にかまた地上に戻ってくると信仰され、血抜きされミイラとして肉体を保存されたわけですよね。

ということを考えると、古代のファンタジーというか、信仰というものがあり、それがやがて赤ん坊に羽が生えている天使ちゃんになっていったんじゃないかと。

ノアだって伝承だと天使の血を引くもので、奥さんも天使系だってなっています。
純粋 つまり 神のしもべとして適合したって解釈だと思います。
酒飲んですっぽんぽんだったわけですが、この状態を無垢とされたんですね。
息子たちは知恵があり、恥ずかしいとノアに服を着せようとして、ノアは激怒して、二人の息子を呪ったことになっています。
でも 純真無垢だったんじゃなく、ズボラな酒好きのおっちゃんだっただけじゃないかと。。。。

ある人によると、子供とかホームレスとかニートの人こそが、天使や神に最も近い人である としているんですね。
俗世間の価値の外に住んでおり、ある意味俗世の人たちじゃないわけで、もうちょっと俗世さを切り捨てれば、神やら天使やらになれるかもしれない。

それは俗世を捨てて山や寺に篭る人も、そういう目的 つまり解脱を目指していたんじゃないかと。

ということで、、、、、
頭をまるめて山に篭る。
日本のお坊さんは結婚しますが、他の仏教国からすれば、俗世的な状態なので、解脱を選んでいないってことになるそうです。

で、俗世を捨てずに悟りを開けるか?
どうなんでしょうね。
まず 悟りを開く必要性が私よくわからないんです。
苦からの脱出だとしたら逃げだし、苦を受け入れると楽だし。

ねぇ。。。。

ということで
1.死んだら終わりです。 一回きりなんです。
じゃなきゃ ゾンビみたいに復活するのなら、殺人もオッケーなわけで。
人の命を軽んじることになってしまう。
キリスト教もイスラム教も神のため死ぬことは、神様が喜ぶことだとして、侵略戦争を支持したり、自爆テロを指示しますが、そういう教義があるから、殺しをするわけですよね。
で、あなたも死後の世界があり、そこで報われるために殺すことも必要だとするのなら、、、、人殺せます?
自分のために人殺せます?
そこまでするほど無垢(愚か)じゃないですよね。


2.まず、天国ってなんでしょう?
キリスト教の聖書ではイエスは「天の国が到来した」っていってますよね。
2千年ほどまえに既に天の国は地上に到来完了したことになっています。
どこ行くつもりですか?
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 ティアマトの神話(『エヌマ・エリシュ』)の話は私も簡単には勉強したことがあります。確か19世紀ごろに解読されたものだと記憶しています。
>>キリスト教ではこの虹を神との契約だとしています。
というのは、『エヌマ・エリシュ』の世界観を受容したキリスト教が存在しているということでしょうか??それとも、「虹」というものを『エヌマ・エリシュ』では神との掟が確かめられるものとして扱われているように、キリスト教においても神との契約の証として扱われているということでしょうか??
 多くのご教示において、人が天使になることができるという教義も宗派によっては成立しうるということよく分かりました。
 ただ、お聞きしたいのは問1の
>>死んだら終わりです。 一回きりなんです。じゃなきゃ ゾンビみたいに復活するのなら、殺人もオッケーなわけで。人の命を軽んじることになってしまう。
という回答は、個人的な心情なのでしょうか??それともそれを明確に示している宗派があるのでしょうか??
 問1の後半に関しては、私自身はなんともいえませんね。もし日本がもう一度日本がもし一億総動員の翼賛体制になったら、そのときもその信念が貫けるのでしょうか。特高に付けねらわれて「アカ」「非国民」とののしられ、逮捕され拷問させる。・・・自分ひとりが犠牲になるならそれも堪えられるかもしれません。でも、家族親戚にまでその手が伸びるかもしれない。それでもそれがつらぬけるか?? 私ははっきりいってそれが出来るほど強い人間ではありません。私は戦争には反対ですし、人も殺したくないと思っても、拷問に耐え、家族まで巻き込んで、自分の信念を貫けるほど強い人間ではない。多分そのような状態になったら裏では文句を言いながら、表では国家を賛美するでしょうね。自分のために人も殺せるかもしれません。そんな私には、あの方々を生命倫理云々という道徳的な問題だけで、批判することは出来ません。
 問2に関しては、
>>キリスト教の聖書ではイエスは「天の国が到来した」っていってますよね。
という言葉は聞いたことがあります。kigurumiさんの文章によると、この世が天国であるということでしょうか??またそういった教義を打ち出しているキリスト教宗派はあるのでしょうか??
 分からないことだらけで申し訳ありません。どうぞ教えてください。

お礼日時:2008/01/13 10:14

 1、人間が死んですぐに、「天国」に直行できることはまずないようです。


イエスキリストとか、「よっぽど」すばらしい人でないと...。
聖書にヒントがかくされています。図書館にもありますし、1度よんでみたらいかがでしょうか。
 2、天国にいる人達とも、その間にいる人達とも、どのひともみえないところでつながっています。夢の中にあらわれて、何かを知らせてくれる場合もあるし、いわゆる「霊感」の高い人は、見えたり、聞こえたりする人もいるので、コンタクトがとれるようです。きっと、あなたのまわりにもみ守ってくれている人(霊)がいるでしょう。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 死んですぐに天国には行けないとはどういったことでしょうか??私も聖書は旧約・新約ともに目を通す程度ですが、読ませていただきましたがよく分かりません。どのへんに書かれているか、お教えいただきたいのですがよろしくお願いします。
 また、問2の
>>天国にいる人達とも、その間にいる人達とも、どのひともみえないところでつながっています。夢の中にあらわれて、何かを知らせてくれる場合もあるし、いわゆる「霊感」の高い人は、見えたり、聞こえたりする人もいるので、コンタクトがとれるようです。
というのは、どのような教義から言われているのでしょうか??それとも、教義に土地の信仰等が混ざり合って自然発生的にうまれた民間信仰の中で言われているのでしょうか??それとも江原さん等の方々がそうおっしゃっていたということでしょうか??
>>きっと、あなたのまわりにもみ守ってくれている人(霊)がいるでしょう。
こちらに関しても、天国の住人は天国から好きなときに抜け出して我々のそばに来て見守ってくださるということでしょうか??
 どうぞ教えてください。お願いいたします。

お礼日時:2008/01/12 16:34

キリスト教では、神は人間とはまったく違うものです。


神は人間を超越した絶対的な存在で、人間はどうがんばっても神にはなれません。(キリスト教ではね)
それは天使も同じです。
猿が人間になれないように人間は神や天使にはなれず
神や天使は、人間とは種族が違うと考えた方がいいでしょう。

中世の死後観を見ることができるダンテの「神曲」では
天使が天国へ着いたダンテを案内しています。
天国では、歴史上の有名人にたくさん会いますが、天使はその人たちを管理していました。
例えは悪いですが、囚人と看守のようなものでしょうか。
囚人はがんばっても模範囚にはなれますが、看守にはなれません。

ここまでが1の回答ですね。
次に2についてですが
一度天国に行った人間が、人間界に行くことはありません。
輪廻転生は仏教の考え方です。天国に行ったら天国に行きっぱなしです。
死んだ人間がホイホイ人間界に戻ることはできるというのはありえません。

ごめんなさい。教義的な根拠というものは提出できませんでした。
ちゃんと勉強した人が続いてくれることを祈っています


蛇足ですが、仏教では神は自分の中に存在する。という考えです。
もちろんキリスト教の神とは全く別物ですけどね。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 ダンテの『神曲』は私も目を通す程度ですが読んだことがあります。『神曲』を読んだとき、天使は天使であり、人間は人間で天使にはなれないという印象を持ちました。
 問2に関してもう少しお聞きしたいのですが、私もキリスト教等では輪廻という考えはないように思っています。この問2は天国に行った後生まれ変わって何かするということではなく、死者が天国から見守ったり、導いたりするというような教義が存在するかということです。
 もしくは、そういったシステムが教義的な裏づけを持って存在しているのか??それとも、それはあくまで民間信仰のレベルでのことなのか??ということです。もし、ご存知であれば教えてください。お願いします。

お礼日時:2008/01/12 10:23

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