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宗教や神に対してお金を払う(寄付する)という行為について疑問があるので質問させてください。

よく宗教団体にお金を寄付する方がいらっしゃいますが、理由を聞いてみると

「お世話になった神様にお金を払ってお返しをする」
「教団ではなく神様にお金を払う」

と聞きましたが、何故神様にお金を寄付するのでしょうか。
食べ物を寄付する事や信仰を行う事はなんとなく理解できるのですが、
お金を寄付する事は理解できません。

なぜなら、そもそもお金とは人と人が物々交換を円滑にする為にできたものであるからです。
つまり、お金とは言ってしまえば紙切れもしくは硬貨です。
それに対して、物を交換できるというルールを決めた訳ですよね。
でもこれはあくまでも人と人の間で決めたルールであり、
他の動物や植物、神様に対してはこのルールは適応されないはずです。
神様が信者から受け取ったお金を使って市場で商品を買うことは普通に考えられませんし。

それで、
「結局、神様じゃなくて教団に寄付してるんでしょう?」と聞くと
「いやいや教団ではなく神様に寄付している」という回答が返ってきました。

これは一体どう捉えればよいのでしょうか。

信者がお金を寄付→教団が神様の代理に受け取る→神様の為に教団が使う

というような間接的に神様に寄付していると捉えればよいでしょうか。

神様、宗教への布教活動や信仰にお金がかかるのはわかりますが、
結局は教団に寄付しているじゃないか、と思ってしまいます。

宗教(神様もしくは教団)に対してお金を払うことがどうしても理解できません。
どう理解すればよいかわからないのでご存知の方、回答をお願いします。

ちなみに私は宗教および信者の方を否定・軽蔑するつもりは全くありません。
私自身、熱心ではありませんが宗教に入ってますし。
宗教の考え方で良いなと思うものはあります。
(ただ、完全な無神論者ではありませんが有神論者でもありません)

しかし、金銭を支払うことには理解できませんし、したくもありません。

神様に何かを捧げるのなら、人に優しくするとか、その考え方を大切にするとか祈る行為を行えばよいではないかと思っています。

また、どこの宗教に聞いたかは伏せさせてください。

長文になりましたが肯定的な意見、否定的な意見共に受けつけますのでよろしくお願いします。

A 回答 (8件)

宗教といってもいろいろなケースがあるのですが


神社やお寺に例をとってお答えします。

賽銭や布施によって神様へのお供え物を寺社が購入し、供えてもらう。
農家なら作物、昔の反物屋なら反物…でも一般消費者は何を捧げます?
それこそ貧者の一灯ではないけれど、心を込めた100円のお賽銭では大根一本は買えませんが、二人集まれば買えます。だからといって、その大根には半分の心しか篭っていない訳ではなく、二人分の心が篭っています。
そう考えれば、賽銭(布施)も立派な供物です。

宗教活動には祭事や布教が必要です。
本来ならこれも皆でやらねばなりません。寺社に勤めている人たちは、信者の代わりに毎日の祭事や社の管理や手入れなどをしてくれています。その人たちに感謝の気持ちを込めて賽銭や布施の中から有効に使って貰うのも問題ないでしょう。
寺社の中(特にお寺)には氏子会や檀家が力を持ち、神主や住職に不適切な言動があれば追い出してしまうところもあるそうです。

中には(特に新興宗教では)教祖が絶対的力を持つところが少なくは無く、まるで教祖を潤すために寄付しているという感じもしなくはありません。でもその是非は信者が考えるものであって、個人の自由です。
逆に、したくないのであればしなければ良いだけです。
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまいすみません。
一般消費者が捧げられるのは金銭ですね。
あと祭事を代わりにしてくれる人への感謝は必要ですよね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/27 17:59

シンプルに言うと


宗教はサービス業ですので
客は、お金を払うわけです。

神や仏を使った商売なんです。
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまいすみません。
宗教というサービスに対して対価を支払う面もありますよね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/27 18:05

脅し・誘惑を駆使し、強制をする団体には近づきたくないですね。



布施は自発的にやるものだと考えています。

生きとしいけるもののためになるこの団体の運営が円滑に行くように、や。自分の心にある、ものに対する執着から離れるため・慈悲喜捨の心を育てるため・困っている人を助けるため・喜びを分かち合うためなどに使うものだと思います。

そしてお金である必要もないと思います。

布施が集まらないものはつぶれていけばいいと思います。望まれないものなのでしょうから。

私自身テーラワーダ仏教徒ですが、この法がこのサンガによって広く伝われば生きとしいけるもののためになると確信を持っているし、お世話になっているお坊様方の肉体の維持を願って布施をします。

もちろん募金したり近所の方にちょっとした茶菓子を差し上げたりもして分け合って楽しんでますw

身体を使ったボランティアや人助けも施行のひとつです。
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまいすみません。
人の気持ちを支える為、お坊さんの肉体維持の為には重要ですね。
あと金銭を払うことに固執しなくても良いのですね勉強になります。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/27 18:03

>宗教(神様もしくは教団)に対してお金を払うことがどうしても理解できません。


>どう理解すればよいかわからないのでご存知の方、回答をお願いします。

宗教≠神様≠教団

「宗教にお金を払う」
・・・論理的におかしい。意味がない。
「神様にお金を払う」
・・・その神様がそう要求しているのなら
   信者として当然行う行為です。生きて
   いる「神」ならその人に支払い、死ん
   でいる「神」(ありかな?)ならその
   代理人(?)に支払う。
「教団にお金を払う」
・・・組織維持のために絶対必要です。

>金銭を支払うことには理解できませんし、したくもありません。

宗教≠神様≠教団

「宗教」
・・・何を信じようがあなたの勝手です。それ
   によって何か費用が発生することはあり
   ません。
「神様」
・・・あなたが信じる神様が「お金払った分だけ
   救いましょう」と言うのなら、救ってほしい
   分だけ支払いなさい。「他人に優しくしなさい」
   と言うのなら、他人に優しくしなさい。
   信じていない神様の言うことを聞く必要
   はありません。
「教団」
・・・どこかの教団に所属するのなら、「維持費」
   を支払ってください。一種の税金ですから。
   いやなら、教団に入る必要はありません。
   教団に入らなくても「宗教」をすることが
   出来ます。神を信じることも出来ます。

だから、「お金を払う・払わない」は全く個人的で
主観的な問題ですので、それを理解することはまず
出来ないと考えてください。その人は「そうしたい」
のです。
教祖様の○○○を飲ん恍惚とする人、教祖様と握手
するのにウン万円払う人もいる訳ですから・・・。
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまいすみません。
宗教≠神様≠教団ですよね。文章が変になり申し訳ないです。
どこにどうお金を使うかはその人の自由で私が口を挟むべきではないですよね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/27 17:56

現代では、結局「お金」という形でしか、「形」にすることが出来ないからでしょうね。



そのお金をどこが管理するかといえば、信者がその神様を崇めることを
仲介・お手伝いしている教団やお寺などがすることになります。

>信者がお金を寄付→教団が神様の代理に受け取る→神様の為に教団が使う
まぁ、この考え方でほぼ間違いないでしょうね。

ただ、この寄付という考え方やその金額のボーダーラインもも、一歩間違えると、
どこぞのテロ教団やどこぞの仏教宗派のお坊さんみたいなことになりかねませんけどね。

その金額が、信者のお心付けで納得できる範囲のうちは、
まだその宗教(教団・お寺?)は大丈夫と見てもいいでしょうね。
これが、世間一般の普通の人が「寄付」としてするには法外だと思うような
金額を、信ずる神様や本尊様の名を騙って要求してくるようになれば
怪しいと思うべきでしょうね。

>神様に何かを捧げるのなら、人に優しくするとか、その考え方を大切にするとか祈る行為を行えばよいではないかと思っています。
個人レベルではそれでいいと思いますが、ご本尊や神様を祀るのにも
建物も要りますし、建物があれば当然管理する人も必要になります。
仏教のお寺さんの場合は、住職さんも実は雇われの身で月いくらのお金で
お寺に雇われている形になっていることがほとんど。
だから、どこぞの宗教の会は、対峙している本山のお寺の住職が、寄付のお金を
我が物顔で湯水のように使っている姿が、あるべき姿ではないといっているでしょうね。

どちらにせよ、墓もない、お坊さんに当たる人がお参りもしないような宗教では、
寄付をするのは確かにおかしいとは思いますね。
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまいすみません。
「お金」という形で信仰の意を示すのでしょうね。
形にすることが重要なことはなんとなく理解できます。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/27 17:53

生活するためです。


どんな宗教団体にも代表者とかいますよね。
また神社にも神主、お寺には住職がいらっしゃいます。
この方たちも、現代社会で生活しているわけですから
食べ物などのお礼では生活できないからです。

先日、法事がありまして、参列者が多い事を理由に
普通なら5万円のところを10万円包んで欲しいとわざわざご住職から電話がありました。
何かにつけお金がかかる世の中ですから、仕方ないのかもしれません。

宗教や信仰心のお礼がお金というところで、神様からかけ離れているように感じられますが
現代社会においてはこれが現実なんだと思います。
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまってすみません。
現実にはお金がどうしても必要ですものね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/27 17:50

宗教といえど税金こそ優遇されていますが、社会の中で携わる人がいて、施設があって、食べて、生活していくんだからお金が要るに決まってるでしょう。

 自分自身で、もしくは心の中で作り上げた神なら何も要らないでしょうが、どこかの宗教のどこかの施設に行って拝んでいるのに、その宗教の人や施設の事は知ったこっちゃないです!
なんてそのほうがオカシイと思いますがどうでしょうかね?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
またお礼が遅れましてすみません。
何にしてもお金は必要ですよね。

お礼日時:2008/03/27 17:49

気持ちの上では神様・仏様への恩返し(寄付)ということですが、実際には教団へ寄付ということで間違いないでしょう。


お寺にしても神社にしても建て替えとかなったら莫大なお金が必要です。
日頃管理するのも電気代・水道代を初め多くのお金が必要です。
昔は「お米」などで寄付していたようですが、現在では「お金」が一般的です。
昔は「お米」が正にお金と同じ扱いでしたから(年貢米とかみれば判りますよね)。
宗教では気持ちの上でどう考えるかが重要で、それが現実とかけ離れてることはよくあるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

お礼が遅れてしまいすみません。
確かに気持ちの上の事を重視して理屈で捉えていないことはありそうですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/27 17:47

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