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私は54歳消防隊隊長をしています。今まで幾度となく修羅場を経験し,色々な人の死に様を見てきました。信心は5歳の時から疑うことなくしてきたつもりです。今この年になって「何だったんだろう」ということがあります。これは作り話でもなく・嘘でもありません。
(1)20年前に母方の祖母が亡くなりその夜伽の帰り車を運転して居眠りをしてしまい「○○」という祖母の声で目が覚めたところ目の前にヘッドライトが近づいていました。反対車線を走っていたのです。とっさにハンドルを切って難を逃れることができました。
(2)18年前,手術を受けた時,予想外の大出血をし2000ccの緊急輸血を受けました。その時に全身麻酔を受け寝ていた私が見たのは,菜の花畑で女の子と遊んでいる私を,間接的に見ている私でした。
(3)2年前,来客中に玄関先で話している時に階段を上っていく足を見たのです。勿論子供でもありませんし,妻も私の傍にいましたから家族ではありません。
(4)昨年私が題目を唱えている時に,私の左後ろからすーと歩いてくる何かを感じ「来た」と思いました。なぜ来た(来たということは私の命の中で知っていることだと思うのですが)ということを感じたのかはわかりません。そして私の後ろを通り,私の右後ろに座り,私と唱和するかのごとく題目をあげるのです。その時の感覚はハモルという感じです。それが20分続き私の妻が入ってきた時に同時に消えました。
以上が全てですが,私の子供は3人いますが,3人とも何かがいると言っています。これはなんなのでしょうか?悪さはしていません。怖くもありません。それよりも何か暖かく感じるのですが。

A 回答 (8件)

人間には『有限=自我意識=左脳の意識}と言う心と「永遠の自分=無意識の中の意識=仏性或は神』が二つ同居していると思います。




自我意識が薄れている場合(研ぎ澄まされている場合)当然心は『知らない事や知らない現象を味わう場合がある』と感じます。

右脳の意識は既に永遠の存在です。或は何も学ばないうちに全てを身につけています。怖い事や不安と云う事、或は安心する事、高いところやスピードの出しすぎが怖い事などは、誰も教えてもらっていないにも関わらずに全ての人は知っています。この科学的な体験が載せて在るものをここにご紹介してみます。

もう一言書き添えて置くなら、細胞分裂する事も『命が芽生えた瞬間』に本当は自分の意思でやっていたのかな?と思います。

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それらを経験した頃お疲れではありませんでしたか?


幻覚、幻聴の類かと思われますが心身ともに疲れている時まれに起こるようです。

まさか責任ある立場の貴方がオカルトを信じているとは思いたくないです。
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 ANo.5の補遺:


 子どものころ、単純に自分をしっかり生きていた(生きている事ができた)頃はわたしもそういう感じがしていました。
 青春を過ぎ、いろいろ経験し、自分の生き方を外した(自分で思う)し、ずいぶん堕落してしまってからは、そんな感じがなくなってしまいました。
 そしていまちゃんとやれているのに、理屈と実証がないといけないと思うようになっていますゆえなのか、そういう微妙・精妙な感じを感じ取ることへの敷居が未だ取り外せないのです。

 わたしたちの勉強し、日日精進しております教えでは直截このことに言及はしません。神秘とか超科学よりもどれだけいい人間として生きていかれるかの教えですので。
 意識というものを中心にし、古代インドからの意識論を教えているこの教えでは、ただ私達の意識って、静に奥の方で見つめている意識。そして知覚し、経験、行為している意識(生理や生きること、呼吸も含む)、そして対象世界を構成し、対象客体となっている意識を分析しております。
 貴兄とお子様は、奥の方で静(鎮)まっている意識が目覚めているか、目覚めてきているかなのかではないかと感じました。
 普通の私達は中々奥で静(鎮)まっている意識は目覚めることは難しいということです。
 実をいうといつも知覚し、行為している意識からはこの、奥で静(鎮)まっている意識は、別のもののように感じます(どうもそうならざるをえないのです。)。
 だから、何かがいるというのではく、宇宙や創造界の根本に繋がる奥の意識が目覚めている。いるということではにでしょうか。
 他人がいるのではない。自分がいるということなのではないでしょうか。
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 上の多くのご回答は、貴兄様のご経験の科学的な解明をしてくれておられます。

でも物事って両面性があるのではないですか?
 もしそういうふうに解明されないものとか、或は眼前の全ての存在や現象とは違うものとして、所謂不可視のものがあるとしたら、つまり別の根源や原理のもの、別の世界のものが、並立か独立してあるのだとしたらどういうことになりましょうか。
 ものと現象は両面であると存じます。こう理解整理できるというのと、そうではないのとが一つものや現象にはあるのでしょう。
 私はそう考えますよ。価値理念的なる存在面と単なるものや現象としての面と。ひとつのものや現象について。
 これは単に、観る観方の問題ではないと存じます。
 私は一定の聖職者の方による受洗の者ではありませんが、そしてなにより、元々から西洋に渡った基督教ははっきりいって納得はしておりませんが、聖書の旧約にモーゼに率いられて、エジプトを出る話がありますね。
 モーゼがファラオの座する足前にその杖を投げると、杖は大きな大蛇になって、身をくねらせながらファラオの足に進んでいく。
 はっと思い、ぎくっとしたファラオが立ち上がろうとすると、モーゼは静に蛇を手にし、蛇は杖に戻る。
 更に又、モーゼがその座にいるファラオの眼前のナイルの水を静にその杖でかき回す。すると杖の周りの河水が緑に変色する。その緑水がどんどん広がる、広がる。河水全部が緑に化す。
 恐怖のファラオ。そして立ち去る。
 翌日また同じ場所と席。ファラオは前日の現象の科学的説明を明かす。
 暗示を、催眠術をかけたな。とか、上流には緑の岩石があってな、それが溶けてきたのだ。とか。
 不思議なことは、どんなことも科学で、今の科学で説明できるのです。どんあ現象も。
 そうでなければ神も不可視ではいられないではないですか。
 神も一人子も魂も科学は解き明かせません。
 だから科学としては未知か不存在としかいえない。
 そうやって、神も一人子も魂も物質存在の科学から離れていられるのでしょう。
 でも一々の不思議は科学が説明できるようにしているのでしょう。
 本当は万物と森羅万象とは不可思議なものでしかないのに、科学は科学の中途の説明で納得しております。
 自分達のwakeful意識が気づけるものについて。
 でも万物と森羅万象はその気付きの前後左右、上下と奥そして前に広がっているのに、気付く事柄だけについて。その世界の範囲に限られて。
 全ては当為や原理、意志、命令という存在であるのに、西洋の近代科学はそれを気付くことはできないでしょう。日常物質の人智では。
 最終の、最初の当為。それは創造の意志たる神。
 価値・理念は科学の範囲の外なのではないですか。
 西洋の哲学、認識論の外なのではないですか。
 ではどうやってそれを知るか、自分のうちの神秘に気付く以外にはないのではないですか。そして宇宙の神秘に。
 貴兄、私の17といとお若いかたのようで、これからそのご経験を正しいご信仰の中で、深めていかれることは、ご開祖のご意志でもありましょう。私はインドの発祥のことを勉強していますが。
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こんにちは。


質問者さんの年齢でしたらこのような問題にはきちんと整理が付けられるはずです。ですが、ご質問の内容を拝見しますならば質問者さんはそれを無理に別な角度から捉えようとしています。そして、それを「無害である」と受け入れてしまうのは無意識のうちに辻褄を合わせてご自分の考えを正当化しているということです。では、事実を改変してまで自分の身を護ろうとするのは、そこには回避しなければならない何かが発生しているということです。それが何かといいますならば、果たしてそれは「ストレス」ではないでしょうか。

我々は誰でも夢を見ますし、幻を見ることもあります。そして、それにどのような解釈をするのかは気の持ち方によって変わります。職業柄特殊な体験があるならばより深い考え方にもなるでしょう。ですが、20分もの間それを静観していられるというのは通常の解釈ではありません。まして、これを信心の問題に摩り替えて哲学のカテにご質問なさるのがそもそも現実逃避です。
父親がそのような考え方をするならば、当然、子供にも同じ影響が現れます。
「子供も自分と同じだ」これは安易に受け入れるべきことではありません。ご自分の考えを正当化できればご自身は安心できるかも知れませんが、果たしてこの場合はもっと冷静な視点から正しく排除するというのが父親の務めではないでしょうか。
現在のお仕事からストレスを取り除くというのは困難なことかも知れません。信心に救いを求めてはいけないということではありませんが、ストレスとは現実でありますから、それを対峙し、緩和する手段は常に心掛けて下さい。
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仕事柄、修羅場の死を目にする事が多いので死=不思議というのが脳にインプットされて、いるのではないでしょうか(過敏なっている)。



私は霊だとは不思議だとではなく、あなた様の脳の問題だと思います、人間の脳ほど不可思議なもの、はないと思います、普通の人でも幻聴・幻覚は見るようですから、
幽霊見たり枯れ尾花(ススキ)、怖い怖いと思っているとススキも幽霊に見える。

あなた様の脳の問題だと思いますと言ったのは、錯覚だという事ですのですので、脳がおかしいと言う事では有りませんので。


URLは脳の錯覚をさせます。5秒ほど見てください、実際は動いていませんが動いている様に見えます。

   長く見ないで下さい脳の錯覚で気分が少し悪くなります。(危ないものでは有りません)

参考URL:http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/
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いわゆる、「自分は特殊能力の保持者じゃないか」とか霊の存在 とか 超常現象肯定派 とかそういう感じでしょうか?




毎日 毎日 祖母はお経を唱えていました。
それは私の記憶にありますが、いつからか 祖母はあんなに熱心だったお経をとなえなくなった。
別段 何も思いませんでした。


大きくなって母が言いました。
祖母がある日 きつねにとりつかれたことがあったのだそうです。
それで、母は祖母にもうお経を唱えるなと厳しく言ったので、それ以降 祖母はお経を隠れてとなえるようになり、母は見つけると、厳しく叱ったのだとか。

その母は子供の頃、蛇が人にとりついたのを見たのだそうです。
目つきが急におかしくなる、腕をクネクネさせた男の子をみて「蛇がとりついたに違いない」と言ってました。

その母は幽霊マニア。
幽霊の本を大量に買って読んでいた。
ある日 キラキラと目を輝かせ、わくわくして興奮して母が私の元にやってきた。

「○○(私の名) ちょっと見てこの写真 ここに幽霊が写っている。ここが目でしょ ここが口。 これは横を向いている」

その写真は石垣を背にした母の写真。
撮った人は母の友人。
母曰く、母の友人はなにかある と。

母にそういわれても、石垣は石垣。黒と白の岩にしか見えない。
が、母に「ここが目で。。。」と説明されているうち、私にも見えてきた。
「これもそうじゃない! ここにも写っている!」私が指摘すると、「ここにもいる なんだ これは!」 もう 母キキとして興奮しまくり。

謎解きしましょうか?
これ、誰でも訓練すればできます。
これ 何に見えます?
  ↓
(^o^ )

(  とか  ^ とか o などが並んでいるだけです。
だけど 人間は それを映像として捉えてしまい、自分が知っている何かとリンクしてしまう。
「笑っている顔」と認識してしまう。

雲だってパンだったり象と見たり、光るものを宇宙船だと認識したり。


http://www.nazotoki.com/step1.html

白い用紙に黒いテンテン。
ダルメシアンの犬の姿にどうして人は認識するのか?

何故 ただの シミとしないのか。


脳の問題。
人は創造ができる。
インプットされたものを、そっくりそのまま出力はできない。
人の記憶、認識は曖昧。
もし インプットされたものをそっくり出力する能力しなかかったら、文明はできない。

人はインプットされたものを正確に出力できないが、ゆがめることで、新しいものを作ることができる。


幽霊などいい例。


日本は狸は拝まれないが、きつねは拝まれる。
恐らく、エジプトのジャッカル信仰が基盤だと思います。

日本は古来狸は食べたが、きつねを食べたという話は聞かない。
日本の宗教は、八百万の神々を畏敬の念をもって信仰している。
災いをもたらすものも神として恐れ逆らわないことで、共存させてもらっている。

キツネ 食べた人がいたと思う。
しかし、キツネには寄生虫がいて、それが人間の脳に入ると、おかしなことになってしまう。
きつねが取り付いたとされる原因は、古代 きつねを食べた人がキツネにいた寄生虫が脳に入り、発狂したかのようなふりまいをしたので、きつねの祟りとされたんじゃないか と。

わからないものは、とのかく神様の祟りとして、もう食べないようにしとく 食べないようにするには、 祭って食べるなんて とんでもない とするようにするのが、一番人々が食べて不幸にならないようにするのに手っ取り早い。

ジャッカル信仰も加わって、稲荷神社誕生。 かもしれないですね。

1から4までのを、私なりに今までの情報から分析して、原因はこれじゃないかと説明することはできます。
ただ、私がいくら説明したとしても、また新しい「じゃあ これはどうだ これこそ超常現象だ」と終わりない気がするんですね。

信心ってのは確かに大事です。
「きつねは拝む対象であって、食うなんて恐れ多いた」という信じる心が、、、、ユキノコックスでしたっけ? あれが脳に這い登って、脳がやられないで済むことになれば、正しくはないが、間違えてともいえない信心は持つことは有意義なことだとは 思います。


ただし、信心も時には災いをもたらす。
例えば昭和一桁の時代に「呪いの藁人形を使って、呪った」とされた人が逮捕されたことがあった。
原因は信心。

フラシーボ効果。
これは「自分は天才 幸せ」と思い込むと、ハッピーになる人もいるが、逆に「呪われた もう終わりだ」となると、生命力が衰退してしまい、寝たっきりになり どうやっても体が衰え動けなくなってしまうこともある。

早い話が自己暗示によりなってしまう。
脳の物質により 幸福感により ウキウキして元気元気にもなれば、鬱になり何に対しても無気力になり、死んだ方がマシとなることもある。

自己暗示はいい方に使うべきで、あなたが守護神に守られていると信じ、それで人生をよりよく生きていたのであれば、それはプラスが本質なので、そう捉えるわけです。

でも、中には「なにかとてつもないことが起こっているんじゃないか どうしよう どうしよう」と同じ現象をマイナスに捉える人もいる。

子供3人は幸いなことに、あなたのプラス思考を受け継いでいるので、計り知れないこと(自分がまだ認識できていない分野)に対して、注意を払い、ブレーキをかけることができると思えます。

いい方に考え、生き易いように信心を活用しているのなら、それはそれでいいと、私は思います。

ただ、やりすぎてしまうと、オウムのようになってしまう。
他のカルト団体のようになってしまう。


だから、ほどほどにして、子供がのめり込んでしまいそうになったら、あなたが守護神として、ブレーキをかけて、元に戻してあげたらいいと思います。

あなたまで、アクセルを踏み込むことに加勢をしてしまうと、暴走して、激突大破してしまう結果になるかもしれないので。


>それよりも何か暖かく感じるのですが。

人間は大地性があるからじゃないでしょうか。
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質問者さんほどドラマチックではないですが、


わたしも守られている、傍に何かの存在がある、という感覚があります。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3919849.html
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