アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

資料1
古代オリエント集、筑摩世界文学大系1  五味 亨、杉 勇訳「人間の創造」(シュメール出土の粘土板)
彼らの血でもって人間を造るのです。
(今まで)神々が(になってきた)仕事は(今や)彼ら(人間)の仕事でありますように。
(私見)これで見ると旧約聖書に影響を与えたと言われるシュメールでは、人は神に奉仕するために、言わば「人は神の家畜」、「人は神の奴隷」として創造されたと考えられていたようです。

資料2
創世記2章、3章
(私見)これで見ると、ヘビが狡猾でないか女が愚かでなければ人は楽園で暮らせたと考えられていたようです。人の苦難の源は己の罪にあるのであって、言わば自業自得としています。神の奴隷の身分からは解放されて、人と神との相対的地位が縮まりました。しかし、ノアの方舟やバベルの塔で見られるように依然として神は人の生殺与奪を握っていました。

資料3
ヨブ記
(私見)神の前に悔い改めれば、神は幸福を何倍にもして返してくれる存在だと考えられていたようです。単純な応報思想ではなく、厳しい厳しい、と言われる(?)ヨブ記ですら、神は俗世の功利に寄与すべき存在に成り下がり始めています。つまり「人は神の奴隷」から「神は人の奴隷」へと転化が始まり掛けています。
なお、ヨブ記は創世記の後に書かれたそうです。

資料4
あるメディアの質問と回答から
自由主義神学の自由度を問う質問に対して、「訊くな」と言って咎める回答が登場していました。
(私見)これは最早、悲惨というしかありません。神は語る存在ではなくなりました。神はタブーの存在です。


さて、質問です。
私見では、神格は長期に亘り一貫して低落しています。その理由を街頭で無作為に訊けば大同小異の返事に落ち着くだろうと推定します。では、同じ質問に、思索を糧とする哲学者や思想家は、どう返事をするのでしょうか。
よろしくお願いします。なお、神格は低落していないとの説の披瀝も拒否はしません。

A 回答 (15件中11~15件)

No.5です。



考古学者と民俗学者が共同作業する必要がありそうですね。


>シュメールでは海水やユーフラテスの治水に、よほど悪戦苦闘したのだろうと推理しました。

その推理は的を得ていると思えます。
ここらあたりの時代では、自然を擬人化し物語にして、天災に対して、合理性をつけようとしたと私も思います。

川の氾濫で多数の死者が出る。
が、川が氾濫したことで、養分を蓄えた土が、陸地に流れ込み、洪水の後は豊作になる。

神話ではデウス(ギリシャ神話のゼウス)、は暴風雨を起こすが、豊穣をもたらす神でもある となった理由、なんとなくわかりますね。


このシュメール・アッカド神話は、各地に広まり、詳細になると内容が違ってくるし、神の名前も違ってくる。

例えばティアマートはレビアタンみたいになったり、蛇になったり、バビロンの大淫婦になったり、YHWHやマリアになったりしている。
かたやマルドゥクはゼウスやユピテルになったりしている。

場所と時間で変容を遂げている。


YHWHという文字は、「私は生命である」ということをあらわす記号だと私は思えます。
つまり ティアマート。

エジプトだと人間が死んだ時審判をするとされる女神マアト。
MAATのMAのMは水を表す記号で、Aは最初 誕生 という意味がある。
最後のTは女性形の場合 Tがつく。

確かに命あって何事もできます。
信仰だって命があるからこそです。


聖書を読むと、神が祝福をしたというとき、必ず祝福の証として対象に子孫繁栄をもたらしている。
つまり神の祝福とは新しい生命をもたらすということ。
そう古代の人は考えたようです。


そういった古代の人の言い表した意味を探し出せないと、あらぬ方向に神を探して彷徨うことになる。

例えばニーチェ。
彼はこう指摘した。
「貧しいものは幸いである は、貧乏人が裕福なものに対する妬みが込められている としている。」

自分が貧しいことがよいことだとする(合理化)には、「金持ちは天国にいけないんだぞ、俺は貧しいから天国にいける へへん」がこめられているというわけです。

「貧しいものは幸いである」という言葉は、キリスト教会にとって大きな熊手となった。
キリスト教会は、各地の地主をキリスト教徒にする戦略をとった。
地主がキリスト教徒になれば、農奴もそうなる。
地主に特権を与えたことで、地主は農奴をら「貧しいものは幸いだ」と押さえつけ搾取できる。

このままでは地主が大金持ちになるだけ。
地主は救われない。
そこで、地主に貴族という特権を与え、長子を神に捧げよとして、息子を聖職者にするように命令した。
神の奴隷として長子を差し出すことで、地主も神に貢献しているという図式になる。
聖職者は神の僕なので私有財産をもってはならない。
全て神に捧げる つまり キリスト教会に捧げる。

例えば貴族の父親が死に莫大な財産が長男に相続された場合、自動的に教会の財産になる。

ヒエラルキーでどんどん下から吸い取って上は生茂るってわけです。
教皇は神の代理人で、神と直接対話できるものとして崇拝対象になり、ピラミッドの底辺の人は、教皇を神の代理人として崇めさせられる。

それに反発したのがルター。
「信者1人1人が直接神と対話してもいいんじゃないか」
とんでもないことです。
キリスト教会を弱体化する発言に、キリスト教会はルターを破門。

他は認めない。キリスト教会が言うことが神の言うことと同じことだ として、地位(利得)を守るために他の思想が芽生えるのをおさえつけようとした。

ルターは破れ、北の方に移動し、キリスト教会の力がまだ強く影響していない地域に自分の考えを布教。

ルターが始めたキリスト教会に対する抵抗運動が広まり、カトリックの考え以外もしていいとなり、どんどんそれぞれの思想により、キリスト教派閥ができていった。

ルターのやったことは、石版を砕いて、バラバラにして俗世の人にばら撒いたようなもの。
俗人は石版のかけらを持ちつつ、つまりティアマートがキングーに石版を与えたが、そのかけらを持ったとして、自分の思想を布教。
俗化がさらに推進された。


でもですね、ユダヤ教の段階で、既に俗化していたんです。
元はレビ族のみが、宗教専門職だったんです。
でもレビ族も増えていって、分業するようになった。
クジビキで「今回の儀式では あなたの家のものが笛を吹き、そっちの家のものがシンバルをたたきます」と決めていってた。
この時までは、平等にクジビキで役割を神の手にゆだねており、それらの分家を統率していたのが、アロン家だったが、アロン家も結婚により分家が出てきた。
そのうち、レビ族以外のものに女性が嫁ぐと、そのレビ族以外のものが、聖職者になれた。

そのうち、レビ族以外のものが大祭司になったりした。
ユダ族は政治家を輩出している。
その一族が聖職に関わると、どうしても政治に都合のいい解釈をするようになる。
神の考えの俗化が起こったわけです。

で、ダビデは神殿のパンを食べたというエピソードが加わり、ユダ族の中から聖者が現れたことは神の意図だとすることとなった。

戦いに勝利して裸踊りするダビデを冷笑する妻。
ダビデじゃバト・シェバに恋をし、バト・シャバの夫を殺して奪って妻にした。
自分の手柄だと浮かれたダビデを、バト・シェバは「何もわかっていない」と冷笑。
だから、バト・シェバは彼に祝福を与えなかった。


と、このように聖なる領域に俗人が踏み込み荒らし、俗化していったわけです。

ヘロデ大王の祖先は双子で、一方はイスラエル人になり、一方は異邦人になった。
ヘロデはその異邦人になった方の末裔。
ヘロデの祖先がレンズ豆とひきかえに長子権を譲ったから。

その子孫がローマ帝国の窮地を救ったので、ローマ帝国はヘロデに王位を与えた。
ヘロデは政略結婚により、神殿の祭司達や議員たちに自分の血を混ぜて親戚関係を築き、宗教と政治の両方を手中に収めた。
それに同意しない祭司は殺されていた。
殺されず逃げた聖職者もいた。
砂漠に逃げ、そこにもう1つのエルサレム神殿を作った。
その集団は自分達を「貧しいもの」と言い表していた。

貧乏という意味じゃない。
彼らは出家信者の財産を共同金庫に一時預かった。
2年くらい修行をしてもらい、清められたと認定したものの財産は、共同体の財産として、やっと手をつけた。
隠遁生活をしており、在家信者から物資は供給されており、生活には困らない。
彼ら貧しいものは、熱心に宗教を信仰していた。
エルサレムの俗化され腐敗した宗教から離れ、神の前に立つということを実践していた彼らは、自分達を貧しいもの と呼び表していた。

キリスト教ができるよりずっと前からこの集団はありました。
原始キリスト教は、自分達を「貧しいもの」と呼んでいた。
貧乏という意味で使ってはいないことはもう明白。


さて、、、貧しいものは幸いだから、貧乏でいることを喜びましょう って誰が解釈したんでしょうねえ。。。。
押さえつけて下から搾取することを正当化する者に都合にいいこの解釈。


神は死んだ、神を殺したのは我々だ。

ニーチェは熱心なキリスト教徒だったんでしょうね。
それで、教会に「あなたがたが殺したんです」と言ったわけです。

低落させたのは誰か、もうおわかりですよね?
人々じゃあない。
神の忠実な僕のキリスト教会がこともあろうことか神を俗化させ、低落させ、殺していたわけです。

ニーチェのするどい指摘でしょ?

<はてしない物語>が映画化されたようで、子供の頃テレビで見たときの音楽を先日偶然にyou tubeで聞いたんですね。
映画と原作は違うようですが、、、、

http://www.limahl.com/about/discography/lyrics/n …

「In her face, the mirror of your dreams


Make believe I'm everywhere
I'm hidden in the lines
And written on the pages
Is the answer to a never ending story 」

というわけで、ティアマートはおさなごころの君で、人々が彼女に新たな名前をつけることで、彼女は永遠に存在し続ける。
そして、自分の想像力が物語の世界を創造し続ける。
自分が創造をやめてしまうと、おさなごろころ君も死ぬ。

善い創造をすることで、おさな心の君の世界は虚無に飲み込まれない。

古代の人が神に名前をつけ続けた。
世界を崩壊しないように、バトンを渡していった。
アリストテレスはイデアは人間に内在していると言った。
はてしない物語の原作者も、そういうことを言っているのかなと思います。
モモなどにも思想が現れていて、エンデは哲学者でもあったのかな と思います。

ということは、あながちプロテスタント系は間違えじゃないと思えます。
ただし、人々を奇跡だなんだと縛り盲目にしてしまうと、それは以前のカトリックがやったことと同じことになってしまう。
人々を捕囚し 閉じ込めてしまってはそれは奴隷化。
支配者が奴隷が支配者に牙を向かないように去勢するようなもの。
善いイマジネーションを創造しなきゃ 駄目なんですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

毎度、応答して頂いていますが基礎知識の総量が異なるので分からない事も多いです。しかし、共有知識が生じ次第、その部分については、よく納得できるので今回も着包み説は正しいのだと思います。だからといって、尻馬に乗って、そうだそうだ、分かった分かった、と雷同する訳にも参りません。そこで今回は独り言を呟いてお礼とします。独り言なのでご返事を期待(も拒否も)している訳ではありません。
[1 七岐大蛇に対して八岐大蛇、石版に対して鏡の他、そこはかとなくアッカドの神話には日本の神話の香りがします。人類に共通した発想が潜んでいそうです。
2 豊穣願望は女神(ティアマート、マアト、天照大神)と直結するのが自然な感覚のようだ(当たり前か。天照は男神?)。
3 プロテスタントはルター教らしいぞ。
4 コペルニクス、ガリレオ、ダーウィンなどの科学者や正直な哲学者の反抗がキリスト教には打撃だったのだと思っていたが、実は内部崩壊でもあるらしい。
5 ニーチェが精神のバランスを崩したのは資質?、神の罰?。神の罰だと診断する人が一杯居そうだ。百年以上も前では村八分に遭ったのかも。
6 内部崩壊を起こしていたのはユダヤ教も同様らしい。
7 エンデの<はてしない物語>とはナンジャラホイ。読む人は何でも読んどるなあ。]

有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2008/05/14 22:05

>(私見)これで見ると旧約聖書に影響を与えたと言われるシュメールでは、人は神に奉仕するために、言わば「人は神の家畜」、「人は神の奴隷」として創造されたと考えられていたようです。



はい、西洋の人々が言う神の原型を辿ると、現存する最古の神話ではそうなっていますね。



最古の神話のよると、初神ティアマートが沢山の神々を創造しました。
だから神様しかいなかった。
ティアマートの夫アプスーは、あまりにも多くの神々たちが、どんちゃん騒いでいるので、うるさくて安息できないため、なんとかしようとしたら、執事が「殺してしまえばいい」と言った。
安息日が無いことにアプスーは腹を立てたわけです。

ティアマートは夫アプスーに「まあまあ 子供達がうるさくっても かわいいじゃないですか あなた」となだめた。

アプスーの息子だったか忘れましたが、エアーだったが、アプスーに殺されてなるものかと、逆にアプスーを殺してしまった。
夫を殺されたティアマートは、ぐっと耐えたが、エアーだったか忘れましたが、 傲慢になり、今度はティアマートの最高地位を欲しがった。
(この話聞いたことありません? そう、ルシフェルは大天使だったが、地に落とされたって聖書に書いてありますね。)


で、神々はティアマートとエアー側だったかに真っ二つに分かれた大戦争をした。
(この話も聞いたことがありません? ハルマゲドンでも終末に天使がまっぷたつに分かれ、大戦争をし、その火の粉が地上に降ってくるって ヨハネの黙示録 ですね)


ティアマートは創造主ですから創造の力があり、神々を作ったわけですが、戦争になると 妖獣を作り出し、撃退した。

すさまじい創造主の力ですねえ。

エアー軍だったか(すいません うっすらとしか覚えていないので、ちょっと違うかもしれませんが)は撃退され、息子のマルドックが、果敢にも自分達を生み出した創造主であるティアマートに戦いを挑んだ。

苦戦したが、マルドックは、ティアマートが口を開け飲み込もうとしたとき、暴風を起こして、ティアマートの口を閉じれないようにして、そのスキに、、、、えっと これが聖書でいうロゴスかな? を叩き込んで、ティアマートを殺して、八つ裂きにして、大地を作った。

人々が今いる大地はティアマートの肉体でできているってわけです。
川はティアマートの涙でできているとしている。
大地に還元し再生を願うという概念は、ティアマートにしかそれができないと信じているからってことですね。


で、最高位のティアマートを殺した神々たちは、マルドックを自分達の王と定めたが、神々たちはマルドックに、「倒してしまってティアマートがやっていた仕事を自分達がやると、忙しくて身の回りのことができなくなる、身の回りのことをこなす何かを作ってくれないと困る」と不平を述べ、マルドックはティアマート側の指揮官の、、、キングーの血を土にまぜまぜして、人間を作った。

そして、人々は、神々の世話をするために作られたと忘れられては困るので、その契約を人間が忘れないように虹を作った。
人々は虹を見るたび、創造主との契約を思い出す。

とこのような話だったと思います。



>(私見)これで見ると、ヘビが狡猾でないか女が愚かでなければ人は楽園で暮らせたと考えられていたようです。

ええ、ティアマートが余計なことしなければ、人間は神々の農場でこき使われて、飼育され、神々にとって都合がいいようにコキ使われていたのにね。
余計なことしちゃってねえ。


>(私見)神の前に悔い改めれば、神は幸福を何倍にもして返してくれる存在だと考えられていたようです

これは、その神の奴隷である、自分達が信望する神々は全くの善で、悪いことをするはずが無いと信じているからじゃ。

初源の最高地位を妬み欲しがり、殺してその地位を奪ってしまった狡猾なものだと知らないからじゃ。
ヨブは神々にもてあそばれたわけですが、とうとう おかしいと思って、神々に挑んだ。
すると、さんざんヨブをもてあそんだ狡猾な神々は、このままじゃ 洗脳が解けてしまうと気づいて、そうならないようにどうヨブを打ち負かせばいいか考えた。
そこで、「大地を作ったのは だーれだ。」と言った。
ただし、<ティアマートの地位を欲したのでその地位欲しさにティアマートを殺して> の部分は伏せて。

本当はティアマートがこの世を作ったことを人間は知るよしもなく、、、


人間がコネコネして作られる前から、神々は存在しているので、当然 人間がコネコネされる前の 神のあくどい所業をヨブは知るわけなく、実は大地は、ティアマートの肉体で神々が作ったと知らず、自分達は神々の敵ティアマート軍の最高司令官を殺して、その血で作られたと知ることもなく、、、、

ははーーーー とぬかずいた。

頭いいですよね。
敵の血で作ったものを いたぶりまくる。
殺すもコキつかうのも、俺に勝手だーーー なわけです。
俺はお前達の創造主だぞー なわけです。



>私見)これは最早、悲惨というしかありません。神は語る存在ではなくなりました。神はタブーの存在です。

はい タブーです。
現存する最古の神話が、実はあり、聖書ができる前から存在しており、しかも 聖書はその物語をパクリ 都合よく塗りかえられたパクリ本だということを指摘しちゃうと、殺されちゃいます。

シーーです。
なんたって、初源の最高地位を欲して殺した神々が作った使用人たちですから。
彼らの肉体はキングーの血とティアマートの肉体でできていますが、魂はティアマートを殺した時に使ったブレスでできていますから、うかつなこと言うと「バレたか じゃあ 知るものがいなくなれば、また 俺達の天下に戻すまでよ」 とまた 殺しにくるかもしれません。

しーーー です。


>では、同じ質問に、思索を糧とする哲学者や思想家は、どう返事をするのでしょうか。

「神は死んだ。そして神を殺したのは我々だ」 ニーチェ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答からは、この質問文に看過できないほどの大きな誤謬があるとは伺えないので少し外した、お礼を述べます。
一神教は深刻な抗争の産物であろうとの予想の真偽を確かめたくてユダヤ教を遡ると何に行き着くのか、其れを知るための助けとなる書籍の推薦を依頼した事があります。
その際、着包みさんのご回答の中にあったのが「古代オリエント集」でした。シュメール、アッカドからエジプトまで斜めになのか駆け足でなのか、一応は目を通しておきました。「エヌマ・エリシュ」の読後感としてティアマートが海の塩水、アプスーが淡水ということからシュメールでは海水やユーフラテスの治水に、よほど悪戦苦闘したのだろうと推理しました。エジプトでのナイルへの賛歌とは大違いです。マルドックの偉大さと大活躍にはハムラビその人で有りや無しやは措くとしても王権側の正当性の主張の影を、ちらちら感じました。
読み方の当否は承知しませんが、こんな具合に戴いたご回答のお世話になっていることをお伝えしてお礼とします。
ニーチェは視野に入れておきます。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2008/05/13 23:28

2番です。



>天寿を全う出来ないほどの激しい対立はなかったのだと思います。

なぜヘジラを行わなければならなかったのかを考えてみてください。
ヘジラを行わなかった場合、その時点でムハンマドは殺されていたはずです。
つまり、ヘジラを行い、メッカから脱出できたため、今日のイスラム教があるのだとおもいます。
ですから、
>即ちムハンマドの出現時よりイエスの出現時の方が、対立が深刻だったのではないですか。

に関しましては、偶然処刑されたイエスと偶然脱出できたムハンマドとの違いだと思います。

>「キリスト教においては、常に自分達と対等な敵を必要と」しなかった理由に納得がいきません。

イスラムの場合、成立時にすでに国際的な宗教であるキリスト教とゾロアスター教(ズルワーン教)との関係がありました。
この両宗教を国教とする東ローマとササン朝との抗争の合間をぬって勢力を拡大させる必要にありました。
両宗教とも、歴史や成熟度において、できたばかりのイスラムとは雲泥の差がありました。
この両宗教に対処する方法が、成立間もないイスラムには必要でした。
さらにイスラムが成立するまでは、先祖崇拝を重視するアラブ独自の宗教がメッカなどでは盛んでした。
それらの民族宗教を押しのけ、新しいイスラムを興すために、ムハンマドがキリスト教やユダヤ教を利用したのではないかと考えます。
そのため、当初礼拝の方向が、エルサレムであり、その後キリスト教国家である東ローマとの対立が目立つようになると、礼拝の方向をメッカに変更したのだと思われます。

さらにイスラムがササン朝を滅ぼすと、イスラム内部での路線対立が鮮明になります。
スンニ派、シーア派、ハワーリジュ派の三つ巴の抗争です。

その後は、民族問題などもからみ、スンニ派とシーア派の対立が現在でも続いています。
イスラムの成立時には、常に自分達より強大な敵、また同等の敵が存在したのです。

一方キリスト教においては、その教義が確立するのが、ローマ帝国で国教の地位を占めてからです。
(それ以前のキリスト教は、原始キリスト教と言います)
国教として絶対的な力を有するキリスト教の成立には、同等の敵対者は有りませんでした。

キリスト教の成立を、イエスの生きた時代と見るのではなく、ローマ帝国で国教としての地位を得た後と考えれば、これは理解できると思います。
(聖書の成立、教会制度の確立など、全てローマ帝国で国教となってからです)

この回答への補足

1
>>メッカから脱出できたため、今日のイスラム教があるのだとおもいます。
そういう気はします。が、現に、
・イエスが処刑されてもキリスト教が存在し得た実例があること。
・優秀な弟子に恵まれれば言行録が後世に残ることがあること(釈迦、イエス、ムハンマドのいずれにも自らの著作物なし?)。
こういうことを考えると、ムハンマドの挫折があったとしてもイスラム教が存在しなかったとまでは、私には言い切れません。同意しないというだけで反論するだけの知識はありません。

2
>>偶然処刑されたイエスと偶然脱出できたムハンマドとの違い
そうなのかも知れませんが将来はともかく、今すぐ同意はできません。ムハンマドの危機も切迫していたのかもしれませんが、イエスの苦難ほどとは思いません。この点は今ここで歩調が合うとは思えないので、丸ごとお聞きしておくだけで言葉は挿まないことにします。
また、イエスの処刑が偶然という見解に対しても、私は同意も反論もしません。

3
なるほどイスラムには、キリスト教、ゾロアスター教、ユダヤ教、ササン朝、スンニ派、シーア派、ハワーリジュ派と教団の内外に敵対勢力を抱えていたことは、分かりました。既成の規範の中に割り込む形で浸透を図ったため、常に敵が存在したであろうことは分かります。しかし、ANo.2の末尾でいうように
>>イスラムにおいては、常に自分達と対等な敵を必要とする事になってしまいます。
この主張は依然として分かりません。過去と現在に「敵がいた、いる」ということと「敵を必要とする」が何故結びつくのですか。

4
話題がキリスト教に転じた後の文意は掴みきれませんでした。キリスト教はイスラム教と異なり敵がいなかったし、敵を必要ともしないという意味ですか。


事情が許せば3、4の説明をして下さいませ。論理を展開しないといけないので、決して急ぎません。閑を見つけてで結構です。ありがとうございました。

補足日時:2008/05/12 22:46
    • good
    • 0

「絶対的神は、没落する運命を持っている」という事でしょう。


絶対的地位にいる神は、それ以上の地位の向上はありえません。
神が神でいるためには、人間が神を信仰する必要があります。
人間が神の力を知るためには、人間に危害を加えるか、利益を与えるかのどちらかしかありません。
当初神の力は、人に危害を加える悪魔退治の方向に向かうのですが、神の力を強調するあまり「その神強大な力を持つ神への敵対者がいなくなってしまう」という事態に陥ってしまいます。
すると神は、その絶対的力を人間に見せ付ける事ができなくなり、人々から忘れられてゆき、名前だけの存在になるか、人間に危害を加えその力を見せ付けるか、敵対者が現れるくらいまでその地位を下げて、敵対者と戦う事により、神の力をみせつけるかの選択しか無くなってしまいます。

絶対的な神が、名前だけの存在になってしまった例として、バラモン教の「インドラ」、中東の「エル」などがあります。
この場合、絶対神が神話に現れなくなるため多神教へと移行してゆきます。

破戒神として力を維持している神に、ヒンズー教の「シバ」があります。
この場合、人に危害を加える神だけでは、人間の存在そのものが不可能になるため、破戒と同時に再生の要素が加えられ、絶対的神の本質に変化が出てきてしまいます。
つまり、人に危害だけではなく人の求める利益も与える事により、神の地位を維持します。
これは、一方では神が人間に媚びて隷属してゆくようにも見えてしまいます。

絶対者がその地位を対立神と同じところまで落とす事により、神の地位を維持した例として、ゾロアスター教のアフラ・マズラーがあります。
アフラ・マズラーは、自らが生み出した悪神アフリリマンと同等の地位にまで下りて、戦い続けます。
この場合、一神教ではなく、善悪の象徴する二神教となってゆきます。

キリスト教においても神の没落がありました。
長い歴史を持つカトリックは、キリスト教の中では、最も多神教的状態にあります。
そもそもキリスト教においては、神の地位を神(エホバ)とキリストが分かち合い、神そのものが絶対的な力を示さなくても、キリストや聖者、教会、聖職者が小さな力を見せる事により、神と一体の力として認識させてきました。
そのため、聖人信仰が生まれ、多神教的なものに変わって行く事になり、後の宗教改革へとつながってゆきます。
プロテスタントの場合は、出現が新しいため、信仰と実際の生活とを切り離す事により、宗教を哲学化し、この問題に対処しています。

イスラムにおいては、その出現時点から他教やイスラム内での対立が多発していたため、それらを敵とする事により、絶対的な神の力を維持してきました。
そのため、イスラムにおいては、常に自分達と対等な敵を必要とする事になってしまいます。

この回答への補足

最終段落を除いて思想家の考え方を理解できた積もりです。
将来の、神の力を見せつけるときの到来のために、今はひたすら無力化を計っている時期なのだと理解しました。ここまでは納得できましたが最後の段落は不可解でした。

>>イスラムにおいては、その出現時点から他教やイスラム内での対立が多発していたため、それらを敵とする事により、絶対的な神の力を維持してきました。
そのため、イスラムにおいては、常に自分達と対等な敵を必要とする事になってしまいます。<<
この記述からイスラムは傍迷惑で困った宗教だと思います。
ただ、これが真だとすると
「キリスト教においては、その出現時点から他教やキリスト教内での対立が多発していたため、それらを敵とする事により、絶対的な神の力を維持してきました。
そのため、キリスト教においては、常に自分達と対等な敵を必要とする事になってしまいます。」
こういう経過を経て、キリスト教は傍迷惑で困った宗教だとの結論になりそうです。その理由を以下に記します。

ムハンマドはイエスの次に使わされた預言者でアブラハムの再臨という認識だったと教わりました。これがユダヤ教徒やキリスト教徒との対立を生む大きな要因ではなかったのですか。しかし、天寿を全う出来ないほどの激しい対立はなかったのだと思います。一方、イエスは布教を始めた時点でユダヤ教徒の憎しみを買いピラトの牽制にも拘らず磔刑に遭うほどの対立に巻き込まれました。即ちムハンマドの出現時よりイエスの出現時の方が、対立が深刻だったのではないですか。
>>イスラムにおいては、常に自分達と対等な敵を必要とする<<
のに
「キリスト教においては、常に自分達と対等な敵を必要と」しなかった理由に納得がいきません。
事情が許せばご返事を下さいませ。

有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

補足日時:2008/05/10 21:35
    • good
    • 0

哲学的にいえば「無知の知」の蔓延でしょうね。


わずかな知識、あやまてる常識や知識の上で賢いサルが自分は神だと錯覚している時代ですね。長い長い人類の歴史では何度もあったことですね。
創世記2章、3章にある「人と神との相対的地位が縮まりました。」という時代認識ですね。
「ノアの方舟やバベルの塔で見られるように依然として神は人の生殺与奪を握っていました。」に続くことが今後の歴史認識でしょう。この話はローカルなものですが今回は地球規模の話ですね。
「恐れよ。恐れよ。神の怒りを恐れよ。神が見えぬことをよきこととして傍若無人に振る舞いしことを恐れよ。・・・・・」
と書き込むのがまっとうな哲学者でしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「無知の知」の蔓延。これですか。
哲人もこう述べるのかも知れませんが、街の道学者や横丁の隠居クラスにも、これくらいには括ってみせる方が混じっていそうにも思えます。「無知の知」の実例を知りたくなるのも愚者の習性かもしれません。「神の怒り」など期待しているからこそ「賢いサル」のままでいるのではないか、「神は怒りもしないし、褒美もくれない」と気付くほうが「賢いサル」から早く進化できると考える哲人も居てよさそうに思えます。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2008/05/10 21:32

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!