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キリスト教の教義においては、救い主であるイエス・キリストが人類をその罪から救うために、身代わりに磔になったものとされる。

とあります。昔からいろんなキリスト教徒から人類の身代わりにイエス様は磔になったのですと聞くのですが、意味がよくわかりません。○○さんの為に身代わりになって磔になったというのなら意味がわかります。しかし人類の罪からというのがなぜ????と疑問符がついてしまいます。ご存じの方お教えください。

A 回答 (17件中11~17件)

私も意味わかんなーい と思っていました。



で、キメラなんです キリスト教って。

<キメラ>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A1% …

『生物学において、同一個体内に異なった遺伝情報を持つ細胞が混じっていること。』


神の名前をエホバとするキリスト教系の一派ありますよね。
キリスト教派閥の中には、そこを同じキリスト教だと認めていないところもありますが。

で、エホバってどうしてそうなったかというと、、、
ヘブライ語は子音のみで構成されており、発音するとき音化するには母音をつけなければならないんですね。

でJHVHという子音に母音としてADONAIをつけると、エホヴァになるのだとか。

で、ADONAIですが、アドニスのことでもある。

アドニスはギリシャ語ですが、セム語だとアドナイ。
アドナイはヘブライ語だと「わが主(ご主人様)」という意味。

アドニスはベツレヘムで生まれたとされた。
後にイエスもベツレヘムで生まれたとされたが、アドニスの方が先。

アドニスは神殿娼婦のミュラの息子。
キリスト教になると、アドニスをイエスで、ミュラをマリアとした。

シリアではアドニスはeaster(復活祭)に死に、アドニスの血から生まれたのがアネモネだとした。

で、アドニスはアフロディアに仕えるイノシシの仮面を被った聖職者に突き殺された。
そして男根を切り落とされた。去勢です。
神を去勢するということは、つまり穀物の刈り入れを意味する。
(ちなみに、この元ネタはシュメール・アッカド神話のようです)



つづいて<タンムズ>
この神はシュメールの牧羊の神ドゥムジと同じ。
めんどくさいので 以下参照
   ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3% …

死と再生の神です。 しかも羊飼いの神様。
クリストスすなわち聖王であり、毎年、エルサレムの神殿で生贄に供された。
タンムズはユダヤ人がバビロニアから取り入れてもので、バビロニアはシュメール文化のドゥムジ(唯一の息子)またはダム(血の息子)だtった。
彼はその死に祭司絵t自らの血で大地を肥沃にしたので「癒すもの」「救世主」「天の羊飼い」と呼ばれた。
毎年、贖罪の日に、彼は聖なる雌羊の息子である仔羊の姿で生贄に捧げられていた。

すなわち、彼は貧しくなった大地を肥沃にする と考えられていたわけです。

ユダヤ人が贖罪として羊を生贄に捧げた理由は、シュメール文化の習慣を取り入れたわけです。バビロニア経由で。

で、12月25日はミトラの誕生日なのですが、キリスト教はその概念を取り入れ、イエスの誕生日だとした。
どうしてかというと、冬至なので、冬至以降太陽の昇っている時間が長くなるから。

何度でも生贄に捧げられ、冬至以降力を取り戻すという概念は、春になると何も無い大地から芽が吹き出るように、何度でも死に、何度でも復活するという自然を見て、それを擬人化したってことですね。



で、プラトンは、善人の証明として、一切の名誉という名誉を取り去り、鞭打ち、槍で突き刺しても、その人が最後まで義人であり続けたら、その人は義人だったという証明になる とした。


あっちら方面の人は、これらのパーツをつぎはぎして、人工のものを作り上げたってわけです。
フランケンシュタインみたいなものです。


というわけで、アッカド・シュメール神話で、春になると大地が緑に覆われ、秋になると、刈り入れをするために神を殺す という概念なわけです。

神殺しの正統な理由としたわけですね。

で、バビロニアでは、大地が痩せると、聖王に責任をとってもらい、生贄として捧げたんです。
で、新しい王は、古い王を殺すという 息子が父親を殺すという者が足りになり、オウデプスの物語にも現れているんですね。
オイデプスは父親を殺し、母と結婚したわけですが、すなわち母と結婚をするということは、贖罪をして母なる大地に帰還するという意味。


で、イエスが人類の罪を救うために、身代わりとなって処刑された としたのは、恐らくですが、キリスト教を作ったパウロだと思います。
パウロはギリシャ生まれのギリシャ育ちで、ギリシャ哲学の精通していたでしょうし、ギリシャはバビロニアなどの文化の影響を受けていたので、そういうことで、パウロはイエスが人類の罪を救うために とシュメール文化(バビロニア)の宗教をキリスト教と名前を変えて、信仰したのだと思います。

つまりキリスト教のパウロは多神教崇拝だったってわけです。
従ってキリスト教徒は多神教。
古代バビロニアの宗教の信者さんてわけです。

聖餐式で、神の肉体を食べ血を飲むという儀式をやるのも、バビロニアの宗教がそうだから。
だからキリスト教徒は、儀式でバビロニアの宗教を模倣し、イエスを殺して肉を食べ、血を飲むとに至福の悦びを感じるわけです。
聖王に責任を取ってもらい、殺して食うことで、大地は緑に覆われるというバビロニアの宗教を模倣しているわけです。

その神殺しを正当化する理由として、「人類の罪を背負い、殺された。 それは善い殺人だ」としたわけです。


殺人の正当性。
すごいことをパウロは考え出したわけです。
どの文化をみても、殺人を正当化する文化は無いわけですが、オウムが自分達の殺人を正当化したポア思想と同じで、キリスト教も一種のポア思想があり、殺人を肯定したってわけです。
だから、キリスト教はじゃんじゃん戦争をして殺してきた歴史を持つわけです。
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こんにちは。

わたしはキリスト教徒です。聖書も毎日読んでいて、今旧約は13回目、新約は84回目を読んでいます。

回答をかなり長く書いたのですが、コンピューターエラーのため、消えてしまいました。

また後で回答させていただきたいので、まだ回答を締め切らないようお願いします。

では、また、良い一日をお過ごしください。
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私はキリスト教徒ではありません。



イエス様の生き様は、彼を愛の体現者であることを了解すると、運命めいて見え予言めいてもいます。
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この問題は2つの面からアプローチを試みないと理解できません。



1つ目は世俗的な面から。
当時のキリスト教はユダヤの一分派に過ぎません。今風でいえば新興宗教です。
そんなキリスト教がのし上がっていくためにキリストの磔を最大限に活用しました。
できるだけ神秘的に装飾する必要がありました。

2つ目は教義上の道理です。
信仰心を高めるためにそういう設定になっています。
教義はキリスト教と仏教では当然違いますし、同じ宗教でも宗派によって違います。
教義は宗教を信仰する以上は無条件に受け容れるしかありません。
いちいち理屈で考えていても合理的でない部分は幾らでも出てきます。

1と2を合わせてば時代背景と考えても意味がないと分かります。
普通の人はこれで十分ですが、これに3つ目の現代宗教学からのアプローチがあります。

人間がおかした罪をカルマといいます。このカルマは本来各自で清算しなくてはなりません。
ところが人間にそんなものがあるのを理解できる人は現代人でも少数です。
あなた霊魂の存在を信じますか?と同じですから、信じなければ3つ目のアプローチも理解できません。
キリストはそれら人類の成長して肥大化したカルマを一身に受けたというところです。

カルマの存在は実は世界中の多くの宗教で存在が肯定されています。
仏教の地獄に閻魔様がいるなどは教義ですが、これに対してカルマの存在は真理といいます。
つまり、カルマはこの世の法則として実在する。これが科学的なアプローチです。
(科学上の位置づけは現代科学では証明不可能な疑似科学です)

現代の視点からいってもキリストは相当に霊格の高い神体であると位置づけられています。
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mellow91さん、


イエス・キリストは
あなたの身代わりになって十字架にかけられたのです。
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仏教に上座部(小乗)と大乗仏教があるように、キリスト教は大乗への道を選択したからです。


上座部仏教とは、主に出家した本人が悟りを開くことを基本とした宗教で、大乗仏教とは、最初に悟りを開いた釈迦を信仰することで救われるとした宗教です。

同様にイスラム教はコーランを自ら守り、ユダヤ教は、神との契約を自ら守ることで救われるのですが、
キリスト教はイエスを信仰すれば救われるとしたのです。

なぜイエスを信仰の対象にするかというと、イエスが自分が犠牲となることで、信者を救うと神と契約したからです。
つまり、イエスを信仰するキリスト教の根本が、神との契約で、その契約はイエスの犠牲によって成り立っているんです。
ということで、キリスト教の教義では、イエスの犠牲によって、神はイエスを信仰する人を救ってくれるとなっています。
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 人は 身体の運動として生活します。

これを脳のはたらきは 心理として 把握します。と言っても 身体の動きを決めるのも 脳の役目だという見方も出来ます。
 脳のこのようなはたらきは 精神として捉えられました。この知性によって 身体の運動としては とても敵(かな)わない動物に対しても 人は 君臨するようになったというわけです。
 おそらく人間は 自然の力の恐ろしさを知った場合や あるいは 単純に 生活の中で自分の思うようにならないというような場合 これらの場合のような・人間の精神や知性をもってしても敵わないというその力を 神と呼んだのでしょう。 

 このとき 唯心論=唯物論というような極論を持つ人が出ました。これは どちらも 身体の運動なり同じことで心理の動きなりとしての精神論・観念論であり そのような原理主義としての思想です。早くいえば 人間の精神が 神であるという《理論》です。
 精神主義によれば――それは 人間の知性を超えた神を想定するにもかわらず この神を みづからの精神の中に取り込み得る・ゆえに取り込もう・そして取り込んだというわけですから その限りで―― 世界のすべては みづからのものであるということになるようです。何でも自由であり 自分の思うように自由にできるというわけです。
 言いかえると――そんなことは ありえないわけですから―― われは いかなるものの下にも立つまいという宣言を為し これをみづからの信念としたという思想形態です。そういう思い込みです。

 精神主義は 一人でも自由な者をみれば 嫉妬します。自分よりも自由に振る舞う者に対して ねたみ・そねみを起こします。他人が ちょっとでも いいことを言ったり為したりすれば けちをつけます。自分と同じ精神主義でなければ これを排斥にかかります。

 この精神主義なる病める魂を癒やすために この朽ちるべき身体の限りある知性の 悲しいかな うつろいゆくべき存在としての人間が 神そのものであるという物語を作ったのです。イエス(人間)=キリスト(神)という虚構です。
 イエスは かれが《飲み食いすると、〈見ろ、大食漢で大酒飲みだ〉》(マタイ11:19)と言われたふつうの人間です。かれが 伝えられるところによると 全体として見て人間にとって妥当な・言葉や行ないを含めてかなり貴い表現を残しているのを前提として しかも 最大限に飛躍して 人間であると同時に 《神》そのものでもあると 噂されたということです。

 こうなれば 精神主義者も 魂消たことでしょう。そして魂消たでしょうが 中には この虚構をも みづからの精神原理の内に取り込んでしまった場合もあるようです。要するに 精神が神だという原理に立ちつづける場合があるようです。
 つまりは――もし《罪》ということばを用いるとすれば―― この精神主義なる思想形態が 《人類の罪》の代表として 扱われているというものです。原理主義から自由になることは われわれ人間の悲願です。

 つまりは もっとも このキリスト・イエスなる物語とて もし人間がつくったのであれば 精神主義というあやまった思想に対して それを癒やすための有効性に 限りがあるということでしょう。
 そしてわたしは 以上のすべてを 人間として 説明に努めて来たのですが もしイエスがキリストであるならば もちろん 神の側からは もっと気の利いた話が与えられるかも知れません。

 《われは いかなるものの下にも立つまい》という思想形態が 《人類の罪》であり これを癒やすことは 特定の○○さんの生活にもかかわって来るものです。

 なぜ 磔の刑によって死ななければならなかったかは ほかに質問がありますので 参照されるとよいでしょう。物語において もし十字架上から イエスが降りて来たなら それは 人間ではなく神でありその奇蹟にすぎないし そのような虚構を書いたにすぎないと言われるでしょう。つまり人間には お呼びでないことだと思ってしまうでしょう。 もし《神であり同時に人である人間》でないとすれば その十字架上の《癒やし(罪の贖い)》が ただの人間の知恵とその努力によって おこなったものだと受け止められて おしまいです。ただの相対的な思想だとして片づけられてしまいます。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3093850.html
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