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死海写本のような新たな聖書写本が見つかる可能性
はあるでしょうか。
あるいはエルサレムでイエスが処刑されたときの様子
を見ていた人間が書き残した個人的なものも含めた文
書などはどうでしょうか。

A 回答 (3件)

>あるいはエルサレムでイエスが処刑されたときの様子を見ていた人間が書き残した個人的なものも含めた文書



ヨセフスだったか、タキトスだったか忘れましたが、遠くに3人が磔刑に処されている光景を見た と書き残してはいるそうです。

ただ、それがイエスたちの磔刑だったと断定はできない。

ヨセフスのユダヤ戦記にイエスについて言及されている箇所があるそうですが、どうやら後世の加筆の疑いが強いそうです。

ヨセフスは、ユダヤの隅々まで詳しく書いていており、ヘロデ王の事に関しては、「これでもか」と書いているそうですが、イエスに関しては、どうやら知らなかったのか、全く書いてない。

タキトスはキリスト教のことに関しては、社会不穏を起こしている集団としてローマ帝国から弾圧されているということは、書いたそうですが、彼らが信じるイエス自身に関しては全く知らなかったみたいです。


当時、ローマ帝国はローマに政治的に反逆したものは、磔刑に処していたそうです。

ピラトはそれまでに派遣されていた統治者同様、強烈な反ユダヤ思想で、ユダヤ人を挑発して煽っていたらしい。

ローマ帝国に反逆する<疑い>のあるものは、裁判無しに処刑していた人物だったらしい。

これが史実らしいです。

となると福音書の内容と史実が違うことになります。

ということは、福音書は創作文学であるという疑いが。


ユダヤ人 というかイスラエル人 というかヘブライ人は、自分の思想を、かつて有名だった人の名前を用い物語を作り、その物語をもって自分の思想を表していたらしいです。

だから、モーセ、ダビデ、ソロモンたちを主人公にした創作文学を作り、自分の思想を訴えていたらしい。

そうやっていくつも作られてしまうと、後の人はどの物語が史実で、どの物語が創作文学なのかわからない。

聖典とするとき、これは後世の人が書いた物語じゃなく史実じゃないかな と思うものを選んで聖典にしたらしいです。

が、神に関することが書いてある物語は、例え疑いがあっても燃やしてはならない としていたので、外典として残したのだそうです。


キリスト教は沢山の勢力があり、自分達こそが全キリスト教の主導権を握るのだとして、ドッグレースしていたようです。
主導権を握れば、多くの信者のトップにたて、彼らから収入の10%を納税(いわゆう所得税)させれば、巨額の富を得られるので、是が非でも主導権を握りたいとして、熾烈な争いをしていたようです。

後に聖職者のなった場合、全財産を教会に納めること とし、結婚できないようにして、金持ちの遺産を全部横取りする政策をしたようです。

こういうお徳さがあるとわかっていたので、絶対に自分達が主導権を握りたかったわけです。

そのためには、他が邪魔。 他をどうすれば消せるか。
聖書を作ってこれが唯一の真実の物語だ としたんです。
これ以外はニセモノ、異端だ として、他の勢力を弾圧。

聖書を作った人たちの知恵が勝った。
そして修道士たちに、偽典と決定したものを燃やさせた。

ところが、アレキサンドリア教区の修道士は、神に関するものが書いてあるものは、例え疑うがあるとしても、燃やすなんて、、、として、隠した。
その1つが、ナグ・ハマディーだとされます。


イエスに関する内容(福音書)は、200以上あったそうですが、それがたったの4つ、そのうち3つは同じ内容なので、たった2つだけに力技でした人たちの功労の結果が聖書。

今日新約聖書として読まれている書物は、特定の人に操作されて、真実だとされたにすぎず、真実かといえば、誰もそれが真実なのかどうか、わからないわけですね。


誰も真実かどうかわからないが、史実であると信じることこそ、信仰なわけです。


信じるということは、すごいもので、この宇宙は6千年前に神様がお作りになったと信じられるものが<信者>なわけで、日本から1万年以上前の白骨が出てきたとしても、「それは 絶対に あ り え な い 測定器が間違えている。 宇宙の誕生より日本の方が古いなんてありえない」 なわけです。


さて、時間は一方的に過去から未来に流れていて、逆は無い。
が、自由に行き来できる世界。それが創作文学・小説です。

フィクションの世界で人は自由に時間を行き来できます。


アーヴィング ウォーレスという人は、脚本家だそうです。
その彼がイエスに関しての小説を書いた。

その物語は、イエスの実弟ヤコブが残した書物が見つかり、イエスが実在したという証拠となり、世の中の人は「やはりイエスは実在の人物だったのだ」と安堵した という内容です。

年代測定機にかけても、福音書の写本が書かれた頃と同じ。
(か それより古かったかな?)
インクも紙も年代がドンピシャ。
字体もその当時のアラム語だと専門家により断定された。
まさしく真実の大発見。


ヤコブの福音書の出現で、家庭不和だった家庭が、仲を取り戻し、犯罪を犯した人が改心し自白し、世の中が幸福感に包まれる人々で満たされた。


実はニセモノ。
2000年前に書かれたものじゃなく20世紀に書かれたもの。


できるんですね。
測定器を誤魔化したのではなく、古代の書物の白紙の部分を拝借して、それに書いた。
そのニセモノを書いた人はアラム語の第一人者よりも、古代アラム語に精通していた。


本人が「自分が書いた」と真実を告白しなければ、どんな専門家すら騙して信じ込ませることができる。

どうしてその人が、そんな大それたこをとしでかしたのか というと、キリスト教にさんざん利用されたあげく、捨てられたから。
生きたまま地獄の苦しみを味合わされたから。
キリスト教に対する復習なわけです。

真実かどうかも見分けることができないのに、人々に真実だとふんぞりかえっていばって言えるあつかましさ、ずーずーし、馬鹿さ加減を世に知らしめ、一番愚かな者がリーダーになって弱者から搾取して、のーのーと暮らしていることを告発するため。



で、キリスト教団のトップあたりの人に、主人公は「それはニセモノだ ニセモノであるという証拠を私は持っている」と連絡したのです。
ニセモノだという証拠をもっています、 あやうく犯人の罠にはまって騙され恥をかくところでしたね。 と。


が、やられました。

ニセモノである証拠をその聖職者に奪われ、世界的に放送で「ついにイエスが実在していたと証明されました、ヤコブの福音書が見つかりました」となった。


もうニセモノだと示す証拠も聖職者に取られたので、何もできない。
聖職者はニセモノであるとわかっていながら、自分のために利用したわけです。

そして人々は現代に書かれたニセモノの福音書を、真実の書物だと思い込まされ、幸福感に浸る。


主人公は考えたんですね。
例え、それがニセモノであっても、そのニセモノを、そのことによって人々が幸福感に浸れるのなら、それはそれでいいのではないか と。


元々彼はキリスト教など微塵も信仰しておらず、牧師の父親とも仲が悪かったのですが、父親が死ぬ前に「私の苦労がヤコブの福音書の出現で実を魅すんだ。イエスの実在性を少しは疑っていたが、信じたいという気持ちを持ち続けたという努力が、とうとう実を結んだ。息子よ 私が正しかっただろう」みたいなことを言う。

息子は父親が真実だと思っているものは、ニセモノだと知っていた。
でも、言えなかった。
「そうですね お父さんは正しかった」と言った。
父親が亡くなった後、墓石で激しく泣いた。


身を滅ぼす麻薬(偽物の物質で、それによっても人は快楽を感じることができる)で人々が幸福感を得られるのなら、それでいいのか。


そして決心をした。
まるでゴリアテに向かう小さいダビデのように、巨人と戦うことを決意したんです。
巨人は倒せないかもしれない。
でも、それでも真実を知らない人々に真実を伝え、それで、人々にジャッジしてもらい、それでも麻薬を欲するのなら、それはそれでいい。
が、麻薬だと知り、摂取をやめて、身に応じた暮らしをする選択肢も与えようと。


片方の情報だけだと、自由意志が働いていないで、選択の余地のない奴隷人生でしかないわけです。

人は他の人の奴隷であってはならない。
人が人を支配するなんてあってはならない。
人を支配下に置くために、洗脳して自分の思い通りのなるように操って至福を肥やす悪代官の支配する世界であってはならない。


はぁはぁ 作家の言いたいことってそんなところかなぁ と想像しました。

神が支配する世界の実現のようで、実は神のかぶりものをした人間によって他の人間が支配され奴隷になっている詐欺世界。
人が神になり、他の人を奴隷として使う そんな偽物の世界などいらない。


イエスにまつわる話は多くあり、どれが出ても、偽典として処理されると思いますが、聖典となっているもの書物自体 すなわち現代において福音書として読まれているこの書物自体 ニ セ モ ノ の疑いが濃厚。


ニセモノであろうと関係ない それによって人を支配できるのなら、便利がグッズ それが聖書。


新約聖書で奇跡とされているものは、恐らく翻訳ミスで、奇跡物語になってしまったのだと思います。
元に意味に戻せば、なんてことないユダヤ教の教えにほかならない。


ただの水を癌が治ると偽って売る行為は詐欺。



現存する最古の神話。
旧ニネヴェから発掘された楔形文字で書かれた粘土板。
死海写本より古い時代に書かれています。

その物語の伝承を受けついたものが、旧約聖書にそれを入れたわけですよね。
旧約の時代を生きた人は、ニネヴェで発掘された物語の思想をもっており、それで自分達の信仰を確立していったわけですよね。

楔方文字の神話にはアダムとエヴァは登場しないが、人間がどうして作られたのかは書かれており、人間が神にどうして服従しなければならないのかの理由が書かれている。

さらに人間が神をしのぐ活動をし、だんだん神を超える存在になりつつあったことも書かれている。

そしてこのままではいかんと洪水により人間を滅ぼしたということも楔形文字の神話に書かれている。

いつだっけ? これが見つかったのは???
発見は死海写本よりもっと古かったと思います。


というわけで、まだまだ見つかる可能性はあり、エルサレムの黄金の門。
ここも怪しいです。
が、アンタッチャブルな領域なので、誰も調べることはできない。
逆にアンタチャブルな場所なので、隠すのに都合が良い場所なわけです。
どうしましょう、 ここ調べたら、いろんなもんが出てきたら。笑

一番怪しいのはヴァチカンの図書館とかネクロポリス。
隠蔽するのに一番安全な場所。
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無いとは言い切れませんね。


得てして、そうした歴史史料というのは偶然見つかることが多いですしね。
例えば、死海写本も地元の羊飼いの青年がたまたま見つけたのが始まりですしね。
聖書に限らなければ、こうした例は枚挙にいとまがないです。
EX:「秦の始皇帝霊廟、地元の農民発見」「古代エジプトのアマルナ文書が現地の農民によって発見」「印刷業者の男が、新たに購入した家の地下室からトスカーナ大公妃ビアンカ・カペッロの手記発見(ただし、後の分析で偽モノと判明)」etc,,,

こうした例からも分るとおり、発見される可能性は捨てきれません。
ただ、世界中の聖書研究者やキリスト教史研究者が血眼になって探してもなかなか見つかりません。
見つかっても、偽書であることが殆どです。
なんで、見つかる可能性は否定できませんが、いつになるかは分らないのが本当のところですね。

それよりも、今ある貴重な史料を分析する方が研究の近道ではあります。
しかし、dongri5656さんが指摘されている通り「実際は学者や仲介業者連中のどろどろした金銭問題」を解決する必要がありますね。
特に、素人の好事家の場合、保存方法が悪く痛みが激しい事が多々あります。
歴史学の世界の一番の課題でしょうね。
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あるでしょうね。


近年においても、「ユダの福音書」や「トマス福音書」などがみつかっています。
ただし、それらは正典とされる事はありません。
外典(聖書を補完する資料)か為典(聖書の内容と異なる資料)とされるでしょう。
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この回答へのお礼

どうもです。
私の知る限りでは、「ユダの福音書」や「トマス福音書」などが
みつかったのは近年とはいえないと思います。「ユダの福音書」は
ここ数年のあいだに注目されましたが実際は学者や仲介業者連中の
どろどろした金銭問題で、後半の運命だけでもたしか20年くらい
貸金庫に眠っていたはずです。かなり痛んでしまったらしく現翻訳
もがっかりするようなところがあります。
「トマス」に至っては第二次大戦前くらいですよね。しかしこれも
長く秘匿されつづけました。
今もどこかで、決定的な文書を隠し持っている人間がいるのかもしれ
ません。

お礼日時:2008/06/24 19:43

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