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聖書にある失楽園について聞きたいのですが、
自分は今まで失楽園の原因はアダムとイブが神の言いつけに背いたからだと思っていました。
しかし先日、「善悪を知り神様の様になりたい」という傲慢な態度故、追放されたというのを本で読みました。
神の言いつけを背くことは悪い事です。
しかしそれはいい事、悪い事の悪い事であって善悪ではありません。
一方「神の様になりたいという傲慢な態度」は善悪の悪ではないでしょうか?
アダムとイブは知恵の実を食べる前は善悪を知りませんでした。
だからこそ知恵の実を食べ、善悪を知りたかったのです。
もし本当に上記の理由で楽園を追放されたのなら善悪を知らないアダムとイブを悪の罪で罰し、
そのせいでその子孫である我々が苦しめ続けているというのは、「そりゃないぜ神様」と思うのですがそうでしょうか?

A 回答 (8件)

 【神の言いつけを背くことは悪い事です。

しかしそれはいい事、悪い事の悪い事であって善悪ではありません。】◎⇒その通りと存じます。聖書を濾過紙で濾過しないで読むと、理解できないのが残念です。伝えてきた多くの方の問題だと存じます。
 【一方「神の様になりたいという傲慢な態度」は善悪の悪ではないでしょうか?】◎⇒その通りと存じます。神の国においで、ということは向上しなさい。そんなありよう、生活ではいけませんよ、ということだありましょう。
 【アダムとイブは知恵の実を食べる前は善悪を知りませんでした。
だからこそ知恵の実を食べ、善悪を知りたかったのです。もし本当に上記の理由で楽園を追放されたのなら善悪を知らないアダムとイブを悪の罪で罰し、そのせいでその子孫である我々が苦しめ続けているというのは、「そりゃないぜ神様」と思うのですがそうでしょうか?】。】◎⇒その通りと存じます。人は無知では向上できません。無知くらい度し難いものはありません。アダムとイヴが楽園をでていったのは、敢えて神の認識の仕方でない仕方を知るためであり、違う生活や手法を経験するためです。
 それは神から独立して、個別化や分別、知的認識という経験をしてみる必要からです。そういう世界もも実は創造界にはあるのですが、エデンだけにいてはエデンだけの世界しか知りえないではないですか。
 確かに、エデンにおける神の認識方法や生活手法は十全ですが、神もそれ以外の仕方をしており、経験しております。
 それだけしか知らないのではいけないから、敢えて分別、くぶんという創造界の創造の仕方と認識の仕方を経験する、ということを象徴しているのがエデンを出るということであり、人類の歴史の一過程なのです。
 最初のお方のご回答などなどとは別に、ご自分でお考えになり、もう一度別の表現で疑問をご質問されることを、お勧めします。一番目以外のご回答はご立派ですがやはり、残念ながらここは、ひとまず終了された方がいいと存じます。
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宗教は基本的に人間を解放させる事に『眼目』を、おいています。

多分どの宗教もその基本は同じ事かと思います。それでは、『何』から開放させるのか?という事ですが。

第一番目に上げる事と言っても、是で他の事も全て済んでしまいます。それは『有限の今の、限られた人生で、限られているもろもろの制約、或はストレス』からの解放と云っても良いかと思います。

それは言い方を替えれば『精神疾患』からの開放と云っても良いかと思います。『精神疾患』の元はストレスです。そのストレスと言うものは全て自分で作っています。同じ環境にあってもストレスを感じない人と、大いにかんじる人が居ます。

ストレスを感じない人には「宗教」は、必要ない事と言えます。

大いにストレスを感じて、大いに悩む人が居ます。『精神疾患』と云っても『神経症』といっても、悩みといっても皆同じ『原理』から発生しています。その原理とは、人間の心に秘密が有ります。

漠然とした不安感や罪悪感、生き難さ、違和感、他にも言い方は無数にあるかと思いますが、この事が起こる原因が『精神疾患』の原因と言えます。それは『何』なのかというと、心の対立と矛盾なのです。

キリスト教において天国に一番近い存在は『幼子』といいます。仏教においても『赤子の心で』という言い方をします。実はこの事が関係してきます。それは脳の機能の関係です。アダムとイブが「智慧のリンゴを食べた」という事は『脳の機能が完成に近ずいた』という事です。

それは自分を見て他人を見て『反省』出来るようになった事を指しています。仏教で言う所の『分別』という、色眼鏡で世の中を『認識』し始めた事を言っています。それまでは『天国』の住人だったという事です。その分別が付いて、善悪の価値判断をするようになることが、天国から追放された。という事です。どうしてかというと『不安』を憶えるようになる、という事です。

その不安を増幅させて、拡大させたものが『地獄』と言えます。その『増幅』させるものがキリスト者なら「悪魔」と言えます。仏教徒なら、「妄想」と言えます。それらは全て本人が作って本人が怯えている事と言ってもよいかと思います。

そんな事がどうして起きるかと言うと、脳の機能に関係してきます。
人間の脳自体が『二元論』で出来ているとも言えます。それは左脳と右脳の関係と言えます。左脳と右脳の対立と矛盾が『人間の全ての悩みの元となっています。

それがどういう事かと言いますと、左脳には自我意識があります、自分の言意識を司っています。分別します、論理的に物事を処理します。

それに引き換え右脳には、『意識』が無いように感じますが、本当は確かに有ります。一人の人格が在って是にも意識が有ります。右脳の機能は分別出来ない事を司っています、それと無意識を統率しています。
そして、何にでも対応出来るようになります。

従って分別脳は、『有限』の事が専門に、無分別脳は『永遠』の事が専門と言う事になります。この事が『二元論』としての大問題を起こす事になります。

人間の最大の悩みとは『自分が死んでゆくことを意識』する事と言えます。そのことで説明するなら、話が分かりやすくなります。その時に大いに悩む人が居ます。最大の悩みと云っても良いかと思います。その時に『自我』が苦しみ。もだえます。自我意識は『最大の危機』を迎えたと言っても良いかと思います。

その苦しみは『想像を絶する程のもの』と言えます。是が『精神疾患』の原因と言えます。それがどういうものかと言いますと、自我意識が苦しい想いをする事は、もう一つの意識がそうさせているからです。

それでは『何で』自分を守っているはずの者が、自分を苦しめるのかと言うと、『気が付いてもらいたいものが有る』という事です。先ほどの人間の生死の問題に戻りますが、有限の身である自我意識の苦しみを助けたいと言うのが、本当の所です。もう一つの意識は『自我意識』を助けたいために、自分の存在をアピールします。そのアピールが、『悩み、苦しみ、漠然とした不安』と言えます。

この脳の機能の説明は『禅問答』を引き合いに出す時に、はっきりします。「禅問答」は『左脳の分別脳』では機能の問題から答える事は出来ません。「生死」の問題も「精神疾患」の問題も皆同じ事です。

先の『生死の問題」で、手も足も出ないで呆然としている自我意識に対して、もう一つの意識が手を差し伸べていて、自我がその手を払いのけている事が、『人間の悩みなのです』お釈迦様が言った『自我を去れ』という事は『我を捨てよ』という事です。

悩みの果てに『自我』が、降参する事が有ります。それが『大死一番』と言えます。自分は計らって、計らってやってみたけれど、出来ないと認める事です。その時に右脳の意識が出てきて『左脳の自我意識』では刃がたたない問題を『解決』してくれます。それが『悟り』です。

その悟りで左脳には、解けない問題があると言う事を認めて、自分の出来ない事は右脳の意識に任せよう。この事が『悟りです』それからは二つの意識には、認識のずれがなくなります。

二つの意識の対立と矛盾を『悩み』『精神疾患の症状』として、感じていました。その対立と矛盾の解消で、全ての苦しみから解放される時が来たと言えます。禅問答が解けたかどうか、と言う事を確認する言葉には『生死の問題が解決したかどうか』と言う聞き方が有ります。

キリスト者ならば、『神』に会って救われる。という事になります。
仏教徒ならば、仏にあう、又は向こうからお助けが来た。他にも沢山の表現が有るかと思います。神、仏を信じられない人はそれらは無いものと思っています。ですが本当の事を言えば、未だ会っていないだけなのです。人間の頭は半分は『神、仏』で出来ています。
       
           『一切衆生悉有仏性』
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 創造は区分であり、認識ですからです。


 それは神を区分して、没却することに繋がりましたので、そのことも神の予定の中のことですが、神はもうそれを回復しております。
 人間はそれを履み、復習して、同じになればいいのです。
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>「善悪を知り神様の様になりたい」


これは創世記3章に書かれているように、ヘビに扮したサタンが「あなた方は決して死ぬようなことはありません。・・・ 神のようになって善悪を知るようになることを、神は知っているのです」とエバを欺いたのです。エバの発想ではありませんでしたが、結果自分で判断し、ついにはアダムも悪事に誘い込んでしまいました。その後サタンの問いかけ「人は神無しで生きていける、神こそが間違っている」というものに結論を出すため時間をかけましたが、人間社会を見て結局サタンが間違っている事が分かり、人類を抹殺しようとしました。それを見ていたキリストが、自分が身代わりになるから殺さないで、神本来の人間として、生き残るチャンスを与えて!と懇願したのです。
キリストが地上にいるとき、その救済はいつ来るのか?という弟子達の問いに、前兆を見逃すな、と答えました。地震、食料不足、疫病、戦争、親に逆らう子供達、地球を破壊する者達が現れ、その後人類史上経験の無い天変地異が起こる、とマタイ24章などで語っています。キリストが語ったこれら前兆が当てはまるのは、歴史上今の時代しかありません。
当初神が作った人間の形とは、想像できないほどの機能を持っており、天変地異の後の世界も、どのSFよりも素晴らしく、現実味のある世界観で、イザヤ、啓示等に詳しく記されています。この世界を思うと、今の時代の苦しみなど、考えるに値しないほどのものです。
これがどれほど現実的なものか、は聖書に書かれている事柄を熟考すると見えてきます。例えば現代社会に発見された物は、既に聖書に書かれたりしています。地球が丸く宇宙空間を飛んでいる、微生物の存在、豚肉を生で食べる危険性、輸血による肝硬変等の感染症、近親相姦の危険性、同性愛による病気など。
エベレスト山頂には貝殻があり、ここがかつて海で、全地が水で覆われた事を証明しています。また人工衛星が打ち上げられるようになると、中東アララト山に巨大木片が見つかりました。
さらに発見された化石には進化過程の物はありません。突然動物、魚、貝、虫、木などが完全な形で現れているのです。
また北極で発見された凍結マンモスの口の中に草があったり、古代木片なども発見され聖書にあるように地球全体が温暖な気候だった事を表しています。
道徳などは、かつて平和に貢献したインドのマハトマ・ガンジーはこう話していました。「キリストの山上の垂訓(マタイ5章)を実行していたらなら戦争は起きないであろう」
新しい神の直接統治時代が来る、これは架空の物語ではありません。
苦しい時代は間もなく終わるのです。
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 おとぎ話には おとぎ話がいいのです。



 エワという女の人は 知恵に長けていた。
 光がモノに当たって 遮られても その後ろ側の陰となった地帯にも あたかも曲がって進むかのように 入っていくと知り ここから 自分の魂の 方向の偏りを想い描きました。
 このふとした体験を 夫のアダムにも話しました。かれのほうは そのような心のズレについては 気が向きませんでした。
 ここから 心のズレ 魂のユレとマガリ そして 人と自分とのチガイを知ることになったというおとぎ話の始まりです。

 ここから そうは言っても しかしながら 言語表現のいわば無限の可能性を見ることになったと思われます。
 言葉による世界の知解に対する飽くなき追求が あたかも生存の欲求を満たすことであるかのように始まる。その言葉の表現における人びとのあいだでの互いの理解のちがい これも 分かってきた。
 知恵の木から 人間はみづからが その木の実を採って食べた。エワに勧められて食べたアダムにしても 同じく言語表現の世界に入り その海に漂うことになった。
 知恵の木の実を食べてからは ことばの表現によっておこなう意思疎通において 互いの思いにちがいのあることを知ることになり 善とそうではない悪とが 始まった。自分の思いが善だと思えば それと違っている相手の思いは 善ではないと思いたくなる。それは 悪だと言いたくなった。

 ここからは 言語にふたつの類型が始まった。《善だ悪だとわたしの思いを語る》スサノヲ語と 《相手に善と思わせる表現を用いて相手を説得し 自分の善を実現していこうとする》アマテラス語とである。
 《人間語》ともよべる《スサノヲ語》は 互いの善を 互いに悪だと思っても これらを互いに認め合って 少しは相手も活かすように生きる素朴な共生の知恵である。(ムライスムあるいは インタスサノヲイスム)。
 《アマテラス語》は あくまで 光のあまねく世界を照らすように 概念の普遍性を求める表現形態である。あるいはまた 途中でその真理追求を打っ棄(ちゃ)って 相手の無知につけ込み 相手に見せかけの善を ほんとうの善であると示すかたちで 丸め込むという場合も 実際には 見られる。だが この場合をも含めて 一般にこの類型は 《アマテラス語弁論術》と呼ぶとよい。

 (科学も つねに 普遍性の明確化については 進歩する状態にあるとしか言えない側面がある。その場の暫定的な判断に従わせようとして 一面の真実を明らかにするために利用されることがある。
 (あるいは 既成の秩序や既存の現実が重くのしかかって その不合理だが事実としての有力に従わざるを得ないという政治的判断がくだされると 悲しいかな 科学は 涙を飲む。
 (そのようなとき しばしば アマテラス語弁論術は 言語表現の美の追究としても 科学的真実の追究としても 空しいのだろうか)。

  *  *  *
 
 おそらくこれで 現代の世界に戻って来られるでしょう。
 要は アマテラス普遍語に裏打ちされたスサノヲ人間語をしゃべることが 望まれるでしょう。
 これが わたしたちが 現象として目指す共生の世界ではないでしょうか。つまり 禁断の木の実を食べたという人類の・そうとすれば罪から 一人ひとりが自由になるという世界のことです。
 逆に言うと いまも いわば《発展途上の過程》にあるわけですが そしてまた 木の実を食べたことの後遺症が わづかに あるかも知れませんが もはや 世界は 新しい局面に入っているのではないでしょうか。どうお考えになりますか?
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>自分は今まで失楽園の原因はアダムとイブが神の言いつけに背いたからだと思っていました。






>神様の様になりたい」という傲慢な態度故、追放されたというのを本で読みました。

も両方知っており、キリスト教側の第一は、アダムが神の意見を取らず、イヴの意見に従ったのが原罪だとしています。

だから、聖書を作った人は「女は男を堕落させ限られた命にした張本人だ」と信者に教えたわけです。

善悪を知ることは悪いことじゃない。
だって人殺しが悪いことだと知らなければ、人殺しをしてしまい、神様に怒られるが、悪いことだとわからないので、何度でも人殺しをするわけでしょ?
だから善悪を知ることは悪いことじゃないと思うんですね。


で、どうして悪いこととなったのかと考えたとき、モトネタが原因かな? と思いました。

ルシフェルは神の地位を欲して神に挑み、落とされたという内容ですよね。

このモトネタは、シュメール・アッカド神話の、、、えっと。。。。
創造主であるティアマアトにマルドゥックがその最高地位を欲して挑んだんです。

神々は真っ二つに分かれ、大戦争をしたんです。
いわゆる これ、ハルマゲドンのモトネタです。

で、キリスト教のハルマゲドンは、天使たちがまっぷたつに別れ、悪魔についた天使たちと、神側について天使たちとが大戦争をし、最終的に神側が勝利する となっています。

で、その話のモトネタでは、天使とか悪魔とかでてこなくて、全部神様なんです。

で、なんで戦争をすることになったかというと、ティアマアト(神々の母であり創造主)に最高地位を自分にくれ とマルドゥックが要求。
ティアマアトは夫まで殺したこの孫だったかな? が夫殺しだけではなく、地位すら欲するなんて なんて悪いやつだ こんな悪いやつに支配させたらとんでもないことになる みたいに思ったのか、徹底交戦したんです。

竜に変身して、戦ったわけです。
その際に いわゆる 戦闘要員としていろんないわゆるマルドゥック側に言わせると化け物を生み出し、「いけーー」と戦わせた。

で、強い 強い さすがに全ての神を創造した初源の神。
べしー ぼっかーーん おりゃーーー とマルドウック陣はボコボコにされたんですね。


で、マルヅゥックはどうしても その地位が欲しくて、ティアマアトがマルドウックを自分の内部に取り込んでもとの状態にしようと口を明けたとき、「取り込まれるかぁ」と暴風を起こして、ティアマアトの口がふさがらないようにして、矢を射たんです。

ブレス攻撃でいわゆる、、、、ヘブライ語だとルーアハ ギリシャ語だとロゴスかな?
で、さすがのティアマアトもこの攻撃に撃沈。

で、創造主の地位を欲してとうとう手に入れたマルドクックは全ての神の最高神になったわけです。

で、ティアマアトを倒したために、いろいろティアマアトがやっていたことを、自分達がしなければならなくなり忙しくなったんですね。

で、身の回りのことができなくなった神々は、マルドクックに「あんたがティアマアトを倒したため、忙しくて、身の回りのことができなくなった。 身の回りの世話をする奴隷が欲しい」って要望したんです。

で、マルドウックは、神々の世話をする奴隷として、ティアマアト側の最高司令官のキングーを殺してその血と土をこねて人間を作ったわけです。

だから人間を作ったのは、最高の地位を欲して大本の神を殺したマルドクック。
でも、人間の地はティアマアト側のキングー。

で、神々は人間が神に逆らわないように掟を作り、虹をかけて、人間は虹を見るたび、神との契約を思い出すようになった とさ。

というのが、現存する最古の神話の内容。


で、その続編が、アダムとエヴァは神々の農場で奴隷としてこき使われている状況で、そこに竜 いや 蛇が「エヴァちゃん エヴァちゃん あんた騙されてまっせ 本当にことがわかるようになりたいか?」と聞いた。

で、真実を知らされ、「えーーーーーーー 創造主を殺して地位を乗っ取った神を私達は善の神様だと信じていたの? 私達のためって言ってたけど、真実を隠蔽するためだったの? 私達は彼らの奴隷としてこき使われていたのに? 愛されていると思っていたが、騙されていたのぉぉ」 となった。

ってのはグノーシスの創世記の部分。


で、キリスト教側は、乗っ取り屋 マルドゥック崇拝なので、ユダヤ教も乗っ取ろうとしたが、この神話を異端として、この世からこの話を消滅させようとしたんですね。

で、2000年ほど前に消滅させた・・・・はずだったのですが、エジプトから出てきちゃいました。
隠蔽失敗。



>善悪を知らないアダムとイブを悪の罪で罰し、
そのせいでその子孫である我々が苦しめ続けているというのは、「そりゃないぜ神様」と思うのですがそうでしょうか?

ちゃいます ちゃいます。
真実かどうかはともかく、別の創世記の物語があったのですが、乗っ取り屋が隠蔽して、消したんです。
で、自分達を信じていればいいーーーってしちゃったのですが、今度はティアマアトは出てこず、なんで出てきたんでしたっけ?
忘れました。とにかくエジプトの農夫が発見して、別の物語が過去にはあったってわかったわけです。

で、過去に複数の話があったが、それをたった一つにしようとしたことがあり、それが成功して、その片方の思想が現代のキリスト教の元となっており、苦しめているのは、ティアマアトの地位を欲して奪ったマルドクック側の兵士なわけで、ティアマアトは奴隷の地位から開放しようとしたってのが、アダムとエヴァの物語 という捕らえ方もあるんじゃないか と。

で、モーセは奴隷だった人々を引き連れて移動したが、「こんなことならエジプトの奴隷のままでいたほうがyほかった」と民は言ったんですね。

どっちがよいのでしょうねぇ???
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どうもです。

No.1です。

>しかし先日、「善悪を知り神様の様になりたい」という傲慢な
>態度故、追放されたというのを本で読みました。

ってのがそもそもの発端ですよね。で、これってそうなんです
かっていう問題です。
聖書、少なくとも旧約の実現を目指す新約聖書では、傲慢でも
なんでもありません。古代ギリシャでも人間は神のように作ら
れたものということになっています。その辺がぜんぜん違うと
思うんですね。

あとのことは上のことからおのずと引き出されることです。
他のもっと優秀な人が答えてくれるでしょう。
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>「そりゃないぜ神様」と思うのですがそうでしょうか?



あなたはクリスチャンですか?
あるいはユダヤ教徒ですか?

もし仏教徒か家が仏教のなんらかの宗派なら、見当違いも
はなはだしいです。
だいいち、マジで神を信じた上での疑問ですか?

その前提が否定されれば、あなたの質問はまったくの愚問で
しょう。
また、あなたが読んだというその本はそのとおりのことが
書かれていたのならガセです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>もし仏教徒か家が仏教のなんらかの宗派なら、見当違いもはなはだしいです。
>だいいち、マジで神を信じた上での疑問ですか?
自分はクリスチャンでもありませんし神も信じていません。
しかし聖書の内容について疑問に思ったので質問しました。
見当違いならどこがどう見当違いなのかを教えてほしいです。
宗教の事はよくわからないのですが異教徒が聖典にいちゃもんをつけるのは哲学上も問題はあるのでしょうか?
>その前提が否定されれば、あなたの質問はまったくの愚問で
しょう。
どこがどの様に愚問なのでしょうか?

お礼日時:2008/07/01 13:00

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