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こんばんは。

最近人格障害と言う言葉を知りました。
妄想性、分裂病質、反社会性人格障害・・色々あると分かりました。
しかし、はたと気づいたのですが今まで見てきた人間全員、
このどれかに当てはまるのですが一体どう言う事でしょうか?
人格に障害の無い人間なんているのでしょうか?

よく考えたらまともな人間と言うのをほとんど見た事がありません。
人格障害と言う言葉がある以上、人格に障害が無い人間もいるはず
なんですが、30年近く生きてきてそれらしい人間を見ていません。
正直言うとおかしな人間ばかりです。
詳しい方、一体どういうことか教えてください。
ちょっと混乱気味です・・

A 回答 (10件)

国際ジャーナリストだったトルコ人の友達に言われた。


「今まで会ってきたすべての日本人にはなんらかのメンタル・プロブレムを持っている。君も父親に対してある。なんで?」

たぶんそれは”愛の欠落”だと思う。
日本の社会のシステムが親子関係で育まれるはずの、育まれなければいけない一番大事な”愛”が子供に満たされて無いのだと思う。

見ていて明らかなのは親からの愛に満たされた人の笑顔はとても素晴らしい。人をひきつける笑顔を持っている。まるで無邪気な赤ちゃんのように。そして人の目を見れる。つまり自信に満ち溢れている。

逆に親の愛に満たされてない人は人の目を見て話せない。自分に自信が無い。首都圏に住む日本人女性の40%は自分になんらかの欠点があると感じてるとデータで見た。だから日本人女性は他国人と比べてもとても綺麗なのか?

日本人の国民性に”完璧主義”がある。
社会は完璧であることは大前提でそれ以上を期待する。その社会(常識)に基づいて日本人は働いて働いて働く。どこに”愛”を子供に与える時間が有るだろうか?

もちろん、日本の立地条件上、完璧で無いと生き残れないかもしれない。
台風、地震、春夏秋冬からくる厳しさ。でもあまりにも働き過ぎ。

日本人の働く姿は武家社会の”御恩と奉公”から始まって今では”資本主義社会の奴隷化”?
”お金と時間”が最優先。自分の身を守るためなら人に対する優しさなんてどうでも良い。そんな姿勢が東京の中心都市ではよく見受けられる。

そんな世界に”愛の育める親子関係”が育つのかな?
>人格に障害の無い人間なんているのでしょうか?

首都圏出身でも親の愛に恵まれ無い限り難しいと思う。

それが日本であり、日本の利点と悪い点が併せ持ってると思う。
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以下の段階を踏むことで、ある人格障害に該当するのか、しないのかを判断するのだと思います。



(1)各人格障害の症状の要素を、知識として知る
(2)対象とする人のパーソナリティーの要素を、観察して知る
(3)(1)と(2)をつき合わせて、どの人格障害に該当するかを判断する

「よく考えたらまともな人間と言うのをほとんど見た事がありません」ということですので、
(1)(2)(3)の過程を得て考察をされたのだと思いますが、これは、簡単にできるものでもありません。

最も困難なのが(2)でしょう。
個人のパーソナリティーは、当然目には見えないので、言動からそれを推測するしかありません。
言葉や行動から、その人のパーソナリティーを知るには洞察力が必要で、これが全くない人もいます。

洞察力のないことを自覚している人というのは、自分で見て、人を判断できないので、
専門家に白黒をつけてもらいたがる傾向があります。
この「教えて!goo」の回答として、「病院に行きましょう」とだけ書くようなタイプの人です。

きっと貴方は違います。貴方には人の言動からパーソナリティーを推測するセンスがあるのでしょう。

「おかしな人間ばかり」だということですが、
きっと貴方には、人の千差万別のパーソナリティーを見てとることができるのだと思います。
しかしそれは、「おかしい、おかしくない」という「障害の有無」が見えているのではなく、
「パーソナリティーの違い」が見えているのだと、まずは考えておくべきでしょう。
なぜなら、「障害」とはあくまでも主観的に判断するもので、客観的に決まるものではないからです。

「妄想が激しいこと」や「人づきあいが苦手なこと」は、ある人格障害の要素かもしれません。
しかし、一つの要素だけで、障害とは決められないかもしれません。要素の程度の問題もあります。
また、ある人格障害に典型的な要素をすべて持っている人がいたとします。
しかし、本人が何の不都合を感じておらず、社会生活にも適応できていたのであれば、
その人を障害者呼ばわりなどしたら、人権侵害にもなりかねません。

「障害」とは、人格の問題だけではなく、環境との相性や、その人の捉え方の問題でもあるのです。

私も、自分自身や他人を見て思うのですが、世の中本当に変わった人格の人間ばかりだなと感じます。
まずは、すべての人が、今の自分自身のままで、満足な社会生活が送れたらいいなあ、と思います。
そして、より質の高い人生にするために、皆が思うように人格を高めていけることを願っています。
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類は友を呼ぶ で周りに集まってきているとか


血液型占い、星座占いのように無理に当てはめてしまっているのか
精神科医が博士号欲しさに無理有り名前を付けているかですね
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私の身内にも結局「人格障害」なる診断名が下され、もう長いこと治療に通っている者がおりますが、伝え聞いたところによると、これは、ふつう言う病気とか障害ではなく早い話が偏りの激しい性格、ということらしいです。

単に個性がハッキリ強いというレベルでは見過ごせないことになっている、ということでしょうか、確かに、かつて生活を共にしていた頃は、幼かった私の目から見ても、なんで、こうも底意地の悪いものの見方をするかな、底意地の悪い行動をするかな、と呆れることが多かったです。そのくせ妙にウエットでロマンチストでナルシストで、ちょっとしたことで感激して涙ぐんだりするかと思えば、気に入らないことがあると、もの凄いヒステリックに食器を叩き割ったり、、、大概物を壊すときは、そのときに自分が嫉んだり腹を立ててる相手の大事にしているものを狙って壊すということをやってました。
それでも一応結婚して子どもをもうけましたが、配偶者も子どもにも、ずい分苦労させたようです。この前も配偶者から、その苦労話を聞かされましたが、娘のほうは親の姿を見ていて思うところあったのでしょう、もと短大卒の身から30代になって心理学の勉強を聴講生から始めて大学へ入り直し、今現在は院に進学して臨床心理士資格を目指しています。反面教師というのか悪い事ばかりでもなかったということでしょうか(笑)

人格障害者しか見たことがない、という思い切ったタイトルで、ちょっとギョッとしてしまいましたけれども
>よく考えたらまともな人間と言うのをほとんど見た事がありません。

これは迂闊にポンと言ってのけると「じゃアナタ自身はマトモだという保証でもあるの?」と反発されてしまうかもしれませんが、そうですね、誰しも「人格障害」っぽい部分を持ち合わせているのが、むしろフツーじゃない?という問題提起なのでしたら、確かに、うなづけるものがあるように思います。「人格障害」といった精神的な面のことに限らず肉体面に関しても、完璧に、まとも、と言える人がいるのかどうか、ということと同様です。度合い割合の問題なのかもしれません。

ネットでの遣り取りなどは、ことばのみ使うことが殆どなだけに、容姿や表情、身なり、声の調子、しぐさ、雰囲気等々が割り込んでこないぶん、ある一定の傾向性や偏りといったものが、かえって目につき易いように思いますが、実際、「人格障害」或いは自閉症の場合にも、ネット依存を起こし易いとかいう説を聞いたことがあります。
日常でリアルに対面する場合でも周囲の人たちを見ていて、「この人は、ちょっと何か問題を抱えていそうだけど、自分では、あまり自覚していないだろうな」とか「はたから見ていて、とても風変わりなというかハッキリ言ってヤバさスレスレの行動をしているのだけど、自分では、こんなもんだと思って、そうしているんだろうな」と思える人、けっこういます。それはまた大いに、お互いさまでもあるのでしょうね。私自身に対する周囲の評価だって、これ全て私という同一人物に対する評価かと思うくらいピンキリ、バラつきがあります。
私は精神的にも肉体的にも、それなりの問題を抱えており自覚もしていますが、少し前までは、これらは存在しないものと周囲に見做され、思い込まされていたことだったのです。そして、そのままでは日常生活を営むうえで不都合が見過ごせなくなって初めて「障害」と呼ばれるようになったのです。
もっとも場合と相手によって見せる面、見せない面とが変わるということもありますが、そのつど殊更に計算しているわけではなく、誰しも自ずと役割に沿った言動をとろうとするということなのでしょう。相手の誤解による部分も大きかったりします。ただ、どの人が見ても、いつも全く同じ一本調子と、もし言えるなら、そのほうが、よほど変わっているというか不自然だろうと思います。

一般的な基準から大幅にハミ出ていたとして、そのことで誰も大して困っていなければ、わざわざ「障害」と呼ぶ必要ありません。ですから御質問者さまが「人格に障害のない人間なんているの?」と仰るからには、何かしら「障害」があってアタリマエなくらいで、そうなると、そもそも「障害」なんてものはない、ということに逆転してしまうわけですね。
精神的な方面に限ったことだけでなく肉体的な面においても、いわゆる「障害」というのは要するに実生活上、自他共に望ましからぬ影響をもたらす、看過できない不都合がある場合に、そう呼んでいるだけのことでしょう。
精神や肉体に不都合を来たすなんてことは単に年をとっただけでも起きてくることです。

たとえば日本人がゴキブリやネズミをウマイウマイと毎日食べるなんてことがあったら、まず周囲は眉をひそめて「どこか異常があるんじゃないか」と思ったりするのでしょうが(その生物種のなかでの差異はともかくとして)国や地域によってはリッパに食材として認められていたりします。
近親相姦だって、本人たちがナットクしていて表ざたにしたりしなければ、とくに問題にもならないでしょう。
目玉が三つあろうが舌が二枚あろうが支障がなければ、それでいいのです。
ただ周囲との価値観やライフスタイル等と著しく乖離があったり、本人自身が苦にしていたりすると問題になるだけです。
これは、周囲にとっては都合のいいこと何ら支障のないことであっても、本人が耐え難い苦痛を感じるようでは問題になると同時に、本人は、いかに楽しく快い或いは、こうあるのが自然だと感じていても、周囲に対して多大な苦痛をもたらすようでは、これもやはり問題になります。

またたとえば、人格障害或いは適応障害の場合にも、よく訴える人を見かけるように思いますが、いわく愛情不足とか親の愛情に恵まれなかったという不満。
子は「足りなかった」といい、親は「じゅうぶんなはず」と言う。
子が足りなかったと言えば、それは足りなかったのです、と言う。
でも親にしてみれば心当たりがない。精一杯のつもりだった。
どちらかに嘘や欺瞞があるのかもしれないし、どちらにもないかもしれない。目に見える形にして全てを確認することはできません。
ただ言えるのは、足りなかったから歩けない人と、歩きたくない人と、足りなくても歩いて行ける人と、足りなかったことに気づきもしない人と、足りないことに気づいていても、べつにいいさと思える人がいるということです。

つまるところは脳内の分泌物質等の作用や反応に影響されるところが大きいのであれば、人格障害であれ単なる個性ということであれ、その表れかたは多岐多様にわたるのでしょう。
言ってしまえば脳内環境だって環境の一つですし(笑)


『社会学の立場では「人格障害」は郊外化現象への合理的適応』
『「人格障害」はむしろ正常性の証。これを矯正教育の対象とすることで、合理的適応として「人格障害」を生み出すような社会そのものの矯正が埒外に置かれる可能性を社会学者は危惧』
宮台真司氏は、このように仰ったようです。
私は宮台氏の御意見全般について殆ど知りませんし全面的に賛同する気もないのですが
『社会学の目標は不透明な動きを示す社会を記述すること、特に実践目標(政策)は、問題を抱えるとされる人たちを生み出す社会的メカニズムを描き出し、かつ、制度や文化をどう変えればこうした社会的メカニズムを解除できるかという処方箋を考えること』
『心理学は現行の制度や文化を「前提にする」学問。社会学は現行の制度や文化を「疑う」学問。社会学によれば「社会」とは私たちのコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的前提の総体で、非自然的前提の総体を明るみに出すのが社会学の目標』
『「個人が治ればいい」という心理学と、社会学の対立は避けがたい。現行の制度や文化を前提とする限りで「こうしたらいい」という心理学の提言が理に適っていたとしても、そもそも現行の制度や文化を維持するべきかどうかに疑問を呈するのが社会学』
このようにも仰っているようですが私としては、個人側から見るにしても社会側から見るにしても、いずれにせよ、どちらか一方側から見ての判断だけではならないと思います。
地域文化や社会制度というシステムに対して個人のうちにも文化や制度に相当するシステムと呼ぶべきようなものがあって、それがぶつかり合うことがあるということ。
大事なことは、本当に改めるべき点、改善可能な点が、どこにあるのかを見極めることだと思います。
社会的レベルにせよ個人的レベルにせよ本当に改めるべき、改善すべきを怠って、安易な擦り付けや糊塗に終始しているようでは、それこそが問題です。
個人の多様性を受け入れ難い社会は息苦しく生きづらい、でも許容度の低い個人個人が、生きづらく息苦しい社会をつくってもいるのじゃないかと思います。
「人の道として」自分を全面受容せよと要求する人ほど、自分と異なる面を持つ他者を受容しようとしない不寛容さなんて、いくらも見かけます。
                      
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本質論を言えば、全くおっしゃるとおりでしょう。


「人格」の「障害」といったって、「人間の正しいありかた」自体、誰も知らないのですから、その人格に障害があるかないかなどわかるはずがありません。
あくまで相対的な基準に基づいているだけでしょう。
ある社会集団において、偶々、周囲とうまく合わせることが上手でない方に対して、その程度が甚だしい場合に用いられる用語なのだと思われます。

人格というのは先天的な部分と共に、後天的に獲得される部分も非常に大きいと思います。
教育や生育環境などによって大きく左右されますし、違う環境で育っていれば、全く別の人格になった可能性は誰にでもあるでしょう。

このことから、たとえば次のように言えると思います。
仮に、私は人格に障害は無い、と感じている方がいらしたとしましょう。
それは人間として優れている、という意味にはなりません。
単に、現在の社会環境にうまく適応できている、というだけのことです。

だけのことです、と言っても、適応するにはそれなりの努力は必要になりますし、適応自体がひとつの能力であることは確かです。
しかし、人間としての格が優れているわけではない、ということを忘れると種々の問題を派生させることになると思います。
どなたかもおっしゃっていたように、人格障害とされる方は「ちょっとかわった人」と捉えるのが適切だろうと考えます。
その方たちから見ると、そうでない方こそが「ちょっとかわった人」であるに違いありません。

>人格障害と言う言葉がある以上、人格に障害が無い人間もいるはず
なんですが、30年近く生きてきてそれらしい人間を見ていません。
正直言うとおかしな人間ばかりです。
:先に書いたように、障害というのはあくまで相対評価にすぎないと思います。
社会に容易に適合できる人間が「人格に障害が無いまともな人間」という評価を得ているのでしょうが、その社会自体が腐りかけている場合、そこに適合している人間が「おかしな人間」であるのは、単なる感覚だけではなく、論理的にいっても正しい見解であろうと考えます。

蛇足かもしれませんが、ADHD であっても社会的地位を得ている方は大勢います。
ある程度、周囲のサポートを必要としますが、それは誰であっても同じことでしょう。
http://hakobulu.seesaa.net/article/93000163.html
 
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精神医学では、Personality disorderという概念があり、以前は人格障害と翻訳されていました。

現在でも、人格障害という用語は多く使われていますが、パーソナリティ障害と訳されることも増えています。
一般用語の使い方は、人によって意味内容が異なりすぎるので、精神医学に限って理解すると、次のようなことになるそうです。

パーソナリティ障害の全般的診断基準
General Diagnostic Criteriafora Personality Disorder
A・その人の属する文化から期待されるものより著しく偏った,内的体験および行動の持続的様式.この様式は以下の領域の2つ(またはそれ以上)の領域に現れる.
(1)認知(すなわち,自己,他者,および出来事を知覚し解釈する仕方)
(2)感情性(すなわち,情動反応の範囲,強さ,不安定性,および適切さ)
(3)対人関係機能
(4)衝動の制御
B・その持続的様式は柔軟性がなく,個人的および社会的状況の幅広い範囲に広がっている.
C・その持続的様式が,臨床的に著しい苦痛,または社会的,職業的,または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしいる.
D.その様式は安定し,長期間続いており,その始まりは少なくとも青年期または成人期早期にまでさかのぼることができる.
E.その持続的様式は,他の精神疾患の表れ・またはその結果ではうまく説明されない.
F.その持続的様式は,物質(例:乱用薬物,投薬)または一般身体疾患(例:頭部外傷)の直接的な生理学的作用によるものではない.

幼児期にはパーソナリティ障害という概念は適用しないようです。
アルコール中毒や麻薬依存の中毒や脳の手術等の結果、おかしい行動に傾向がでても、痴呆症などで自他の認識や衝動行動に通常と異なる強い傾向が出ても、パーソナリティ障害とは言わないようです。

最近、ナイフで人を刺す事件の報道が多いようですが、LSDでラリった結果であったり、ものすごくいじめられた結果その反応として1回限りの衝動的行動で刺したのであると、人格障害とは言わない場合があるでしょう、軍隊の特殊部隊でナイフで刺す訓練をした人が部隊行動の中で明瞭な意識の中でナイフで刺した場合も人格障害とは言わないと思います。

診断基準(DSM-IVTR)では、『その人の属する文化から期待されるものより著しく偏った,内的体験および行動の持続的様式』が、認知、感情性、対人関係、衝動性での4つ領域の内で、【2つ以上の領域で】【持続的に】【その人の属する文化から著しく偏っている】ことです。文化は時代や環境によってはなはだ大きく変化するので、絶対基準はありません。
また著しく偏っているという判断、持続的という判断も大切です。
10人が全体なのに、そのうち3人が著しく偏っているという判断はないのです。
だから、回りには人格障害の人ばかりと見たり、人格障害の人が住民の何割もいるという見方は、そのような人格障害を判定しているのが間違いです。
また、あの日は人格障害だったという見方も、精神医学的には間違いです。
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人格に障害の無い人というのは、それは「絶対的な神」でしょう。


通常の人間ならば、人格の偏りは誰も持っているでしょう。
偏りのない人間はいないと思います。その偏りが、その人の個性
になると思います。

ですから、人格障害の演技性、自己愛性、境界性というのは誰でも
持っていると思います。ですから、質問者が今まで見た人間全員が
人格障害というのも当たっているかもしれません。

ただ、どこで、「障害」と線引きするかということですが、それは
社会通念上で生活できるかということです。その人の持っている人格
の偏りが、問題行動となって社会生活が営めなければ障害と言えるの
ではないでしょうか。

それが、できれば「あの人は変わっている。」ということで片付け
られてしまうと思います。

ある大学教授がADHD(注意欠陥多動症)のチェックリストを
作りました。それを自分でしたならば、それに当てはまるという
結果が出たそうです。その教授がADHDかというと、そうでは
ないと思います。ちゃんと教授という仕事をこなしていますから。
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こんばんわ。



ああ・・・そういう考え方もあるのですか。

kagami333さんは、どれにあてはまるのか自己分析されましたか?

私はアガサクリスティの推理小説をよく読むのですが、そこには必ず、
「精神科医は悩めるもてあまし気味の富裕層の人間のために存在し、
彼らはなんらかの病名と薬を処方されると、みな納得して金を払う」
みたいな描写が必ず出てくるんです。
だから、人格障害者というのは「自分は病気なのでは」と納得したい人間
のためにつくられたオールマイティで便利なカテゴリなのかもしれません。
軽度や重度の差はあるにしても、誰しも精神科を訪ねればこの病名を
与えられるかもしれません。

あるいはkagami333さんが見てきた人格障害者は、専門家からすれば
「正常」で、人格障害者というのは違うことを言うのかもしれませんし?

軽い妄想です。
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う~ん、的を得ているような、微妙なような・・・。



心理学という分野は、哲学や数学と比べるとまだ歴史が浅いんです。
だから、と繋げるつもりもないんですが、未確定な部分が大きいです。
脳の解明、薬品の開発がもっとすすまないと解決しない分野なんです。

心理学において、「一般的」とされるのは、
何かのテストをして、その圏内に7割の人間が入る状態を指します。

その一般からはずれると、まわりから、
ちょっと変わった人、という扱いを受け、
それがひどいと人格障害となります。

人格障害という定義は、そもそも、
「社会生活を送るにあたり、支障のある程度」という前提があります。

だから、貴方が、そんなこと言ったら、
全員当てはまってしまうではないか、というのも、間違いではないです。

かくいう自分も、完璧な人間ではありません。
症状の一例の中に、必ず該当する部分があると断言できます。
失礼かもしれませんが、貴方にも身に覚えのある項目があったのではないでしょうか?

それでも、人格障害だといわれず日々を送っているのは、
ひとえに、「社会生活」をなんとなく送ることが出来ている
という条件をクリアしているためです。
全く同じ人間はこの世にいません。
「個人の性格・特徴」等に含まれる部分ですね。

それが目に見えて逸脱すると、障害です。
納得できる答えになっていることを願います。

どうでも良いけど、心理学部出ただけっていうのは「専門家」なんだろうか?
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こんにちは。


>よく考えたらまともな人間と言うのをほとんど見た事がありません。

すごいですね。私はおかしな人間をそんなに多く見たことがありません。そんなにたくさん狂った人が周りにいるのですか??

2つの可能性があるように思います。

1)kagami333さんがおかしくなっている。
2)私がおかしい。

一度、心療内科にいってみてはいかがでしょうか?
きっと、いろんなアドバイスをしてくれると思います。
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