『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

江戸時代の年号なのですが、慶応、元治、文久、など数年でコロコロと変わっています。明治以降は天皇が変わると年号も変わっていると思いますが、江戸時代はどういった基準で年号が変わっていたのでしょうか。

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A 回答 (6件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まず、和暦の変遷ですが、
(1)帝王(天皇)の交代による・・・代始改元。
(2)吉事を理由にする・・・・・・・祥瑞(しょうずい)改元。
(3)凶事に際してその影響を断ち切るための・・災異改元。
(4)三革を区切りと見なして行われる・・・革年改元。
大別して以上の4つが主なものです。

もう少し詳しく説明すると、
(1)代始改元は、分かりやすいですよね。
嵯峨天皇の即位「弘仁(810)」、清和天皇「貞観(859)」、令泉天皇「安和(968)」、後三条天皇「延久(1069)」、後白河天皇「保元(1156)」、二条天皇「平治(1159)」などがあります。なお、先の天皇が崩御されたた時などは、その年は「喪に服す」考え方で翌年から「新元号」としたり、隠居をし上皇などとなった時は、先の天皇(上皇)に敬意を表して、やはり、翌年から「新元号」とした場合もあります。
(2)祥瑞改元
大化6年(650)2月に穴門国(あなとのくに=長門国=現:山口県)から白い雉(きじ)が献上されたことを「吉事」として、「白雉(はくち)元年に改元しました。そして、白雉5年(654)まで数えられましたが、その後80年間は、元号の無い時代が続きました。天武天皇15年(686)7月20日に大倭国(やまとのくに=大和国=現:奈良県)から、今度は赤い雉が献上されたため、朱鳥(しゅちょう、すちょう、あかみとり)元年として「元号」が復活しました。しかし、これは「伝説」であって、実際は、天武天皇の病気平癒のための祈願を込めたものだ、とも言われています。事実、天武天皇がその年に崩御されると、朱鳥元年のみで、再び、15年間元号は断絶しました。文武天皇5年(701)に対馬(対馬ではないとの説もある)で産出された「金」が貢進されたため大宝元年が復活しました。
(3)災異改元
京都での地震発生や平将門の乱が起きたため、「承慶」から「天慶元年(938)」に変更。彗星(この星は災いを招くと考えられていた)が多く見られたので「永延」から「永祚元年(989)」・・・陰陽師の「安倍晴明」が活躍していた。平治の乱勃発で「平治」から「永暦元年(1160)」。全国的な飢饉が発生「寛喜」から「貞永(1232)」、関東での大地震発生と全国的な旱魃(かんばつ)で「正応」から「永仁(1293)」。江戸で大火発生「明暦」から「万治(1658)」。江戸で大火と全国的に大風(台風)による水害多発「明和9年(迷惑年)」と呼ばれ「安永(1772)」に。ペリーの来航で「「天明」から「安政(1789)」などがあります。
(4)三革とは
「辛酉(かのととり)革命」・・・昔は、干支(えと)の年号もあり、「甲子(きのえね)」から始まり、60番目の「癸亥(みずのとい)」までを繰り返す第1番目の年の呼び方。
「甲子(きのえね、こうし、かっし)革令」・・・干支の第1番目の年。
「戊辰(ぼしん)革運」・・・干支の第5番目の年。
いずれも、これらの年には、大きな「革命」や「大事件」が起きる、と陰陽道からの考えで、改元をして「運」を呼び戻そうとした考え方。

>>江戸時代はどういった基準で年号が変わっていたのでしょうか。

上記に記載したことが「主な理由」です。長い間「朝廷主導」で、まずは「朝廷関係」を取り巻く出来事があった時のみに「改元」がされ、やがて、朝廷も広く「民」の出来事にも目を向けるようになり、自然災害などでは、「開運」を願って「改元」しました。そして、江戸時代になると、朝廷も「朝廷」や「民」だけではなく「江戸幕府」の動きにも目を配るようになり、江戸で「大事件」や「天災」「火災」、あるいは、「人の生死」などが起きたりした時も「改元」して、「運気」を回復しようとしました。
ですから、日本の「元号」では、初期の頃は、「ゆったりとした」流れですが、やがて、「コロコロ」と替わるようになっていきました。これは、江戸時代に限ったことではありません。

(よもやま話)
(1)明治維新とともに「一世一元の制」が提唱され、慶応4年(1868)を「明治元年」と改元した。その後、昭和54年(1979)6月6日に「一世一元の詔(みことのり)」が成立し、同月12日公布、同日より施行されました。いわゆる、「法律」として発布されたのは、意外と近年になってからなのです。
(2)元号の出展。
書経、易経、後漢書、文選、漢書、晋書、旧唐書、詩経、史記、芸文類聚・・・などが「ベスト10」。
(3)日本が中国を真似た「元号」。
大宝、神亀、天平、大同、仁寿、天安、貞観、承平、天禄、貞元、天福、乾元、元徳、建武、正平、天授、永和、至徳、文明、弘治、天正、元和、正徳、宝暦、天保・・・以上、26例。
(4)日本から中国へ渡った「元号」。
天慶、天暦、天徳、永暦、承安、嘉慶・・・以上、6例。

あなたのお役に立てたでしょうか。
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この回答へのお礼

詳しいご説明ありがとうございました。勉強になりました。

お礼日時:2008/08/31 20:49

>明治以降は天皇が変わると年号も変わっていると思いますが



明治時代以降、法律で「天皇が代わる時に、元号をかえる」事が決まりました。
この法律は、敗戦後でもGHQが認めたので現在も継続しています。

>江戸時代はどういった基準で年号が変わっていたのでしょうか。

江戸時代に関わらず、元号は「朝廷の専権事項」でした。
ですから、天皇の即位だけでなく、社会情勢(天変地異・疫病流行など)に悪い事象があれば度々改元しています。
天皇在位時代に、数回改元した天皇も存在します。
ですから、元号=(贈名)天皇名とはなりません。

天皇の専権事項といいながら、鎌倉以降は実質的な政治力がありません。
時の権力者から「改元要請」があれば、形式上朝廷内で審議し、改元を行なっています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。勉強になりました。

お礼日時:2008/08/31 20:48

>江戸時代の年号なのですが、慶応、元治、文久、など数年でコロコロと変わっています。

明治以降は天皇が変わると年号も変わっていると思いますが、江戸時代はどういった基準で年号が変わっていたのでしょうか。

江戸時代の改元は、1615年の慶長から「元和」の改元が最初で、最後の元治から「慶応」の改元まで35回の改元がありました。
この内、天皇即位に関する改元が12例。革年改元9例(甲子改元5例・辛酉改元4例)。大火災・地震等による災害改元10例。将軍代始め改元5例・語呂によるもの2例(正保が「焼亡」、明和9年が「迷惑年」)。上皇と吉宗の死によるもの1例。豊臣氏の滅亡1例。
計40例。重なっているのが、最初の改元である「元和」が、後水尾天皇の即位と、豊臣氏の滅亡。元和から寛永の改元が、甲子改元と、家光代始め。延宝から天和の改元が、辛酉改元と、綱吉代始め。明和から安永が、語呂と、後桃園天皇の即位。嘉永から安政の改元が、災害と、家定代始め。
この中で、将軍代始めではっきりしているのが、享保の改元の吉宗代始めの1例。代始めの交渉後に改元が実現したのが、寛永の家光代初めと、承応の家綱代始めの2例。想像されるか改元が、天和の綱吉代始めと、安政の家定代始めの2例です。
将軍の代始めの改元については、足利将軍時代に、6代義教の正長改元、8代義政の宝徳改元の例があり、更に、足利幕府の滅亡とされる信長による15代将軍の足利義昭追放の後、信長は朝廷に改元を要請しており、元亀から天正に改元されています。改元は本来天皇の専管事項ですので、将軍代替わりによる改元は、表沙汰にしずらい話なので、はっきりしないものや、代始め後二年経っての改元ではないかの疑いがある例もあり、これからの研究(当時の公家や、幕府重職者の日記などの研究)により変化すると思います。
なお、改元については次のURLを参考に。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E5%85%83

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

詳しいご説明ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/31 20:46

 こんにちは。



・江戸時代だけでなく,明治時代以前は,天皇の交代時以外にも随意に元号が変えられていました。明治維新の時に一世一元の詔が出され,天皇の代毎に改元する一世一元の制に改められましたので,現在のような方法での改元になりました。

・明治時代以前は,中国の甲子革命の考え方から,変乱の多い年とされた「甲子」の年(60年に一回,回ってきます)には,それを防ぐ目的で,日本の平安時代以降この年にはよく改元(甲子改元)が行われています。1024年の甲子改元以降で,甲子改元が無かったのは永禄7年(1564年)のみだそうです。簡単に言いますと,天皇が変わらなくても,不吉といわれている年や,天変地異や政変などが続くと,改元しちゃったんですね。
 また,時代によっては,天皇が譲位して「上皇」や「法皇」になることもしばしばありましたから,在位期間も,現在より短いというのも原因のひとつです。
 
・なお,1979年に元号法が制定され,「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と定められています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。勉強になりました。

お礼日時:2008/08/31 20:45

二度、失礼致します。



『慶応』は、やっぱり、こんな理由で改元されていたんですね。

参考URL:http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B7%C4%B1% …
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お早う御座います。



確かに、明治以降の近代は、天皇と年号は同じです。
ですが、それ以前は「天皇=年号一つ」と言うような決まりは、特に無かったようです。

天皇が崩御する場合に限らず、
「天災」や「戦乱」が続いて「縁起が悪い」。
「聞こえが悪い」。
と言ったような理由で「改元」された例も有ると聞きます。
いろいろ調べてみると、面白いかもしれません。

参考URL:http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B8%B5%BC% …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。勉強になりました。

お礼日時:2008/08/31 20:43

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しまった年号があります、そもそもこれらの年号は
「誰が」「いつ」「どのように」「どのような理由で」きめていたのでしょうか?ネットを見ましたが、はっきりした説明はありませんでした
年号に詳しい方、ご回答お待ちします、
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Aベストアンサー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29

実際に漢朝(中国の王朝)から持ってきたのは、禁中並公家諸法度と同時期に決められた元和ぐらいのようです。
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原典は漢籍からその後も、(今も)持ってきていますが、具体的にその二字がが使われているのではなく、元の文章
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「天皇が変わる度に変わる元号」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7304824.html

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日本でそういう冊封体制の事例がありましたでしょうか。

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 朝鮮はずっと基本的に宗主国である中国の元号を使いました。独自の元号を使った期間は大変短いです。

 有名な朝鮮の正史『三国史記』の新羅本記に、
 新羅国が独自の元号を使っていることを中国(唐)が「生意気だ」と怒り、新羅が「ハッ、ハッ。ただちに改め、大唐皇帝陛下の元号を使わせて戴きます。」「新羅の官吏たちの服装も大唐風に改めさせて戴きます。」「また、大唐皇帝陛下への忠心を表すため、長安の守備警護の役に我々新羅の者を就かせていただくことは出来ないでしょうか?大唐皇帝陛下の御身をお守りするという仕事をやらせていただくことで、是非ともわが新羅を信用していただきとう存じます。」と新羅が言った。
 という内容の記述があります。『三国史記』現代日本語訳、平凡社東洋文庫を御参照ください。
 その通り、650年頃から後は新羅は勝手な元号をやめ中国の元号を使い、官職・貴族の服装も唐風の最新トレンディーな服装にし、貴族の若手男子らが唐のみやこ長安の守備につきました。その中には王位継承者クラスの人間もいました。

 後高句麗という時代に20年弱くらいの間、独自元号を名乗りましたがこれは、1人の人間が2~4年置きくらいにコロコロ変えて発表したもので、朝鮮史の中ではこの人(クンエ)は悪者扱いなので大して重きを置いてお考えになることはありません。

 李氏朝鮮では1894~95年の日清戦争により中国が朝鮮から兵を引き揚げ中国の勢力が朝鮮半島から一掃され朝鮮が独立したため、1986年に高宗という王が初めて元号を作って公布し使い始めました(建陽)。でも高宗は1・2年してすぐに別の元号に変えました(光武)。

 朝鮮半島では上記の通り、基本的に中国の元号を使いましたがやはり時間感覚がピンと来なかったんでしょう。自分たちの王様が王に就いてから○年、という言い方・記述をよくします。
 例えば李氏朝鮮が編纂した正史である『朝鮮王朝実録』の記述を見てみると。
 
・ ハングル文字を考案したことで有名な世宗王の時代のことを記した『朝鮮王朝実録』の中の『世宗実録』という部分の、一番最初の「総序」には世宗が生まれた年の記述として、
 「世宗・・・・太祖六年・・・・・大明太祖高皇帝洪武三十年也」
 とあります。
 「世宗は・・・太祖六年(李氏朝鮮を建てた太祖(李成桂のこと)が王になってから6年の年)・・・・・大明(明国への敬称、グレート明)をお建てになった太祖皇帝(朱元しょうのこと)の洪武(明の元号)三十年なり。」
 です。 明の元号と、朝鮮王が即位してからの年数の両方が書いてあります。

・ また韓流時代劇ドラマ『イ・サン』の主人公イ・サン(正祖)の息子で、イ・サン(正祖)の次に王に就いた純祖という王様のことが書いてある『朝鮮王朝実録』の『純祖実録』の一番最初のところには、純祖が生まれた年の記述として。
 「正宗大王二十四年 清嘉慶五年」
 とあります。
 「正宗(正祖に与えられた元々の名)大王二十四年 清国の嘉慶(清の元号)5年」
 のことです。 やはり前王の在位の年と、中国の元号が両方書いてあります。

 この、朝鮮の王の在位の年で表すのは別に元号ではありません。

 朝鮮はずっと基本的に宗主国である中国の元号を使いました。独自の元号を使った期間は大変短いです。

 有名な朝鮮の正史『三国史記』の新羅本記に、
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Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

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江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q江戸時代後半、庶民は年号を知っていたか。

先日、類似の質問がありましたが、「農工商」に属する庶民の多くは、年号を知っていたのではないでしょうか。
以前、江戸時代の歌舞伎の地方公演を調べたとき、木版刷りの「芝居番付」に文政2年とありました。
また、通貨でも寛永通宝ほか元号の入っているものもあります。
そこで質問ですが、「黄表紙」等の印刷物には発行年月を入れるのがふつうですか。
また、借用証書、離縁状、寺に出す出生届けなどには必ず年月を入れるものですか。
その他、庶民が元号・年月を意識する例を教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

少なくとも江戸末期頃の人は知っていました。(たぶん初期の人も知っていたと思われます)

江戸時代は証文社会でした。借金、土地売買、その他ちょっとした約束でも証文にします。それらには必ず「天保三辰年八月」のように元号から日付を書きます(なぜか月までで日の数字が書いてないものが多い)。拙宅にも文政頃からの文書が何枚か残っていますが全部に元号からの日付があります。農民同士が交わした証文は庄屋や僧侶が代筆した可能性も否定できないかもしれません。しかし一般にどこの村にも寺小屋があって日常生活に必要な書面の書き方は教えていたので農民が年号を知らなかったとは考えられません。

一般農民も「万覚(よろずおぼえ~メモ帳)」や祝儀・不祝儀に関する帳面を作っています。その表紙にはタイトルの他に「文政五午年」のように年号を書くのが普通です。
帳面の例については以下を。(一般農民が作ったものではありませんが・・・)
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/m-exhbt/20140708AM/20140708.html

一般に墓には命日が書いてありますね。命日は元号から書いてあります。だいたい江戸中期以降は一般農民の墓でもそうなっています。

本など出版物では末尾に奥付があります。これは1722年(享保7年)11月に大岡忠相が命じたものですからこれ以降の出版物にはまず間違いなく出版年の記載があります。
奥付については  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E4%BB%98 をどうぞ。

地方への改元の通知ですが、当地(岡山県内)には1ヵ月弱で届いています。ひとつの例を書くと、元治2年(1865年)4月7日に慶応に改元されますが5月3日の庄屋日記にはその旨の記載があります。
江戸から地方の藩役所に届いた知らせは大庄屋から村々を回覧されます。その回覧ルートは決まっていました。各村の庄屋は自村用に書き写したのち見たことの証明として回状の末尾に署名・捺印して次の村へ回します。
村人へは組頭(五人組の頭)を経由するのが一般的だったようです。組頭は定期的に庄屋宅などで会合しており通達には庄屋がしたように署名・捺印して応じました。このように幕府からの通達は末端まで確実に伝わるシステムがありました。(現代より確実じゃないの?)

こんな状況でしたから少なくとも幕末には誰もが年号を知っていたはずです。

少なくとも江戸末期頃の人は知っていました。(たぶん初期の人も知っていたと思われます)

江戸時代は証文社会でした。借金、土地売買、その他ちょっとした約束でも証文にします。それらには必ず「天保三辰年八月」のように元号から日付を書きます(なぜか月までで日の数字が書いてないものが多い)。拙宅にも文政頃からの文書が何枚か残っていますが全部に元号からの日付があります。農民同士が交わした証文は庄屋や僧侶が代筆した可能性も否定できないかもしれません。しかし一般にどこの村にも寺小屋があっ...続きを読む

Q日本史で近代・現代の区分

日本史で近代・現代ていいますよね。近代はペリー来航からだとおもうんですが、近代終了と現代の開始がわかりません。明確な区分を教えてください。

Aベストアンサー

まず、「古代・中世・近世・近代・現代」といった歴史区分法ですが、これは西洋の歴史学を日本が輸入したために出来た歴史区分法です。

西洋では、ルネッサンスによって「古代ギリシア・ローマ」を意識し始めました。
そこで、「古代ギリシア・ローマ」の文明・文化が失われた自体として「中世」が位置づけられていきます。
そして、「中世からの脱却」として「近代」が位置づけられました。
その後、時代が下るにつれて「中世」と「近代」の間の時代として、「近世」が出来ました。
「現代」についても、二つの世界大戦後に「現在進行形の歴史」として意識されるようになりました。
そして、新たに「同時代史」が現在意識され始めているようです。

日本史も、この流れに沿って西洋史と対比するために位置づけようとされています。
しかし、西洋と日本では歩んできた歴史が違う。
第一、「古代ギリシア・ローマ」にあたるモノが日本には無い。
故に、「古代・中世・近世・近代・現代」といった歴史区分法は日本史にはそぐわないのではないか、、、という議論があります。
また、西洋史にしてもどこから「中世」でどこからが「近代」なのかを明確に分ける線なんて存在しない。
「歴史」は連続しているものですから、歴史区分法によって明確に分けるのは間違いであるという意見もあります。

そういった意見を紹介しつつ、主流と思われる、時代区分です。

縄文・弥生時代・・・原始
古墳~平安中期・・・古代
平安中期~安土桃山時代初期・・・中世
安土桃山時代~江戸時代・・・近世
明治~終戦まで・・・近代
終戦~・・・現代
(平成からは同時代史とする見方もある)

しかし、日本史において、上記のような歴史区分法はそぐわないとする意見に個人的には賛成です。

まず、「古代・中世・近世・近代・現代」といった歴史区分法ですが、これは西洋の歴史学を日本が輸入したために出来た歴史区分法です。

西洋では、ルネッサンスによって「古代ギリシア・ローマ」を意識し始めました。
そこで、「古代ギリシア・ローマ」の文明・文化が失われた自体として「中世」が位置づけられていきます。
そして、「中世からの脱却」として「近代」が位置づけられました。
その後、時代が下るにつれて「中世」と「近代」の間の時代として、「近世」が出来ました。
「現代」についても、...続きを読む

Qcharと%c , %s の関係について

char型の変数の扱いで悩んでいます。
具体的には以下の二つのプログラムの差異についてです。

----------------------
char c;

scanf("%c", &c);
printf("%c\n", c);

-----------------------
char c;

scanf("%s", &c);
printf("%s\n", &c);

-----------------------


上のプログラムは正しいと思うのですが、下のプログラムが正しいのかどうか、わかる方に教えていただきたいと思い質問させていただきました。

どちらのプログラムも問題なく動作します。
僕自身は 下のプログラムの printf 関数については間違った使い方なのではないかと思っています。

scanf("%s", &c) は入力された文字のうち、終端文字の手前までの文字を引数のポインタが示すオブジェクトへ順に格納していく関数だと理解しているので、入力された文字が一文字だった場合、&cの示すオブジェクトに文字が代入されると考えたからです。

逆に printf("%s", &c) は、&cの示すオブジェクトから”ヌル文字”の手前までの文字列を順に表示する関数だと理解しているので、問題なく動作しているのは&cで示されるオブジェクトの後ろの領域が偶然'\0'だったからではないかと考えたからです。

何かの本で、未使用の領域は0である確率が高いという記述をみたことがあり、'\0'は0と同じだということなので問題なく動作する率が高いのではないかと思っています。


僕の考え方がどの程度正しくて、正確にはどうなのかを教えて欲しいです。


ちなみに、

-----------------------
char c;
char str[100];

scanf("%s", str);
scanf("%c", &c);
------------------------

と書くと c には改行文字が代入されてしまいます。
scanf("%s", str);
において"aasssdd "と最後に空白を入れると
c には空白文字が代入されます。

しかし、
--------------------------
char str1[100];
char str2[100];

scanf("%s", str1);
scanf("%s", str2);
--------------------------
においては、
scanf("%s", str1);
で "asdfg "と最後に空白を入れても次のstr2が空白で始まることはありません。


この辺りの処理がどのような法則で実行されているのかが分かりづらくて悩んでいます。
おそらく、
scanf("%s", str);
の場合には最初の文字が空白や改行文字でも、その次に有効な文字があればそれらの改行や空白を無視するのではないかと思っています。


分かる方がいましたら回答をよろしくお願いします。

char型の変数の扱いで悩んでいます。
具体的には以下の二つのプログラムの差異についてです。

----------------------
char c;

scanf("%c", &c);
printf("%c\n", c);

-----------------------
char c;

scanf("%s", &c);
printf("%s\n", &c);

-----------------------


上のプログラムは正しいと思うのですが、下のプログラムが正しいのかどうか、わかる方に教えていただきたいと思い質問させていただきました。

どちらのプログラムも問題なく動作します。
僕自身は 下...続きを読む

Aベストアンサー

> char c;
> scanf("%s", &c);
char c では1文字分の領域しか確保されていないので、
1文字以上の文字列を無理矢理格納すると
他のデータが存在しているかもしれない領域を書き換えてしまいます。(メモリ破壊)

なお、'\0'はscanfが(本来書き込んではいけない領域に対してですが)書き込んでいます。


> と書くと c には改行文字が代入されてしまいます。
最初のscanfが改行文字を読み込んでいないからです。
以下のページに書かれている内容と本質的には同じ。
http://www9.plala.or.jp/sgwr-t/c/sec05.html#s5-

> 最初の文字が空白や改行文字でも、その次に有効な文字があればそれらの改行や空白を無視するのではないかと思っています。
そう考えて問題ないと思います。

Qキリンは英語で?

キリンって英語でなんて言いますか?
ジュラフ?

Aベストアンサー

英語では giraffe です。以下のURLを参考にしてみてください。

  http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=giraffe&stype=1&dtype=1

カタカナ英語にすれば、「ジラフ」ですが、実際の発音は「ジェラフ」または「ジェラーフ」が近いかと思います。

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

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