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「天皇が変わる度に変わる元号」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7304824.html

勘違いは、
>『新天皇の即位ごとに元号を変えるというのは大正天皇からのことです。古い伝統でも何でもありません。それまでは元号というのは天皇の在任中に何度も変更される事が普通でした。』
『そんなに歴史のある習慣ではなかったのですね』
の方ではありませんか?歴史は物凄くありますよね?

即位の時だけ改元するようになったのが近代であり、即位で改元するのは大昔からですよね。
即位で改元する伝統に、大正以降の歴史しかないような話になっていませんかね。

そこで疑問なのですが教えて下さい。

たとえば慶応4年と明治元年は同じ西暦年ですがどのように使い分けるのでしょうか。

立年改元とした元号は明治だけでしょうか。

その意味は維新による新政府だったからその元年に特別な完成度を遡って与えたのでしょうか。

冊封体制の朝鮮では毎年、シナの帝国と同じ元号を使っていたのでしょうか。あればそれは何年間ぐらいでしょうか。意外に朝鮮が冊封体制下に置かれていた事に関して情報が見つけられません。ぜひ教えて下さい。

日本でそういう冊封体制の事例がありましたでしょうか。

A 回答 (10件)

 朝鮮はずっと基本的に宗主国である中国の元号を使いました。

独自の元号を使った期間は大変短いです。

 有名な朝鮮の正史『三国史記』の新羅本記に、
 新羅国が独自の元号を使っていることを中国(唐)が「生意気だ」と怒り、新羅が「ハッ、ハッ。ただちに改め、大唐皇帝陛下の元号を使わせて戴きます。」「新羅の官吏たちの服装も大唐風に改めさせて戴きます。」「また、大唐皇帝陛下への忠心を表すため、長安の守備警護の役に我々新羅の者を就かせていただくことは出来ないでしょうか?大唐皇帝陛下の御身をお守りするという仕事をやらせていただくことで、是非ともわが新羅を信用していただきとう存じます。」と新羅が言った。
 という内容の記述があります。『三国史記』現代日本語訳、平凡社東洋文庫を御参照ください。
 その通り、650年頃から後は新羅は勝手な元号をやめ中国の元号を使い、官職・貴族の服装も唐風の最新トレンディーな服装にし、貴族の若手男子らが唐のみやこ長安の守備につきました。その中には王位継承者クラスの人間もいました。

 後高句麗という時代に20年弱くらいの間、独自元号を名乗りましたがこれは、1人の人間が2~4年置きくらいにコロコロ変えて発表したもので、朝鮮史の中ではこの人(クンエ)は悪者扱いなので大して重きを置いてお考えになることはありません。

 李氏朝鮮では1894~95年の日清戦争により中国が朝鮮から兵を引き揚げ中国の勢力が朝鮮半島から一掃され朝鮮が独立したため、1986年に高宗という王が初めて元号を作って公布し使い始めました(建陽)。でも高宗は1・2年してすぐに別の元号に変えました(光武)。

 朝鮮半島では上記の通り、基本的に中国の元号を使いましたがやはり時間感覚がピンと来なかったんでしょう。自分たちの王様が王に就いてから○年、という言い方・記述をよくします。
 例えば李氏朝鮮が編纂した正史である『朝鮮王朝実録』の記述を見てみると。
 
・ ハングル文字を考案したことで有名な世宗王の時代のことを記した『朝鮮王朝実録』の中の『世宗実録』という部分の、一番最初の「総序」には世宗が生まれた年の記述として、
 「世宗・・・・太祖六年・・・・・大明太祖高皇帝洪武三十年也」
 とあります。
 「世宗は・・・太祖六年(李氏朝鮮を建てた太祖(李成桂のこと)が王になってから6年の年)・・・・・大明(明国への敬称、グレート明)をお建てになった太祖皇帝(朱元しょうのこと)の洪武(明の元号)三十年なり。」
 です。 明の元号と、朝鮮王が即位してからの年数の両方が書いてあります。

・ また韓流時代劇ドラマ『イ・サン』の主人公イ・サン(正祖)の息子で、イ・サン(正祖)の次に王に就いた純祖という王様のことが書いてある『朝鮮王朝実録』の『純祖実録』の一番最初のところには、純祖が生まれた年の記述として。
 「正宗大王二十四年 清嘉慶五年」
 とあります。
 「正宗(正祖に与えられた元々の名)大王二十四年 清国の嘉慶(清の元号)5年」
 のことです。 やはり前王の在位の年と、中国の元号が両方書いてあります。

 この、朝鮮の王の在位の年で表すのは別に元号ではありません。
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この回答へのお礼

私は無理やり、仕方なく、だったと思っていたのですが……
どうやら、新羅の方が、すすんで、漢の元号を使いたがっていたようですね。そこがポイントですね。屈辱の歴史ではないのです。シナの臣下になりたがっていた国なのです。後世の現代韓国から見れば恥ずかしい常識を持った民族だったというだけです。


親切で的確なご回答ありがとうございます。
新羅本記の巻の訳注である「三国史記」(井上秀雄訳・平凡社)をご紹介下さり感謝です。質問した甲斐がありました。
なるほどおっしゃるとおりです。引用しますと、まず初っ端からそうなんですね(一秒で朝鮮の元号の史実を教えてくれます)。

>『 始祖の姓は朴氏で、諱は赫居世である。前漢孝宣帝の五鳳元年甲子の年(前57)四月丙辰の日に即位した。』

日本人がここだけ読んだら当然、中国史かと思いますよ(笑)朝鮮の新羅本記の冒頭なのにシナの皇帝の○○年ですからね。民族の王の始祖の話なのに「前漢孝宣帝の五鳳元年~」ですからね。

(p139。真徳王の2年。648年の記述によると、唐に朝貢させた使者に皇帝の御史(秘書官)が尋ねる)
>『新羅は大朝(唐)に臣として仕えているのに、どうして別の年号を称しているのか。』
(これに対して新羅からの使者が答えるんですね)
>『いまだかつて、天朝(唐)は暦を〔新羅に〕わかち与えたことがありません。そのため先祖の法興王以来、勝手に年号を使っています。もし大朝から命令があるならば、わが国はどうしてあえてこれに反対しましょうか。』

(p151。真徳王4年。650年)
>『この歳、はじめて中国の年号である永徽の年号を用いた。』

この元号「永徽(650年-655年)」は、唐の高宗李治の治世に行われた最初の元号のようです。そして唐と同じ元号を採用した新羅が朝鮮半島で力をつけていくようですね。
この年は、日本の元号でいうと大化6年です。

「三国史記」では朝貢そして朝貢と、朝貢が政治の屋台骨だったことが如実にわかります。


「真徳女王」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%BE%B3% …

>『647年2月には唐からは善徳女王に対する追贈と真徳女王に対する<柱国・楽浪郡王>の冊封が行なわれ[2]、7月に謝恩使を発した。』
>『651年より官制についても唐制にならったものに切り替えていき、王の下の権力の集中を図った。』


「聖徳太子」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3% …

>『推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。[8]』
>『推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階』
>『推古天皇15年(607年)、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書[10]を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。[11]日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)[12]とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」[13]としている。』

600年以降は日本の方が進んでいて、当時から遅れていた国であった新羅が冊封によって台頭し、
650年の元号採用より、シナとの冊封体制を固めた。これで首尾よく朝鮮が新羅のものになっていくのだが、同時に朝鮮民族の属国史の礎を作ったと言えるでしょうね。
600年と650年はポイントですね。
650年に1300年を足すと1950年朝鮮戦争です。中国なみならずアメリカまで介入します。古代のようにまた国が分かれてしまいました。皇国日本の1300年間と属国朝鮮の1300年間は対照的です。まっさきに強調されるべき史実ですね。属国に日本同等の文化が育つはずもないのです。

★日本人と朝鮮人とでは根性が違うのです。

nogul2nさん、ご教導ありがとうございます。大変勉強になり、助かりました。

韓流時代劇ドラマは見ないのでよくわかりませんが、冊封体制の下だから、冊命された王だから、朝鮮国の統治が可能だったという真実が学べるドラマなんでしょうか。主人公が朝貢を指示するとか。

お礼日時:2012/02/26 15:39

No.5です。


ここで直接の回答でないことを投稿するのはルール違反になるのかも知れませんが、ご容赦願います。

質問者様の真摯な態度に感銘を受けました。
実は最近の質問者の多くが、折角丁寧な回答投稿をしても、全く無反応だったり、お礼も言わず、受付を締切もせず、ほったらかしのままであることに憤慨していたところでした。

昨年OKWaveに登録して、しばらくの間は、自分に回答できるものはないかと、毎日アクセスして、少なくとも1件は回答しようとしていたのですが、最近ではくだらない質問や、先に述べたような無反応の質問者も多いため、足が遠のきがちになっていました。
ところがthegenus様は、一つ一つの回答に対して、補足の質問を加えられるとともに、お礼もされていることに感心したのです。
要するに真面目な質問であり、真剣に自分の疑問の回答を求めようという姿勢が伝わってきて、敬服しました。
まさに質問者の鑑のような方ですね。
ほとんどの質問者がそうではないだけに、回答のし甲斐があるというものです。

なお、私の持っている「歴代天皇・年号事典」は、自分で買い求めたものです。
日本史が好きで、大型書店の日本史コーナーにあったのを見つけ購入しました。
これまでにも、秋田書店の「歴代天皇紀」(昭和47年発行)とか、河出書房新社の「日本史年表」(昭和48年発行)なども購入しています。
この「日本史年表」では、601年から1年毎の出来事が網羅されているのですが、その年号・干支欄では、改元の日付は書いてあるものの、いつから実施するとは書いてないので、私はこれまではてっきり改元日までは前の年号が使われていたと思っていました。
今回調べてみて初めて実施日が色々あることを認識した次第です。

また、私はWikipediaに関しては、参考情報としては使えると思うのですが、書かれている内容が本当に正確なものなのかは、必ずしも信用はできないというスタンスです。
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この回答へのお礼

当り前の事をして褒められるのは幼稚園以来です。
追加の本のご紹介ありがとうございます。本を買い渋る私は、本を買う人物を本家のように尊敬しております。本好きという事もなく、買うのは歴史関連ばかりですかね。
私がずっと愛読愛眼している薄べったい地図の本¥580円「世界史地図」があるのですが、ふと出版社を見ると吉川弘文館でした。これの日本史版もあるのですが特に日本史好きでもなかった私は、立ち読みしながら悩んだ末、買い惜しみました。お持ちでしょうかね。活字を追わない眺めるだけの読書は爽快になれます。無目的に広げてそれが一服になるんです。手放せません。これは当たり商品に思います。本家ではない私の数少ない購入本の一冊です。

私も素人なので、今頃気付いたのですが、奇しくも歴史(考古)の活きのいい話題に踏み込んでしまったようです。

立年称元はこの人の造語らしいです。

「平勢隆郎」(東京大学東洋文化研究所教授)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8B%A2% …

何言っているか私にはさっぱりですが↓自分の造語と書かれています。
http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edo2/edo.cgi/_XxHhN …

また、某掲示板では……

>『119 :世界@名無史さん:2005/08/23(火) 23:16:29 0
しかし平勢氏より前に、王が死んで即改元するのと、死んだ次の年に改元するという二種類の改元の混在による年代の齟齬が確かに存在するということに誰も気づいてなかったのかな。』

>『120 :世界@名無史さん[sage]:2005/08/23(火) 23:24:37 O
史記の改元に二種類が混在している可能性の指摘は、もちろん素晴らしい事蹟だよ。
それだけに、漢文は読めず、概説書は書けず、web上での言い訳ばかりうまいとしか言い様がない氏が本当に残念だ。
史記は確かに間違っているかもしれないが、平勢氏の態度も間違っているように思えてならない。』

以上を散見した私の見立てですが、平勢ドグマを支持するかどうかの様相ですね。

立年称元の辞書的意味の厳密な内容は回答者さんのお考えの通り、遡るものではないとした方が妥当に思いました。たぶん平勢氏も遡る意味で使っていないと思います。
こうなってくると、wikipediaを鵜呑みにするなのご指導よろしく、むしろ立年改元の存在に批判が不十分であった私の方が認識を改めなければなりません。
回答者さんの慎重なセンスの方がやはり常識的であると再認識しましたよ。二転三転、面白いです。また同時に、専門書も東大も必ずしも信用できないというスタンスが正しいと再確認しています。ネットの掲示板は多くの目にさらされるので割りに全体として客観性が期待できるんじゃないかとのおもいもあるのですがあの無秩序さは忌避されます。wikiには風通しの悪い澱みが散在するということでしょうね。
私がネットを見て回って一番ダメだなあと感じるのは作成日がはっきりしないページ(文書)が非常に多いんですね。食品に限らず、情報も、作った年月日が分らなければどんなに上等そうなものでも食うに食えません。ITの文書ならば年月日など簡単なはずなのに。現代の文書でさえあいまいです。

早合点の締め切りではこういう吟味の機会を得られません。またサイトに場所を借りているのですから質問者だけ利益を得るような質疑応答にならないようにもしたいです。

本題に関する私見ですが、改元の仕方については根本的には自由で、明治改元は先例主義になることなく、明治天皇唯一無二の改元法として慶応4年の元日に遡った改元だったのではないでしょうか(正解はわかりませんが)。
やはり通念になっていないであろう造語「立年改元」を用いると、さらなる誤解や混乱が生じるということでしょうね。
この訝しさが歴史談義の醍醐味ですが。

質問者を批難して質問妨害する怪答者では困りますが、質問に対するご回答ならば遠慮は無用ですので、今後ともご指導の程よろしくお願いします。

お礼日時:2012/02/27 21:44

「社会問題」への回答と「学問・教育 の歴史」への回答では自ずから回答のスタンスは変わります。

前者は意見表明に近く、後者は学問としての正確さが大切です。

thegenusさんは下記のように尋ねています。
>即位の時だけ改元するようになったのが近代であり、即位で改元するのは大昔からですよね。

これに対する答えは「即位の時だけ改元するようになったのが近代というのは正解だが、大昔から必ずしも即位時に改元があったわけではない」です。それをはっきりさせるために私は具体例を示しました。「一世一元の詔」は即位時に必ず改元することをきっちり明文化し固定化したものなので、この内容を了解していれば、上のような質問はありえません。

朝鮮の元号については http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7% … が事実関係をまとめてくれています。これを読んで理解できないのであれば、国語の教科書でも再読すべきでしょう。

thegenusさんは日本は中国の帝国から冊封を受けていたことを認めたくないようですが、それは歴史的事実に反します。まず日本全土の統治者ではなかったにせよ邪馬台国や奴国が冊封を受けていたことは覆しようのない事実です。

南北朝時代に冊封を受けた懐良親王は後醍醐天皇の皇子です。この時期に懐良親王が「日本国王良懐」(『太祖実録』による)として冊封を受けたのは、明の権威を南朝勢力の維持拡大に利用しようという意図があったものと思われます。

室町時代の冊封について、足利義満が日本国王として冊封を受けたことも事実です。鎌倉幕府以降、日本は名目上の国家元首は天皇ですが事実上の統治権は幕府が握っていました。wikiに書かれていますが、明は当初、義満の資格について天皇の陪臣に過ぎないとして通行を拒んだものの、国情を脅かす倭冦の鎮圧を、権力基盤を確立した義満に期待して妥協し、最終的には、位階上天皇との封建的関係性が明白な准三后を称する義満と関係を結びました。以降日明間で勘合貿易が行われることとなったが、これは朝貢の形式をとっていました。

元号の話に戻りましょう。そもそも元号というシステムが中国の漢の時代に始まったものです。Wikiにあります。「前漢の武帝の治世・紀元前115年頃に、統治の初年に遡って「建元」という元号が創始されて以降、清まで用いられた。」さらに「武帝以前は王や皇帝の即位の年数によって、単に元年・2年とだけ数えられ、新しい王が即位すると改元されて再び元年から数えられる在位紀年法が用いられていた。」そして「明の太祖(朱元璋)は、皇帝即位のたびに改元する一世一元の制を制定した。」 つまり、日本の元号制度は中国のやり方を踏襲しているのです
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この回答へのお礼

日本の王は日本の支配者が決めるんです。誰ですか?お答え下さい。
やっぱり、天皇制を廃止!すべきですか?

お礼日時:2012/02/26 16:04

 こんにちは。

「改元」に関してはbungetsuさんが適切に説明されていますので、少しばかり補足させていただきます。
(1)「代始改元」→文字どおり、皇位に変更があった場合。

(2)「瑞祥改元」→慶事があった場合。

(3)「災異改元」→天災および凶事があった場合。
 以上が改元の事由となっています。問題は(5)のケースです。これを奈良時代および南北朝・室町時代の史料に基づいて整理したモノが以下の事例です。


(1)大宝元年・慶雲元年→文武天皇
(2)和銅元年・霊亀元年→元明天皇
(3)養老元年→元正天皇
(4)神亀元年・天平元年→聖武天皇
(5)天平勝宝元年・天平宝字元年→考謙天皇
(6)天平神護元年・神護景雲元年・宝亀元年→称徳天皇
 これは『続日本紀』に基づいて奈良時代の天皇とその時代に用いられた元号の関係を抽出した資料です。僅か5人の天皇の間ですが、元号は10回の改元がなされています。つまり「一代一元」の考え方の信憑性などは既に奈良時代ですら怪しいといわざるをえません。
 
 中世に至ってはもっとシビアです。『史料綜覧』に依拠して上記と同様の資料を示します。
(1)-A:文中・天授・弘和→長慶天皇
(1)-B:應安・永和・康暦・永徳→後円融天皇
(2)-A:元中→後亀山天皇
(2)-B:至徳・嘉慶・康應・明徳・応永→後小松天皇
(3)-応永・正長→称光天皇
(4)-正長・永享・嘉吉・文安→後花園天皇
 AとBは南北朝それぞれで使用されていた年号ですから2つあって当然です。その後の後小松天皇の時代一つみても件の「一世一元が自然」との根拠はありません。これらの史実から判ることは「天皇即位」と「改元」は必ずしも等価値ではないことをうかがい知ることができます。

そしてこれらの事例から判ることとして「一年というタイムスパン内で先帝崩御や譲位などの場合」次に即位した天皇が直ちに「新年号」を発表してはいない。例えば八月に先帝崩御があった場合、そのまま十二月末日まで同一の年号が使用されている点です。
 この部分が近代以後の「代始改元」とシステム的に異なる点です。質問者様が事例として提出されている「慶応四年」と「明治元年」の使い分けと現在の「平成」と「昭和」の問題は同一の現象ともいえます。
 実際に「昭和」は1989年1月7日までであり、「平成」が正式に新元号として使用され始めるのは1989年1月8日以後となります。
 同様に「明治一年」は史料上(『維新史料綱要』)では「1868年9月8日」以後となり、9月7日以前は「慶応4年」という理解になり、これは「1年というタイムスパンの中に2つの元号が使用された」との結果になります。
こうした意味で「立年改元」とのご理解には無理があると思われます。
 因みに明治天皇の即位は慶応3年1月9日(西暦1868年2月13日)の事です。

 朝鮮半島の王朝下での史書の一つに「高麗史」がありますが、これにザッと目を通した限りでは「年号」そのものが使用されていません。記述の形式として「○○王世家××年△月……条」が見られます。具体的には「忠烈王世家十八年八月丁巳。九月壬午。十月庚寅条」などの記載例です。
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この回答へのお礼

歴史の事実として、慶応4年は、明治元年に、立年改元されているんじゃないでしょうか。

お礼日時:2012/02/25 00:31

こんにちは。


bungetsuです。

>>改元理由をみると、『即位改元』と『代始改元』を区別していますが、この二つにどういう違いが考えられますでしょうか?

即位改元・・・前天皇が死亡して新天皇が即位した時。
代始改元・・・前天皇が上皇などになって新天皇が即位した時。

と、考えれば良いのではないでしょうか。



>>私はまったく史料にあたれないので分りません。踰年改元ではありませんかね。布告された日から遡ってその年の元日から改元するのが立年改元ですよね。

どちらも見受けられます。しかし、私の幾つかの史料を見る限り「立年改元」が多いように思いました。
もちろん「反論」もあるかと思います。



>>『1899年(明治32年)の旧皇室典範の制定により失効したとされている。』
これはどういうことなのでしょうか。面白そうなので、説明していただきたいです。

慶応4年に発せられた「一世一元の詔(みことのり)」は「詔」としては残っていますが、法律としても皇室典範としても明文化されていませんでした。それを明治32年に皇室典範に記載し、初めて明文化されました。それにより、単なる「詔」が皇室典範とい法律へと移行した・・・と言う意味ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご解説ありがとうございます。
詔については皇室典範で失効したということですかね。

即位改元と代始改元の区別は当該のHPだけの現象なのかもしれませんが。

清和天皇(850誕生-881崩御)は876年、27歳にして、皇位を9歳の陽成天皇に譲り、出家された後の880年に崩御。
陽成天皇(869-949)は譲位による876年即位。
元号「元慶」877年4月16日(表では 即位改元)。

陽成天皇は藤原基経によって廃位されます。
そして光孝天皇(830-887)が884年即位。
元号「仁和」885年2月21日(代始改元)。

元慶も仁和も先帝は存命です。


光孝天皇が887年8月26日崩御すると宇多天皇が同日践祚し、同年11月17日即位。
元号「寛平」は翌翌年889年4月27日 (即位改元)。

宇多天皇が897年7月3日崩御すると醍醐天皇が同日践祚、同年同月13日に即位。
元号「昌泰」は翌年898年4月26日(代始改元)。

寛平も昌泰も先帝は崩御しています。

以上、書き間違いがあるかもしれませんが、そのようになっています。

お礼日時:2012/02/25 00:29

私は、吉川弘文館発行の「歴代天皇・年号事典」(2003年発行・米田雄介編)を持っている者です。


専門家ではありませんので、この本に書かれている内容から引用してみます。

冒頭の「天皇と元号と陵」の解説の中で、「元号と天皇」の項があり、そこには次のように書かれています。

・・・・・・・・・・・
天皇の即位にともなって新しく年号が建てられるものを「代始(だいはじめ)改元」といい、新帝の治世の理想とするものをその改元によって表そうとしたものであろう。
ところが改元には祥瑞、災異などの自然現象や、讖緯説による辛酉や甲子の年に変革が起こるという革命・革令などの思想に基づくものもある。
しかし年号の本義はその天皇の治世に寄せる期待を表しており、一例を挙げると、大化や大宝と同じく、聖武天皇の即位とともに定められた「天平」は、天下太平を祈念して名付けられたものであろう。
かかる「代始改元」は、天皇の治世を象徴するものとして行われ、奈良時代には、元正・聖武・孝謙・光仁の各天皇の即位に際し改元されている。
ところが、平安時代初期の平城天皇が「代始改元」を行われた後は、天皇が皇位についた翌年に年号を改める「踰年改元」になる。
儒教的な観念によって、前帝の定めた年号を直ちに改めず、年を越えて改元するのを例とするようになり、明治改元に至るまでこの趣旨は踏襲されている。
「祥瑞改元」は、奈良時代に霊亀・神亀や宝亀が発見されたとか、慶雲・景雲が見えたことから行われたものの、しかしこれらは平安時代以降は行われず、代わって災異による改元が行われるようになり、火災・風水害・疫病などによる社会不安を改元で払拭していたように思われる。
また、60年に一度訪れる辛酉や甲子の年には変革が起こるということから辛酉革命・甲子革命と称して、その年には改元している。
たとえば三善清行が昌泰4年(901)は辛酉の年に当たることから改元の必要があると進言して延喜と改元して以来、戦国時代から江戸時代の初めの一時期を除き江戸時代末までの辛酉年には改元するのを例としている。
また甲子年についても、応和4年(964)以降、戦国時代の一時期を除き江戸時代末に至るまで甲子年ごとに改元している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これらは改元の理由に関する分類の説明ですが、改元の時期に関する分類は、つぎの4つのようです。
(1) 立年改元:改元が布告された時点で、布告された年の元日に遡って新元号の元年とする場合
(2) 即日改元:改元が布告された日から後を新元号の元年とする場合
(3) 翌日改元:布告の翌日から後を新元号の元年とする場合
(4) 踰年改元:布告の年の末日までを旧元号とし、翌年の元日からしん元号を用いる場合

一方、広辞苑には「立年称元法」の意味として、「中国で君主在位の元年を称する方法の一つ。前君主の死去した後、新君主がすみやかに即位して元年を始めるもの。踰年称元法が始まるまでの一般的な方法。」とあります。
「称元」とは、代替わりの際の改元のことをいうようですが、この説明からすると、その年の元日まで遡るという意味には採れず、むしろ(2)か(3)のような気がします。

ところで、明治改元については、9月8日に出された改元の詔書に「改慶應四年為明治元年」とあるようですから、法的には慶應四年はなかったことになるのかも知れませんが、現実的には9月8日までは「慶應四年」が使用されていた訳で、それまでの文書・記録に記載されていた日付まで全て書き換えることはとても無理なのではないでしょうか。
改元詔書布告後に作成される文書・記録であれば、「明治元年1月1日」とすることは可能だと思いますが・・・。

最初にご紹介した「歴代天皇・年号事典」の【明治】については、「明治天皇の時の年号(1868~1912)。慶応四年九月八日改元。代始による。」となっており、「立年改元」であるとの記載はどこにもありません。

この回答への補足

出典明記のあるご回答ありがとうございます。
お買い求めになられた物でしょうか。なかなかお持ちの人は多くないような気がしますが、本好きなのでしょうか。紹介してくださるのは非常に助かります。そのご行為を無にしないよう、返答の都合もありますのでとりあえず私もさっと確認してみました。一覧にはなっておりませんでしたのでわざわざ一帝ごとに目を通していただいのですね。親切で誠実な回答者さんです。

おっしゃるとおり、
>『、「立年改元」であるとの記載はどこにもありません。』

立年改元の文字さえ見当たりません。ネット検索のwikipediaなどでは分類されているのですが、専門家の用語になっていないおそれもあります。他の専門的な蔵書でもそれは戦前の日帝時代の研究科による物でしたが立年買改元の文字はありませんでした。
そもそも大正天皇以前は(明治天皇も含まれてしまいますが)改元の開始日が厳密に特定できないのかもしれません。

明治の立年改元についてですが、前の補足で宮内庁のリンクを貼らせてもらました。そこには「慶応四年九月八日改元」のような記載ではなく、「慶応4年を明治と改元する」そう明記されています。その一方で大正になる時は「大正と改元」のみです。明治45年を大正と改元する、ではありません。役所は字句にうるさいはずですから、両者の違いは意味のあるものではないでしょうか。

明治という元号はそれまでの、将軍職にこびたような元号とは一線を画した、かつてない役割を担わされていると想像します。
書きながら気が付いたのですが元号「慶応」(以前の江戸期の元号制度)についてもっと詳しく調べるべきかもしれません。

「慶応」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%BF%9C
そこにはこうあります。
>『将軍・徳川家茂が朝廷に対して「何以被採用所存無之候」「叡慮之通慶応可然被存候」と述べて改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開するなど、江戸幕府創設以来幕府が奏上してきた改元制度が終焉した事を示すものとなった。』(引用終わり)

「元治」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%B2%BB
によると、
>『改元の議論は前年から始まっており、折りしも将軍徳川家茂の上洛と重なった。朝廷は「令徳」を希望し、次案に「元治」を提案した。一橋慶喜が「令徳」に強く反対し、松平慶永の説得で日本の元号では使われていない「令」は避け、元治の方が穏当とされたため、幕府は了承し、事実上「元治」が採用された。なお、改元の儀式には京都守護職松平容保と京都所司代稲葉正邦が幕府代表として招かれた事が記録されている。』(引用終わり)

元号は重要なんですね(笑)戦前からかもしれませんが特に戦後の日本史教育は、元号の価値を教育できていませんね。

長い歴史に対して何の説得力もない昨日今日の感情から、めどくさいとかいう元号不満投稿がありますが、現実主義で歴史を考慮すれば、天皇および元号の価値を下げる事に余念のない社会主義者には申し訳ないが元号と元号制度は別で、元号制度の方は現実政治(力学)の管理下にあるということですね。即位した年内に改元しなかった例が19あるようですが、それは日本の伝統文化の断絶ではなくて、政治的な理由によるものだと思います。
明治は特殊であり、元号を解説する書物であれば、特設にページをさくべきですが、どうもそうなっていません。内容が論ではなく暦なのです。政治史的な本に仕上げていない証拠とも言えますが、残念な仕事ぶりです。新元号の始点についての概説はないのでしょうかね。

「元号」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E5%85%83
にはこうあります。
>『、専門的には、治世途中の改元だけを改元とし、新帝王の即位による元年は称元(しょうげん)と呼んで区別することがある。』

>『、「明治」改元は1、「大正」「昭和」改元は2、「平成」改元は3である。一方、一世一元の制を布いた明朝以降の中国では原則4を採っていた。』

【1】立年改元。
【2】即日改元。
【3】翌日改元。
【4】踰年改元、越年改元。

(ご回答No.5)
>『現実的には9月8日までは「慶應四年」が使用されていた訳で、それまでの文書・記録に記載されていた日付まで全て書き換えることはとても無理なのではないでしょうか。』

それでいいと思います。形式事なので、無理な要件は適用しないという具合に。ですが、江戸時代の文書を明治政府がどう扱うかの問題でしょうね。明治はただの代始め改元ではないのですね。政治力学上の国体の交代ですし。

興味のある一般人も多いと思うのですが、どうも表面的な研究に留まっているのではないでしょうか。

【慶応四年九月八日改元】有名な改元日が意外と穴だったりするかもしれません。

お気づきの事があればまたご紹介・ご指導下さい。

補足日時:2012/02/19 21:50
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この回答へのお礼

本の紹介などいろいろとお世話になりました。今後ともよろしくご指導下さい。

お礼日時:2012/02/25 23:58

「一世一元の詔」を知らないでしょう。



明治帝は慶応4年9月8日に慶応4年を改めて明治元年とするとともに、天皇一代に元号一つという詔(みことのり、国民への天皇直々の命令のことですよ)を出しました。言い換えれば、それまでは慣習的に新天皇の即位ごとに元号を変えるようでもありながら、多くの例外がありました。

そもそも日本の元号は西暦645年を大化初年とするところから始まりましたが、白雉5年(654)以降、686年をあらためて朱鳥初年とするまで天皇4代に及ぶ空白期間があります。その後も不安定で701年をあらためて大宝初年としてからやっと落ち着きました。このころから天皇が代替わりすると改元するという慣習ができましたが、厳格さはありません。

例えば天平宝字2年(758) 孝謙帝が譲位し淳仁帝が即位しても翌年は天平宝字3年のままで天平宝字は8年まで続きます。宇多帝は仁和3年(887)8月に即位しますがその翌年は仁和4年です。近世になってもいいかげんです。明正帝が寛永6年(1629)11月に即位しましたが、寛永は21年まで続いています。さらに南北朝時代(1336-1396)は二つの元号が並び称されるという混乱もあります。

というわけで「新天皇の即位ごとに元号を変える」というルールが明文化され固定化されたのは一世一元の詔以降です。ちなみに日本に野球が伝わったのが明治5年ですから、ほぼ日本の野球と同じ程度の伝統があるルールです。

改元は実施方法におい立年改元、即日改元、翌日改元、踰年改元などがあります。明治は立年改元と決めたので日本政府は1868年を慶応4年と呼ぶことはなく、明治初年となります。どういう改元をするかは、状況次第のようですが即日改元、翌日改元が大正以降適用されだしたのはマスコミの発達で、改元情報を全国にすぐに出せるようになったためではないかと私は思います。

朝鮮の元号はwikiにちゃんと解説があります(「朝鮮 元号」で検索可 )。いちいちここで引用することもないでしょう。

古代日本が中国の帝国の冊封国であったことは中学生の教科書にもある漢委奴国王印の存在から明らかです。遣唐使も実態は朝貢であり天平勝宝5年(753)の朝賀では新羅と席次を争った事件があました。その後日本の南北朝期に懐良親王が、室町時代になると足利義満が明朝に対して使節を派遣して「日本国王」に冊封されてます。

この回答への補足

補足日時:2012/02/18 06:09
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この回答へのお礼

お礼日時:2012/02/25 23:57

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>立年改元とした元号は明治だけでしょうか。

改元する際、新元号の始点をどこに置くかが問題となるのですが、
1.改元が布告された時点で、布告された年の元日に遡って新元号の元年と見なす場合(立年改元)
2.改元が布告された日から後を(布告された日の始まりに遡って)新元号の元年とする場合(即日改元)
3.布告の翌日から後を新元号の元年とする場合(翌日改元)
4.布告の年の末日までを旧元号とし、翌年の元日から新元号を用いる場合(踰年改元、越年改元)

立年改元は、明治以前はほとんどが「立年改元」と言っても過言ではないようです。
史料などを見ていくと「立年改元」で書かれているものが結構多いような気がします。

そして、慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日)、慶応4年を改めて明治元年とするとともに、天皇一代に元号一つという「一世一元の詔(みことのり)」が発せられて以来「即日改元」となりました。
従って、大正以降は「即日改元」となりました。

また、1979年(昭和54年)6月6日に元号法制定によって一世一元の詔は効力が消滅したとされているが、法務大臣官房司法法制調査部編集『現行日本法規』では、1899年(明治32年)の旧皇室典範の制定により失効したとされている。
法律として定められたのは、意外と新しいのです。

(よもやま話)
まず、和暦の変遷ですが、
(1)帝王(天皇)の交代による・・・代始改元。
(2)吉事を理由にする・・・・・・・祥瑞(しょうずい)改元。
(3)凶事に際してその影響を断ち切るための・・災異改元。
(4)三革を区切りと見なして行われる・・・革年改元。
大別して以上の4つが主なものです。

もう少し詳しく説明すると、
(1)代始改元は、分かりやすいですよね。
嵯峨天皇の即位「弘仁(810)」、清和天皇「貞観(859)」、令泉天皇「安和(968)」、後三条天皇「延久(1069)」、後白河天皇「保元(1156)」、二条天皇「平治(1159)」などがあります。なお、先の天皇が崩御されたた時などは、その年は「喪に服す」考え方で翌年から「新元号」としたり、隠居をし上皇などとなった時は、先の天皇(上皇)に敬意を表して、やはり、翌年から「新元号」とした場合もあります。「即日改元」及び「越年改元」です。

(2)祥瑞改元
大化6年(650)2月に穴門国(あなとのくに=長門国=現:山口県)から白い雉(きじ)が献上されたことを「吉事」として、「白雉(はくち)元年に改元しました。そして、白雉5年(654)まで数えられましたが、その後80年間は、元号の無い時代が続きました。天武天皇15年(686)7月20日に大倭国(やまとのくに=大和国=現:奈良県)から、今度は赤い雉が献上されたため、朱鳥(しゅちょう、すちょう、あかみとり)元年として「元号」が復活しました。しかし、これは「伝説」であって、実際は、天武天皇の病気平癒のための祈願を込めたものだ、とも言われています。事実、天武天皇がその年に崩御されると、朱鳥元年のみで、再び、15年間元号は断絶しました。文武天皇5年(701)に対馬(対馬ではないとの説もある)で産出された「金」が貢進されたため大宝元年が復活しました。

(3)災異改元
京都での地震発生や平将門の乱が起きたため、「承慶」から「天慶元年(938)」に変更。彗星(この星は災いを招くと考えられていた)が多く見られたので「永延」から「永祚元年(989)」・・・陰陽師の「安倍晴明」が活躍していた。平治の乱勃発で「平治」から「永暦元年(1160)」。全国的な飢饉が発生「寛喜」から「貞永(1232)」、関東での大地震発生と全国的な旱魃(かんばつ)で「正応」から「永仁(1293)」。江戸で大火発生「明暦」から「万治(1658)」。江戸で大火と全国的に大風(台風)による水害多発「明和9年(迷惑年)」と呼ばれ「安永(1772)」に。ペリーの来航で「「天明」から「安政(1789)」などがあります。

(4)三革とは
「辛酉(かのととり)革命」・・・昔は、干支(えと)の年号もあり、「甲子(きのえね)」から始まり、60番目の「癸亥(みずのとい)」までを繰り返す第58番目の年の呼び方。
「甲子(きのえね、こうし、かっし)革令」・・・干支の第1番目の年。
「戊辰(ぼしん)革運」・・・干支の第5番目の年。
いずれも、これらの年には、大きな「革命」や「大事件」が起きる、と陰陽道からの考えで、改元をして「運」を呼び戻そうとした考え方。

(5)昔は天皇が在位している間もコロコロ変わった・・・。
長い間「朝廷主導」で、まずは「朝廷関係」を取り巻く出来事があった時のみに「改元」がされ、やがて、朝廷も広く「民」の出来事にも目を向けるようになり、自然災害などでは、「開運」を願って「改元」しました。そして、江戸時代になると、朝廷も「朝廷」や「民」だけではなく「江戸幕府」の動きにも目を配るようになり、江戸で「大事件」や「天災」「火災」、あるいは、「人の生死」などが起きたりした時も「改元」して、「運気」を回復しようとしました。
ですから、日本の「元号」では、初期の頃は、「ゆったりとした」流れですが、やがて、「コロコロ」と替わるようになっていきました。

(6)元号の出展。
書経、易経、後漢書、文選、漢書、晋書、旧唐書、詩経、史記、芸文類聚・・・などが「ベスト10」。

(7)日本が中国を真似た「元号」。
大宝、神亀、天平、大同、仁寿、天安、貞観、承平、天禄、貞元、天福、乾元、元徳、建武、正平、天授、永和、至徳、文明、弘治、天正、元和、正徳、宝暦、天保・・・以上、26例。

(8)日本から中国へ渡った「元号」。
天慶、天暦、天徳、永暦、承安、嘉慶・・・以上、6例。

少しでもあなたの参考になれば・・・。

この回答への補足

皆様、ご回答ありがとうございます。質問者も皆様のご協力の下、疑問解決がはかどっています。


「年号一覧表」
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi9.h …

の中で、改元理由をみると、『即位改元』と『代始改元』を区別していますが、この二つにどういう違いが考えられますでしょうか?

ご解説よろしくお願いします。


No.3のbungetsuさん、こんにちは。
ご丁寧なご回答ありがとうございます。

大変分りやすく具体的に整理して下さいまして面白いように理解が進みました。とにかく分りやすいですし、親切心にあふれています。かなり参考になりました。他の補足内の疑問(No.1など)も、簡単で結構ですので、それもまた宜しければ。



>『立年改元は、明治以前はほとんどが「立年改元」と言っても過言ではないようです。
史料などを見ていくと「立年改元」で書かれているものが結構多いような気がします。』

これはそうなのでしょうか。私はまったく史料にあたれないので分りません。踰年改元ではありませんかね。布告された日から遡ってその年の元日から改元するのが立年改元ですよね。


>『1899年(明治32年)の旧皇室典範の制定により失効したとされている。』

これはどういうことなのでしょうか。面白そうなので、説明していただきたいです。


>『少しでもあなたの参考になれば・・・。』

大変参考になりました。

補足日時:2012/02/17 02:11
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この回答へのお礼

整理されたご回答ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

お礼日時:2012/02/25 23:46

一世一元はたしかに新しい。


ところでその、立年改元とはなんですか。 逆に質問して済みませんが。

慶応四年が明治元年に改元されたのは、9月8日です。
だから、慶応四年の元旦はあるけど大みそかはありません。 明治元年には正月がないのです。
9月8日に、 さかのぼって正月から明治元年だったことにしたとは承知していませんでした。
そうなんですか?
私の承知しているところでは、1868年9月7日までが慶応四年で、それ以降は明治です。
同じことは、昭和64年は一週間しかなく、 平成元年は一週間少ない、元日がない、 ということで経験したとおりです。

同じ1968年生まれでも、9月7日生まれの人は慶応生まれで、9月8日生まれの人は明治生まれです。
大正15年と昭和元年、 昭和64年と平成元年にも同じことがあります。
明治の改元もそういうことと思っていました。 立年改元という言葉は恥ずかしながら知りませんでした。

朝鮮はシナの属国であることを誇りに思っていた国ですから、シナの元号を使っていましたが、統一政権のあった時の元号、あるいは支配を受けていた王朝の元号でしょうか。 朝鮮は歴史のない=史書のない=シナに従っていれば自国の文化はない方が良いと思っていた国ですから、自国に一時資料はないのかもしれませんね。

日本は他国の元号を使ったことなどありません。
また、平成でもそうでしたが、改元の際には、遠くさかのぼってベトナムだとかの昔々にはシナの影響で元号を使っていた旧漢字圏で使われたことがないか、ということも精査して決定されます。

この回答への補足

>『一世一元はたしかに新しい』
ですが、現在行われている即位による改元は大正天皇からではありませんよね。偉大な改革者である明治天皇は15歳にして大変だったとは思いますが、現代の左翼ボケした大人らが誤解せぬように、「即位改元以外の改元を廃止する」と直接的に発表されていればと。

>『ところでその、立年改元とはなんですか。 逆に質問して済みませんが。』
私は質問者なのでよくわかっていませんが社会民主主義者よりも馬鹿ではありません。慶応4年/明治元年は内戦中の新政府にとって内外に抵抗勢力がいた年ですからね。
一般に、元号は慣れなければめんどうです。私もそう感じる瞬間があります。しかし元号は戦勝国・GHQでさえも変えられなかったのです。左翼が首相と教科書を決めても元号は無理でしょう。史上最大の敗戦をしても、昭和は、二十年で終わりませんでした。続いていきます。明けて昭和二十一年元日の詔書で「天皇は現人神として世界を支配する運命にあるとの観念から国民と結ばれているのではない」
とご説明されても改元にはなりませんでした。
元号は明治どころか太古の日本より、日本が主権国家である事を現実的に現在進行形で日々証明しています。元号は神話ではありません。
元号と金閣寺であれば、金閣寺の方がいらない。

日本の基本的な事を日本国民が知らないのは左翼の歴史狩りによるものです。その教育の水準の低下がこうした質問をする手間を作っているのです。義務教育の社会で教えてもらっておくべきことです。どんなに日本帝国が悪かったという歴史観があったとしても、偽りなく歴史科学であるというのであれば。


「宮内庁関係年表(慶応3年以後)」(http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/kuna …
から抜粋・編集そして加筆しますと。

慶応3年1月9日睦仁親王践祚。
明治元年8月27日即位の礼。
明治元年9月8日慶応4年を明治と改元。
明治5年11月9日太陽暦採用(明治5年12月3日が明治6年1月1日になる)。

明治45年7月30日明治天皇崩御。嘉仁親王践祚、大正と改元。
大正4年11月10日即位の礼。
大正15年12月25日大正天皇崩御。裕仁親王践祚、昭和と改元。
昭和3年11月10日即位の礼。

昭和20年8月15日終戦の詔書録音放送。
昭和21年1月1日新日本建設に関する詔書発布。

昭和64年1月7日昭和天皇崩御。明仁親王ご即位。
昭和64年1月8日平成と改元。


平成24年2月16日本日平成23年度分確定申告受付開始。


>『また、平成でもそうでしたが、改元の際には、遠くさかのぼってベトナムだとかの昔々にはシナの影響で元号を使っていた旧漢字圏で使われたことがないか、ということも精査して決定されます。』

そういう場合に日本固有というのですね。
ベトナムもシナも北朝鮮も韓国も西暦でしょうからね。
日本は和洋折衷ですので、やはり昔も今も未来も、欧米に屈していない漢字文化圏の国は日本だけです。

ただなんで元号の参考文献を漢籍にするんでしょうかね。もちろんシナを攻めていた大正も昭和もそうですが。たぶん社会主義者の甘い提案による骨抜き戦術にやられないための保守的な安全策でしょうね。戦後役人をはじめとする反日社会主義者らに油断したら後々、身を滅ぼす運命になりますからね。


>『朝鮮は歴史のない=史書のない=シナに従っていれば自国の文化はない方が良いと思っていた国ですから、自国に一時資料はないのかもしれませんね。』

これは独創的な名答ですね。真相は、朝鮮人自らが証拠隠滅を繰り返してきた歴史なのかもしれません。どこの国でも、自分がない人は韓流に流されるということでしょう。韓流のアデンティティなど聞いてあきれます(笑)現実を消したい連中なのです。

補足日時:2012/02/16 18:37
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この回答へのお礼

>『日本は他国の元号を使ったことなどありません。』

こちらが重要なのですね。

★元号の有無ではなく、他国の元号を使ったかどうか。

今後ともご教授下さい。ありがとうございました。

お礼日時:2012/02/25 00:37

「即位に従う改元」というのは, 大正以降は「即位の時点」で改元を決めているのですが, それ以前は「踰年改元」, つまり即位の次の年に改元するのが多かったんじゃないかな. 「3代続けて同じ元号を使ったことはない」として改元した例があるはずなので, 「即位に伴って改元する」ことそのものは「普通のこと」だったはず. その「即位に伴う改元」がいつなされるのか (崩御当日なのか翌日なのか翌年なのか当年の年始に遡るのか) だけの問題です.



あと, 「立年改元」が確実なのは明治だけなのかもしれませんが, それ以前の改元でも「改元の日以降に書いた文章ではそれ以前の日付でも改元したあとの元号を使う」という慣習があったかと.

朝鮮だと... 「対中国では中国の元号を使い, 国内向けには独自の元号を使う」というスタンスでしょう. 大韓帝国成立の際に「完全に独自の元号」を使いはじめています.

日本ではないねぇ. 冊封体制に入っていたときには元号など使ってないし, 元号を使いだしたときには事実上冊封体制から外れていたという解釈をしているはずです.

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。馬鹿でもできる質問つぶしに辟易していたところで、No.1が賢人には救われます。賢い人のお話は参考になりますが、端的すぎると、賢くない人にはそれを理解するのが難しいです。

あくまでも改元する時期が特定されたのが近代であって、即位による改元(新天皇で年号が変わるめんどくさい伝統)自体は平安の大昔からですよね。ゆかりの桓武天皇しかりですかね。とにかく大正天皇が始めたわけないですよ。そのぐらいの常識さえも現代日本人に形成されていないのでしょうか。
質問文の引用先では、まるで即位で改元するのが大正天皇以降のようなレトリックで、それならばその程度の元号なんか使い続ける歴史的価値のないものになってしまいます。

何事も選択は国民がすればいいのですが、それこそ近代以降、東アジアで元号を使う長い歴史ある国は日本だけですので、朝鮮は存在しないし、存在してもシナの元号ですし、そのシナも中共以前の昔から元号を使っていませんでしたから、日本国民として固有である事実を正しく知った上での議論にならなければ間違った日本文化を広めるデマゴーグの術中に落ちてバカになります。ある結論の論理的な再検討と正論の確認をお願いしたかった次第です。


>『「改元の日以降に書いた文章ではそれ以前の日付でも改元したあとの元号を使う」という慣習があったかと』

これは立年改元の場合ではない改元のご説明ですよね。実質的に立年改元ですよね。
(A)「立年改元を宣言する」
(B)「その宣言はないが立年改元でその年を記録する」
(C)「あくまでその時点の年号で記録する」
があったということになりますかね。どれが多いのでしょう。(B)>(C)。ほとんど(B)だったのでしょうかね。
これは歴史家にとってはおそらく基本的な事ですね。まったく日本の歴史教育は何を教えているんですかね。法則を教えない歴史科学などは四書五経のレベルですよ。

国内的には朝鮮王が決めた朝鮮年号を常に使うわけですか。
一方、日本の場合は天皇の決めた年号でシナ向けの外交文書を作っていた、日本朝鮮の差は、その小さいけど、こびていない大きな違いの一点だけになりますかね。

>『冊封体制に入っていたときには元号など使ってないし』
これは国書にはシナの元号を入れたが、国内では元号の制度そのものを使っていなかったということですかね。いろいろと取り入れたはずなのに、なぜとりあえず模倣しておかなかったのでしょうか。年月日はどうしていたのでしょうかね。

補足日時:2012/02/15 23:54
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この回答へのお礼

勉強になっております。年号を知るのは歴史空間の軸を知る感じで、歴史が立体感を持ってきました。
なんでも勉強してみるものですね。今後ともご指導よろしくお願いします。

お礼日時:2012/02/25 00:34

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