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 以前どこかで前世療法というものの動画を見た際、前世にもどったひとに「年号は何年ですか」と質問すると、「安永○年」とか「天明○年」と、“前世”の人が答えていました。

 最近思い返してふと疑問に思ったのですが、江戸時代の人はその時々の元号を知っていたのですか?
 知っていたとすると、元号が変わったときはどのようにしてその情報が伝わったのでしょう?

 ちょっと不思議に思いました。
 ざっくりしていますがお答えいただければ幸いです。

A 回答 (6件)

>江戸時代の人は元号を言えたか?


その人がどの階層(身分)に属して居たかで大きく変わりますが…99.99%の江戸時代の日本人は元号はおろか、何月と言う概念すらありませんでした。従って基本的には「江戸時代の人は元号を言え無かった」と言う答えでOKなはず。従ってその「前世に戻った人」はどこか遠い星の "EieDoo(我々に理解出来る言葉で発音すると「エド」と聞こえる)" と言う時代から来た異星人かと思われます。

P.S.
日本では明治5年の改暦詔書までは、一部の学者や政府高官以外には元号はおろか、何月何日と言う概念すらありませんでした。そもそも日本では中国由来の暦が数百年に渡って使われており。年号では無く「今年は甲子(きのえね)の年」と言った風に考えていました。いわゆる「干支暦」と呼ばれる暦です。

>Wikipediaによる解説:干支 - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF

江戸時代以前と明治以降の現代文明社会とでは時間の流れ方が全く違います。江戸時代では手紙を送って、その返事が来るのを1ヶ月以上も待って、それからまた返事を送って相互確認を取り、それで互いに了解して~と言った風に物事が運ぶ時間感覚です。厳密に何月何日の何時までに返信を!~みたいな感覚は一切ありません。また個人で時計を所有してる人も居ません。1日は朝昼晩で良かったし、1週間と言う区分も明治以降に西洋文明と共に入ってきた制度です。

江戸時代は主に住んでる地域の神社仏閣で月に行われる「お祭りの日付」を基準に月日を勘定するのが一般的な習慣でした。例えば今ならデートの約束を「明日、2月3日の15時に駅前で」みたいに行います。江戸時代なら「お稲荷さんの次のお祭りの前の日に六角地蔵の前で」みたいになります。現代人みたいに正確に何時何分と言う概念自体がありません。早く来過ぎたり、或いはのんびり出掛けて相手を何時間も待たせて、特に怒ったりはしません。だってそう言うものだからです(なので待ちぼうけやすれ違いも当たり前でした)。
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この回答へのお礼

ご返答ありがとうございます。

 江戸時代は農民が8割だったと聞きます。
 皆さんの答えは町人の生活を思わせましたが、4017Bさんの最後の段落は農民の生活に近いのではないかと判断して、ベストアンサーとさせていただきました。
 
 お答えいただきました皆さん、この場をお借りしてお礼申し上げます。
 ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/30 07:22

知らない人や無関係な人も居たかもしれませんが、普通に暦があったので、知っているのは可笑しくないでしょう。



当時は太陰太陽暦ですので、幕府の作った暦を見なければ何処に閏月が有るのかも判らず、生活に支障を来たす場合も有ったでしょうし、人別長には生年月日が記されます。

一般的な人間でしたら、生活の何処かで耳にするものでしょう。
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明治5年生まれの岡本綺堂が書いた「半七捕物帳」を読んでみると、「天保丑(うし)年の十二月」(=天保12年12月)とか、「安政午(うま)年の十二月」(=安政5年12月)のような表現がされてます。

半七捕物帳の時代考証は非常に正確であることで知られてますので、おそらく、少なくとも幕末の江戸期では、このように、年号と干支で年を表記する言い方が普通だったと思われます。

と言うことは、”前世”の人の言い方は、ちょっと現代風かもしれませんね・・・・。

改元の周知については、江戸時代初期には高札での公示が用いられたようです。

高札
http://www.geocities.jp/shimizuke1955/360kousats …

しかし、途中からは「お触れ」もしくは「御触書(おふれがき)」と言う制度が普及し、町では名主、田舎では庄屋を経由して、一般庶民に情報を流すようになりました。幕末御触書集成と言う本によると、下記の内容が御触書で回っていたようです(改元も含まれています)。
武家諸法度之部
御改革法令之部
外国条約之部
殿中席書席順之部
禁裏御吉凶等之部
禁裏向并勅使之部
改元之部
上洛并上使之部
将軍 宣下御祝儀之部
御呼称之部
献上物之部〔ほか〕
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784000088312
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今の新聞に該当する瓦版もありましたし、話題が少なかった時代ですから、改号は大ニュースだったでしょう。


暦もかなり普及してましたから、今年が何年かもちゃんと知ってたはずです。
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勿論一定の教育を受けた人は別ですが、庶民には関係ない話だったと思います。

当時日本の教育事情は世界一だったといわれていますが、それでも漢字で何不自由なく読み書きできた人は限られていました。ましてや元号まで周知さていたとは考えられません。
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知らないと、「創業慶長○年」とかの(江戸では)老舗のところが名乗れないではありませんか。



お触れとして、お上が立て札を立てて、ひらがなしか読めない町人でも漢字も読める物知りに聞きながら全文読んでもらって、瓦版などでニュースとして広めて、というので簡単に広められます。
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