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江戸時代のお金について。
江戸時代ではお金として金貨や銀貨が使われていたと思うのですが、なぜ年貢として米を納めなければならなかったのでしょうか。
個人的に年貢=現在で言う税金だと思っているのですが、その解釈で考えると、年貢として米を納める意味がよくわからなくなってしまいます。
無知な質問で申し訳ないですが、ご回答の程よろしくお願い致します。

A 回答 (11件中1~10件)

とても良い質問です。


平安時代末期に中国の宋の貨幣が大量に輸入されると、荘園の年貢は銭で納めることがあっという間に一般化しました。室町時代になると、税自体も銭で納めるようになっています。
しかし、長年使ってきた宋の銭は損耗してしまい、さらに大量の贋金も作られて信用を失ったのです。室町幕府は明から大量の貨幣を輸入して流通させましたが、あまりにもピカピカで立派だったので、「これも贋金じゃね?」とあまり信用度が無かったのです。
そのため、室町幕府が衰えてくるとまた税は現物納が主になったのです。特に西日本でそれが顕著で、織豊政権が現物納を基準としたことから全国標準になったのです。検地ってありますよね。中世にも検田という似たようなことをやっていますが、中世は耕作地を銭ナンボと貨幣価値で格付けしていました。だから年貢も銭納できたのです。太閤検地で耕作地は収穫量で価値付けしました。だから現物納なんです。
「途中で検地しなおして銭納にすれば?」と思うかもしれませんが、検地はおいそれとできません。農民にとっては大増税になるので、大反対にあい一揆すら発生する可能性が高い。
こうして前例主義で現物納のままでいるのが農民にとってもお得だったのです。
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この回答へのお礼

分かりやすく且つ詳細に教えて頂きありがとうございました!

お礼日時:2023/01/21 00:29

貨幣経済がそれほど、発達していなかったことがあげられ、武士政権は、そこから脱却できなかったからです。



江戸幕府に成立後、中期以降、貨幣経済が発展を遂げますが、しかし武士はコメの呪縛から離れることができなかったからです。

そのため、コメの出来不出来に財政が左右され、貨幣を牛耳った町人階級が台頭しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2023/01/21 00:29

江戸や大坂の町の人々も食糧として米などが必要ですね。

だから農民が年貢を金貨や銀貨で納めても米などを輸送する必要があったのです。もちろんそのようにしても構わないのですが、殿様としては輸送業者を手配するのも大変ですから農民に江戸まで運ばせたのです。一般に年貢米は近くの港まで運べば良いのですが幕府領の年貢は江戸に届けるまでが農民の責任でした。

江戸などの町場では集まって来る年貢米だけでは足りません。年貢以外にも大量の米や麦が送られていました。おかず(副食)も必要ですね。近郊の農家は野菜なども売っていました。落語や芝居に棒手振りの大根売りなどが登場するでしょ。

江戸時代も末期になると年貢の一部(1/3程度)は現金で納めるところが出て来ます。毎年藩役所や代官所から提示される米価で換算して納めました。
また藩によっては米切手での納米が可能で、余裕のある農家は市場の米価を見て有利な時に切手に変えていました。これが可能になったのは江戸周辺での米生産が増え、必ずしも地方から送らなくても食糧事情が良くなったのでしょう。
早納できる藩もありました。いくらか割引になったとか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2023/01/21 00:29

まず、その藩の食料確保のため、生産物である米をそのまま納める形は絶対だったと思います。

東北の一部の藩では、米をそのまま保管し、飢饉に備えてたそうです。
これをお金で収める形にしたら、食料にもなる米の藩外への流出や、間に入る商人の中抜きなどで、経済がぐらついた可能性が大きいです。
実際に、明治になってから、年貢をお金で払う税金という形に改めたとたん、農家の負担が一気に増しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2023/01/21 00:29

当時は、貨幣に対する信用が


あまり進んでいなかったのです。

都会ならともかく、田舎に行けば
貨幣が使えない、なんて処もありました。

その点、米なら、主食ですから
何処でも信用があり、使えます。

これを「米本位制」といいました。


しかし、米ではかさばるし、腐ったり
するので不便なので
経済が発達しません。

そこで、田沼意次、というお人が出て
貨幣本位制を敷こうとしたのですが
時期尚早で、失敗しました。
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この回答へのお礼

米本位制、、、初めて聞きました。
もっと勉強します!ありがとうございます!

お礼日時:2023/01/21 00:30

米本位制で、貨幣は補助的だったからかな。


今風にいえば、給料をお金じゃなくてポイントで貰うようなもの?w
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この回答へのお礼

現代風に教えていただきありがとうございました!

お礼日時:2023/01/21 00:30

元々、どこの国でも年貢(税金)は食料や衣料などの生産物で納めるものでした。

貨幣経済が発達する前、つまり小さな村が集まって中央に王様や藩主が住むような地域経済なら「食料をぶつぶつ交換すれば貨幣の代わりになる」ものだったからです。

それは実に当たり前のことで、特に近代で機械化が進む前は「人間の力だけが資本」だったからです。

人間が居て、ご飯を食べさせてあげれば「木を切って家を建ててくれる職人」「反物を織って服を作ってくれる職人」などを養うことができたからです。

だからどこの世界でも「人間一人が1年間に食べる食料の量」が最初の通貨単位になっています。
日本だと1石=俵2.5俵が「成人男性一人が食べる1年間の米の量」で、50万石の大名ということは「その大名の領地では50万人の人口を養える米がとれる」という意味であったわけです。

なので、どこの世界でも「最初の税は農作物」だったわけです。

で、世界ではこれがだんだんに貨幣に代わっていきます。なんで貨幣の変わったかというと「貿易している地域で生産している穀物の種類の差が大きいから」です。
 
世界的に貨幣が最も早く普及したのは中国だとされていますが、中国は広いので南の米文化と北の小麦文化では、物々交換が成り立たなかったからでしょう。

逆に日本は貨幣経済が割と早く浸透したものの、武家社会は「農地=米」を基本とした社会構造だったので、米をそのまま通貨にしたのでしょう。

逆説的ですが、世界で一番最初に先物取引所が大阪堂島にできたのも「為政者の武士が米経済から離れないので、毎年の収穫量の変化で損をしないようにするためだった」と言っていいです。
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この回答へのお礼

日本の社会システム的に米の方が都合がよかったということですね、、、
ありがとうございます!

お礼日時:2023/01/21 00:32

私は社会科で以下の様に習いました。



明治前まで、財産は米で有った。
だから、〇〇藩は□石の領地と言いました。
石はどれだけの米が採れる土地であるかの目安です。
石が多いほど多くの人が養える。
国力の強さを表している。

庄屋は田を農民に貸して収穫し、庄屋が年貢を殿様に納める。
殿様はそれを売却して貨幣に替えて日常の買い物をする。
町民も貨幣で賃金を貰い、生活の支払いをしていた。

貨幣が無かった半島のように物物交換ですと、支払いのため誰もが米俵を担いで買い物はとても不便です。
だから、米俵に替わりに貨幣で持ち歩いた。

財産としては米が主ですが、合理的な貨幣を使用していた。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2023/01/21 00:33

米は毎年大量に生産され需要のある取りっぱぐれのない経済物資でした。

米本位制経済です。また米の代わりに通貨で取り立てるほど通貨経済は発達していなかったのです。金、銀は幕府が生産して流すので生産に限度がありました。金を必要なだけ生産できませんね。紙幣の発明がない。経済の理解が進んでいない。
町人、工人、漁師からは運上冥加金を取っていました。
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この回答へのお礼

恥ずかしながら米本位制という言葉を初めて耳にしました、、、
分かりやすくありがとうございます!

お礼日時:2023/01/21 00:34

農民は農地を借りて米を作ります。

できた米を出します。これが年貢です
領地の小作人は労働者です。
米は税金ではありません
領地を収めるものはできた米の一部を大阪に持っていき米を現金にします
それで必要なものを買います
また領主が働いている藩の武士に一人一日5合の割で米を与えます。30俵に二人扶持とは二人の人間を雇えて食べさせるだけの給料をもらっているという事です。
当時は税金という制度はありません
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2023/01/21 00:35

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