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山本博文著の江戸学講座を興味深く読んでおりますが、次の説明に出会いました。
<江戸時代の初めは、家禄だけで食べていける旗本・御家人も多かったのですが、中期以降は、米の値段が下がりますから難しかったでしょう。>
一般的には、物価は長期的にみると、漸進的に上昇します。(もちろん、技術革新などによって、低下する場合がありますが)。
米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

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A 回答 (6件)

中期以後というと、暴れん坊将軍の吉宗さんの時ですね。

お堅い日本史では、米将軍と呼ばれ、米を中心とした物価の安定で有名です。米が日本酒の原料として使われる量を調整するなどで、品不足による物価上昇を抑えたといいます。

長期でみると、実際は上がったり下がったりだったでしょう。

江戸時代、米がお金代わりでしたから、どの藩も米の生産に力を入れます。運送業も発展し、西日本で生産された米が流通。他の物の価格と比べ、比較的安くなったのでしょう。
 米=扶持だった武士にとっては、物価上昇+収入ダウンでしょうけど。。
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この回答へのお礼

早急なご回答ありがとうございました。
1.吉宗は
<米を中心とした物価の安定で有名>
なのですね。昨今、意図的に物価を上げる為政者もいますね。
2.<運送業も発展>
し、流通が拡大したこともあるのですね。もちろん生産が増えたこともありますが。
3.サラリーマンである武士にとって(おそらくの農民も影響を受け)
<物価上昇+収入ダウン>
なのですね。

お礼日時:2015/01/02 19:41

No.2です


わざわざおれを記入頂きありがとうございます

蛇足ながらお節介ついでに説明をさせてください

江戸時代を考える上で注意頂きたいのは、江戸という町と日本全体の江戸時代とは異なるということです。
江戸という町は100万人都市といわれますが、人口の半数が武家でした。
更にこの半数の多くが一年限りの単身赴任の若い男性(藩士)でした。
日本全国で見た場合は武家は2%~4%程度の人口比でした。
更に大名領と呼ばれる領国では、武家=藩士は城の周辺のいわゆる城下町に集結して居住していました。
大名領(藩)によっては武家が許可なく城下町の外へ出歩くことを禁止していたところもあります。
日本の大半の地域には支配層である武家が居住していなかったということです。
逆に江戸の町には百姓とされる身分階級の人が極めて少人数でした。

つまり、江戸の町と日本全体とでは社会構造が全く違うということです。
これに対して時代小説をはじめとする市販の江戸時代関係の書物は江戸の町の情報に基づいて書かれています。
今回のご質問のように日本全国に関わる問題の場合には誤解を生む結果となってしまっています。

身分制度上百姓とされている人の職業は多種多様で多岐にわたっていました。
一次産業従事者としては農民だけではなく漁民も含まれています。
これ等の人達が必要とする日用品を製造するいわゆる職人も含まれます。
更に領内であるゆる物資を流通させていた商人も含まれます。
こような観点からすれば百姓と呼ばれる身分階級者は城下町以外に居住していた人と考えられた方が実態に近いイメージとなります。

年貢徴収の対象となっていたのは、あくまでも米の生産を主体とする農耕従事者でした。
さらにこの農耕従事者も、実際に年貢を負担納税する階級と、その階級の人が所有する田畑を耕作して労賃を得ていた人に区分さていました。(小作人)
この小作人に相当する人は納税の義務がないのと同時に公民権も認められていませんでした。
代官所などで、公的に武家と話をするためには、年貢を納税している階層の人を通じて行う以外に方法はありませんでした。
この年貢の負担も所有する耕作地の広さで決められていました。
零細農家は含まれていませんでした(水呑)
水呑というのは蔑称ではなく階層を表す正式な名称でした。
公的な権利義務も小作人に準じた取り扱いをされていました
年貢を負担していた人は本百姓と呼ばれていました。
つまり農村では、村民間に厳しい身分差があったということです。

一揆などと呼ばれる農村の騒動の大半はこの村落住人の身分間の争議でした。
争議の対象となった本百姓のなかの有力者が代官などの武家に征圧や調定を依頼しました。
武家が出動した際には幕府や藩の公式記録に記載されて史料として残りました。
この史料だけを頼りに議論すると、これも誤解の元となってしまいます。
近年の歴史学会では、各村落の住人が書き残していた史料を個々に精査するようになってきています。
これを積み上げると、従来の学校の教科書的なイメージとは相当異なる姿が浮かび上がってきます。

以上のように今後書籍を読まれる際には江戸の町の話なのか、日本全体の江戸時代の話なのかを区別されることをお勧めします。

ついでながら江戸幕府というのは全国を統治する中央政府ではなかったことに注意して下さい。
各大名領は各々の大名が定めた法令で運営されていました。
幕府がこいう法令を出しているから現在のように日本全国で施行されていた、と考えますと誤解が生じますので注意して下さい。
幕令に順次した法令をだすか否かは各大名の判断次第でした。
また施行方法も各大名の事情で江戸の町とは違った形でした。
現在のヨーロッパのEUをイメージして頂いければよろしいかと思います。

米価を決めていたのも幕府の経済政策ではなく、あくまでも商人同士の取引の結果として決まっていました。
そういう意味では現在と同じ自由市場経済でした。
日本が明治維新による近代化をあっさりやり遂げたのも、この自治と自由経済の経験を280年間積み上げていたからでした。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
1.<江戸という町と日本全体の江戸時代とは異なるということです。>
ですね。私は、歴史のあちこちの興味深いところを、単につまみ食いしていますので、(体系的に学ぶという姿勢から程遠く)、東西にも古今にも偏っており、自戒しなければならない、と思います。
2.農民といっても、多種多様なのですね。単に分けられる、あるいは分類できる、というより、階層に分けられる、あるいは階級に分けられる、という感じです。今で言うと、社員といっても、正社員・臨時社員・派遣社員のように。一つ縄で農民を括れない、のですね。

お礼日時:2015/01/03 16:24

各大名家(別に大名に限った事では無いが)は、領内の田地から得られる年貢米が基本的な収入源だった


貨幣経済の進展と共に、家格に見合ったお付き合いだったり、奥向きの浪費だったり、藩主の放蕩だったり等の理由でどこの大名家でも赤字財政で汲々としていた

そういう財政事情を改善する為に増収を図るには、新田開発という事でそれまで荒れ地だったような土地を田畑に買えて年貢の増収を図った

その結果何れの藩でも、公式の表高以上の実質石高があった

耕作地を増やす他にも、栽培方法の改善とか肥料の導入などによっても単位面積あたりの収量も増加した

こういう努力の結果、国内の生産総量は増加した
生産量が増加したことにより、米以外の商品価格の上昇ペースに比べると米価の上昇率はゆっくりとしたモノであった

米価の上昇よりその他物価の上昇率が大きかったので、比較すると米価が下がったような結果となった

今も同じだよね、円安などで、資材価格もスーパーの商品価格も上昇している
それに比べると、給与の上昇は低いレベルなので
総体的に生活が苦しくなる家庭が増えている
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この回答へのお礼

早急なご回答ありがとうございました。
米の
<国内の生産総量は増加した>
ので、
<米価の上昇よりその他物価の上昇率が大きかったので、比較すると米価が下がったような結果となった>
ということですね。
従って、質問欄で引用した
<米の値段が下がります>
は、米の実質価値のことですね。

お礼日時:2015/01/03 12:43

江戸時代当時、武士への給料は「○○石」と石高で決まっていました。

つまりお米の現物払いです。つまり、この当時の米とは通貨としての意味合いも含んでいたのです。私や一部の人たちは金本位制ならぬ「米本位制」なんて言葉を使います。
物価が上昇するということは、貨幣の価値が下がるということですから、米を消費物と思うと不思議な気がしますが、米が貨幣だと思えば不思議なことではないわけです。

江戸時代は、時代が下れば米の流通量は増えました。主な原因は二つで、ひとつは技術改良によるもので、もうひとつは流通の発達によるものです。
技術改良は、流通の発達とも密接に結びついています。江戸時代には肥料として「ほしか」が使われました。鰯を干したものです。この鰯なんかは北海道(当時は蝦夷)の松前藩の主な輸出品のひとつでした。このほしかのおかげで松前藩は米そのものは一石も採れないのにそのへんの貧乏藩より栄えていたのです。
また流通が発達することによって、遠隔地の産物が運ばれるようになりました。日本中のお米が流通するようになれば、それは今日銀がやっている金融緩和と同じようなことが起きているということになります。実際に当時の商業の中心地だった大阪では米の先物取引というのが盛んに行われていました。

その一方、武士の給与(石高)は上がりません。それは100年前や200年前に決まったお給料がそのまま引き継がれていることにもなります。物価が上昇しインフレが起こり、米(通貨)の価値が下がるのですから、武士の生活はどんどん苦しくなります。武士はお米を現物でもらうと、そこから自分たちが食べる分を差し引き、残りを換金して生活費に充てるわけですから、米の値段が下がれば現金収入が下がるのでどんどん貧乏になります。
そして当時、法人税はなかったので、商人はある一定額の税金を納めればよかったので、儲かれば儲かるほど、儲かったのです。
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この回答へのお礼

早急なご回答ありがとうございました。
<武士の給与(石高)は上がりません。>
ですね。(一般に)物価は上がります。流通量(生産量)が増えた米は、連れ高しません。したがって、武士は米を換金して、他の物・サービスに使いますが、昔に比較して少なくなります、という構図ですね。
質問欄で引用した
<米の値段が下がります>
は、米の実質価格のことですね。

お礼日時:2015/01/03 12:33

http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J029.htm

米の値段は上がっています。

17世紀
ざっくり 30文

その後
ざっくり 60文

これが”名目”米価 ≒ 武士にとっての名目賃金

実質米価 ≒ 武士にとっての実質賃金が下がったのです。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4545.html

一人あたりGDP
17世紀 550ドル
人口 1500万

GDP ≒ 825,000万ドル

一人あたりGDP
18世紀 600ドル
人口 3000万

GDP ≒ 1,800,000万ドル

218% 対17世紀比

一人あたりGDP
1820稔 669ドル
人口 3200万

GDP ≒ 2,140,800万ドル

259% 対17世紀比

江戸時代初期と比較して、経済の規模が17世紀には2倍、19世紀に入ると2.5倍になっているのに武士の給料は2倍(名目)だから苦しい。
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この回答へのお礼

早急なご回答ありがとうございました。
名目米価は2倍に上がっています。比例して、武士の名目給料も上がっています。
ここまでは分かります。経済の規模が2倍や2,5倍になって、武士は苦しくなった、というところから分かりません。経済の規模=物価ならわかります。説明の道すがら、通常の人に分かる、自明なことが省略されている、から私には理解できない、のかもしれません。

お礼日時:2015/01/03 16:43

生産高が増えて需要と供給の関係から下落していきました。


ご質問の中でご自身が指摘されておられる技術革新があったからです。
第二次世界大戦後のマルクスレーニン主義に被れた社会学者や歴史学者が吹聴した貧農史観に惑わされていませんか。

280年間日本人は寝とぼけていた訳ではありません。
技術革新はあらゆる面でありました。
品種も改良されました。
肥料も改良されました。
病害虫の駆除薬も開発されました。
農機具も開発されました。
これ等の情報は農業指導書として出版流通していました。
日本の識字率が高かったことがこれを支えていました

農民を絞るだけしか考えないような阿保な大名も家老もいませんでした。
新田の開発を続けていました。
武家の収入が米だけである以上、藩政を潤すには米を増産する以外に方法がありませんでした。
米を現金に変えて生活していました。
米は市場では最大の流通商品です。これを見逃すような商人はいませんでした。
新田開発に次々と商業資本が投入されました。

幕府や大名家(藩)という組織はあくまでも軍事組織です。
農村経営などずぶの素人です。
年貢も村落単位で徴収していました。
日本の農村は自治組織で運営されていました。
庄屋(名主)などと呼ばれる人を頂点とした合議制で運営されていました。
会議に参加する村役人は入れ札すなわち農民間の選挙で選ばれていました。
藩幕体制というのは、この自治組織の上に乗って運営されていました。
農民の自治組織からノーと言われれば即刻潰れてしまいます。
マルクスレーニン主義者が言うようなヨーロッパやロシアのような支配者被支配者という関係ではありませんでした。
参考
江戸時代の百姓は本当に貧しかったか?
www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub226.htm

勤勉革命 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/勤勉革命

下記のような書籍がありますので一度目を通されることをお勧めします
貧農史観を見直す 佐藤常雄/大石慎三郎 講談社現代新書
百姓の江戸時代 田中圭一 ちくま新書
歴史の中の都市と村落社会 田中喜男 思文閣出版
百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 柏書房
江戸の経済システム 鈴木浩三 日本経済新聞社
逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦  宮崎克則 中公新書
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
供給が増えたのですね。
栽培方法の改良・
<新田開発に次々と商業資本が投入されました。>
商業資本の投入については、初めて知りました。
<貧農史観>
とか
<支配者被支配者という関係>
などについて、私が考えることのできるほどの知識レベルには、残念ながら、まだ達しておりません。
挙げて頂いた書籍については、やさしいもののみ探してみます。

お礼日時:2015/01/02 22:21

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