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自分の住む地域の歴史を調べています。旧家で江戸時代の「村小入用帳」を見せてもらいました。村を訪れる宗教者(御師とか僧)や座頭・ごぜ、浪人などに村から少額ではありますが金銭が与えられている記録がありました。額は一人6文とか12文なのですが、なかなかおびただしい数なのです。「施し」とも思えるのですが、職業?がいろいろでよく判りません。なぜ、こうした人たちに当時の村のいわば「公金」が支出されたのでしょうか。教えてください。

A 回答 (5件)

3番の回答者です。



>幕府領でもこれらの人々の扱いは同様だったんでしょうか。

加賀藩では寛文八年七月二十二日付けで
1、人形廻し・踊り子等
1、他国の座頭・舞々等
これらへの宿貸しを禁じ(これは以前からの触れを重ねて申し渡したものです)、さらに
1、以前から来ている以外の異形の諸勧進を禁止したので、これにも宿を貸してはならない
と藩内に通達しています。

理由は多分、百姓が余分なことに興味を持ったり金を使ったりして年貢未進になることを防ぐためかと思います。

藩からの通達は期限付きのものや、解除通達が出たとき以外はずっと効力が持続しましたが、年月が経つと分からなくなるので、必要に応じて度々高札や触れ状を出していたようです。

加賀藩では天保の飢饉の時に出された高札がよく知られていて、そこに先述の浪人のことが出ています。

幕府領のことはよく分かりませんが(加賀藩内にも天領がありますが勉強不足です)、幕府も百姓からいかに年貢を取り立てるかに心を砕いていたことは同じですから、恐らく同様の触れが出ていたものと思います。
そちらの市町村史に何か出ていませんか?

江戸時代は参勤交代で藩主や重臣が江戸に詰めていて、幕府や他藩の法令でも効果的なものは積極的に取り入れていたので、これも他に倣ったものかもしれません。

もう一点、庄屋が一手に引き受けた理由として、一般の百姓は金が家にほとんどなく、年貢の余り米で生活物資と交換していたという事情も考えられます。

金がないのにどうして年末に払えたかということが疑問であれば、その旨記していただけば回答します。

この回答への補足

早速のご回答ありがとうございます。

>金がないのにどうして年末に払えたかということが疑問であれば、その旨記していただけば回答します。

ぜひぜひ、お願いします。

補足日時:2003/06/07 21:57
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金がないのにどうして年末に払えたかということについてですが・・・



稲の収穫が終わったとき、百姓は自分に割り当てられた年貢米を若干上回るか、または飯米分を除いたすべての残米を庄屋に預け、処分を委託したのです。

従って庄屋は年末になると村人から徴収すべき金があった反面、分配すべき金もあり、これで差し引きしていたのです。

ある村の例であって、全国すべての村にいえることではありませんが、注意深く帳簿類を検討すると、あるいはそちらの村でもこうした経済の流れが分かるかもしれません。
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この回答へのお礼

細かいところまでご教示いただき誠にありがとうございました。教えていただいたことを参考にさせていただき、より多くの簿冊等を目にしていきたいと思います。

お礼日時:2003/06/08 21:10

近世加賀藩史を研究しています。



藩によっても、また同じ藩でも村によって違いがあるのですが、最も可能性の高いと思われることを記します。

「村小入用帳」を見ていないので想像ですが、それは多分庄屋階級の大百姓がある年の村の公的な支出金を記した帳簿かと思います。

村を維持するために必要な金は、庄屋が立て替えるか、積立金を切り崩して支払いしておき、盆・暮れに村人を集めてこの金を集金し、庄屋、あるいは積立金に戻していたのです。

集金の方法は、世帯人口に応じた頭割・各家均等に割り付ける戸割・家の財産に応じた分限割などがあります。

さて、ご質問の経費ですが、多分その村では「施し」の交渉を庄屋が一手に引き受けていたものと思います。

加賀藩では、このような僧や浪人は追い返せと触れを出しています。しかし、相手によっては下手に逆らうと思わぬ反撃に遭うこともあります。全国的にも困った問題だったようです。

そちらの村では、無垢な百姓がなけなしの金を騙し取られることのないよう、すべて庄屋が取り仕切っていたのではないでしょうか。
その方が百姓にとっても「庄屋のとこでまとめて払うから」と言えば簡単に追い返せて楽でした。

そもそもこの帳簿記載の金を「公金」と考えることに無理があります。

この金は庄屋が一時的に立替払いをするものであり、いずれは個々から取り立てるのですから「私的」な金と考えるべきでしょう。

以上、ご質問内容から類推してお答えしましたが、疑問点等があれば遠慮なく補足要求してください。

この回答への補足

 ご回答ありがとうございます。「自信なし」とはご謙遜を。十分疑問が晴れました。おっしゃるとおり庄屋の持つ帳面で、村の支出を帳付けしていたものです。年末には高割・軒割で小前から徴収していますので、ご指摘の通りの形態です。恐れ入りました。
 加賀藩では「追い返せ」とのお触れが出ているそうですが、この村の場合は幕府領です。幕府領でもこれらの人々の扱いは同様だったんでしょうか。
 その後、別の村の同様の帳面を見る機会がありましたが、昼食代・米代・木賃代などの名目でいつも12文ほどを渡しているようでした。その者達の職業?も船頭・江戸火消し・宿廻りなんてのもありました。施しを受ける方は、適当に名乗ってたんでしょうかね。

補足日時:2003/06/06 21:10
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 農業ですと中程度以下の家庭では普通の時期はお金を持っていませんでした(不用でした)。

食物はいうに及ばず、日用のものは自宅で作ったり、物々交換、衣類などは使い回しでした。そのような村に福を招く宗教者や旅の一座が来たときには全家々や全員に見てもらうには全員の分を公金で支出して各家庭に回ったり、屋外で興行していたでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/06/06 20:58

想像だけど昔は僧は知識人でいろいろ教わっていたのでは。

あと今の時代と違ってお坊さんはもっと生活に近いとこにいて宗教と生活が近いとこにあったんだと思う。例えば食事の前に手あわせるのは仏教的だしね。切支丹対策でどこかのお寺に入らなきゃならんかったっていうのもあるんじゃないかな。あと現代と違って公共事業は国や県市町村がやっていたけど昔は僧が村人指導してしていたところもあるようだしね。浪人は泥棒等犯罪から村を守るためかなと想像しますけど。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/06/06 20:57

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