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江戸時代ではどれくらい米が食べられていたのでしょうか?
江戸時代は米いっぱい食べられた時代とも聞いたことがありますが、その一方百姓条目享保4年には農民は一切米を食べないという規定があると聞きました。
実際のとこどうなんでしょうか?

A 回答 (4件)

#2、3さんの解説が詳しいので、ちょっとだけ補足です。



それは「実は江戸時代中期以降のコメの生産量はもっと多かった」ということです。
石高を決める検地は「太閤検地」が有名ですが、江戸時代になると5代将軍徳川綱吉治世の天和年間に元禄検地が行われます。天領の石高はこれによって決まり、以後幕末までほとんど変化していません。

ところが、江戸時代の中期になると樽廻船が発達し、日本国内での商業が活性化したため、東北地方から「金肥」と呼ばれる魚を主体とした肥料が各地に出回るようになります。この金肥によって、農家は「商業作物」を生産するようになり、田圃は稲刈りの後、麦を植えて二毛作を行うようになっていきます。ほかにも菜種油など貨幣を得られる作物がたくさん作られるようになったのです。

原則としてこれらの商業作物は年貢の対象になっていません。また地域によっては米による年貢よりも貨幣による年貢を優先するようにもなっていきます。江戸時代の日本は、現代人が意識している以上に「貨幣経済」だったのです。

地方では一揆も起こりましたが、これは「米が足りない」と言う一揆よりも「検地をさせない(コメがたくさん取れるのがばれてしまって、死活問題だから)」という理由のほうが多かったとも言われています。

ですからまず一般的な農家は五公五民であっても、実際の収穫高は1.5倍ぐらいはあったようで、農民がお米を食べる分は十分にあり、足りない場合でも年貢米は最終的に市場に出回るため、商業作物を作って売ったお金でコメを買って食べることができました。

だから「江戸時代は1日5合食べていた」と言われても、十分な供給量があったのです。

また、コメが取れない地方などは商業作物を売ることで、コメを買って食べていました。そういう地域は稲作地帯よりはコメの消費量が少なかったでしょうが、それでも「おなかが空いてしょうがない」というようなことはほとんどなかったはずです。もし、コメの消費が「全員に十分に行き渡らない」なら、大工さんや鍛冶屋などをする前に全員田畑を耕す必要があるわけで、日本全国立派な寺社があるのは「農業生産に関わらない町民にも食料が行き渡っていた証拠」なのです。

ということで、いろいろな研究を総括すると「農民は十分に食料があり、町人も仕事ができれば食料が足りていた」ということです。
特に江戸は、精米した「真っ白なお米」が食べられため、地方の人にも憧れが強かったようですが、逆に白米には玄米に含まれているビタミンがないため、脚気になる人が多く、脚気は「都市の病気・贅沢病」とされていたのです。
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歴史の諸先生は年貢については実に細かく研究しておいでですが愚輩には現実を無視した机上論としか思えません。


決定的に忘れられていることがあります。
すなわち冬作です。具体的には麦の栽培。東北北部など雪に埋もれる地域は別として日本列島のかなり広い地域では少なくとも江戸中期には冬の麦作が普及していたはずなのですが、年貢論を調べても農業史を調べても裏作については出てこないのです。どうも研究されたことがないらしいのです。「江戸時代には冬作(麦)はなかった」とはっきり書かれたものも見ていません。冬作の有無についてすらマジに研究されたものはないようなんです。
某農家の文書に冬に麦を栽培していたことは書いてあります(備中国内の某庄屋家、文政頃)。面積の記録しかないのですが収量を推定すると米13石、麦17石程度になります。冬の麦の方が多いのは夏に田の一部に綿を作っていたため米が少ないのでしょう。綿を作っていた田も冬には麦を栽培したと考えられます。
1反あたりの収量も意外に多く1.5~2石あったようです。米は2石ぐらいでしょうか。
全国的に見れば米の生産量は3000万石と言われています。これに対し冬の麦はその6~8割(2000万~2500万石)ぐらいあったのではないでしょうか。
この麦についての研究は全くなされて無いように思われます。だから農民が何を食べていたのか、食糧不足をどうやって克服していのかわからないままになっているように思えます。

江戸時代のイメージとして「農民はアワやヒエばかりで米は食えなかった」と言われます。なぜ米を作らずにアワやヒエを栽培したのでしょう? 理由は簡単で気候の関係で米が出来なかったのです。典型的なのは関東地方でしょう。水が十分ではないので米は作れません。でもアワやヒエは栽培可能です。畑の年貢も米で納めるのが原則ですから僅かに採れた米は全部年貢にまわし、自分たちの食糧はアワやヒエ、豆、芋。これを見た役人(恐らく米作地域の出身)が「米が食えない貧乏村」と揶揄したのが始まりではないでしょうか。
そんなわけですから百姓は米を全く食べなくても生命の維持には支障はなかったのです。また関東地方などは古代からの畑作地域ですからアワやヒエを食料とするのは当たり前のことでした。
また農民は現金収入を少しでも増やすため高価に売れる米はできるだけ売って、なるべく雑穀やくず米を食べていました。これも「米は食えなかった論」の理由かもしれません。

前にも書きましたが江戸時代の裏作について研究されたものはないようです。やっと見つけたのが下記の本です。
「近世庶民の日常食」 有薗正一郎/著 青海社 2007年
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この回答へのお礼

本まで探していただきありがとうございます。
詳しい説明助かりました。

お礼日時:2017/09/30 22:19

以下、探求の輪「るいネット」からの転載です。

 江戸中期、一人平均1日2.7合食べられるだけの米が生産されていました。 農民が米を食べなかったのは、米が足りなかったのではなく、米は「通貨」だったため、敢えて食べなかったと言うのが真相のようです。

江戸時代の農民は米など口に出来なかった、というのは歴史の常識となっています。稗、粟などの雑穀が主食で、飢饉になると餓死者続出、というのが一般のイメージでしょう。しかし、本当にそんな生活をしていたのか、という疑問が成り立たないわけではないのです。

江戸時代の庶民の生活を見ることなど出来ないくせに、と言うのでしょうが、あるアプローチで考えると、疑問が出てきます。
つまり、米など食べられなかった、という「事実」に対し、では米はどう消費されていたのか、というアプローチです。
江戸中期、日本の人口は約3000万人とされています。一方で人口1人当たりの米の生産は1.0~1.2石となっています。つまり、平準化モデルではあらゆる身分、世代を合わせて1人1石の米にありつけたことになるのです。

ここで注意したいのは、金銭や土地と言った資産と違い、米は豪商や大名でも農民であっても消費量が数倍の格差になることはありません。人が食べることが出来る米の量は身分や貴賎に比例しないからです。
また、毎年生産される米は消費しないと「古米」という在庫になりますが、江戸時代に「古米」問題が深刻化したとか、潤沢な備蓄米があった(しかも一定時期で消費しないと在庫が雪だるま式に増える)いう話はないのです。もちろん鎖国体制で、オランダや清への貿易に米が輸出された記録も無いことから、国内で生産され消費されると言うサイクルになります。
ですから、若干の格差はあっても、この平準化モデルに近い水準に収斂するはずです。

では平準化モデルで1人1.0~1.2石というのはどの程度なのか。
1石=10斗、1斗=10升、1升=10合ですから、1石は1000合です。
1000÷365≒2.7、つまり、1日2.7合です。
1合が飯茶碗1杯ですから、ほぼ1日の食事に見合う量となります。そもそも1石というのは人が1年で消費する米の量という説があるわけで、そうなると通常の作柄であれば江戸中期の日本の米の生産量は総人口に遍く米の飯を食べさせる水準だったといえるわけです。

米が余っていなかった以上、3000万石の米は誰かが消費したはずです。
農民など庶民は米などめったに口にしなかった、となると、一体誰がその米を食べたのでしょうか。
今よりも平均寿命が短かった江戸時代、人口構成はかなり若かったはずです。そうなると乳幼児や子供といった「食が細い」世代の比率が高いわけで、平均で2.7合でも、成年男子だと3合以上食べるだけの量があったと見られます。

もちろん酒米としての生産や、輸送時の海没、減耗などもあるでしょうが、総人口の7~8割を占めるとされる農民層に対して一般論として米が食べられなかった、とするには、それこそ総生産に対して8割近い他用途転用や損耗が無いと成立しないのです。
これはあまりにも無理があるわけで、「節米」はしていても、それなりに米は口にしていたと解さざるを得ないという疑問が呈されています。
一方で江戸末期から明治期に関しての一次証言として、雑穀がメインだったと言う声も多数あるわけです。
生産量と人口からのアプローチでは、農民層が米を食わなかったら日本中に米が溢れかえるということになりますが、一方で証言では米が無かったわけです。

今までの歴史は証言をメインにして、計算を軽んじてきたわけで、証言を正とするのであっても、未だその計算を合理的に否定できていないようです。

***
では両者はどうやったら整合性が取れるのか。
実は簡単な話で、江戸時代の1人1日あたりの米の消費量を5合にしてみましょう。
実は各種史料を見ても、1石=1人1年あたりの消費量ではないのです。1人1日は5合と見るのがよさそうです。そうなると1人あたり1.8石の生産がないと米は総人口に行き届きません。現実の生産は1.2石がせいぜい。するとここで豊作でも総人口の2/3は米にありつけなくなります。
実際には重労働な農村などでは6合の消費もあるようで、それらを勘案すると総人口の概ね半分にしか米が回らないことになります。

ではやはり農村は米の食べられない悲惨な暮らしだった、というとさにあらずで、全国津々浦々で米が主食、となったのは米が配給制になった昭和時代という説もあるくらいなのです。
米は主食ではなく、「通貨」であり、生産者である農民は「通貨」を進んで食べるなんていう勿体無いことはしなかったのです。雑穀を主食としていたと言うのも、今の日本で米の消費が落ちていると言うのと同様、主食に米、麦に雑穀と選択肢があって食べる量は確保されていたということの裏返しでもあるのです。
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この回答へのお礼

あえて食べなかったんですね。
分かりやすく解説していただきありがとうございます。

お礼日時:2017/09/30 22:20

1日2食で1日に必要な量は5合。


おかずは少なく、主に米からしか栄養素を摂れなかったから、その位必要。

1年間で約1.8石(こく)に相当。
(5合×365=1,825合、1石=10斗=100升=1,000合)

当時の日本の人口は約3,000万人。
全員に行き渡るには3,000万人×1.8石=5,400万石が必要。

日本全国の米生産量は、石高を合計すると3,000万石だった。
籾殻付きの状態を言うから、脱穀して精米すると、1500万石。

5,400万石必要なのに、1500万石しか生産出来なかった。

多くの人は米が食べられなかった事になる。
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この回答へのお礼

分かりやすくまとめていただきありがとうございます。

お礼日時:2017/09/30 22:21

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