アレルギー対策、自宅でできる効果的な方法とは?

こんばんは。
今日日本史の勉強をしていたら、江戸時代末期の開国後の日本で『金が国外に流出し、質の悪い貨幣が流通した結果、物価の上昇を招いた』というような記述があったのですが、まず質の悪い貨幣とはどういうものですか、またなぜ質の悪い貨幣が流通すると物価が上がるのでしょうか??
よくわからないので、どなたか教えてください。お願いします。

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A 回答 (6件)

貨幣の元を理解すれば簡単です。

現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします。だけど受け取る人は、質の悪い小判だったら2枚じゃないと1万円の価値のあるものと交換しないよ、と言うでしょうね。
だから額面上の物価があがるのです。
もうひとつのことわざ、悪貨が良貨を駆逐する。
理由はお分かりですよね。
因みに今の紙幣も昔は兌換紙幣と言って、例えば1万円(当然当時の額面は銭の単位でしょうけれど)の紙幣を日銀に持っていけば1万円分の金と交換してくれました。現在は不換紙幣なので交換してもらえません。兌換紙幣の時はインフレは起こりませんよね。
これは質問と関係ありませんでしたね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
とってもわかりやすかったです。
ということは、当時はお金の表面に○○円と書かれていても実際は、そのお金に含まれる金の量で価値が決まってたんですね。

お礼日時:2007/03/21 22:50

経済は物々交換で成り立っています、昔から金とか銀と交換できることを前提でそれに替わるものも使ってきました。

でも最後は金とかに交換できなければ、信用が成り立ちません。現在でも最終的に金と交換できるようになっているから、代替の紙で取引をしています。ていっても世界中の人がいっせいに金に変えてくれというだけの量は当然ないんですけどね。
でも金の質が半分になったら価値は半分ですからね。物価が2倍になってバランスがとれるわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
お金に含まれる金の量がそのものの価値になるのですね!今の時代とは違うのでよく理解ができなかったんですね。

お礼日時:2007/03/21 22:46

江戸時代は、習慣的に“金の量”で貨幣価値が決まっていました。


質の悪い貨幣とは、同じ1両小判であっても、含まれる“金”の両が少なくされたものです。
これを“改鋳”と言います。例えば10万両の良質の小判(金の含有量が多い)を改鋳すれば、やろうと思えば(質の悪い)15万両にも増やせるわけです。
ですから、本来は10両で買えた物が、“改鋳”の後は15両に値上げとなるのです。
徳川幕府や小判を製造していた“金座”はこれで大もうけしました。政府による“詐欺行為”です。
ために庶民は物価上昇に悩まされ、お金持ちは良質の小判をこっそり隠したりしました。
“悪貨は良貨を駆逐する”とはこの事です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
幕府は質の悪い貨幣を作ることで財政危機を乗り越えようとしたのですね!
“悪貨は良貨を駆逐する”の意味がやっと理解できました笑。

お礼日時:2007/03/21 22:43

江戸時代の貨幣は、小判などでした。


その小判の中に本当の金(きん)がどれだけ含まれているか
(含有量)によって貨幣の質・価値が決まります。

金(きん)が少なければ悪貨、多ければ良貨といいます。

金(きん)の含有量が少なければ、その分だけ大量の貨幣が出回ります。
そうするとインフレという状態になるのですが、今まで同じ1両の小判で
買えていたお米を、世の中に小判が溢れている状態で売れば、みんな小判を
持っていますから、お米はすぐに売切れてしまいます。

そこで、お米の値段を値上げする必要が出てきます。
そのようにして全ての商品の価格が上って、物価が上昇します。
お米屋さんはたくさん小判を受け取っても、お米屋さんが野菜や魚を
買うときも、それらの値段が上っているわけですから、
得にはならないですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
具体的に説明してくださって大変わかりやすかったです。理解できました。

お礼日時:2007/03/21 22:41

一般に近世以前の貨幣は銅貨、銀貨、金貨といった貴金属で造られており、それが価値の保障であったことはご存じかと思います。


つまり「質の悪い貨幣」とは混ぜものが多く、貴金属としての価値の低い通貨を指して言います。
また混ぜものが多いと言うことは、同じだけの貴金属でより多数の通貨が造られる、すなわち通貨が実体経済よりも多く流通する事を意味します。
現在でも経済破綻した国が紙幣を乱発して、猛烈なインフレを引き起こす事例は多々ありますが、それと同様です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
通貨の流通量が増えるとインフレが起きるんですね!

お礼日時:2007/03/21 22:40

1 金の流失


日本と欧米での金銀交換比率が違っていた。
海外から銀を持ってきて、金と交換。その金をまた海外で銀に交換すると大もうけできたから。
2 質の悪い貨幣
金が減ったので、金の保有率の少ない、小型の小判を発行せざるを得なくなった。
3 物価の上昇
貨幣を貨幣という特別なものではなく、モノ・商品と考えてみましょう。貨幣も含めた物々交換であるとしましょう。貨幣が水増し商品、あるいは上げ底商品であれば、物々交換で貨幣と交換するモノ「生糸」とかですが、交換比率で生糸の価値が上がります、前は 小判10枚だったのに対して、金の保有率も低く、小さかったら、小判20枚にして欲しいとなります。これが物価の上昇となります。
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この回答へのお礼

すばやい回答ありがとうございます。
当時の貨幣は今の貨幣としくみが違うのですね!
勉強になりました。

お礼日時:2007/03/21 22:39

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Q貨幣の質の低下

江戸幕府5代目将軍 徳川綱吉が行った【貨幣の質を低下させてどうなったか】という仕組みを子どもに簡単に教えたいのですが、以下の内容であっていますでしょうか?

その頃のお金は、例えば10gに何g金や銀が含まれているかどうかで質が決まっていた。
「お金を増やせば、経済が良くなる」と、考えた綱吉。
今のお金でいう10円が、当時1枚10gだとしましょう。
去年まではその10gに含まれていた金の量が1gだとしたら、お金を倍に増やしたいとき、金の量は、少しケチって0.5gにすれば、今までの倍のお金を作ることができます。

しかし、いままで1杯10円で売っていたおそばやさん。
【去年までの金が1g含まれた10円】と、【今年の金が0.5gしか含まれていない10円】
同じ10円を支払ってもらうときに、どちらが欲しいかといえば去年のお金が欲しい。
確実に金が1g含まれた貨幣を手にするには、今まで10円で売っていたそばを、20円にすれば手に入れることができます。
なので物価は上がり、人は物を買わなくなり、経済が悪化する一方でした。

知人から聞いたのですが、うろ覚えで自信がないのでお願いします。

江戸幕府5代目将軍 徳川綱吉が行った【貨幣の質を低下させてどうなったか】という仕組みを子どもに簡単に教えたいのですが、以下の内容であっていますでしょうか?

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今のお金でいう10円が、当時1枚10gだとしましょう。
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Aベストアンサー

質問者の方の認識は、正しい認識です。
たとえば、1両に1gの金が含まれていたものを、1両に0.5gに金の量を減らしたらどうなるか。
想像しただけでわかりますね。
ここで問題になるのは、2011年発行の1両には、1gの金が含まれているのに、2012年の1両には、0.5Gの金しか含まれていないとなった場合、経済はどうなるでしょうか?
買い物をして、値段が、2011年以前の金貨では1両なのに、2012年以降の金貨では2両となってしまいます。
2011年以前の金貨を使う場合と、2012年以降の金貨を使うのでは、価値がことなってしまいます。
店では、2011年以前の貨幣では、同価格ですが、2012年以後の貨幣は2倍に設定します。
しかし、給金を現金でもらう人は、同一価格として、新しい2012年通過でもらうことになります。
これにより、物価は、実質2倍に跳ね上がることになってしまいます。
すると、当然庶民の購買力が落ち、経済が悪化することになります。
2011年通過で給金をもらっていれば、物価水準は上がっていないのに、2012年通過でもらうと物価が2倍になるという現象がおきるのです。

江戸時代、藩札が失敗したのは、みなこれが原因です。
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1番の方の理論は、近代経済学の理論ですが、近代経済学は、机上の空論であり、現実との乖離がはなはだしい経済理論です。

質問者の方の認識は、正しい認識です。
たとえば、1両に1gの金が含まれていたものを、1両に0.5gに金の量を減らしたらどうなるか。
想像しただけでわかりますね。
ここで問題になるのは、2011年発行の1両には、1gの金が含まれているのに、2012年の1両には、0.5Gの金しか含まれていないとなった場合、経済はどうなるでしょうか?
買い物をして、値段が、2011年以前の金貨では1両なのに、2012年以降の金貨では2両となってしまいます。
2011年以前の金貨を使う場合と、2012年以降の金貨を使うのでは、価値がことなっ...続きを読む

Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

山本博文著の江戸学講座を興味深く読んでおりますが、次の説明に出会いました。
<江戸時代の初めは、家禄だけで食べていける旗本・御家人も多かったのですが、中期以降は、米の値段が下がりますから難しかったでしょう。>
一般的には、物価は長期的にみると、漸進的に上昇します。(もちろん、技術革新などによって、低下する場合がありますが)。
米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

Aベストアンサー

中期以後というと、暴れん坊将軍の吉宗さんの時ですね。お堅い日本史では、米将軍と呼ばれ、米を中心とした物価の安定で有名です。米が日本酒の原料として使われる量を調整するなどで、品不足による物価上昇を抑えたといいます。

長期でみると、実際は上がったり下がったりだったでしょう。

江戸時代、米がお金代わりでしたから、どの藩も米の生産に力を入れます。運送業も発展し、西日本で生産された米が流通。他の物の価格と比べ、比較的安くなったのでしょう。
 米=扶持だった武士にとっては、物価上昇+収入ダウンでしょうけど。。

Q兌換紙幣と不換紙幣って??

高3です。
日本史の授業で今日先生が言っていた「兌換紙幣」と「不換紙幣」の意味がよくわかりません・・。
金や銀に換えることのできる紙幣、というようなことを言っていたと思うのですが、どういうことなのかいまいちイメージがわかないのです。。
こんな私にもわかるようにかみ砕いて説明して頂けませんか?
よろしくお願いします(>_<)

Aベストアンサー

 再び失礼します、No.7です。

 不換紙幣の発行理由ですが、自信がなかったので検索をかけてみたら、こんなページを見つけました。下の方に書かれています。

 このページは分かりやすいと思います。(わからない部分があれば、また補足をください。可能な限り回答します。)

 以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。

参考URL:http://www.findai.com/yogo/0013.htm

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q株仲間って何ですか? 簡単な言葉で教えてくださいm(_ _)m また水野忠邦が株仲間を解散させたの

株仲間って何ですか?
簡単な言葉で教えてくださいm(_ _)m

また水野忠邦が株仲間を解散させたのはなぜですさ?

Aベストアンサー

株仲間は、同業者の組合・団体です。

例えば、AコーラとBコーラが、販売するコーラの値段に関して相談し(談合といいます)、200円にしようと決めれば、
コーラは200円でしか買えないことになります。

この談合は、多くの場合消費者・一般庶民にとって、高めの価格が設定されたり、安くならないという不都合が生じます。
談合(組合・団体の会合)で値段を決めた場合、一方ではそれ以下で販売すると組合から除名されたり、仕入れ等にも影響を与えるからです。

株仲間を開催させた理由は、談合が行われ、健全な商業活動が阻害されていたからです。
価格に関しては、先に述べましたが、質問者さんが仮にコーラを製造販売したいと考えた場合に、その株仲間に入らないと、
開業できない状態になっていたからです。

自由に商売ができないと、経済全体が停滞し、商業自体が成長しませんし、消費者は渋々一定の少し高めの価格で購入する必要があり、
生活に影響を与えるからです。

時代的には、米・味噌・酒などが、談合により、高めの価格が設定されていたとすれば、経済を活性化し、庶民を守るためには
無用の長物だったのが、株仲間だったということになります。

参考までに。

株仲間は、同業者の組合・団体です。

例えば、AコーラとBコーラが、販売するコーラの値段に関して相談し(談合といいます)、200円にしようと決めれば、
コーラは200円でしか買えないことになります。

この談合は、多くの場合消費者・一般庶民にとって、高めの価格が設定されたり、安くならないという不都合が生じます。
談合(組合・団体の会合)で値段を決めた場合、一方ではそれ以下で販売すると組合から除名されたり、仕入れ等にも影響を与えるからです。

株仲間を開催させた理由は、談合が行われ...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Qそもそもなぜ物価はあがるのですか?

No.53008 質問:経済の破綻?@@。の回答の中の

>カツ丼が10杯で30円、とかになってしまうのでしょうか。
>でも給料が120円だからなぁ・・・というふうに。

というくだりを読んでふとおもったのですが、(かってに引用して済みません)そもそも何で物価って上がっていくものなのですか?
すごく乱暴に言うと
カツ丼1杯 500円
給与平均 10万円も

カツ丼1杯 1500円
給与平均 30万円も
一緒ですよね?。

半永久的に決めておけば(米2kgで1500円とか)簡単な気がしますが、そもそも
どのようにして段々かねの価値って下がっていくものなのですか?
勿論、金利のことや世界の貿易やら相場やら株やら複雑な事柄が絡むのでしょうが私は経済の基本が分かっていないようなので、「NHK子供相談室」のように
やさ~~しく、教えていただけると幸いです。
なんだか幼稚な書き方ですみません。

Aベストアンサー

今「デフレ」って言われてますよね?牛丼やら、ハンバーガーやら、衣料品やら、ドンドン値段が下がっています、ですから、常に物の値段が上がる訳ではありません。ちなみに、「デフレ」とは「デフレーション」の略です。

この反対が、「インフレーション」です。「インフレ」と略します。歴史を眺めれば確かにymrsさんの言われるように「インフレ」の方が多いです。その理由は、

1)経済成長期や、好景気時には、

・経営者は仕事をこなすために人を雇おうとする。
・人を雇おうとすると思うと、労働市場の需給関係で給料を高くしないと来てくれない。
・人件費や仕入れ値が上がるのでコストが上がる。しかも、景気がよければ「売れる」訳だから卸値や小売値全体が上がる。
・給料も上がっているので購買力はすぐに落ちない。

というような循環が成立するからです。

2)こういうインフレだけでなく、戦争などの直後、たとえば第一次大戦後のドイツや第二次大戦後の日本、ソ連崩壊後のロシアなど、爆発的なインフレに見まわれました。財政に大借金があってもチャラになるのですから、政府にとっては都合のいい話です。混乱期にどの程度権力の都合や意志が働いているか私は知りません。

■金本位制といってもいい江戸時代ですら、「インフレ」はありました。江戸初期の慶長大判は純度が高いのですが、金の純度がどんどん下がり江戸末期にはかなり低くなっていました。紙幣の増刷と同じです。

■金などの裏付けのない紙幣を「不換紙幣」と言います。金などの裏付けのある紙幣を「兌換紙幣」と言います。今、「兌換紙幣」は事実上ないです。60年代後半のニクソンショックまではアメリカは金本位制でした。しかし、金の流出は止まらず、突然金との交換が停止されました。ドルも紙切れになった、というと言い過ぎですが、裏付けはなくなったのです。

■自転車はそのままでは倒れちゃいますが、こいでいると倒れません。先程の好景気での「循環」と同様、ある意味で、人間の経済活動や、権力側の都合を考えるとある程度のインフレは都合のいいことなんです。「いい」とはいいません。「都合がいい」のです。

■環境や動物の生態に対しては一定であること、変化のないことを望むくせに、人間だけ特別扱いするなんて勝手なもんです。これは私の個人的な意見です。

今「デフレ」って言われてますよね?牛丼やら、ハンバーガーやら、衣料品やら、ドンドン値段が下がっています、ですから、常に物の値段が上がる訳ではありません。ちなみに、「デフレ」とは「デフレーション」の略です。

この反対が、「インフレーション」です。「インフレ」と略します。歴史を眺めれば確かにymrsさんの言われるように「インフレ」の方が多いです。その理由は、

1)経済成長期や、好景気時には、

・経営者は仕事をこなすために人を雇おうとする。
・人を雇おうとすると思うと、労...続きを読む

Qイスラム教の聖地はエルサレム、メッカ?

イスラム教の聖地とはエルサレム、メッカ、どちらなのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どっちもです。

メッカ、メディナ、エルサレムの3つの都市が、イスラム教の三大聖地とされているようです。

メッカには、「神の館」であるカーバ神殿があり、また、預言者モハメッドの生誕地でもあります。

メディナには、モハメッドの墓所に建てられたモスクがあるらしいです。

エルサレムは、モハメッドが天に登った場所だそうです。


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