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素朴な疑問なのですが…。 
「百姓一揆」と「打ちこわし」の違いは何ですか?
それと、江戸時代になぜ百姓一揆は多発しているのですか?
歴史を取っていなかったので、もしかしたら変な質問をしているかもしれませんが…。
よろしくお願いします。
 

A 回答 (5件)

No.#2のdeadlineです。

No.#3の方のお礼欄に

>でも関西や九州から東北地方などに食糧援助のようなものはなかったのですか?
>そんな余裕はどこにもなかったんですかね?

とありましたので。

下記参考URL(『(東京都)中央区郷土史同好会』第61回講演会要旨)に、

逆に自衛のために他藩への米・麦の流出を禁止する『穀留め』を発令して、厳しく罰したとあります。

当時の日本は1つの国ではなく、300余藩による『独立国家の集合体』のようなものだったことを考えれば、ある意味当然起きるべくして起きたことかもしれません。

ついでに、『天明の大飢饉』の2年目にあたる1783年には、日本の『浅間山』とアイスランドの『ヘクラ火山』が相次いで大噴火し、微小な火山灰により、その後数年間に渡り、全地球規模でいわゆる『核の冬』状態だったようです。
http://www.shinchosha.co.jp/tachibana/seminar/fi …

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~FV3A-MKBC/61kai.html
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この回答へのお礼

『独立国家の集合体』
そうなんですか~。勉強になります。
今とは違うんですよね。

有難うございました。

お礼日時:2002/07/22 20:20

>一揆や打ちこわしは一種の農民たちの「主張」だと思いました。



主張よりも実際に食べ物がなくて、一部の人の蔵にはあるということです。
次の収穫まで生きながらえればよいのですが、それが不可能と見えたとき、一揆・打ちこわしが起こります。

>人口の4~8%も死者が出るなんて
ことは現在の失業者の比率を考えて不思議ではありません。
そのときに飢え死にするのを黙視するか、何らかの手立てを講じて金持ちから供出させるかで餓死者の発生率は変わります。

天保の飢饉で大阪では大塩平八郎の乱が起こりましたが、同じ時小田原では二宮尊徳が小田原藩の蔵を開いて餓死寸前の人に配って回って、民間からの供出は無償ではなく、返済条件を示したり買取したりでうまく図って餓死・一揆はまぬがれています。

百姓や町人は蓄えが少なく、豪農や豪商やしっかりした藩では3年分の備蓄がありました。
その運用が下手な場合パニックが起きるのです。

現在でも餓死者のでている国から食糧が輸出されます。地理的な問題ではありません。江戸時代でも不作の年には財力のある藩は大阪の商人から食料を高価で買って餓死者のでないようにしました。普段から赤字財政の藩に被害が大きかったのです。
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この回答へのお礼

人間にも限界がありますよね。
私もおなかが減って死にそうな極限状態になったら、打ちこわしをするかも分かりません。
有難うございました。

お礼日時:2002/07/22 20:26

>人口の4~8%も死者が出るなんて…今では考えられません。


>江戸時代の「冷害」と現代の「冷害」の規模はそんなに変わりませんよね?
>農業技術というのは、すごい進歩を遂げたんですね。

補足しますと、むしろ、農業技術よりも社会環境の要因が大きいです。

まず、江戸時代は「鎖国」でしたから、今の日本のような「食糧自給率4割弱」でも何とかなっている状況とは大違い。社会保障制度もない。食生活も、穀類中心で、肉の消費量もない(食肉が多ければ、カロリー効率がいいし、冷害でも草は生える)。

江戸時代の経済は、「米」本位ですから、大名も「増税」しようと思えば、年貢米を取り立てになる。「ギリギリ」で生活しているものにとって、ボーダーをきることは致命です。

いま飢餓の起こっている国々でもそうですが、一方で飢餓があるのに一方で飽食がある。世界的に食糧の絶対料が不足しているわけでないところで飢餓があるわけですが、同様に、江戸時代の東北というのは、関西や九州から見れば「外国」みたいなものです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
社会環境か…。
昔は「自給率100%」でやっていかなければならなかったんですね。
現代の日本とは違う、様々な要因が絡み合って一揆や打ちこわしは起こったのか~。
でも関西や九州から東北地方などに食糧援助のようなものはなかったのですか?
そんな余裕はどこにもなかったんですかね?

お礼日時:2002/07/22 10:48

『百姓一揆』と『打ちこわし』については、No.#1の方の回答があるようなので、多発した理由についてだけ。



江戸時代も中期に入ると、(当時の農業技術では)農業生産量も頭打ちになり、初期に比べて人口が増えた分、ちょっとした凶作でも(余剰生産量に余裕がないため)飢饉になりやすい状況にありました。
そこへもってきて、どういうわけか、中~後期にかけては冷害等の天候不順が続き、凶作による飢饉がたびたび発生、そのたびに、農村では『百姓一揆』、江戸では米価の高騰による両替商や米問屋への『打ちこわし』が起きています。

ちなみに、『享保(1732~1733)』・『天明(1782~1787)』・『天保(1833~1836)』の飢饉を『江戸の三大飢饉』と呼びますが、その中でも、『天明の大飢饉』は最悪で、東北地方を中心に100万とも200万ともいわれる餓死者が出たようです。当時の日本の人口は推定2500万人前後ですから4~8%もの死者ということになります。
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この回答へのお礼

回答、有難うございます。
人口の4~8%も死者が出るなんて…今では考えられません。
江戸時代の「冷害」と現代の「冷害」の規模はそんなに変わりませんよね?
農業技術というのは、すごい進歩を遂げたんですね。
色々なことを考えさせられました。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/07/21 22:17

百姓一揆:江戸時代の農民闘争。

年貢の減免や代官・村役人の交代などを要求し、蜂起・越訴(おつそ)・強訴(ごうそ)などの形をとって行われたもの。

打ちこわし:江戸時代、中下層の百姓・町人が群集して豪農・米穀商・高利貸しらの家屋・家財などを破壊すること。一八世紀半ばから都市の米騒動を中心に、百姓一揆や幕末の世直し騒動の中で多くみられた。

打ちこわしは百姓一揆の中の方法の1つのようですね。
百姓一揆の対象は幕府関係の役人で、打ちこわしの対象は役人ではなく、端的に言えばお金やお米を持っている人です。

江戸時代の百姓一揆はその時々の税率と関わっているのではないかと思います。
「生かさず殺さず」という言葉でたとえられていたように、
農民は苦しい生活を強いられていたのです。
ですから、こういった行動にでたのではないかと思います。

以下のURLは江戸時代のもっとも有名な郡上百姓一揆について細かく書かれたページで、
これを読めば、江戸時代が百姓にとってどういった時代であったかも見えてくるかもしれません。

参考URL:http://www3.ocn.ne.jp/~gujo/ikki.html
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。

なるほど、対象が違うんですね。
一揆や打ちこわしは一種の農民たちの「主張」だと思いました。

お礼日時:2002/07/21 18:24

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