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日本史について質問です。
元禄文化についてどうして町人主体の
文化が成立したのかよく分かりません。
わかる方、簡単で構わないので教えて
いただけると有難いです。お願いします

A 回答 (8件)

一つはやはり江戸中期にもなると戦が無くなり平和な世の中になり武士も段々成り下がってきた、というのが理由の一つだと思いますね。


また、平和になると当然町民や農民は安心て暮らせますし、自分の生活を脅かされることはないからという事でしょうね。
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怠け者を甘やかすと自覚しません。


→親切な者の苦労は減りません。

丸投げ臭も凄い。


要約:私はここで質問できる程度にネットを使えますが、苦労をしたくありません。
   お前ら、私の為に働け。

>わかる方、簡単で構わないので教えていただけると有難いです。
→難しい内容を努力して理解しようという気はありません。


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(今の時代、殆どの疑問はGoogle先生が解決してくれる。「検索の仕方がわからない」というのは、「私は仕事ができない」「私は頭が悪い」と言っているのと同じだ。)



放置しようと思ったが、他の回答が・・・

1:平和になったので開発に専念できるようになり、耕地面積が2~3倍になる。人口も増える。
2:城下町の建設ラッシュ→交通や農地のインフラも同様。これが全国規模で起きる。
  →都市人口の増加。
3:平和により軍事費が減る→生産量が増えた上に年貢も減免=農民が豊かになる。
  (武士は色々あって、結局あまり豊かにはなっていない。これは複雑なので省略)
4:米の供給が十分になると、他の商品作物や加工品も作るようになる。
  →貨幣経済が全国の農民層にも浸透
5:2と3により大名相手だけでなく民間を対象にした商業や産業が発展。
6:以上により豊かになった町人階級から大衆文化が発生。
「日本史について質問です。 元禄文化につい」の回答画像8
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関ヶ原の戦い、大坂の陣を最後に戦国の世が完全に終わり太平の世になりました。

そうなると武士は、商人・工人・医師・教師・文化人といった職業に転職し身を立てることを考えるようになりました。大名が取り潰しになり主家を失った浪人の生きる術になったということなのです。また菜種油の普及によって、廉価に夜間照明が広まりました。菜種は栽培時期が稲作の裏作物にぴったりだったのです。こうして夜間でも本や絵画を読めるようになった。元禄文化の中心地である大阪は菜種油の輸送で繁栄したのです。治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業に務めた河村瑞賢は松尾芭蕉と交流があったことでも有名です。そんな風に経済力をつけた町人が元禄文化の担い手として成長していくのです。
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家康以来ケチだった幕府は、税収を貯めに貯め込んでいた。


それが元禄時代は一転して、大奥用のバカ高い着物や装身具を買いまくるなど豪勢にその貯め込んだお金が無くなりかけるほど豪快に使いまくった。つまり将軍家から市中に金が放出され、京大阪と江戸を中心に町人の懐が潤いまくった。

文化はカネのある所に勢いをもたらす。町人文化が成立した一番の原因はそういうことだ。
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平和になって、武士の存在価値が薄れる一方で


町人が豊かになり、存在価値が強くなったのが
原因です。

つまり、町人が豊かになったので、そうした
文化を営む余裕が出てきたのが
最大の理由です。
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平和だから。



ごめん。一言で片づけちゃった。
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簡単に書きますが、時代もさかのぼるのでご容赦ください。



町人主体の文化、というのがどれほど特徴的だったかというと「上位の階級の管理を受けていない」と言うことにあるわけです。もちろん幕府は「奢侈禁止令」を何度も出しているのですが、旺盛な消費を抑えることはできなかったのです。

なぜ町人が旺盛な消費ができたか、藩や幕府はなぜ強制的な取り締まりができなかったのか、というのが説明の一つ目の部分になります。

その理由は「日本では古来から私有財産制度だったから」です。多くの日本人が認識していませんが、殆どの国の封建制度というのは「王や貴族などの領主が土地などの財産を持ち、農民はそこを耕し、住む権利と収穫を納税する義務が一体だった」のです。だから地方領主が「この土地をつぶして、市場を作る。道路も作って市場に集まりやすいようにする」といえば、そこを耕している人々は、別の割り当てをもらうしかなかったのです。

ところが日本では墾田永年私財法が743年にできると、土地所有はすべて「個人」のものになります。幕府や藩は「個人の土地所有を認め、それを保全する代わりに徴税権を持つ」だけだったのです。だから日本では藩主などが「この場所に市場を作りたい」と思ったら、その場所を所有する農民に相談して土地を買い上げるしかなかったのです。

このような法制度は「自由な町人」を作りだします。元禄文化が発達した大坂は幕府や藩の意向に沿って商業地になったわけではなく、灘の港などが優良で、戦国時代から物資の集積が多かったから発展したわけです。船場や堂島などの商業地域は町民たち自身の力で街が発展していった場所なのです。

だから、戦国時代から物資集積地だった大坂近辺は、戦国時代が終わって平和になり、さらに新しい首都である江戸に物資を供給することで大発展します。その結果儲けた大坂の旦那衆から文化が発展し、それが元禄文化と言われるようになったわけです。

もう一つの理由は、戦国時代に日本に貨幣経済が到来したことです。そして江戸幕府は各藩バラバラだった貨幣を日本全国で統一します。これにより、商売が一気に日本全国規模に拡大できるようになったわけです。
 また、貨幣経済は流通部分も変えて行きます。江戸に大消費地ができ、しかも江戸初期はまだ江戸の周辺に十分な物資供給能力が無かったので、大坂から廻船で物資輸送されるようになっていきます。

この物資輸送がものすごく儲かったのです。だから大坂には商売をしたい人、金もうけをしたい人が集まり、富豪になると芝居などに惜しみなく金を使ったわけです。

こういう背景があって、元禄文化は大坂を中心に花開くことになります。その後やってくる町人文化である化政文化は首都機能が最大限に向上し、人口も世界有数になった江戸で花開いたのは当然の成り行きだったと言えるでしょう。
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何と言っても商業(経済)の発達です。

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