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江戸時代の農民は葬儀の費用をどうしていたんですか?

A 回答 (5件)

No.1,2,3とも、基本は共同で弔いをするような状況だと考えています。


とにかく、江戸後期の百姓は生計が苦しくなっていています。
生産性が上がらない、気候もよくないなどの事情があるにしても、家族は分家を繰り返して、概ね少人数の一家が増えていて、日常の生活を維持するだけで精一杯なのです。特別のことは、組を作って集団で支え合い乗り越えていかないと、何かのたびに一家が破綻してしまうのです。
葬儀に特別なことはできないのです。だから、一家でも子供が亡くなった程度のこと、名子・隷属農民・下男下女などが亡くなっても葬儀などできないのです。簡単に埋葬することで済ませるしかないのです。早桶や棺をあつらえることも控えて穴を掘って埋葬するのが精一杯ということも多いでしょう。季節によっては花もあるでしょうが、普通はシキミなどの常緑樹を近所で切り取って供える程度でしょう。線香・香だって出すとは限らないでしょう。水を手向けるのでいいでしょう。菩提寺の僧に出向いてもらうのも布施が必要ならなんとかするでしょうが、そんな金など持ってない百姓もいるのです。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsl1951/195 …
埋葬場所を墓と呼ぶとして、埋葬地・墓でなくても、寺や地蔵、菩薩像などの前で亡き人に祈ることはできて、手を合わせ瞑目するだけでもいいのですかあら、葬儀や法要のようなことまでは考えなくてもよかったのでしょう。

> 棺桶、花、祭壇、棺桶、食事代等の費用が発生すると思いますが?

大きな百姓、庄屋の主人が亡くなるような場合でも、質素にするようになっていたのです。 そういう場合は費用のかなりの部分を一家で負担したかもしれませんが、多分料理や埋葬葬儀の手伝いは、近隣から無償供与されていたのでしょう。 一家のいわゆる遺族は何もしないのが原則でしょう。
下男下女、名子、子供が死んでしまったときは、埋葬だけして、無縁仏として扱い、葬儀らしい葬儀などしないことが多かったでしょう。
「江戸時代の農民は葬儀の費用をどうしていた」の回答画像5
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農村だと共同体として葬儀をするので、読経をして戒名を授けてくれる僧侶へのお布施ぐらいでしょう。

葬儀用具は村全体で共同管理して使いまわしをするのが一般的でした。他の経費も経済状況に合わせた身の丈にあったおものになるでしょう。
火葬は、現在と違って薪で焼くので時間も費用もかかり、一般的ではなかったです。江戸の町ではほとんど土葬でした。それに対して大坂では、貧しい人は少額で富裕層は高額でという価格設定が一般的だったので火葬が盛んでした。
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簡素に埋葬まで行うというかたちだと思いますが、その村全体の行事として費用も出し合って助け合っていたのだと思います。

村八分という言葉がありますよね。これはその集落で疎外された家であっても、二分、つまり火事の対応と葬式だけは助けてやるという意味だそうです。
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江戸時代でも、初期の頃ならば葬儀というほどのことはしていなかった可能性が高いでしょう。



中期頃なら簡単に葬儀/弔いをしていたでしょうが、富農と貧農、使用人などでは大分違うでしょう。

江戸後期ならば、夫婦や夫婦であって跡継ぎがいたものならば、そこそこに通夜/弔い/葬儀もして埋葬の行列のようなこともしたと思います。そういう場合は一族係累や組合のようなものが負担することが多かっただろうと思います。
P23~、p37~/66参照
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc= …
未婚だったものが亡くなった場合には、葬儀というほどのことはせずに墓域/埋葬地に葬って、無縁仏としたことが多いのかもしれないです。
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この回答へのお礼

棺桶、花、祭壇、棺桶、食事代等の費用が発生すると思いますが?

お礼日時:2023/12/15 05:45

だいたいは、村内の農民たちで出し合っていたそうです。

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