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高校の授業では「家康の言いがかり」と習いました。
でも「どうする」では、秀頼側が呪詛をしたということになっています。

実際はどうなのでしょう。資料があるのでしょうか。

A 回答 (10件)

秀頼側が呪詛をしたから、言い訳で、


家康の言いがかりだと文句を返したのですよ。

「国家太平 臣民快楽」をわざわざ
「国家安康 君臣豊楽」と書き換えた。
「右大臣源朝臣家康公」をわざわざ
「右僕射源朝臣家康公」と書き換えた。

秀頼側が呪詛をした。
家康側の言いがかりだと、言い訳した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83 …

銘文を選定した清韓自身は、家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している。
方広寺と同じく秀頼の寄進で、且元を奉行として造立された東寺金堂の棟札には、鐘銘に類似した「国家太平 臣民快楽」の文言の記載がなされた。
方広寺の鐘銘文中の「家康」「豊臣」の文字は、偶然その文言が入ってしまった訳ではなく、前述のように意図的に入れられたことが分かる。

江戸中期の宝暦2年(1752年)に編纂された史料である『摂戦実録』(大日本史料第十二編之十四)では、諮問された五山の僧の見解を、次のように伝えている。
東福寺
御名ノ二字ノ間ニ、安ノ字ヲ被入候事、第一悪候事カト存候事、(聖澄)
(名前の二字の間に安の字を入れたことは、何よりも悪いことと考える。)
国家安康之語、倭漢共ニ、避天子諱候事ハ古法也、吾朝俗家諱之説雖無之、避天子執政将軍之諱可乎、不可過用捨、(守藤)
(国家安康の言葉については、日本・中国共に天子の諱を避ける事は古くからのしきたりである。日本の庶民の諱についてはこのしきたりが無いことがあると言えども、天子・執政・将軍の諱は避けるべきで、見逃してそのままにはできない。)
天龍寺
御所様ノ御名乗、聊爾ニ被書、殊銘之語被触御諱之儀、不案内候哉、但手前忘却候哉、憚至極候、(令彰)
(家康の名前を考えなく書くこと、特に銘文の言葉が諱に触れることは、承知できることではない。ただし遠慮して避けるのが道理かは、自分は忘れた。)
南禅寺
銘文中ニ、相公御名乗之二字書分候儀、古今無之、其上雖為同官、天子之次相公二相列位無之事、(宗最)
(銘文中に大臣(家康)の名前の二字を分けて書いたことは、過去・現在に例は無い。その上同じ官位であっても、天子に次ぐ大臣と同じ位置に並ぶことはあってはならない[注釈 1]。)
第一相公御諱ノ二字ヲ、四言之内ニ被書分候事、前代未聞ニ候、縦二字続候事モ、文章ノ詞之内ニ被書載候段、一切無之候事、(景洪)
(何よりも大臣の諱の二字を、四言詩に分けて書くことは前代未聞である。仮に二字を続けたとしても、文章の詞の内に記載することは、全く無い。)
相国寺
銘之中ニ、大御所様諱被書之儀、如何敷存候、但武家御法度之儀者不存候、於五山、其人之儀ヲ書申候ニ、諱相除書不申候法度御座候事、(瑞保)
(銘文中に家康の諱を書いたことは、好ましいことではないと考える。ただし武家のしきたりは知らないが、五山においてはある人物について書く時に、その人の諱を除いて書くしきたりは無い。)
建仁寺
銘云、国家安康、侵前征夷大将軍尊諱之語如何、(慈稽)
(銘文の国家安康で前征夷大将軍の諱を侵したことは、好ましいことではない。)
林羅山の見解と清韓の弁明
「右僕射源朝臣家康」
右僕射源朝臣、是ハ「源ヲ射ル」トヨミツツケ候下意ニテ、如此仕候事、(林羅山)
(右僕射源朝臣は「源を射る」と読む意図と考えられる。)
右僕射ト申ハ右大臣ノ唐名也、王子誕生ノ時、蟇目ヲイサセラルル官也、他ノ敵ヲホロホシ、悪神ヲモ射ハラウ職ナレハ右僕射云、秀頼モ右大臣ニテ候ヘハ唐名ヲ書、マガイ候ハヌヤウニトテカキカヘ申候、(清韓)
(右僕射というのは右大臣の唐名である。王子が誕生した際に蟇目(鏑矢)を射る官である。他の敵を滅ぼし、悪神を射る職なので右僕射と言う。秀頼も右大臣なので(家康の右大臣は)唐名を書き、(両者を)間違えないように書き変えた。)
「国家安康」
国家安康ト書申候、是ハ御諱ヲ犯シ申候、無礼不法ノ至、其上御諱ノ字ノ中ヲキリ申候沙汰之限ノ事、(林羅山)
(国家安康は、諱を侵している。無礼で不法極まりない。その上で諱の字の中を切るのは沙汰の限りである。)
鐘ト申ス物ハ、奇特不思議ノアルモノナレハ、此功徳ニヨリテ、四海太平、万歳モ長久ニマシマセト云心ソ、国家安康ト申候ハ、御名乗ノ字ヲカクシ題ニイレ、縁語ヲトリテ申ス也、分テ申ス事ハ、昔モ今モ縁語ニ引テ申シ候事多ク御座候、惣テ御名乗ハ賞翫ノ物ナレハ如此申候、諱ト申候ハ、松杉ナト連歌也、歌ノ作者ニ一字御座候ヲ申候ト承及候、但御侍公方家ノ御事、無案内ニ候、御名乗ハ名乗字ト相ツツキ、是ヲ字ト申候テ、賞翫ノヤウニ承及候間如此仕候、随分アカメタテマツリ仕候ヘトモ、愚人夏ノ虫ノ如クニ候、御慈悲ヲタレタマイ、トトキ候ハヌハ、不才ノトガニテ候、万事芳免ヲクダサレバ、生前死後ノ大幸也、(清韓)
(鐘は奇特且つ不思議なもので、この功徳により四海は太平になり、万歳も長久になるという心である。国家安康というのは、家康の字を隠し題に入れて縁語にしている。名を分けることは今も昔も縁語では多くあり、全ては家康の名を尊重するためである。諱については松杉等の連歌で歌の作者の一字を頂いている。ただし侍・公家の家のことは、分からない。名乗り(諱)は名乗り字(名乗りに用いる漢字)に続き、これを字と言い尊重するように頂いている。随分と尊んだのであるが、愚人や夏の虫のようになってしまった。御慈悲を頂きたいが、頂けぬのなら(自身の)不才の罪である。赦して頂けるなら、生前死後における大きな幸いである。)
「君臣豊楽」
君臣豊楽、子孫殷昌ト書申候、是モ「豊臣ヲ君トシ子孫ノ殷ニ昌ナルヲ楽シム」トヨム下心ナリ、シカレハ下心ニフカク呪詛調伏ノ心ヲカクシテ、秀頼ノ現世ノ祈祷ノ為タル事、(林羅山)
(君臣豊楽・子孫殷昌も「豊臣を君(君主)として、子孫の殷に昌なる(盛んに栄える)を楽しむ」という下心がある。その上で下心に深く呪詛調伏の心を隠して、秀頼の現世の祈祷としている。)
是モ豊臣ヲカクシ題ニ仕候、此例モ昔シ御座候、(清韓)
(これも豊臣を隠し題にしたものである。この例も昔にあったものである。)
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この回答へのお礼

とてもよくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2023/12/24 21:34

誰が主役になるか?で解釈が違ってきます。


体制にベッタリなのはテレビ局の得意技です。
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家康の指示で、問題の鐘は、今も残されてますね。

後世の歴史家たちに判断は任せるってことでしょう。
文章を考えた人は、小知恵を働かせて、家康や豊臣の名前を入れたようです。
徳川側としては、武家の頭領は徳川だから、細かい点までお伺いをして、それから行動、つまり徳川が上とはっきりわかるようにしろ、とりあえず、鐘のお披露目は延期ぐらいのニュアンスだったのに、豊臣側が過剰に反応したと。
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以前は研究者からも方広寺鐘銘事件は家康の言い掛かりと捉えられ、学校でも、そういう風に教えられていましたが、近年、研究が進んで、実際に豊臣方に家康を呪詛する意図があったと解釈されるようになってきています。



言い掛かりとされていたのは、江戸時代後代の徳川方の文書で、豊臣の分断を図った家康の権謀術数が賞賛されたり、明治維新以後に家康の悪役イメージが強くなって、言い掛かりという解釈が通説化し、また、大坂冬の陣の後に大阪方を騙すようにして堀を埋め立てたという解釈も行われていた(これも見直しが進んでいます)ことから、方広寺鐘銘事件も徳川家康の謀であったと解釈されてきたのです。

しかし、家康は「諱」であり、当時の社会においては諱は本人と密接不可分のものという考え方がありました。実際に敵の「諱」を使った「名字を籠める」という呪詛が懲罰などでも行われていました。ここで言う「名字」とは呪う相手を特定する名前のことで、その名前を様々な場所に籠めることで相手に災いをもたらすのです。

参考文献
『応仁の乱』呉座勇一(中公新書)
『日本中世の在地社会』 酒井 紀美
『花押を読む』佐藤進一

梵鐘の銘文について家康から諮問を受けた五山僧たちが「銘の中に大御所様の諱書かるるの儀いかがわしく存じ候」「五山に於いて、その人の儀を書き申し候に、諱相除け、書き申さず候法度御座候」と、全員が諱を書くことや、諱を分割することを批判したのも、当時の僧たちの常識だったからです。しかし、明治時代に徳富蘇峰が、僧たちの批判を家康に忖度したものと解釈して、これが通説となってしまったのです。

従って、以前の通説は、実際に事件当時にあった社会の考え方や史料よりも、「家康は権謀術数を駆使して豊臣を滅ぼした」という強い先入観によって書かれた後世の資料を基にして作られた考え方だったとして見直されるようになっています。
ただ、事件当時の資料でも、家康お抱えの儒者、林羅山の見解はこじつけで、明白に家康に忖度しています。

尚、鐘は呪いの鐘とされて鐘楼から下ろして鳴らさないように地面に置かれ、明治時代まで野ざらしにされたままでした。明治17年になって鐘楼が建て直されています。
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家康は、二条城で秀頼と会見したときに、かなり驚いたはず。


福島正則が大坂城からの警護を行い、加藤清正が随臣風に付き添っていたことはともかく、秀頼の威容にかなりの衝撃を受けたはずだ。
信頼性はよくわからないが、秀頼は身長2メートル・体重160キロの巨人だったというのだ。しかも、道中の庶民から大喝采を浴びつつの登場だった。

その後、家康は秀頼に臣従を求め続けるが、応じてもらえない。
秀頼方の戦略は、家康の死を待ち、力の劣る2代目の秀忠から実権を奪い取るというものだろう。
仮に秀頼方がそう考えていなかったとしても、家康がそう考えたとして不思議はない。あまりにも、跡継ぎの秀忠が姿が、秀頼の威容と比べて違い過ぎたからだ。自分が死んだ後の旧豊臣系武将たちの動きも心配だ。

ゆえに、何らかの手を打ったと考えるのが自然だ。
実際に、二条城の会見直後に加藤清正が急死し、同じく秀頼寄りだった浅野長政と幸長の親子、そして池田輝政などが相次いで急死している。暗殺疑惑が濃厚だ。
残った秀頼派の巨頭福島正則はビビッて隠居を願い出る始末で、以後は何もできなくなってしまった。大坂の陣では秀頼から参陣を求められるが、参陣せずに兵糧を送るにとどまっている。一族の中には大坂城に駆けつけたものもいたが意外に情けない男だった。

家康としては、秀頼の力を削ぎつつ、自分が生きているうちに秀頼を倒さねばならないと、口実を必死で探していたということ訳だ。
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素人ですが、


家康本人は「国家安康」で 名前を分けられたことを知った時、「無知だから 名前を分けることが縁起が悪いことに気づかなかったのだろう。放っておけ」と 無関心ぽかった。
という記録があるそうです。
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君臣豊樂:豊臣が反対ですね。

ここだけ返り点打つか。
ともあれ、これが原因で大坂の陣に発展。
秀頼は死なず、薩摩に逃げ、天草四郎時貞を生み、
親子で島原の乱起こす。
秀頼は吉宗の時代まで生きたという。
さああなたは信じますか。
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江戸中期の宝暦2年(1752年)に編纂された史料である『摂戦実録』(大日本史料第十二編之十四)に書かれています


鐘は奇特且つ不思議なもので、この功徳により四海は太平になり、万歳も長久になるという心である。国家安康というのは、家康の字を隠し題に入れて縁語にしている。名を分けることは今も昔も縁語では多くあり、全ては家康の名を尊重するためである。諱については松杉等の連歌で歌の作者の一字を頂いている。君臣豊楽・子孫殷昌も「豊臣を君(君主)として、子孫の殷に昌なる(盛んに栄える)を楽しむ」という下心がある。その上で下心に深く呪詛調伏の心を隠して、秀頼の現世の祈祷としている。
公家で用いられたお祝いの形式を 
戦いばかりで文章を読み解くことができなかった武士には理解できなかったという事です
京都で 考えときまっさは 断りの言葉 
真に受けて いつまで考えているのだと怒る関東人と同じです
豊臣は公家や僧侶に頼んで昔の伝統を踏まえて祝いの言葉として書き連ねたのを 関東の若手は同じような文章が他にも使われていることを知らずに怒ったのです
認識の違いですが
初めに約束したことと違う事ばかりしてくる豊臣が気に入らなかったのだと思います
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本気で呪詛だと徳川が考えていたなら、方広寺のあの鐘は破壊されていたはずです。


江戸時代を通して残されていたということは、少なくとも江戸幕府自身も単なる言い掛かりだと認識していたからです。
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歴史学では家康の言いがかりだとされますが推測にすぎません。

また呪詛をしたという証拠もありません。これは歴史学と歴史物語との違いです。歴史学は史料から逸脱できませんが、歴史物語は史料に書いてないことは作者の推測を加えて構わないのです。史料に書いてなければ、歴史学では触れないか推測にとどめますが、歴史物語なら「笑って言った」とか「怒りをあらわにして言った」など、話を面白くさせる為に脚色することはよくあります。
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