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豊臣秀吉は、なぜ生きているうちに徳川家康を排除しようとしなかったのですか?織田家から政権を奪った秀吉なら自分の死後、家康が天下取りに動くのは分かっていたと思うのですが。上杉を家康領の隣に国替えしたのは、家康を牽制するためですか?

A 回答 (6件)

天正11~13年は大震災が多発していた。



天正11~12年にかけては、家康の領土で地震や大雨などの天災が多発し、家康は天正12年の小牧長久手の戦いなどで勝利したものの、同盟していた織田信雄が秀吉と和解したことから、家康も和解・休戦に応じた。
家康としても天災からの復興に力を入れたかったことは間違いない。

その後、天正13年早々から、秀吉は紀州の雑賀・根来衆や四国の長曾我部など反秀吉勢を屈服させると、再び家康を狙って大軍による侵攻を準備し始めた。大垣城を前線大拠点とし、15万人分の兵糧など軍需物資を備蓄し終えていたと云われる。

しかし、そこに天正13年11月に、東北大震災や阪神淡路大震災級の大震災と云われる天正大地震が、今度は秀吉の領土を中心に発生し、大垣城は崩壊して家康を攻めるための物資が消えてしまった。

このような大震災を前にしては、秀吉は合戦どころの話ではない。被災者救済と復興に全力を注ぐこととし、家康とは恒久的な講和、つまり家康に臣従を求めることに方針を大転換した。

家康としても、自分たちの領土も別の震災被害から復興途上だったわけだから、最終的には臣従することにした。

秀吉も死後のことは心配していたからこそ、家康が反旗を翻さないように、家康を遠い関東に移し、他大名の領国の配置換えも東海道を中心に秀吉親派で固め、上杉も会津に置いた。さらに秀頼と千姫の婚約も成立させた。

それで秀吉としては、家康対策は終了だったのだろう。
秀吉の関心は家康から唐入りに移り、準備段階としての朝鮮出兵となった。そこで秀吉は死を迎える。

秀吉が家康を排除しなかったというよりも、秀吉に臣従していたころの家康が排除されないように上手く立ち回った。そういうことではないだろうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。地震により諦めたという話しは、目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/11/04 23:14

家康が下手下手に徹していたからです。


信長に家臣同様に尽くしたのと同じく、秀吉にも徹底的に尽くしたのです。
家康が本性を露わにしたのは秀吉の死後。それまでは「最も頼りになる存在」だったのです。
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当時、日本中の武将たちから「海道一の弓取り」と言われた徳川家康です。



武将たちから尊敬され実力を認められていた人物だったことは間違い
ないでしょうし、織田信長と同盟関係にあった人ですから信長亡き後は
徳川家康が天下人になってもおかしくない立場の人です。

その人気・実力を考えたら、下手に徳川家康と敵対すれば徳川家だけで
なく、日本中の武将を二分する大きな戦に発展する可能性があったので
秀吉としては安易に家康を排除するようなことはできないでしょう。

せめて徳川家を大阪から遠ざける為に江戸へと国替えを命じるのが精い
っぱいでしょう。
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勝てないと思ったから活かしたのですよ。


小牧・長久手の戦いで、思い知ったのだと思います。
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三国志の蜀漢で、公明があくまでも二代目の劉禅を主君として立て、補佐役に徹した姿を家康に期待してたのでしょう。

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戦ったら百姓での秀吉より武士の家康につく人のほうが多かったからです


天下はある程度治まっていて 戦っても秀吉には褒賞を与える土地がないのです。家康に付いたら秀吉の土地を貰えますから。
だから妹を離婚させてまで家康の正室にして義弟扱いにしたけど挨拶にも来ないので自分の母親も人質として差し出したのです。
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