「平成」を感じるもの

豊臣秀吉の弟の豊臣秀長は、秀吉の欠点を補う存在だったという話を聞きました。もし秀長が長生きしていたら千利休や豊臣秀次が排除されることはなく豊臣政権は長く続いており、徳川家康に政権を奪われることはなかったという説がありますが本当ですか?

A 回答 (4件)

政権が長く続いたかどうかは、解りませんが。


秀吉は、閃きよるアイデアが豊富な天才肌なので、話の調子が良くて
信用性に欠ける面がありました、秀長は実直な性格なので、人望が有り
羽柴家臣団の悩みや愚痴を聞いてやる、言わば羽柴家臣団の接着剤的
存在でした。
秀吉も、その点は承知していて、美濃の山賊豪族だった、蜂須賀小六
を味方に付ける様に秀長を派遣しました。
蜂須賀を味方に付けた後は、プレハブ工法で墨俣一夜城を作り、織田信長
の美濃攻略の起点になりました。
軍費調達の為に、秀長は堺の豪商達の間を駆け巡っていました。
九州討伐で総大将として、大軍を率いました、将としての器も中々の
者でした、もっと、歴史の表舞台に登場しても、良い人物でしょう。

秀長が生きていたら、朝鮮への出兵は無かったと思ってます。
誰でも実子に後を継がせたいものですから、秀次の失脚は免れなかった
と思いますが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/09/18 15:48

秀長が秀頼の補佐として、しっかり組織を束ねていたら、石田三成の出番はなく関ヶ原の戦いは回避できたかも。


 秀頼の生母、淀の対処が問題ですが、この毒親さえ始末すれば、秀頼と千姫をセットで徳川体制に組み込むことが出来たでしょう。
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秀長以外に、秀吉に直言していた人物は、他に2人いた。


一人は正室の北政所で、政所には強い政治的影響力と実務能力もあり、秀吉と大喧嘩している場面を度々みられている。
もう一人は石田三成で、やはり秀吉に堂々と怖れずにモノを言っていたことが記録されており、秀吉の晩年の暴挙は、何かとうるさい三成が太閤検地で地方出張していた時期に多発しているという説もある。

秀長は、周囲と秀吉の間に立って、穏便に調整する能力に長けていたようだ。
だから、秀長が長寿だったら…というif説が出てくることになる。

これはどちらかと云えば、保守的・閉鎖的で鎖国してしまった徳川政権よりも、開放的で海外進出に熱心だった豊臣政権を評価する人々の、豊臣政権を惜しむタラレバでしょう。

タラレバ話としては魅力的だと思いますが、個人的には秀長にそこまでの力があったどうかは疑問です。

秀長が長生きしたとしても、おそらく利休と秀次の死は防げなかったでしょう。
ただ、秀吉の死後も秀長が元気で、政所・三成の三人で力を合わせて対家康に向けて戦略的に動いていたのなら、豊臣政権のあっけない崩壊を防げた可能性は高かったかもしれません。
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本当かどうかはわかりませんがその可能性はあったということです。

ただし、徳川家康が政権を猿から奪い江戸東京に幕府を開いたのは日本発展の為の神のお導きだと思います。
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