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松永久秀って、信長にも義昭にもそのときそのときでつかず離れずの大名なんですね。
信長からすると、煮ても焼いても食えない相手的な感覚ですか?

A 回答 (3件)

小派閥から宰相になった中曽根康弘は風見鶏の仇名が付いていました。


松永久秀も同様で、気を観るに敏な文武両道の武将で交渉術に長けて
いて、宮中にも将軍家とにも繋がりの人脈持っていました、
信長包囲網で苦慮していた織田信長には、その人脈が有益でした。
松永久秀は、織田信長に付かず離れずで戦国の世を泳ぎ廻った
知恵者で織田信長にとっては小賢しいと思ったでしょう。

武田家が早く滅びた事が松永久秀の誤算でしょう、大和国の領主に
なっていますから、伊勢新九郎(北条早雲)、斎藤道三と並ぶ、
戦国時代の奸雄の一人ですね。
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武将として優秀なうえ、茶道など当代一流の文化人。


非常に信長好みの人物だ。

そして久秀は茶道における天下の名器「平蜘蛛の釜」を持っていた。
信長もこの名器を羨望し執着していたことは間違いない。

久秀は信長も将軍義昭も気嫌いし、度々反旗を翻したり距離を置いている。その理由の中には信長の「平蜘蛛の釜」に対する執着と茶人としての品格を疑っていたのではないだろうか。
最後は、反信長を鮮明にした足利義昭と和解し、信長包囲網の一人として信長に反旗を翻した末、逆に包囲されて自決。

その死は多くの親交があった信長家臣たちにも惜しまれた。
信長にとっては煮ても焼いても食えないというよりも、自分が久秀から嫌われていたことは自覚していただろう。心の底から臣従させることに失敗したことになる。
松永久秀とは剛毅で知恵もある武将と一流の文化人の顔を持つ才人であり、彼なりの正義感も強いけっこう保守的な人物だったと思われる。信長の革新性とは相容れなかったのだろう。
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信長は松永久秀を好いていましたよ。


茶の湯に精通している文化人でもあったし、性格もやったことも似ていますからね。久秀が何度裏切っても投降を呼びかけていて、どうしても家臣にしておきたかったようです。
久秀はあまり信長を好きではなかったようですが。
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