
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
これ,実は本が出版されています。
「大井川に橋がなかった理由」(創元社:著者 松村博) というそのものズバリの題名の本。橋が架けられなかった直接的な理由は,川の流れや傾斜という地勢上,それから当時の架橋技術上の問題です。
>それでは船で渡ればよかった
その通りです。当時でも舟で渡ることは当然可能でしたし,その方が合理的でした。事実,江戸時代には何度も「渡し船を認めて欲しい」という請願が,幕府に対して出されています。ところが,幕府はこれを曖昧にして握りつぶし続けたのだそうです。
実は,「江戸時代前期に島田と金谷の両宿で川越しの人足とそれを束ねる組織と制度が整備され、彼らが独占的に川越し業務を行うことを幕府が認め保護したことにより、それが既得権益化」したのが理由だそうです。何しろ最盛期には1000人程度の人足がいたそうですから,当時としては巨大産業です。
橋にしろ,渡し船にしろ,実現すればその人達は失業です。それで猛烈な反対運動が起きるのだそうです。ストライキみたいなこともあったようで,幕府としても触りたくない課題だったのだそうです。今と変わりませんね。
だから,幕末の官軍(朝廷軍)は進軍に当たって,あっさり橋を架けさせてしまっています。軍事的理由というのが,いかに嘘かが分かります。さらに明治新政府ができると,川越人足制度そのものを取りやめにしてしまったそうです。
No.6
- 回答日時:
なるほど、そう言われるとそうですね。
児玉幸多著『日本交通史』を読んだときのメモです。
「徒渡し」は、東海道では酒匂・興津・安倍・大井の諸川、中山道では千曲・碓氷の両川などです。
富士川や天竜川では「渡船」です。
日本三大急流の一つである富士川や、暴れ天竜の異名をもつ天竜川のような川でも舟運が盛んでした。
川だけではなく、熱田から桑名への「海上七里渡し」は、参勤交代や伊勢参りの人びとで賑わっていました。
このような事実から大井川でも舟で渡れるはずです。
詳しく調べたわけではないですが、奈良時代の承和2年
「東海、東山両道に浮橋および布施屋をつくり、水駅には渡船をおいた。
このとき、大井川には渡船二艘増設し四艘とした。(『三代格』)」との記録があります。
東海道歴史年表
http://www.ochakaido.com/rekisi/kaido/kaip.htm
また、3代将軍家光の上洛にあたって、弟の駿河国領主忠長は、大井川に船を並べて浮橋をつくり、平地のように容易に渡れる工夫をし、誰もが感嘆したとの記録も残っています。
架橋が困難で、架橋後の採算が合わなくても、工夫しだいで方法はいくらでもあると思います。
京三条橋は日本最初の石柱橋と言われていますが、秀吉の時代にできています。
このように考えていくと、やはり松村博著『大井川に橋がなかった理由』にある理由に納得できます。
参考URL:http://www4.airnet.ne.jp/sakura/ooigawa_2.html
No.4
- 回答日時:
現地に行かれました?
大井川、今はダムのために水量が減っているので当時とは異なりますが、流れがあることはわかると思います。渡し舟は難しかったのでは、と思います。
川ではないですが、同じ東海道でも舞阪と新居の間は舟でしたね。また、大井川に橋を架けることは当時でも可能だったと思います。(増水があれば流れるかもしれませんけど・・・)
No.3
- 回答日時:
>東海道最大の難所「越すに越される大井川」ですが、
老婆心ながら・・・「る」でなく「ぬ」です。
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」
これは幕府が架橋も船の運用も禁止したことが原因です。
だから、わざわざ不便なシステムにしてありました。
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