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- 回答日時:
まだ見てらっしゃるかな。
できるだけ簡単に説明しますね。
原始時代、人間と自然、神々は厳然と分かたれたものではありませんでした。たとえば人びとは雷鳴を聞いて、それが神の「お告げ」であるように感じていた。
そんな時代から、やがて人びとは道具を用いて、自然を自分の目的に役立てるようになっていきます。そうして自然を「外部」とし、征服し、支配するプロセスを通じてみずからを世界の主人公としてみなすようになっていきます。
同時に、自然を支配するためには、先を見通す知恵を持ち、自分の怠け心にうち勝ち、犠牲を払ったり、いまたちまちの快楽を先送りして、ときに諦めたりすることも必要になっていきます。「生まれたままの自分」から、知恵と道徳を身につけた「自立した人間」へと、自分を賢くし、鍛え上げていかなくてはなりません。外部の自然を支配し、自分の役に立てるばかりでなく、自分の「内なる自然」をも支配し、統御することが求められます。そこで「内なる自然」をしばる「道徳」というものが出てきます。
人間の理性もそのプロセスで変容していきます。ある目的を達成するためにはどうしたらよいか、という問題を考えるためだけに使われるようになっていく。このような理性の限定された、誤った使い方をアドルノとホルクハイマーは「道具的理性」と呼びます。
人間は科学技術を発展させることで、外部の自然を支配するようになり、権力によって社会を支配し、道徳や教育を通じて、人間の内なる自然を支配するようになりました。けれどもその結果どうなったか。「支配する」という目標を立てて、現実に支配できるようになったとき、人間はその目標を失ってしまう。
自分自身が何のために生きているのかもわからなくなって、そうなると残るのは「自己保存のための自己保存」という盲目的な意思です。
目的を見失った科学技術は自動的に進むところまで進んでいってしまい、複雑な社会機構も人間の手を放れて勝手に進んでいってしまう。そこでは人間は無力な存在です。ちょうど、人間が自然に身をゆだねるしかなかった時代のように。
1947年に出版された『啓蒙の弁証法』は、ファシズムの猛威が吹き荒れ、原爆という大量殺傷兵器が生み出されたあとに著されたものです。
歴史というのは野蛮から文明へと進歩したはずではなかったか。それが大量殺戮という蛮行に堕した。その根拠は、進歩の原動力となった「啓蒙」そのものにあったのではなかったか。啓蒙には当初から自己崩壊する契機が含まれていたのだというのです。
では、それを改めるためにはどうしたらよいのか。合理主義というものを一切捨ててしまえばよいのか。アドルノとホルクハイマーは、そうではなく、理性の自己批判を主張します。非合理主義的な文明批判ではなく、かといって、つぎに肯定的な「何ものか」を生み出すためのものでもない。けれども現実を見きわめ、それをまとめるような理論を求めず、あくまで批判に批判を重ねていく。
「批判理論」を簡単にまとめるとそういうことになるかと思います。
ずっとここ、見てなかったから、センター試験まであと二週間になっていまさら役に立つかどうかわかんないですけど。
頑張ってください。健闘を祈ります。
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