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名代・子代は部曲のなかで大王に仕える人、ということですか?

A 回答 (1件)

>名代・子代は部曲のなかで大王に仕える人、ということですか?



古代のことですのでいろいろな説はあるようですが、「部曲」は豪族の私有民で、「名代・子代」は大王家及び大王一族に奉仕する部民です。「名代・子代」は后や皇子の名を付けたりしたのでその名称があります。職名を付けたものもあります。
「名代・子代・部曲」の総称としては「部(べ)」という名称があります。「部」は大王や豪族に隷属する集団を指し、部の構成員を「部民(べみん・べのたみ)」と言います。「名代・子代・部曲」以外に朝廷に所属し、伴造にしたがってその職能で奉仕したり、生産に携わる「品部」という集団もありました。さらに、大王家・朝廷の直轄領であった屯倉耕作する、「田部」と呼ばれる部民もいました。(豪族の私有地を田荘(たどころ)、耕作民は部曲になります)

まとめると次のようになります。
部-部民
大王家の部
 名代・子代=穴穂部・舎人部など
 田部   =白猪の屯倉などの耕作者
朝廷
 品部   =馬養部・錦織部など
豪族の部
 部曲   =蘇我部など

他の考えもあるので、参考まで。
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Q屯倉・部曲等、覚え方

大化前代の政治で
私有地と私有民について

・大王
私有地・・屯倉
私有民・・子代、名代、田部
・豪族
私有地・・田荘
私有民・・部曲

とありますよね
一つ一つの単語は暗記しているのですが
屯倉は、大王なのか、豪族なのか
もしくは私有地なのか私有民なのか
わからなくなってしまいます
これを関連して覚える方法はありませんか?
知っている人がいれば回答をお願いします

Aベストアンサー

こんにちは。
私の場合、大王はコナミ(子代、名代、屯倉の一文字目をそれぞれとって)で、豪族はカタ(部曲、田荘の一文字目をそれぞれとって)といった感じで覚えました。
私有地なのか私有民なのかは、よく部曲あたりが問題にでますが、そこは部民制というものを理解ないし言葉だけでも知っておけば大丈夫だと思います。

参考になったらうれしいです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E6%B0%91%E5%88%B6

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Aベストアンサー

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Q「前九年・後三年の役」の呼び名の由来は?

日本史に詳しい方、どうか教えてください。
平安時代後期の「前九年・後三年の役」ってありますよね。
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同じように、後三年の役も、後白河法皇が後三年合戦絵詞をつくったことからそう呼ばれるようになったことまでは分かっているのですが、その後三年という言葉がどこから出てきたのか分かりません。
やっぱり、「前・後」というからには何かから起算して9年だったり3年だったりするんでしょうか?
学校の先生に聞いても「知らん」と言われてしまいます。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

源頼義と安倍氏の戦いは、古くは、「奥州合戦」とか、「奥州十二年合戦」と呼ばれていました。それが、「前九年の役」と呼称されるようになったのは、鎌倉時代からです。ところが、この九年という年数がどこから出されたものかは甚だあいまいで、恐らくは十二年合戦というのを源義家の「後三年の戦い」を合わせたものと錯覚し、十二年から後三年を差し引いて出された年数と考えられます。もっとも、十二年合戦という呼称は、頼義が陸奥守となって赴任した永承六年から、安倍氏との戦いの終結する康平五年まで足かけ十二年に及んだことに基ずくのですが、実際に十二年の間戦闘が行われたわけではなく、こうしたことも後に誤解を生む原因の1つにもなりました。

Q古墳と墳丘の違い

高校の日本史をまとめていて、墳丘と古墳にどのような違いがあるのか、表現が曖昧で困っています。

同等の質問では、
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
一、墳丘がひとりの首長のために造成されていること、複数の埋葬があるものは古墳に含めない。
二、前方後円墳(または前方後方墳)という形でもって、一定の政治的意味が付与されていると考えられること。

吉野ヶ里の墳丘墓、山陰地方の四隅突出墓などは複数の埋葬があるので古墳としない。
岡山の楯築遺跡は、ひとりのものだが、前方後円墳でないから古墳と認めない。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

という回答を得ていますが、古墳には円墳や方墳があり、これらの政治的意味が楯築遺跡の双方中円墳よりも薄いこともあって、矛盾しているように思い、この回答は参考になりませんでした。


また、wikipediaを見ると、3世紀後半を境に呼び方を変え、区別していると説明されていますが、そもそも区別する必要性がどこにあるのかもわかりません。

古墳の形や発展、社会の動きを見ても(教科書やネットに載っている範囲)、墳丘と古墳にそこまで明確なラインはないと思うのですが、実際にははっきりと分かれているようです。

どのような基準で区別されているのかを教えて下さい。

高校の日本史をまとめていて、墳丘と古墳にどのような違いがあるのか、表現が曖昧で困っています。

同等の質問では、
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
一、墳丘がひとりの首長のために造成されていること、複数の埋葬があるものは古墳に含めない。
二、前方後円墳(または前方後方墳)という形でもって、一定の政治的意味が付与されていると考えられること。

吉野ヶ里の墳丘墓、山陰...続きを読む

Aベストアンサー

墳丘ではなくて問題なのは墳丘墓のようですね。
墳丘は古墳を構成するパーツの一つで土盛そのものです。

>墳丘(墓)と古墳にそこまで明確なラインはないと思うのですが、

そのとおりでいいと思います。

>実際にははっきりと分かれているようです。

初現期については諸説あり、意見が割れているのが普通です。
極論してしまえば、古墳時代に作られたのが古墳で弥生時代以前に作られたものが墳丘墓。

楯築や四隅突出型などは誰もが弥生時代と認めるので墳丘墓。

纏向にある箸墓以外の5つの墳丘を持つ墓は3世紀代を古墳時代に含めるか、箸墓以降を古墳時代とするかの見解が割れているので、人によっては古墳と言い、人によっては墳丘墓と呼んでいます。

ただし、教科書的には従来からの箸墓以降を古墳時代とするという見解を取っていると思いますので、箸墓よりも古いものは墳丘墓、箸墓より新しいものは古墳にしていると思います。

古墳であるか否かの基準としては「定型化」ということがあげられますが、この条件をいろいろ調べていくと古墳時代でも小さい古墳や地方の古墳だと合わないものがぞろぞろ出てくるはずで、こういう基準・定義だけから古墳と墳丘墓を厳格に峻別するのは事実上無理だと思います。

>岡山の楯築遺跡は、ひとりのものだが、前方後円墳でないから古墳と認めない。

これは明らかに間違いです。

>そもそも区別する必要性がどこにあるのかもわかりません。

「古墳」というものが王権の象徴なので、弥生時代とは全く異なる社会的な意味がある物なのだということを強調し明確化するために用語が変えられているのでしょう。

墳丘ではなくて問題なのは墳丘墓のようですね。
墳丘は古墳を構成するパーツの一つで土盛そのものです。

>墳丘(墓)と古墳にそこまで明確なラインはないと思うのですが、

そのとおりでいいと思います。

>実際にははっきりと分かれているようです。

初現期については諸説あり、意見が割れているのが普通です。
極論してしまえば、古墳時代に作られたのが古墳で弥生時代以前に作られたものが墳丘墓。

楯築や四隅突出型などは誰もが弥生時代と認めるので墳丘墓。

纏向にある箸墓以外の5つの墳丘を持つ墓は3世...続きを読む

Q朝廷の名前の由来

朝廷って どうして、朝・廷ってかくんですか?
とゆうより、だれがそう呼び始めたんですか}??
おしえてください!!!!

Aベストアンサー

10世紀半ばの公家の日記がありますが、それによれば午前3時に大内裏・内裏の門鼓が打たれ小門が開門、6時半に大門が開かれこの時間に主な公家が出勤します。
勤務は午前中のみで、10時ごろ帰宅して昼食を取りますから、会議は朝に行なわれたのでしょう。
「廷」の文字は政治や裁判を行なう場所と解され、階段の先の広庭という意味になります。
ですから朝、政治を行なう場所、という意味もあるのかも知れません。
言葉自体は、壬申の乱で有名な中冨鎌足の時代に「朝臣(あそみ)」という姓(かばね)がありますから、古い時代からあると思います。

Q国債と公債の違い

今高1で経済を勉強しているのですが、国債と公債の違いがよく分からないので、教えていただけないでしょか。

歳入と歳出での国債費と公債費の使い分けもよく分からないのでお願いします。

Aベストアンサー

 公債とは、国や地方公共団体が、財政収入の不足を補うために行うもので、発行する主体によって、国債・地方債などに分けられます。ですから、公債の中に国債が含まれることになります。

 歳入と歳出での国債費と公債費の使い分けについてですが、歳入の不足分を公債で賄いますが、公債とは国民からお金を借りているので、当然返さなければなりません。

 歳出の中に借金返済のための費用が盛り込まれているわけで、歳出での公債費というのは、借金返済のための費用ということです。

Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

Q聖武天皇の度重なる遷都について

少し似たような質問はあったのですが、少し違うので質問させてください。

奈良時代に、藤原広嗣の乱の後、その力から逃れるために、
恭仁京、紫香宮や難波宮と、何度も遷都を繰り返していますよね?
ですが、「都」として、定められていたところと、実際に天皇が
住んでいたところは違うと聞きました。
教科書には「740 恭仁京に遷都」、「745 平城京へ帰る」としかなく、よくわかりません。
下手な文章ですみませんが、ご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。

Aベストアンサー

#1さんのお答えで妥当かと思います。具体的な動きをいかに略述します。
740年12月 東国(伊勢尾張など)への行幸ののち、恭仁京に到着、遷都の意思を表明
742年2月~ 紫香楽宮へたびたび行幸
743年10月 紫香楽宮で大仏造立の詔を発する=同年末には恭仁京造営の中止
744年 難波宮への遷都を思い立つ
744年2月 難波宮遷都の詔(但しこの直前には紫香楽宮に移っている)
745年正月 紫香楽宮を新京とする
745年5月 平城京に遷都

Q朱印船と奉書船

朱印船と奉書船の違いが分からなくて困ってます。
教えてください。

Aベストアンサー

朱印船は、江戸幕府から海外渡航許可の朱印状を受けた公認の貿易船です。
これに対して、奉書船は、渡航許可として朱印状のほかに老中発行の奉書を所持している貿易船のことです。
幕府が鎖国へ向かう中で海外渡航をする貿易船は制限されていきます。
1631年以降、朱印状に加えて老中奉書の所持を渡航の条件とすることで、海外渡航のハードルを高くしようとしたのです。

Q産業報国会

1938年ごろから産業報国会が結成され、1940年には大日本産業報国会が結成されますよね。いったいどんな組織なのか、具体的な活動がわかりません。ただ、工場や企業におかれたことから、厳しい指導により生産性を維持し、国に報いるぞ!的な雰囲気があるのですが、いったいどんな目的でどんな活動を行ったのか知りたいのですが・・・。お願いします。

Aベストアンサー

概ね、質問文のイメージで合っていると思います。
大日本産業報国会とは、戦時下の労働者の統制組織であり、1938年以来、それまでの労働組合が解散したのに代わって、労資一体を意図して各職場に設置された単位産業報国会を、政府が直接指導に乗り出して1940年11月に全国団体として結成され、労働強化・戦争協力を労働者に強制したものといわれます。
平易にいえば、旧来の労働組合が会社に対して「賃金を上げろ!」などと要求し対立していたのと代わって、経営者と労働者が一心同体になって、「戦争に勝つぞ!」という目的に転換したわけで、その上位に政府の統制が働いていたのです。

尚、参考URLに「富士フイルムのあゆみ」というHPを添付しました。その一番下の「従業員の増大と産業報国会の結成」というところに、産業報国会の具体的な活動内容が載っています。
これによると、労資の懇談・福利厚生を基本として、様々な活動が戦争遂行の名の下に行われたことがわかり、会社単位での産業報国運動の一例になるかと思われます。

参考URL:http://www.fujifilm.co.jp/history/dai1-07.html

概ね、質問文のイメージで合っていると思います。
大日本産業報国会とは、戦時下の労働者の統制組織であり、1938年以来、それまでの労働組合が解散したのに代わって、労資一体を意図して各職場に設置された単位産業報国会を、政府が直接指導に乗り出して1940年11月に全国団体として結成され、労働強化・戦争協力を労働者に強制したものといわれます。
平易にいえば、旧来の労働組合が会社に対して「賃金を上げろ!」などと要求し対立していたのと代わって、経営者と労働者が一心同体になって、「戦争に勝つぞ!...続きを読む


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