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 この種の質問を重ねましたが あらためての設問です。
 それは どのように 情欲を 克服するかには 直接 かかわりません。実際に どのように 扱えばよいかという処世術の問題ではありません。それなら 無理することなく 受け留めていけばよいと考えます。
 趣旨説明は 次のようです。《罪》という概念が 鍵語であるようです。

 人間の存在は 善悪を超えています。そのような価値判断に先行して 存在があります。《善悪を超えている》ものとして 存在は 善です。規定するとすれば そうなるはづです。
 さて この存在とその持続に反することは 善ではなく 善を傷つけることです。この非善を 悪と称するというのが わたしたちの言語習慣だと見ます。
 この悪にかんして そのような内容のことを 思うことからも 行なってしまうことからも わたしたちは まだ 自由ではありません。悪なることを思い行なってしまいます。この相対的な存在は 相対的な善であるに過ぎません。
 だとすれば この悪から自由になろうと思えば そのときには おそらく最終的には 人間の能力と努力とでは 無理だと考えられます。しかも 悪から自由になりたいと思うなら おそらく ひとは この相対世界を超えたところに 解決(つまり すくい)を問い求めるように思われます。言いかえると この悪にかんして 人びと互いに対するものではなく――と言っても ふつうに 互いに 責任を負うことも 実際だと言わねばなりませんが―― その絶対の世界に対しての責任だと捉えるというものです。すなわち 《罪》という概念を持つというものです。

 さて 果たして 情欲は 悪であり 罪であるでしょうか。
 その昔には そう考えられたという歴史があります。どうして そのように考えたのでしょう。
 現代では 何も考えないというのが 正解なのでしょうか。

 長くなりますが わたしの考えでは もうすでに いわゆる《原罪》は 贖われ 跡形だけが――つまり しみ・そばかす あるいは ほくろや痣といった母斑に喩えられるものとしてのみが――残っていると見ます。だったら 情欲は どうなのでしょう? もともと 悪でも罪でもなかったのか。あるいは そうではあったが 原罪とともに 多少の後遺症をともないつつ その傷跡が 残っているだけだということでしょうか。どうも そうではないようですから あるいは ひょっとして エロスとして 古典古代人が神々の内に数えたごとく 中性の生命力〔の一側面〕と見るべきなのでしょうか?

 以上の問いに よろしくご見解をしめしてください。 

A 回答 (12件中11~12件)

 brageloneさん、ご質問はとてもよくわかりましたのですが、お礼(恐れ多いが)欄はたくさんの事項が、そして私の予期しないタームがあり、記号がありで、ちょいと読解が、意識の集中の流れに乗りにくいです。


 でも仰せのことは多分私のお伝えしたいことをお受け取り戴くいていると理解できそうです。お斟酌みとりいただき感謝申し上げます。
 前線部隊が、本体の国家主権・統治高権を無視することは多いですね。それは如何なる場合も戒めないといけませんね。
 現場的条件、景色、うねるが如くに見せてくる状況と事態に捉われ、びっくりしていてはいけないですね。An even mindness is like a mirror of discretion that reflect favorable or unfavorable events. Thus he hold himself in readiness to act without being misled by emotional distortion.(from ギータ(by パラマハンサジ)です。スペルなど正しいかなぁ)いわゆる、私たちでは平常心っていってきましたよね
 その他も、brageloneさんの仰せのとおりだと存じます。でも信念って危険ですよね。無の方がいいのかなと存じております。
 それから、八雲ですが、素戔嗚尊の話になるのが普通なのですが、実はあまりこの知識がないので、関連付けはしてなく、情念とか、執着とか、捉われとか、欲望とか、心の波風などを、後方の本体との隔てをしているものをいっているのですが。
 これに関連して、昨日、国語のカテで教えを乞いました。
 http://kikitai.teacup.com/qa4667705.html (白鳥入蘆花)です。
 私は、前線で引き起こしている紛争へのエングロッスはとてもaggressiveであり、ぜひとも、後方のhumble and unassumingに戻る努力を怠るべきではないということで、湖人の白鳥を思い出しました。
 それでいろいろな受け取り方があるかも知れないと思って乞教の項目にしました。
 私たちの何事も、aggressiveとhumble and unassumingが二重になっていると存じます。aggressiveが、brageloneさんの言われる、情欲であり、邪悪の質だと存じます。全てのことの本来の質が、humble and unassumingだと存じます。そしてhumble and unassumingという質はどちらかというと、ida(ルナ)という、無に、どの場合も回帰していますね。それ乞教の項目を建ててみました。どうかご参考に。

 <白馬蘆花に入る。什麼と道うぞ。点。巴陵云く、銀椀裏に雪を盛もる。> 、<爾が咽喉を塞断し、七花八裂>
 ぎらぎらと派手派手。言動や思い、思考、言語。係わり合い。それがお前の欠点だ。それを何かといえば、代表は咽喉だ。それをぶっこっわっせ。一番いけないところだ。
 といているのでしょうね。まぁ、これって多分臨済宗かもしれないのですが、曹洞宗よりは少しは理解できそうです。
 この公案は、元は白馬ですか。でも日本の風土では大河の岸辺に鬱蒼と生える蘆花となれば、白鳥でしょうね。野生の馬もいるわけではあるまいし、そんな大きな蘆花の原野はありませんし。私も荒川の下流で河川敷は広大で、子供の頃この中に入ってしまうと、中には大きな池もあるし、川もあるし、背丈よりも高いものですから、迷ってしまいます。生物たちのすごい世界が繰り広げられています。でも中国の蘆花の原野とは行きませんから、白鳥ですね。白鳥はずいぶん居ました。群れないで。まさか白馬に乗った甲冑武者ではありますまい。
 白鳥は悲しからずや海の蒼、空の碧、・・・にもありますが、なにかと人間や魂に隠喩されてきておりますし。
 そしてヒンドゥの思想でも、み使い、魂などにも隠喩されています。
 呼吸の行の中に、ホーンソーがありますが、マントラですね。これも実は白鳥です。ハーン・サーともいいます。
 わたしたちのグルも、パラマハンサ・ジですが、偉大な、超ハンサ(白鳥)です。
 湖人が白馬を白鳥に変えたのは偉大な直観、最高に適切な選択でした。こういうところからも、湖人を、最も敬愛しております。
 長々すみませんでした。

この回答への補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 前回のわたしのお礼欄では その後半は 生活そして子孫繁栄へ向けての積極的な姿勢として その一側面として 情欲が 一枚 噛んでいると 一般に 考えられているのではないか。こういう角度から――ほぼ 一方的に――述べたものです。
 そのつてでは 今回も もし 《積極的》=《 agressive 》だとしますと ややもすると krya1998さんのご議論では 他方の極に 振り子が 振れているかも知れないとは感じます。率直な これは 感触です。
 ★ aggressiveが、brageloneさんの言われる、情欲であり、邪悪の質だと存じます。
 ☆ このような見方に接したばあい まづは 上のような感触が起こるのが 一般ではないでしょうか。つまり わたしとしましては まだ 結論が いづこにあるとも 分からないからには 視野を広く 意識的に ゆるく 持つことも 必要かなと思っております。

 ★ 全てのことの本来の質が、humble and unassumingだと存じます。そしてhumble and unassumingという質はどちらかというと、ida(ルナ)という、無に、どの場合も回帰していますね。
 ☆ 《ida(ルナ)》は 検索しても 分からなかったのですが 《無》という意味でしょうか? そして もし このように 《情欲》=《 agressive / assuming 》というふうに 凸凹の凸つまり 出しゃばりのことを言うとしますと
 ★ 私たちの何事も、aggressiveとhumble and unassumingが二重になっていると存じます。
 ☆ というわけですから 一般的に言えば 
 ○ 二項対立 もしくは 二値的論理
 ☆ という見方に 近づくようにも思えます。

 たぶん この有無・凸凹・善悪・正邪・聖俗なる対立する二項を総合した観点をおっしゃっているのだと思いますが つまり そういう方向性を 前回から 示唆しておられるのだと思いますが やや 言葉は 一方に傾いている気配も感じられると思います。

 ところが ところが です。わたしは じつは 《情欲の罪》説= 《意志の突出》説もあるように考える片向きを 持っています。そのいわゆる色情や行為じたいの問題であるよりも 《度が過ぎる》といった意味 あるいは 《欲求や感情やその満足じたいが 目的となってしまうこと》といった意味を うっすらと 想定しているのです。

 ★ 白馬蘆花に入る / 白鳥蘆花に入る
 ☆ その謙(へりくだ)るさまについて 格言のごとき意味合いは 検索して ひととおり 勉強しました。どうでしょう。ですが どうでしょう? これは ひとにあまり みづからの手柄を吹聴しないといったことを言っていませんか。つまり 手柄となるような社会的な貢献としてのおこない自体は おこなっているわけです。
 情欲の問題でも 有りていにいえば 生殖行為は おこなうわけです。見せびらかすものではありませんが そうだとすると どうも その場が違うようにも 思えます。
 蘆の群れに入って その蘆と見紛うほどにのみ身を処すことによって 派手な活躍として見えるさまを慎むということは どうも 社会的な行為にかかわるように思えるのです。一般のいわゆる人間関係としての その意味での隣人愛にとっての 場であります。むろん 情欲は 一般に 隠れた場にあります。

 ▲ (スサノヲの歌) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 八雲立つ 出雲八重垣
 妻籠みに 八重垣つくる
 その八重垣を
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 人間関係の全般を包みます。《八》は 古代人にとって 聖数です。《いよいよ(弥=四) そして その倍数である 弥(いや)増すの や(八)》が 繁栄を表わし 聖なる数とされていました。すなわち
 家族という社会の中核となる単位集団において 社会的にして特殊な対(つい)関係のための性愛があり これを包んで 一般の愛としての人間関係が 繰り広げられる。そこにおいて みなが こころを合わせ 情感の共同性を築き上げようというようなうただと思われます。
 ★ 信念 
 ☆ というよりも 無理にでも 区別しようと思えば
 ○ 生活態度 つまり 思想
 ☆ のことだと考えます。

 おそらく 方向性において 同感していただけるのではないかと思うのですが どうも krya1998さんの場合には
 ○ 忍ぶ〔愛〕
 ☆ という思いと心づもりが とうといとしておられるのではないかと思われ そのことが 基調となって現われると推し測られます。
 勝手なことを述べましたが さらに 尋究してまいりたいと存じます。

補足日時:2009/01/29 11:50
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 brageloneさん。

私みたいな教条ものが最初に投稿するのをためらっています。
 brageloneさんの幾つかのご質問の中で、何度かこのことについて八雲とか何とかで私は言及しました。
 私は、人間には本源的存在の部分と、端末の作業とディスプレーの部分があるような気がいたします。
 端末の作業とディスプレーの部分が本源部分を没却したり、無視して、自分だけの気持ちになってしまうといろいろなことが見えなくなるし、また不協和が出てくるのだと存じます。その不協和を端末の作業とディスプレーの部分の次元だけで処理したり、対応することがどうも人の常のような気がします。
 端末の作業とディスプレーの部分を主格や実在の根源であると思い、それに寄りかかり、依拠し、そこの太平楽でいようとすることが、実在本体の純粋と不穢、清らかさ、明るさ、やさしさを覆い隠してしまう、八雲ではないかと存じます。
 八雲は、だから、創造本体と被創造体とを仮に区別するならば、被創造体側である、端末の作業とディスプレーにおけるこんがらがりではないでしょうか。
 これがbrageloneさんのタイトルでの情欲ではないかと存じます。
 取り乱している人間側のかもし出している、曇り、無知なのではないかと存じますが。
 あまり難しい、再質問などはご勘弁のほどを。
 でも、之に関する私への啓蒙的補足などは大喜びですが。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 krya1998さん この質問には――趣旨説明は書きましたが―― たたき台も ありません。仮説としても 成案がありません。いくつかの考えがあるということだけは 了解しています。

 こういう出で立ちですが まづ
 ★ 八雲
 ☆ という言葉は スサノヲのイヅモ共同体に 市民の息吹きとして湧き上がる雲として とっておきたい気があるのですが 要するに
 ★ 曇り・無知
 ☆ の問題だというご見解でいらっしゃるわけですね。
 ★ 中央の装置と 端末機器やディスプレーとの対比
 ☆ これは 中央の演算装置がはたらかなければ ほかの機器もはたらかないわけですから 少したとえが違うとも思ったりしますが あたかも 
 ○ 前線部隊の暴走のようなもの
 ☆ なのでしょうか。ことが 《情欲》となると 
 ○ 統帥権の侵犯
 ☆ になりがちということでしょうか。

 これに対して まだ納得し得ていないところは 次の部分です。
 ○ 一応の統括主体である理性が 情欲を容認し むしろ 積極的に その行為を しかるべき時には 勧め促し 実際に行動に出る。
 ☆ ことも あると思われることです。
 ○ まるで存在が 善悪を超えているのと同じように 理性は 情欲ということがらに関しては しかるべき時には 〔仮りの想定としての〕悪であることをも 罪であることをも 超え出て進もうとするところがある。
 ☆ のではないでしょうか。つまり
 ○ 曇りも躊躇もなく あたかも 信念としてのごとく 歩を進めることがある。
 ☆ のではないでしょうか。
 ○ エロスが ひとつの生命力の根源である
 ☆ とは わたしは 思わないのですが――なぜなら もしそうなら それによって 大きなあやまちをすることがあるのは おかしいと思えるからですが(あるいは 生命力のあるところに もし必要ならば エロスは ついてくる と思われるのですが)―― それでも 
 ○ 堂々と エロスが 世間を歩いている
 ☆ という姿も 見受けられるように思えます。

 おっしゃっているご趣旨は その方向性として 分かるように思っています。

お礼日時:2009/01/28 19:20

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