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ジャンルがここで良いかどうか分かりませんが?
最近の歌謡曲「博多川」(三門忠司)の歌詞で「人形小路」と書いて
「ニンギョウショウジ」と唄っているのがあります。
「小路」は「コウジ」と読むものと思っていましたので、
「ショウジ」というのは珍しいと思い「博多区役所」のHPで質問しましたら博多の「小路」は「ショウジ」と読むほうが多いのだとか。

「人形小路」は以前は「人形町」(ニンギョウマチ か ニンギョウチョウ か?)と言っていたようで、その「人形町」の地名の由来は分からない、とのことでした。

いろいろ調べましたが、分かりません。

だれか「人形町」の地名由来 と「人形小路」への変遷の由来を知っているかたはいないでしょうか?

それを知る方法(URLなど)でも結構です。

かなり難しいと思いますが分かる方の回答をお待ちします。

A 回答 (2件)

こんにちは。

地域の人間です。

>「人形小路」は以前は「人形町」と言っていたようで

まず、kanzamashiさんが書かれてあるように、人形小路=人形町でなくて、人形町からいわば派生した、いちエリアが人形小路です。 
(中洲全域マップ PDFファイルです↓ 水色の街区。)
http://nakasukankou.com/img/map.pdf
昔は更に「人形小路横町」など細分化していたようです。
(冷泉校区の自治会HP↓)
http://www.asocie.jp/reizen/profile/memory.html# …
~昭和22年、人形小路横町復活。

ただこれらは行政・法務上でお上が定めた正式な住所や地番名でなく、昭和41年2月の町界町名変更まで博多部中に数多く溢れていた通称=自称=俗称町名のひとつです。

>「人形町」の地名由来
判りませんが、確か人形小路の入り口に博多人形の写真?をあしらったアーチがあったような記憶がありますが・・・
いずれにせよ人形は「博多人形」なんだと思います。
(冷泉校区の自治会HP 旧町名の記憶>中洲四丁目)
http://www.asocie.jp/reizen/profile/record/oldto …
人形町は、大正~昭和初期にカフェー・食堂街として発展した北側の「楽天地」に続いて進展した新しくできた歓楽街でした。
町の名前を考えるとき、当時は博多のトップバリューネームは「博多人形」。
博多以外からのお客が多かったでしょうから、「楽天地」と同じく馴染んでもらえる(クチコミに覚えやすい)ように「人形町」としたのではないでしょうか。


>「羽形」から博多に変わったころから(いつかははっきりしませんが、町人町として博多になったようです)人形が盛んになり

・・・博多のモトを「羽形」としていた事実はありませんw
『石城志』<明和2年 津田元顧・津田元貫>
「むかし、飛騨内匠という者、もろこしに渡らんとて、木にて鳶を作り、これに乗りて筑前を過ぎけるが、これを憎む者ありて、矢を放ちしが、内匠にはあたらず木鳶の片羽を射きれり、其羽の落ちたる処を羽形と号す、後に博多に改むといえり。此説は児童のむかし語りにして、笑ふべきの甚しき也」

博多で粘土による人形が産業として生産されるようになったのは(他の都市と同じように)江戸期ですが、「博多人形」という名前で全国的にメジャーになったのは明治~大正期からです。
人形町の出自は、やはり新しい歓楽街であって、博多人形の製作された町人町ではありません。直接的な「人形」との由縁はないと思います。商業的に結びついた商店街組合的なエリアの名前で、現在も生活する「町」ではありません。

参考URL↓ 「博多のあん(miss_ann)のアルバム」~人形小路入り口~(楽天地通り側)写真

参考URL:http://pics.livedoor.com/imsize/data/002/a/f/af2 …
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この回答へのお礼

私は博多に行ったこともないのですが、大変興味はあります。
今回はいろいろと有難うございます。地名というのは難しいのですが
それだけ興味もわくというものです。

また、なにかありましたらお知らせ下さい。
丁寧な回答、有難うございました。

お礼日時:2009/03/09 18:30

ご質問の「由来」のお答えではありません。


以下のことは既に調査済みであろうことを承知のうえで、ちょっと面白い本が(コピー)がありましたので一部を紹介しておきます。
その本は1956年頃の「昼と夜を楽しむ新事典 素顔の博多」というガイドブックで中洲の飲食店を地図つきで紹介しています。「人形町」「人形小路」の名前はもちろん出てきます。
当時人形町は、(1)人形町-本通り (2)人形小路 (3)人形町-那珂川畔、の3つに分けられていたようです。(1)は東映と上記中洲人形町ビルの間の通り沿い、(3)は西側の那珂川端の通り沿い、(1)と(3)の間にある通りのが(2)人形小路。
同書の地図は区分地図のように町境が明確になっていないので、飲食店の名前と場所を頼りに現代の「丁目」に重ねると、ほぼ中洲4丁目1~5番(※(1))の区画が「人形町」のように見えます。
残念ながら、同書では地名の由来はもとより、「町」「小路」のどちらが先に成立したのかもわかりませんでした。飲食店の広告は「東中洲東映ヨコ」(※(2))や「東中洲人形町」、「東中洲那珂川畔」というように所在を示しています(ついでに、電話番号の局番は1桁です。)が、これらが公称か俗称かもわかりませんでした。西鉄ライオンズの豊田選手が現れた店の名前やいくつかの店のママさんの名前はわかりましたが…、人形町の由来は結局わかりませんでした。

別の本にはこうあります。(内容をまとめています。)
「明治30年代からは、中洲券番や、明治座・川丈座・寿座・九州劇場など(芝居小屋)が開場し、博多演劇界の中心地帯となった。大正初期からは演劇・映画・芸妓・女給を持つ博多の歓楽街となる。」「大正14年には玉屋が開店しにぎわったが……空襲で南新地の一部を残し全町(東中洲)灰燼に帰した。…昭和31年(1956)には中洲だけで17の映画館が見られた。」芝居が関係していたのかもしれません。戦後の復興のさいに戦前からの名前をつかったのでしょうか。すみません。何のお役にもたたないのに、ここまでお読みいただいてありがとうございました。

手がかりは、福岡市立総合図書館の2階郷土・特別資料にある筑紫豊氏、原田種夫氏らの寄贈資料の中にあるかも知れません(※(3))。角川書店・平凡社が県別地名事典を出版していますが、果たして記載があるかどうか。なお、これら地名事典で博多区の地名を見ていくと、「○○小路」はいくつかあり、いずれも読みは「しょうじ」で「こうじ」は見かけられませんでした。

※(1):中洲4丁目6・7番(エクセル東急、パピヨンビルのある一画)を含むかどうかは不明。現中洲大通りの東映が人形町かどうかも明確ではありませんでした。
※(2):1956年測量の国土地理院の地形図では、現在の中洲1~4丁目を「東中洲」と表示しています。書ききれなかったのかもしれませんし、公称ではなかったのかもしれません。
※(3):「素顔の博多」はここにありました。
別注:現在4丁目に「紫苑ビル」「あざみビル」という名のビルがありますが、50年以上前の地図にはほぼ同じ位置に「紫苑」「薊」という名のお店が書かれています。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
正直「地名」は難しいので回答は多分ないと思っておりました。

人形小路のことへの直接回答になっていなくても丁寧な回答で感謝しております。

あれから、多くの図書などでしらべて見ましたが、どうしても分かりません。御礼が遅くなったのへなんとか良い内容のお礼をしたいと思い調べるのに時間がかかったからです。

どうも博多が「羽形」から博多に変わったころから(いつかははっきりしませんが、町人町として博多になったようです)人形が盛んになり
それが「人形小路」の元「人形町」になったらしいのですが、文献は
地元の郷土史家のものしかないようで、福岡までいけませんので残念です。

これからも調べますが、とりあえず御礼を申し上げたいと思います。

また、なにか分かりましたら、よろしくお願いいたします。

以上 内容がありませんが御礼まで。

お礼日時:2009/02/12 19:58

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