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人によって「感動する」ものが違うのは何故なんでしょうか?

…馬鹿らしい質問かもしれませんが,ふと疑問に思ってから気になっています.きっかけは友達と感動モノの映画を見に行ったとき,自分は目頭がグッと熱くなってしまったのですが,友人は「何にも感じなかったよ」と言っていたことです.

あと,親が「最近感動することがなくなってきた」と言っていたのですが,何故「感動する」頻度が減るんでしょうか?単純に「感動」のしすぎで,慣れがきているから?

そもそもカテゴリがここで合っているのかも分かりませんが,詳しい方教えていただけるとありがたいです^^;(回答は医学的なものでも何でも構いません)

A 回答 (4件)

こんにちは。


人によって対象が異なるのは、それは感動というのが「大脳辺縁系の情動反応」であるからです。そして、この情動反応に従う情動行動といいますのは「学習行動」です。
本能行動でありますならばその結果は「全人類に共通」でなければなりません。ですが、学習行動ではひとそれぞれに生後体験が異なりますので、このため、情動反応に伴う感情表出には必ずや個人差というものが反映されます。

生後体験による個人差といいますのは、過去に利益だったか不利益だったかの結果を学習することによって作られます。ですから、我々の好みや感動の対象といいますのは自分の生まれ育った社会や時代、あるいは親や友人の影響などによって様々に異なります。
このためそこには、
そのひとの「個人的価値観」と
その時代の「文化的価値観」
この二つが混ざり合って刷り込まれています。
では、できるだけ多くのひとに感動してもらわなければならない映画や娯楽小説といいますのは、そのひとの個人体験に訴えるのではなく、どうしてもその時代の社会常識や文化的価値観に合わせなければなりません。ですから、みんなが感動したと言っているならば、この場合は映画を見ずに寝ていたか、あるいはそのひとの「文化的価値観」の方を疑う必要があります。とは言いましても、好みといいますのは個人や年齢、性別によって必ず違いますので、ロマンスやアクション、ホラー映画、例えどんな形式であっても答えがひとつというわけにはゆかないですね。

慣れてしまって感動が少なくなるというのは質問者さんの仰る通りだと思います。
大脳辺縁系の情動反応には「報酬反応(利益)」と「嫌悪反応(不利益)」の二種類しかありません。ですから、「喜び」や「期待」「感動」といいますのはみな「報酬反応(利益)」に属します。
では、元は「利益」という単純な判定でしかないのに、この三つの特徴が異なるのは、それは、この結果が実際に外に現れるときには「与えられた状況(条件)」によって身体反応のパターンが変化するからです。そしてこのように、情動行動として表出された身体反応のパターンを喜怒哀楽などに分類したものを我々は「感情」と呼びます。
「喜び」といいますのは実際に報酬が与えられたとき、「期待」といいますのは報酬が予測される場合に発生します。では、感動という感情が生み出されるためには、そこには「新奇体験」、あるいは「以前よりも得をした」といった条件が必要となります。
ですから、
「以前に体験したことがない」
「以前よりも価値が高い」
このような「過去の学習結果との比較」を行わない限り、我々の脳は感動という感情を発生させることはできないわけです。
ところが、大脳辺縁系が一度学習をしてしまいますとそれは新奇刺激ではなくなってしまいますし、利益であることは判定できるのですが、同程度の刺激では以前よりも得をしたと感じることは難しくなります。慣れるというのは誰にとってもこういうことでありまして、もし仮に同じ刺激に対して何度でも感動や快感を繰り返すことができるとしますならば、この場合は「依存症」を疑う必要が出てきます。
また、学習を積み重ねますと「予測能力」というものが高くなりますので、試してみなくとも結果が事前に予測できてしまいます。結果を先に予測してしまっては感動はできませんよね。そして、この予測によって「どうせそんなものだ」と決め付けてしまうことを「頭が固くなる」といいます。

年齢を経て経験を重ねますと、世の中に新奇で珍しいものがだんだん少なくなってゆきますし、以前よりも得をするということも中々ありません。ですから、結局より高い感動を味わおうとするならば、それはそのひとの人生体験を上回るものでなければないということになってしまいます。
このような情動行動といいますのは大脳辺縁系の情動体験に従うものですが、これに対しまして、「結果を予測する理性行動」といいますのは大脳皮質の学習結果によるものです。そして、この大脳皮質の発達と生後学習の積み重ねといいますのは必然的に情動行動に対する「理性行動の比率」を高くします。このため、感情の起伏といいますのは誰でも必ず子供のときより小さくなります。ですから、子供がみな純粋なのは、それは情動行動の比率の方が高いからなんですね。
そして高齢になりますと、若い頃の感受性もしだいに損なわれます。大脳皮質の発達は二十歳までで止まりますが、生後学習といいますのは生涯に渡って続きます。当然、二十歳の若者よりも三十代の方が落ち着いていますよね。まあ、みんなこうやって理性的な大人になるのですから仕方がないです。
子供の頃は新しいおもちゃを買ってもらうだけで大喜びしていましたが、今は「ああ、宝くじでも当たってくれないかな……」、何かむなしいですね。

あとひとつ付け加えておきますと、人間は人生経験を高めますと理解できる事柄が広がりますので、これに対しましては感動の深さは逆に増してくると思います。お年寄りが涙もろいのは、私はこのためではないかと考えています。
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この回答へのお礼

専門的な知識を交えた回答,ありがとうございましたm(_ _)m

素人な自分ですが,分かりやすく説明していただいたおかげで,知識的な面での質問内容のわだかまりは解けた気がします.

自分はテレビゲーム(RPG)やSF小説を読むのが好きで,20歳を越えた今でも趣味の一部だったりするのですが,その理由が少しわかった気がします.無意識(かどうかは分かりませんが…)に,日常生活では遭遇しえないような体験(教えていただいた表現では「新奇体験」)を求めていたのかもしれませんねぇ.

この先生きていく上でも,「感動する」ことのできる人間になりたいなぁ…なんて思います.

お礼日時:2009/02/26 01:04

こんにちは、iruka0913さん。



●人によって「感動する」ものが違うのは何故なんでしょうか?



ほんと、何でなんでしょうね?

わたしもよくわかんないやー。

まえにね、喫茶店に入り一人でお茶してたときのことなんだけど

お店の人が注文をききに、そこでコーヒーをひとつ注文したわ。店の中ではポコゴボっと音が、サイフォンからコーヒーのいい香りが沸き立つ。そうかとおもえば、新聞をめくる音がカサッ、ガサゴトと何処かの席から聴こえてくる。そうしてる間にお店の人がコーヒーをテーブルへ運んできてくれた。コーヒーカップを置いた後、テーブルの端に伝票を裏返しそっと置いて店の奥ヘ戻っていったの。置かれた伝票に目をやれば、鉛筆で書かれた手書きの文字…「毎度ありがとうございます。」と、言葉が添えられてあったわ。なんでもない言葉なんの。でもね、そのときは、なんだかしれないけど胸がぼわっとあったかくなって涙がとめどなく溢れてきたの。ちょうどその頃、いろんなことでキュウキュウに行き詰まってて息つく暇もなかったからかな。ひと息つきにぷらっと入ったお店で深呼吸。ひと息ついたら、行き詰まってたあれやこれやも一段落。また、なんてことはない日常に戻ってる。で、それからも何度かそのお店には行くのだけれど、「毎度ありがとうございます。」と言葉の添えられた伝票を目にしても、あの日目にしたときのようにこころ動かされることはいまのところないのよね。

思うんだ、一人の人によってもその人を取り巻く環境っていつもいつも同じじゃないじゃない、それによってもこころの動きって一定じゃない。体調のよいときにご飯たべて美味しいと思えてても風邪引いてご飯食べたときに味気なく思えたりと、環境と条件がちがえば感じ方も変わってくるんじゃないのかな?


●何故「感動する」頻度が減るんでしょうか?単純に「感動」のしすぎで,慣れがきているから?

頻度が減るとか慣れとかではないと思う。
わたくしごとでいうなら、あの日あの時目にした言葉に涙したのは、あの頃どこかでわたしが欲していたものだったのかもしれない。あの日わたしが欲していたのは癒し、安らぎ。言葉に意味をもたせ、そのようであって欲しいときっとそのとき願ったのよね、きっと。ほんのひととき夢を見た。夢で癒され、現実に戻り、そして、日常の暮らしにちょっとづつ折り合いをつけ、そうしてる間に行き詰まってたコトやモノにもまた新たな道が見えてきてきたりと。日々情況は変わってる。こころの向きが内へ向いているか外へ向いているかでも違ってくるんじゃないかな?
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この回答へのお礼

回答&貴重な体験談を書いていただいてありがとうございましたm(_ _)m

その時の心の状態や周りの環境によっても「感動する」ことの有無や度合いが変わってくるのですね.とても良いエピソードを教えていただいてありがとうございました!

お礼日時:2009/02/26 00:57

発見の喜びではないでしょうか。

発見というのは実は前もって何かを期待していないとできないことのようです。このことは発明でも同じでしょうが、生活に変化がないというのは別の新しいものを必要としていないということだと思います。映画を見た時の感動については貴方はその映画に何かを期待していたが友人は何も期待していなかったということではないでしょうか。期待できるというのは大切な能力だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございましたm(_ _)m

確かに今の生活が「新しいもの」に満ち溢れているか,と言われると,堂々とYESとは言えないですね….なんだか悲しいですが^^;

見た映画に「期待をしていた」ということは,「感動したい」と思ってたってことなんでしょうか?

お礼日時:2009/02/26 01:07

理由はいろいろあると思います。

感動は、どんな時にしますか?それを考えると答えが出るかも。映画の時の感動のポイントのちがいは・・あなたは映画の中に入り込んでいて自分のことのように感じたかもしれないけど、友達はちょっと引いてみていたかもしれない。
あなたが、感受性が強いのかもしれない。
自分の関心のある分野かどうか?という部分での違いかもしれない。
また、実際自分が経験して感動する場合は、例えばできなかったことを努力してできるようになったり、苦労して達成できた時に感動を味わえると思うのです。他人の苦労の末達成したような内容の話を聞いて感動するのは、自分がしてきたことや自分を重ねて考えるからじゃないでしょうか??ご両親が感動することがなくなってきた。とおっしゃったのは、毎日繰り返される日常に変化がないという意味じゃないのかな~と思いますが。。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございましたm(_ _)m

感受性が強い…かどうかは自分ではちょっと分からないですね^^;でも,確かに見た映画は自分に全然関係ない内容なようで,よく考えてみると少しだけ自分に被った部分があったかもしれません.

毎日繰り返される毎日に変化がない.なんだか悲しいことのような気もしますが,それが社会人になると普通になってしまうんでしょうか….自分はあまりそうはなりたくないですね^^;

お礼日時:2009/02/26 01:10

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