アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

私も回答したこのカテでのある質問が削除され、以下のようなメール連絡を受け取りました。

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質疑内容を確認させていただきましたところ、意見表明(意見募集)や議論などを目的とした投稿のようでございましたので、…
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「意見や議論」を含まない哲学質疑など見たこともありませんし、通報されたら削除しとくのが無難だろうとしか考えられない担当者の存在が改めて浮き彫りになりました。
『意見や議論』なしに哲学カテでの質疑ができるはずは無いので、こんな理由で削除するなら哲学カテが存在する意味がないでしょう。
以上は意見の表明ではなく質問のための前提状況を示したものです。(念のため)

【質問】
上記のように、現実社会においても、治安の維持や波風が立たないことを目的として過剰な管理が様々な集合体で行われることがしばしばあります。
管理側の立場が全くわからないわけではないのですが、管理行為が(結果として)過剰である場合、人間の内面を不必要に萎縮させてしまう場合も多いように思われます。

集合体として人間が暮らしている以上、今のところ多かれ少なかれ「管理」の必要性はあるわけでしょう。
しかし、仮に管理不要の社会を目指すとすれば、個人の立場としてはどのような姿勢が求められることになるでしょうか。
 

A 回答 (71件中1~10件)

>「自分も生き残れる程度に(自分が認識したものを)他者と共有しよう」という意志というか意思というのか、こういったものが醸成されることになる論理というか契機といったようなもの



ここから先は、深いのではないでしょうか。
でいきなりですが、突き詰めると、誰を守り、誰を殺すかに突き当たります。
家族、子供を殺され、自分も殺されようとしているとき、
相手を殺さずにいられるかということです。究極の排他。
これが、戦争論、徴兵制、自殺、死刑廃止存続論、移民難民問題とも深く関係します。

自分が生きるとは他を殺すこと?どこまでなら許容される。
自国民?親族?親?子供?
(そういった意味でドイツ法の良心的兵役拒否権は特異的ですよね。)

その判断がどこまでかは重要ではなくて、だからこそ、必要なのは、つきなみですが感性、思考力、知力、そして、注意深さ、俊敏さでだと思うんですね。個人としては、自分の排他性を常に監視し、改め、行動に反映していくということになるんですが・・
あとは、我々は、既に多くの失敗を繰り返してきた訳で、二度と失敗を繰り返さないという
視点ですね。今の行動が将来の失敗にならないように注意深く行動すると言うことです。

そういう意味で今の北朝鮮の行動に対する対策はおかしいでしょう。
ミサイルを撃とうとしている国に、防衛体制を取るのは当たり前としても
もし、日本船舶に被害が出たら、青森県内に着弾したら、直ちにどうするのか
なぜ、想定しておかないんでしょうかね。発表しないだけなんでしょうか?
事が起こってから検討するんでしょうかね?散発的なテロ対策とは違いますからね。
誰をどんな風に守ろうとしているか、どんな場合なら殺して良いとするのかです。

まぁ、それはそれとして、ここで他者を社会にしてしまいますが、こう思うんですね。
社会は、各個人の行動の総体なのですが、ある特定の個人の行動は、その社会を変えると同時にその個人も変化させているというダイナミズムがあると言うことです。

「みんなの社会」なんて言い方は、ちょっと違っていて、みんなに共通する社会など単独ではどこにも存在しておらず、各個人の中にこそ、それぞれの社会が存在しているということです。
麻生太郎の社会、振り込め詐欺師が見る社会、ホームレスの人が見る社会は、同じものを差していても全く異なっていると言うことです。いずれも同じ社会なのに、全く異なる色をしています。

繰り返しますが、社会は、各個人の中にあって、個人の行動はそれを変化させ、個人が変化すると言うことで、共有しようとする行動こそが、その社会を変えてしまうということです。
それは、その影響が認識される範囲で全体のダイナミズムの敏感さが鋭く追随します。

右か左かの選択の選択肢にとらわれて過ぎるのではなくて、
過去の多くの失敗から、ものごとが起こる前に想定し、事を防止し、起こった後
も俊敏に動くことです。

とりとめのない話になりましたけど、そうすることにより、失敗を経験しつつも、
血塗られた過去を繰り返してはいけないという方向を見失わなければ、ゆっくりとでも
全体が変わり、ここで言われる管理の必要性が薄くなってゆくように思います。

PS
ここは議論完全禁止ではないと思いますよ。

前提としてここは質問と回答の形式で会員の方同士の助け合いによる情報交換です。
規定によれば、
質問について  議論喚起を目的として議題を掲げる質問をしてはならない。
回答について  回答者同士のやりとりや議論を回答してはならない。
回答について  質問に対する回答として成立しない内容を回答してはならない。

補足欄、お礼欄での議論についての規定がされてませんし、質問者から回答者への反論が禁止されているとは読めません。
したがって、議論していけないのは質問者ではなくて、回答者ということなのですが、
ポイントは「議論を回答してはならない。」です。
議論(考えを述べて論じあうこと。)を回答してはならないのですから、
回答者側から、質問者に補足要求でない逆質問したり、質問者からの回答を待つような
記載をしてはならないということでしょう。

質問には必ず論点があって、いくつかの説から答えを探る場合、議論をしなかったら
質問者がこのサイトから得るべき答えはでません。
回答を得るための論理的探索が許容されていなければこのサイトの趣旨に反することに
なるでしょう。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

#7で、
>人間には、目に見えたもの、自分が認識したものを自分のものにしたいという非常に強い基本的欲求があります。そこには、必然的に排他性があります。
:とおっしゃっておられますよね。
素人としては、こちらのほうの排他性は良くわかったような気がしたのですが、
>家族、子供を殺され、自分も殺されようとしているとき、
相手を殺さずにいられるかということです。究極の排他。
:ですか。
前者と後者の違いは、排他に正当性があるか否かということになるでしょうか。
そして、その正当性に対する認識がどのようなものであるか、ということによって排他の適用される範囲も変化してくる・・・。

>個人としては、自分の排他性を常に監視し、改め、行動に反映していく
:のが実際的手法になる、ということになるわけですね。
今自分が選択しようとしている言動が排他であるのかどうか。
そうであるとするならば、その排他は本当に必要なことであるのかどうか。
と問い続けるということにもなるでしょうか。
そうすると、#7でおっしゃっていた、
>人間には、目に見えたもの、自分が認識したものを自分のものにしたいという非常に強い基本的欲求があり、
>そこには、必然的に排他性が
:ある、ということを、『私の属性として』認識することがむしろ必要になるのかもしれませんね。
さらに具体性を持たせるには何が必要になるのか・・・。

>あとは、我々は、既に多くの失敗を繰り返してきた訳で、二度と失敗を繰り返さないという
視点ですね。今の行動が将来の失敗にならないように注意深く行動すると言うことです。
:こちらのほうは難しいですねえ。
失敗しようとしてする場合は少ないでしょうから、失敗の要素があるはずですし、しかも殆どは無意識領域にその要因はあるように思われるからです。
場合によりけりですが、注意深く行動することによって逆に招来してしまうといったようなことも往々にしてありますしね。

>もし、日本船舶に被害が出たら、青森県内に着弾したら、直ちにどうするのか
:全くですよね。
一定の高度以下に侵入すれば迎撃できるという自信があるのでしょう。

>社会は、各個人の行動の総体なのですが、ある特定の個人の行動は、その社会を変えると社会は、各個人の行動の総体なのですが、ある特定の個人の行動は、その社会を変えると同時にその個人も変化させているというダイナミズムがあると言うことです。ダイナミズムがあると言うことです。
:なるほど。
「>同時にその個人も変化させている」という視点には気付きませんでした。

補足日時:2009/03/16 02:21
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この回答へのお礼

(つづき)
>社会は、各個人の中にあって、個人の行動はそれを変化させ、
:ただ、おそらく、
>個人が変化すると言うことで、共有しようとする行動
:を現実のものとすることがなかなか難しく、
>その社会を変えてしまう
:までにはなかなか至らなかったり、時間がかかったりするのかもしれませんね。

>過去の多くの失敗から、ものごとが起こる前に想定し、事を防止し、起こった後
も俊敏に動くことです。
:そうですね。
ただ、難しいなと思うのですが、たとえば今日の相撲で朝青龍が突き飛ばした相手が砂被りにいた審判に当たって、その審判はひっくり返ってしまったんですよ。
素人の人でもあのへんには座っていますから、もし老人とかか弱い女性なんかに当たって大怪我したり、死亡したりする可能性も全く無いとは言えないと思います。
この場合、「起こる前に想定できなかった」ということになるわけですが、そうすると、現時点においては柵を設けるとか何かの対策が必要になるでしょう。
しかし、無粋なこととして、仮に提案してもおそらく受け付けてはもらえないと思います。
何かが起きる前にどこまで想定するのか、ということと合わせて、想定したことが将来的に起きる確率と現在の既得権益とも言える何らかの益とを天秤にかけることになります。
どこまでが許容範囲と言えるのでしょうね。
>全体のダイナミズム
:も個人の集積結果なのでしょうし、難しいですね。

とりあえず、「>自分の排他性を常に監視」するという点が、しっくりきました。
日常の風景に引き寄せつつ、もう少し具体的に掘り下げられるといいが、と感じています。
他の要素も教えていただけるかもしれず、もうしばらく開けながら考えてみます。
お気づきの点がありましたらまたよろしくお願いいたします。
  
 
 

お礼日時:2009/03/16 02:21

 レス受け付けました、正直色々やってきて自分の分からなかった一面や分からなかったことが分かるようになり、大満足です。



>いずれにしても、そろそろ次へ行ってみたいので、
「>まあ、座標がね、あいまいだからね・・・そういう意味ではNO4さんの回答と同義になります。」
この先をひとつ構想しておいていただけると有難いですね。
いずれ新たな質問を立てる予定ですので。
よろしくお願いします。>

 次はもうすこし詳しく書いていただければありがたいです。
 

>まあ、これ以上いろいろ言っても意地もあるでしょうし、あえて反論はしないでおきましょう。>

 これも裏側に「自分は(hakobuluさんは)間違えていないんだ」という裏付けをしたいという願望がチラホラ見えます、まあそんなことは僕は気にしない方なので、やたら誹謗されない限り、追求はしないのがやはり寛容なのかなと思う側面もあるところです。


>>「>発生はするでしょうね。>・・・・あー!かいわくねー!、『本当ですねパラドックス発生する可能性ありますね、教えてくれてありがとうございます。』位書いてもいいんじゃないの?・・・>発生しそうなので質問したわけです。>嘘つけ!それが動機じゃねーだろ!」と言いたくなってくる虫唾が走りましたが、今までの説明をわかって頂けたのでよかったと思っています。
:結局、こういった感覚が他者との間にすれ違いを起こすということなんですよ。>

 というのはご自身は曲がりなりに理解されたということですね。その点に関しては反論してよかったかなと思います。


>あの流れにおいては、
「>パラドックスが発生しないようがんばってくださいね」
という表現は皮肉以外のなにものでもありませんよね?>

「なんとおっしゃる うさぎさん。はなっから無礼者扱いしてくる人に対して、「パラドックスが発生しないようがんばってくださいね」と返しているんですよ?なんと、寛容な表現ではないですか。」と返しておきましょう。


>そういうつもりじゃなかった、とおっしゃるかもしれませんが、そう取られるのが普通なのです。>

 でしょうね、そう思って書きました。


>ただ、自分の発した皮肉に対して「お礼ぐらい言ってもいいんじゃないの」と堂々と書いてくる、この感覚はいかがなものかと思いますよ。
ゆっくりお考えになってみてください。>

 確かに『皮肉』に対してお礼を書きに難いというのは分ります。


>>「嘘つけ!それが動機じゃねーだろ!」と言いたくなってくる
:というのは、「パラドックスの発生」はご自分の着目だと感心して欲しかったからなのでしょうね。>

 着目しましたからね。


>ただ、ちゃんと質問を読んでいらっしゃればおわかりになるはずですが、この質問内容がパラドックスを内包したものであることはすでに明記されています。>

 まあこの辺も意地なんでしょうが・・・聞きましょう。


>下記 a, b, の部分です。a.『管理行為が(結果として)過剰である場合、人間の内面を不必要に萎縮させてしまう場合も多いように思われます。』b.『集合体として人間が暮らしている以上、今のところ多かれ少なかれ「管理」の必要性はあるわけでしょう。』
つまり、
管理には「a 同時に b」というパラドックス性が存在しますから、それに伴なう種々のパラドックスも当然浮上してくるでしょう。
>「しかし、仮に管理不要の社会を目指すとすれば、個人の立場としてはどのような姿勢が求められることになるでしょうか。」
という質問内容なわけです。>

 ですから、ここの>仮に管理不要の社会を目指すとすれば>というのが曖昧なんですよ


>パラドックスの存在を前提にしていることは一目瞭然でしょう。>

 パラドックスの存在を前提にしているかどうかは吟味の余地がありますが、パラドックスを説明したかった訳ではなく、まあそういうのも示唆したかったんですが、「不条理でない欲や不条理でない管理」という座標が曖昧なので、それと連動する主体もまた曖昧になるということが言いたかった訳です。


>「譲って欲しい」とTENNTENNSEVENOKさんが頼まれた場合を想像してみてください。
相手が、
「私が先頭な理由わかりましたか?みなが暇でも私は暇ではないんです」
と言ったらどう感じますか?>

あんまり良い気分ではないですね
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この回答へのお礼

回答受け付けました。(←気分いい?ついでだから考えてみてください。まあ、この流れの中では愛嬌と受け止めておきますが、本気で正しい表現と思ってるのなら改めたほうがいいでしょうね。)

>正直色々やってきて自分の分からなかった一面や分からなかったことが分かるようになり、大満足です。
:こういう素直な面もあるのに・・・。

>「私が先頭な理由わかりましたか?みなが暇でも私は暇ではないんです」
と言ったらどう感じますか?>

あんまり良い気分ではないですね
:そうですよね。
つまり、相手の「めでたし、めでたし」も考慮しないと管理は無くならないということになります。
 

お礼日時:2009/03/30 16:07

「管理不用の社会を目指すには」の命題を汎神論を用いて(?)私なりに要約します。



運営し直接的な利益を得ているのは管理側です。しかし非管理側は何ら金銭の利益は得ていません。ただ参加の意義を感じて人それぞれ報われたり、有意義を感じているだけですね。

報われるべきとする考え方から押し出された末の見返りを求めている行為は悪意なのであり、善意は利益についての計算がありません。あったとしてもネットで目立てるぐらいしか報酬の支払いはなされません。

みんなボランティアで善意で質問したり回答して参加しているとしかいいようがないです。

全て見返りを求めてない善意。そう思う。とはいっても、禁止条項を新たに増やして窮屈にしていくよりは、参加しやすいままで、明確なメリットがあるシステムだと有意義な参加が増すと思います。

私が質問を立てたとき悩むのがポイントのつけ方なんです。沢山意見を聞けて参考になったのに、二名にしかあげられないのに不満もありますし、ここの良回答ポイントを質問者が任意につけられるようにしてくれてたらなぁって、お礼で気持ちは伝えようとしましたけどね。この回答には100ポイントとか、心づけで5ポイントとか。

ポイントを使って買い物が出来たり、マイレージを貯めれたり、学術研究費や自殺遺児の教育費に当てられるようにするとか、引きこもりやホームレスの人達の自立支援活動の資金等にも回せたらいいかもしれませんよ。

今の愚民化政策では日本の未来は狭められてしまう。改革は民間と民意を底上げすることで起ります。日本は官民共に自由があるとするなら、純粋な善意が間接的にでも形となって民間にも行き届くといいなと思って。

無料だしと一方的にメディアマスコミの情報(操作)提供に満足しておれる人ばかりならいいのですが、個人が自由に情報を取り出せたり、双方間で情報のやり取りが出来るネットでは互いが求めたり助け与え合える関係になるのが理想だと思います。

これはあくまで参考意見です。
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この回答へのお礼

参考意見ありがとうございます。
なかなか興味深い発案です。
担当者の方が見てくれてるといいですね。^^;
 

お礼日時:2009/03/29 21:49

>>>「暇とはいえ、時間は貴重なものだ。

それを譲ってくれる気持ちになってくれるとはありがたい!」
こう思ってこそ成立する関係だろうと思いますけどね。
逆の場合はどう?>>

という議題に対して

>逆なら自分と他者(並んでいる人)との間に不条理が発生します。>

と自分勝手に答えてしまいましたが、なにが逆なんでしょうか?
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この回答へのお礼

「譲って欲しい」とTENNTENNSEVENOKさんが頼まれた場合を想像してみてください。
相手が、
「私が先頭な理由わかりましたか?みなが暇でも私は暇ではないんです」
と言ったらどう感じますか?
ということです。

お礼日時:2009/03/29 11:14

 レスを読みましたが「なんともはや」という気分なので、そういう性分だと思って退散しますが、やはりご自分は自分の行為は正当で、それに不快を感じるとこちらが悪いという形へもっていこうとするのですね、すばらしき確証性バイアス。



 あの~いまさらといっていはなんですが、やはり「分からない人だな~ご自身も」と書いた段階ではやはりなぜ自分がそう思ったのかというのはぼやけていてあやふやであると感じました、ご自身がそこまで言うのなら吟味してみようと思ったのですが、今思うと「弾み」というのがピッタリくる感覚です、なので必ずしも「>いずれにせよ、「分からない人だなあ」「わかりましたか?」「はあ?」という、明らかに失礼な表現を喚起するだけの根拠にはなり得ないと思いますよ。>」ということには必ずしもならないのではないでしょうか?。
 書きましたが混合しているものは、やはり混合であり、排他でもないような気がしてきました、わからない人に「これでどうだ!」という気持ちで書いたので、やはりわからない人に対する排他というのは多少違うような気がします、「>排他したいと思うならばもっと違う返信になると思いますが、どう思われますか?>」というのをそのままお返しします。


>>言われっぱなしでは気分が悪いので言い返します
:気持ちはわかります。>

 「気持ちがわかるんですね、気持ちがわかっているからって免責されるとでも思っているんですか?いずれにせよ、自ら墓穴を掘っているようなものだということは理解されたほうが良いでしょう。」
 とまあ、ご自身が私ならそう言っていると思います。


>・・・何が不満なのかよくわかりませんね。>

 「よくわかりませんね。」とごまかして、自分の不正に目を向けさせないように逸らそうとする。すばらしい戦法ですよご自分は、大いに参考にさせていただきましょう。


>しかし、この#29におけるご自分の発言(及び、その意図を振り返ってみれば)何様?と言われるほど失礼な言葉でしょうかね?>

  >>>「ぱっ」と見て「カッ!」と来るような物言いが存在することは事実だと思いませんか?それに当てはまることを言ったと肯定したのなら、それを認めて、それで終わり。あとは自分自身の問題ですからね。へ理屈で反論していると、自分の内面の問題として捉えることがおろそかになり、損です。>>>

「>「ぱっ」と見て「カッ!>」と来るような」の部分を「何様と思われるような」と修正して、そのままお返ししておきましょう。


>これを失礼と感じたのであれば、それはおそらくご自分の(失礼なことを述べているという)気持ちの投影である可能性が高いとは思いませんか?>

 思います。高いかどうかは分かりかねますが可能性があるから、その時点ではケチはつけていません。あくまで、ご自身はどうなのか?という意味での材料にすぎません。


>・・・降りかかる火の粉は払わなければならない。>

「これが良い例です」と書いても反論してきそうですが、書かずにはおれません。
 つまり今回のご自身が不条理と感じた削除もここのQ&Aサイトの管理からしてもらえば火の粉そのものたっだのでしょう。


>>凄いですね~、『両者とも』と私は言っているのに完全無視ですか?
:この間、車をぶつけられたんですよ。
安い車ですがボンネットが少し凹んで、それでも治すのに10万近くかかりました。
部品って高いもんですね。
修理代は全て相手が支払いました。
なぜかというと、私の車は停車中だったからです。
「そんなところに止まっているほうが悪い。両者とも悪いのだから修理代は折半だ」
そんなことは言わなかったけどなあ。>

 これが次元があやふやなら、やはり言い合いがあると思いますよ


>> ですから、それが難しいといういことです、わかりますか?
:難しいということはわかってます。
ですから質問したわけです。
わかりますか?>

>>>「私にとってもあなたにとっても不条理でない欲、不条理でない管理ルールとはなにか?」というのを主観からアプローチした回答をだすのが難しく感じるのはそのような理由からです、という意味です、お分かりになられましたでしょうか?
:ということには必ずしもならない、と思いますけどね。>>

 と書いておいて、>難しいということはわかってます。>というこの言い方!なんなんでしょうかね?かわいくないなー
 まあ捉え方によっては、かわいいもんですが、今まで散々言われましたからね、突っ込み入れてもバチは当たらないでしょう。


>>「暇とはいえ、時間は貴重なものだ。それを譲ってくれる気持ちになってくれるとはありがたい!」
こう思ってこそ成立する関係だろうと思いますけどね。
逆の場合はどう?>

 逆なら自分と他者(並んでいる人)との間に不条理が発生します。


>>パラドックスが発生しないようがんばってくださいね
:発生はするでしょうね。
発生しそうなので質問したわけです。>

「>発生はするでしょうね。>・・・・あー!かいわくねー!、『本当ですねパラドックス発生する可能性ありますね、教えてくれてありがとうございます。』位書いてもいいんじゃないの?・・・>発生しそうなので質問したわけです。>嘘つけ!それが動機じゃねーだろ!」と言いたくなってくる虫唾が走りましたが、今までの説明をわかって頂けたのでよかったと思っています。


>> いや~x君は「自分にとって不条理だ」といっています。「排他性が究極の原因」・・・・いや~疑問だ・・・これが基底値か?とTENNTENNSEVENは疑問を感じた、しかしhakobuluさんはそうだと思い込んでいる
:他の要因があるならそれを聞きたいと思ってます。>

 例えば、病院

>それに、「個人の立場としてはどのような姿勢が求められることになるでしょうか。」
が質問の骨子ですから、その線で回答していただけると有難いですね。>

 まあ、座標がね、あいまいだからね・・・そういう意味ではNO4さんの回答と同義になります。

この回答への補足

いずれにしても、そろそろ次へ行ってみたいので、
 「>まあ、座標がね、あいまいだからね・・・そういう意味ではNO4さんの回答と同義になります。」
この先をひとつ構想しておいていただけると有難いですね。
いずれ新たな質問を立てる予定ですので。
よろしくお願いします。
 

補足日時:2009/03/29 12:21
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

まあ、これ以上いろいろ言っても意地もあるでしょうし、あえて反論はしないでおきましょう。

ひとつだけ述べておきますね。
>「>発生はするでしょうね。>・・・・あー!かいわくねー!、『本当ですねパラドックス発生する可能性ありますね、教えてくれてありがとうございます。』位書いてもいいんじゃないの?・・・>発生しそうなので質問したわけです。>嘘つけ!それが動機じゃねーだろ!」と言いたくなってくる虫唾が走りましたが、今までの説明をわかって頂けたのでよかったと思っています。
:結局、こういった感覚が他者との間にすれ違いを起こすということなんですよ。
あの流れにおいては、
「>パラドックスが発生しないようがんばってくださいね」
という表現は皮肉以外のなにものでもありませんよね?
そういうつもりじゃなかった、とおっしゃるかもしれませんが、そう取られるのが普通なのです。

この程度の皮肉自体は愛嬌の範疇に納まりますから別にいいんですけどね。
ただ、自分の発した皮肉に対して「お礼ぐらい言ってもいいんじゃないの」と堂々と書いてくる、この感覚はいかがなものかと思いますよ。
ゆっくりお考えになってみてください。

>「嘘つけ!それが動機じゃねーだろ!」と言いたくなってくる
:というのは、「パラドックスの発生」はご自分の着目だと感心して欲しかったからなのでしょうね。
ただ、ちゃんと質問を読んでいらっしゃればおわかりになるはずですが、この質問内容がパラドックスを内包したものであることはすでに明記されています。下記 a, b, の部分です。
a.
『管理行為が(結果として)過剰である場合、人間の内面を不必要に萎縮させてしまう場合も多いように思われます。』
b.
『集合体として人間が暮らしている以上、今のところ多かれ少なかれ「管理」の必要性はあるわけでしょう。』

つまり、
管理には「a 同時に b」というパラドックス性が存在しますから、それに伴なう種々のパラドックスも当然浮上してくるでしょう。
「しかし、仮に管理不要の社会を目指すとすれば、個人の立場としてはどのような姿勢が求められることになるでしょうか。」
という質問内容なわけです。
パラドックスの存在を前提にしていることは一目瞭然でしょう。
 

お礼日時:2009/03/29 12:21

すいません、訂正があります。


エチカ=倫理学でした。
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この回答へのお礼

わかりました。
 

お礼日時:2009/03/28 23:03

hakobuluさん返礼大変かもしれませんが、返礼ありがとうございます。

何度も確認に来てしまい思いついたこと書きこんでしまいます。

>>「敵の成功は汝の成功でもある」
:敵とは何か、ということもありますね。

汎神論のスピノザを参考にした、勝手な解説です。
味方を善の一致(完全)、敵を善の不一致(不完全)と定義するとします。
しかし、完全、不完全は物事そのものに宿る性質ではなく、もともと同じ様態(神は無限にして永遠だから、その神の要素も全て神の一部の様態である)に過ぎず、起成原因の本性は必然性から出て、必然的に生じる。ので、味方にも敵にも疚しさとは無縁で(エチカ第4部定理73の備考を参照)

必然性には以前も以後もない。全ての物事は必然であると知る時感情は消えうせないまでも受動であることを止める(定理3)

自分の感情を説明できている分もう他人を許している。これはスピノザが「ゲネロジタス(寛仁)」と呼ぶ許しですが、論理学であるエチカになぜ批判や否定、定言命法がないかというと、論理が自己肯定に徹底していて、

おのおのの人間が自己に有益なるものを最も多く求めるときに、人間は相互に最も有益である(第4部定理35の系2)

味方も敵も自己利益、自己肯定に徹しているなら同じ属性の様態として本性上の一致(コンヴェニエンチア)しているのある(第4部定理31)

神はこういうカップリングだらけであって(笑)人間にとって最も有益なのは人間で、人間本性に役立つことしかしょうがないのだという(第4部定理の証明)

でも、障害が重複したヘレンケラーのように、役に立たないどころか面倒な人間も平然と存在しますし、完全に排除は出来ません。殺人犯など罪を与えて構わない、と思い込ませる人も要る。そういう人は敵とみなすべきだろうか?

自己肯定が理性に従って正しく生きていることの証明なら、恥ずかしくて人に隠しておかなければならない疚しさはないものとします。心理学でいう投影は他者を利用して、自分の理性に従えてない疚しさを間接的に発散させ、自分を理解して許そうする欲望の手段でもあることをhakobuluさんもご存知ですよね。そう思えると、それを咎めたり制止する気も失せますね。

「苦悩に負けることは恥ではない。快楽に負けることが恥である。」昔の日本人が質素な暮らしの中で馴染んで守ってきた「恥の文化」はこういう後ろ向きながら前に進もうとした精神(?)による応援歌、励ましなことなのかと思います。

どうしても敵を定義しなければならないなら、スピノザは財や名誉のため登りつめた時から転落が始まるような刹那的快楽であるもの、それは求める前から悪であるという。それが誰にとってもな敵かも。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

スピノザさんを全く知らないので、前半部については難解でした。

>どうしても敵を定義しなければならないなら、スピノザは財や名誉のため登りつめた時から転落が始まるような刹那的快楽であるもの、それは求める前から悪であるという。それが誰にとってもな敵かも。
:ここはなんとか分かったような気がします。^^;
最大の敵は自己である、ということ・・・ですよね。
違うのかな?
もしそれでよければ同感です。
この質問も、まさに、そのあたりに大体の鍵があると想定してのものなわけです。

>心理学でいう投影は他者を利用して、自分の理性に従えてない疚しさを間接的に発散させ、自分を理解して許そうする欲望の手段でもある
:おっしゃるとおりと思います。

>そう思えると、それを咎めたり制止する気も失せますね。
:「>咎めたり制止する」のが必要な場合もあると思いますけどね。
投影は誰しもが行なう作業ですが、コミュニケーションにおける論理的破綻につながる場合は指摘も必要になるでしょう。
つまり、そのほうが話が進むのではないだろうか、という意味ですが。
でも、おっしゃりたいことはわかります。
 

お礼日時:2009/03/28 22:59

 回答番号:No.63


 #56でおっしゃっている、「>自分としての個性性とヴァラエティにありながら、同時に究極存在にある」ことの兼ね合いを探ることは意味がないものでしょうか。人にはどちらも要請されているような気もするのですが
 ★解答欄者:仰せの通りに存じます。
  私たちはどうしても、根源という表現をするなら、そこからきていて、現れ経験していて、やがて何かが終了して、どこかに終息していくのでしょうから、そういうに面性もありますしね。今居ること自体、全てが二面的ですからね。私も仰せのことをどこかで申し上げていたと存じますが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

#56でおっしゃるところの、
>自分としての個性性とヴァラエティにありながら、同時に究極存在にあるということは大事なことではないですか。
:という点と、

#63でおっしゃるところの、
>それ以外のものはその究極を映じている映像、虚なる影です。
:という点の関連性がちょっとわからなかったので、つまり、虚なる影であっても紛れもなく意識に上って来ざるを得ないわけで、虚として片付けてしまうと無理が生じるのではないか、と感じたのが、
『「>自分としての個性性とヴァラエティにありながら、同時に究極存在にある」ことの兼ね合いを探ることは意味がないものでしょうか。』
と述べた理由なのですが、
>今居ること自体、全てが二面的ですからね。
:ということですね。
このあたりに関しては、いずれ改めて教えていただく機会もあるかと思います。
その際も懲りずによろしくお願いいたします。
 
 

お礼日時:2009/03/28 20:21

 回答番号:No.57 で仰せのことに対応申し上げていませんでしたね。



 >自己性の本来究極に対して寂しさを思い、個性とその自己性たる幻想のヴァラエティを魅力と思う間は、まだ決してその自己性離れることができては居ないのです。
:なるほど。しかし、自己性が、「離れるべきものである」という論拠はどこにあるのでしょうか。
 ★自己という意識は、意識されない、つまり意識内容や知覚、ないしは経験内容、そして理論や演繹、或いは意識言葉表現にならない立場であり、主格だということを同意していただけますか?
 そういう同意がいただければ、反対に、意識され、つまり意識内容や知覚、ないしは経験内容、そして理論や演繹、或いは意識言葉表現になる、或いはなっているものって、自己でもないし、主格でもないということに頷いてくださいますか?
 そうならそういう経験されている(尊敬・謙譲の受身表現ではなく、されてくる、あるいは対象たる経験)自己っていうのを自己だとしていることから離れないと、迷妄といえないでしょうか?つまりそれは錯覚、間違いですよ、という事なんですが。

☆ご質問者様:個人的には調和を目指すのが自然な道でないだろうか、という漠然とした思いがあり、このような質問をしたのもそういった考え方が基調にあるからなのだろうと思っています。
★解答欄等後者:調和ということ、そして自然な道(まさか、タオ的隠者の道ではありますまい。)というのを内容化していくことが大事かと存じます。私も、そして自然にしか生きられない多くの、社会的未熟者の感じていることばでもあります。
個人側の痛い経験と訓練そして、修行としての調和と自然の道ばかりではなく、みんなでわっしょいという、みんなの外的条件、環境も大事ですね。

 でもねぇ、そりゃ到達や完遂は大事ですよ。当然目指すのですよ。
 でもどう思います?歴史って。
 どの時代、どの瞬間もそうやって人類と個人ってやってきたのだと思いますが。

 私は結論を先取り(さきどり 先取特権をセンシュトッケンというひとがいてびっくりしましたが)してしまうのはどうかと存じますが、いつも何かの哲学と理念で、自覚の人類、個人は世界と自分に関りあい、生きて、活動してきているのですね。

 そして仮に完遂したら、この世の役割は終わるのですね。
 そういうわけかどうか、いつも一定範囲の活動でしかありえなかったし、完遂は惜しくもたどり着けなかった。
 ということも、時に、感じていますが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>自己という意識は、意識されない、つまり意識内容や知覚、ないしは経験内容、そして理論や演繹、或いは意識言葉表現にならない立場であり、主格だということを同意していただけますか?
:難しいですね。
自分という存在自体は意識も無意識も含まれるでしょうが、自己とは意識できるものと思っていたので・・・。

>自然な道(まさか、タオ的隠者の道ではありますまい。)
:タオとは「宇宙的本源」といったような意味のようですね。
「調和」と言いましたが、これは、「本能的、あるいは自我的欲求」と超自我的欲求の調和を意図しています。

本能が無ければ生を得ることはできません。
しかし、それにも拘わらず、人間は超自我としての善性・理性などとも無縁では生きていけないように生まれついているようです。
そして、本能の壊れた動物としてではありますが、種々の精神的軋轢に苦悶しつつも『何か』を求めつつ生きているとしか言いようがありません。
単なる社会契約とか約束事ではなく、その本質をさぐろうとするとき、タオなるものへ向けて第一歩を踏み出していることになるのかもしれません。
たとえば、管理の構図から入ることで、そのことを身に引き寄せて考えることができるような気もしてないわけではありません。

>個人側の痛い経験と訓練そして、修行としての調和と自然の道ばかりではなく、みんなでわっしょいという、みんなの外的条件、環境も大事ですね。
:納得の仕方の問題なのかもしれませんね。

> そういうわけかどうか、いつも一定範囲の活動でしかありえなかったし、完遂は惜しくもたどり着けなかった。
:完遂ですか・・・。
たどり着いたら神になってしまいませんか。^^;
途上で大いに結構、十分じゃないだろうか、と素人としては感じるのですけどね。
 
 

お礼日時:2009/03/28 20:01

 回答番号:No.59 下に続きがあったのでしたか。

文字がたくさんだとくたびれますので。でも義務は果たさないと。

(つづき)
3、
> 何かを、とりわけ自己の超越は万物の超越、そのものであると存じます。:超越ではなく、変革こそが重要であるという認識なのですが、青いでしょうか。超越というのは、変革の果てに得ることのできる悟りではないでしょうか。変革を素通りした超越があり得るのでしょうか。
★変革は、管理と被管理との関係やその質への働きかけという行為と活動ですね。超越により自己と管理の存在への捉われを出てしまうことを伴わないとそれは果てしなく続くでしょうね。あって悪くはないが。
 超越だけでは自己だけの確立と解決に為り、それでは超越も不十分ですので、当然変革という人生や社会への関わりは不可欠ですよね。
 その他、この<3.>で仰せのことは大賛成です。
 わたしも、本来の自分性を管理と統治で抑圧され、ひん曲げられましたし、そうやって少年、青年、そして壮年を終わり、ついに老年といわれる年齢です。管理と統治をどうするかが私の課題でもあったのです。
 そのための、法学と国家論の勉強であり、十数年に亙る大学労組の書記長としての問いかけだったのです。
 今も地域での皆さんへの思いはそこにあります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>超越により自己と管理の存在への捉われを出てしまうことを伴わないとそれは果てしなく続くでしょうね。
:変革は自己変革という意味で使いました。
自己に全く捉われない、というのは死を意味しますから、超越とは言っても細い糸一本ぐらいでは自己とつながっている必要があるような気はします。
「>果てしなく続く」かもしれませんが、10を目指して7か8ほどに達することができれば「御の字」ということもあるでしょうね。

>超越だけでは自己だけの確立と解決に為り、それでは超越も不十分ですので、当然変革という人生や社会への関わりは不可欠ですよね。
:とおっしゃっている内容はわかります。

 

お礼日時:2009/03/28 16:55
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