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映画「ジーザスクライスト・スーパースター」を観て感じたのですが、このようにユダを主要人物とし、彼の人間味や彼なりのキリストへの愛を好意を持って表現しようとする考え方は現代特有のものなのでしょうか?
最近の文学だと太宰治の「駆け込み訴え」や遠藤周作の「沈黙」「死海のほとり」など、ユダを単なる裏切り者と捉える以上に、作家が彼の立場やその性格などに同情し、「根はいい人なのに(人間的な弱さなどから)裏切らざるをえなかった」とユダを解釈している場合が多いように思います。
このような解釈は、無神論者が増え、キリストの神格性が落ちてきた現代だからこそ出てきたのでしょうか?
それとも新約聖書が出回り始めたころから、この「ユダに対する同情」はあったのでしょうか?
無学者ですみませんがご教示ください。

A 回答 (5件)

>新約聖書が出回り始めたころから、この「ユダに対する同情」はあったのでしょうか?



列聖された聖ユダ ってのがあるんですね。
どうしてユダが崇拝されたかというと、この人が偉業を成し遂げてくれたお陰で、人類から罪が消えたとなったから。

よくぞ神を殺してくれた ありがとーーん ってなわけです。


従って ユダが列聖された理由は「所詮人間だから。わかるよ その弱さ」という同情からじゃない。



現存する最古の新約聖書は4世紀の頃のもの。
それまでにどうにでも工作できる。

あるキリスト教グループは、他の自分たちとは違う解釈をする派閥を迫害し、根絶しようとしたんですね。
他の派閥の書物は燃やすように命令した。
だから、古代にあったとしても、ある勢力が独裁状態になるころには、燃やされてこの世から消されてしまったので現存しないんです。


ところが、その命令が出たとき、その命令を無視し地中に隠した人がいた。
その一つが 20世紀に出てきたユダによる福音書。

何百年も もう無いと安心していたでしょうが、残念。
燃やしてこの世から消したはずの写本が出てくる出てくる。

今まで言われてきたことと違うじゃん!ってなってるわけです。
「自分たちが正しいと思うのなら、それを貫け、 隠蔽工作して燃やさせるな。 
自分たちの思想に自信が無いからもやさせたんだろう。 たとえ偽者と思える書物でも、神のことについて書いてある書物を燃やすとは 絶対に禁止という掟を破った」ってことなのですが、この神への最大の冒涜をやちゃいましたねーー

掟を守った人が地中に隠した。 つまり信仰深かったので燃やさなかった。

最大の背信行為。
つまり燃やす命令をした聖職者は完璧な無神論者だったのでできちゃったわけです。

政治目的で人々を支配し奴隷とするため燃やす命令をしたのなら、無神論者の敏腕政治家。

神など全く信じていないので、神を恐れなかったのでできちゃったわけです。
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自分も、無学者で似たようなもんですが。



自分が聖書読んで感じたのは。

裏切ったと言うより裏切らされたって感じました。
何故なら、キリスト本人が預言したのですから、実現しないとある意味皆さん困るからです。
そう言う意味で、ユダが一番、キリストの事を理解していたのかも知れませんね。
自ら生贄になったのですから。

自分勝手な解釈です。
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 ★ 同情するかどうか


 ☆ が 問題なのではないという 別の視点を 提出したいと思います。その点 ご質問の趣旨からは逸れると思いますが 重要であろうという考えからです。

 けっきょく 十二弟子は 残らず イエスを裏切りました。ペテロを筆頭にして イエスが逮捕されたあと みなが イエスに背きました。背いたのは ユダだけには限りません。

 ただし――ここからは 物語としての問題ですが―― ユダ以外は 全員 イエスないしキリストに その務めを与えられ 使われるようになりました。わたしの羊を飼いなさいという務めです。
 これを ユダは 受けていない。そういう違いがあります。

 この違いをおさえれば じゅうぶんではないでしょうか。どうユダを見るか・どのように あつかうか 上の物語の筋の上でなら 解釈が 可能なのだと考えます。
 そして ちなみに 同情するというとき
 ★ 「根はいい人なのに(人間的な弱さなどから)裏切らざるをえなかった」
 ☆ という解釈は ほかの弟子たちにも 多かれ少なかれ 当てはまるでしょうから ユダだけの問題ではないと言うべきでしょう。
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 私の記憶では、新約聖書のマタイができたのが、イエスの死後約50年後で最後のヨハネが完成するまでは、原始キリスト教の時代だったはずです。

キリスト教の三位一体の概念が確立したのは、第1ニケア会議だったころなので、それ以前は、ユダについての「裏切り者」としての烙印は押されていなかったと思います。確か、ヨハネでは、ユダについて、厳しいことが書かれていますが、マタイあたりでは、そうではなかった記憶があります。
 むしろ、ユダが「裏切り者」とされたのは、中世でしょう。
太宰や遠藤周作のキリスト教理解は、バチカンとはかなりかけ離れています。そのことは、遠藤周作がその著の中で、日本人にあったキリスト教をつくるためと何度も明らかにしています。
 近代になり、「神は死んだ」の言のとおり、キリスト教の勢力は落ちてきました。そのような時代になったからこそ、ユダの捉え方に多様性が出てきたと考えています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
聖書の成り立ちについてはほぼ何も知らないので、ためになります。
中世にユダが「裏切り者」とされたのは、聖書の研究が進んだのではなく、裏切りの代名詞として一般的に使われるようになったということでしょうか?
遠藤周作が「身の丈に合うように」キリスト教を解釈していたのは分かっています。例に挙げた映画と類似点が多かったので、(それに恥ずかしながらこのような主題の他の小説をあまり知らないので)例に出しました。

お礼日時:2009/03/30 16:25

2世紀後半には異端の説ですが、「イエスを裏切ったユダが実はイエス・キリストの弟子の中の他の誰よりも真理を授かっており、裏切りの神秘を達成した」との考えもあったそうです。


なので同情では無いですが、ユダが完全なる悪役では無いという考えはかなり昔からあるようです。

他にもなぜイエスは裏切りがわかっていて避けようとしなかったということから、ユダはイエスを十字架に架けキリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考える神学者も居るようです。
神学者もこのように考えているのですから、キリストの神格性が落ちたからそういうふうに考える人が出てきたわけではないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
2世紀に既にそのような考えはあったのですか。「裏切りの神秘」というのは凄い言葉ですね。
ユダが「神の使わした者」だとすると、彼は金のためでもなく只イエスを裏切るために存在したのでしょうか?そうすると自殺は物語からフェイドアウトするための装置なのでしょうか。.

お礼日時:2009/03/30 16:01

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