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たとえば、言語にたとえると、英語とイタリア語をして、スペイン語もにていて、アジアの言語もしてと・・・とどんどんふえていく可能性は増えていくと思います。拡散で可能であるかのような幻想があり、実際は無理であるおもいます。こういう可能性の判断はどのようにすればいいのでしょうか。この場合、使う言語からという帰納的でない場合、お願いします。或る程度実現してどうなるのでしょうか。

A 回答 (7件)

>>「可能性追求の幻想にとらわれる。


これにはいっぱい諺がありますね。
・・二兎を追うもの一兎もとれず。
・・虻蜂取らず。
などですね。
若いうちはいろいろ興味があってもいいのですが、年を経てみると何も残っていなかったということですね。
例えば、井戸は水が出るまで掘らないと井戸にはなりません。ひとつの井戸を掘れば次の井戸にいけばよいのですが、井戸の水が出る前にあきらめて次から次に掘っているというのが可能性追求の幻想ですね。
決して広く浅くが悪いわけではないのですが、それでは食べていけないという現実的な意味もあるのですね。
生活しながら可能性追求の幻想を持ちたいのならまず職業として一つはまじめにやらないといけませんね。
足場が固まれば、何を追及しようといいですからね。
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この回答へのお礼

確かに対応がかわったりします。それなりに展開もでます。しかし、残りません。違うことをすることになります。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/16 13:50

No.3 です。


もう一度質問者様の悩みを考え直してみました。
>とどんどんふえていく可能性は増えていくと思います。拡散で可能であるかのような幻想があり、実際は無理であるおもいます。
>可能性の判断はどのようにすればいいのでしょうか?
そんなものがナゼ必要なのでしょうか?
挑戦一方でいいのではないでしょうか。
もちろん戦略として何年後までにラテン系3語、アジア系3語とか直近の目標は必須でしょうが。
貴方に必要なのはどこまでも(行けるところまでは)行けるという自信なので、どこかに限度があるのではないか?という不安の幻想はまったく不要、というよりも足を引っ張る以上のものではないということです。
前回はそういいたかったわけです。
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【リテラシー】


http://www.rist.kindai.ac.jp/no.21/kiguchi.pdf
≪一部、抜粋≫
工学の目的は現実の世界で生じる問題を解決す
るためにさまざまな相矛盾する要請を調整するこ
とにある。工学では物理的な要請も一つの要素に
すぎない。科学的な原理的考察も工学的な現実的
な態度も重要であるが, その立場の違いを弁えて
おかなければ, 互いに他方の長所を減殺してしま
うことになる。



「神は死んだ。」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa75125.html
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おはようございます、pkuobe99さん。



スモールaが10コあつまったら、ラージA=1とカウント。

スモールaが10コあつまった時点で、スモールaはその場から消え、ラ―ジAが1つ現れる。

『この人を見よ』
http://www.abysshr.com/mdklg010.html
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世界で「手話」の拡散可能性は英語より高いですよ。

言語が異なっても
聴覚障害があっても60パーセント以上は通じますから。私は日本語すら
よく間違いますが、胃腸は丈夫で、根性はないが若干度胸があります。

なので「日本語の話せる人は居ますか?」という便利な言葉を覚えたら
どこでも行きます。「日本語しか出来ない日本人です」とは、そうであ
ってもいわないのがミソです。上手いも下手も気持ち次第で、少し微笑
むぐらいでも通じるのが人間じゃないですか。存在を表して挨拶するこ
とはコンタクト(連絡)、微笑むことは世界共通のアポイントメント
(約束)です。「判断の中止」ですが、選択や思考の停止ではないと思う。
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この回答へのお礼

判断の中止は選択や思考の中止でないのですね。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/16 13:56

天分に恵まれた方なのですね。

羨ましく思います。
私など英語だけでも実用に程遠い現状をどうするということもなく漫然と日々を過ごしています。
可能性追求が幻想に終わると決められたものではないでしょう。もっとも世界の言語すべてに母国語のごとく通暁することは不可能にしても、世界中どこへ行っても不便を感じないというほどのレベルになるのは、簡単な事ではないにせよ可能なように思えます。要はそのひとの天分と目標設定次第ということではないでしょうか。
どんなに優れた人間にも限界があるのは、寿命があるのと同様に真理だと思いますが、真にすぐれた人間は常に限界に挑戦するものです。この場合、自分で自分を縛る種類の幻想は存在しないといっていいと思います。
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この回答へのお礼

いいものをつくろうとすると挑戦です。自分を縛るというのも幻想です。でも無制限だと目標は設定されないのも事実です。・・

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/16 13:54

 使う言語「日常語」からの帰納は幾らでも可能だと思いますが、話されない言語「心の言葉」は常にひとつしかないと思います。

じっと心に耳を傾ければ、誰もがたったひとつしか持っていない、その人なりの言葉に全てが委ねられるだろうと思います。
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この回答へのお礼

なるほど。

でも自分の場合、周囲が悪い環境の展望を想像し、やる気をだすことがいいことだとなっています。
やる気をだして、とんがると別の方向へ行く。
不安でそこからぬけだせない幻想をもつ。

御回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/05/11 01:36

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