街中で見かけて「グッときた人」の思い出

私とはなんでしょうか?

A 回答 (20件中1~10件)

教科書にこんなのがのってました




物質の塊としての身体、わたしたちはこれを、もっとも具体的な身体として考えるくせになっているようだが、改めてよく考えてみれば、そういう物質体としての「具体的」な身体をわたしたちはきわめて不完全にしか知覚できない。身体の表面についてはその一部しかじかに見ることはできないし、その一部は触れることもできない。身体の内部はこれは、カメラかなんかの媒体を通してデジタル画像としては見ることもできるだろうが、じかにそれを見たり触れたりすることはまったく不可能だろう。いや、もっと怖い事実がある。他人がわたしをわたしとして認めてくれるときのその顔、それをわたしたちは終生、じかに見ることはできない。自分の顔というのは、それに逐一反応する他人の表情を介して、想像ないしは解釈するしかないものである。だから、自分で見ながら制御することのできない顔をむきだしにしておくのは、きわめて無防備なことだ。それを恐れて、わたしたちは、表情を繕い、化粧をし、たえず鏡を覗き込んで自分の顔を微調整する。・・・・

・・・・わたしと身体との関係が、わたしが抱く身体のイメージや観念をとおして、もつれたり、かたよったり、硬直したりするのは、身体がわたしにとっては、知覚される物質体であるよりもむしろ、想像されるひとつの<像>であるからだろう。そしてその<像>としてしか近づけないみずからの身体的な存在が、皮膚で包まれた物質体としての身体をあふれでたり、めり込んだりしているからだろう。
自分がそれであるところの身体が自分から遠くへだてられているということ、身体とのぎくしゃくとした関係のすべてはそういうわたしたちの存在条件に因る。――「各人はそれぞれおのれ自身にもっとも遠い者である」(ニーチェ)


鷲田清一「身体、この遠きもの」より。


ちょっと質問者さんのとは答えがずれているかもしれません;;
でもこれ読んで私結構「たしかに~」っておもいました。
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この回答へのお礼

これが初めての質問でまだ、ここのサイトのやり方がわからないのですが…丁寧なご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/23 20:06

あなたのことです。

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この回答へのお礼

はい♪
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/22 13:32

 こんばんは。



 ★ 私とは
 ☆ と もし あなたが名乗ったのなら それは あなたのことです。
 つまり 《〈わたし〉と名乗る存在》のことです。
 (回答が 重なりましたが ご容赦ください)。
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この回答へのお礼

〈わたし〉と名乗る存在ですか・・
オームが、わたし、わたしって口真似するのとは違いますよね。
その存在は〈わたし〉と名乗って何を意味しているのでしょう・・
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/22 13:30

私とは、あなたにとってはあなた、私にとっては私のことです。



 もし、私がご質問と同じ問いをしたならば、逆にそれを言われるはずです。自らにとっては、私とは私にほかならず、誰にとってもそれがいえます。

 私とは、単に自己を表す言葉ではありません。各々が自らを呼ぶ言葉です。
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この回答へのお礼

各々が自らを呼ぶ言葉ですか・・
自らってものの正体は何でしょう。。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/22 13:22

あなたとは違うんです。

「私とは」の回答画像5
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この回答へのお礼

客観的にみるとは、その時どういうふうに主観が関わっている状態なんでしょうか・・
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/22 13:17

バーチャルな「私」の内、あなたのベクトルにあったものを指摘されると心地よくなり、


実在する「私」を指摘すると、気分が悪くなってしまうもの。

「実在する私」は、ものさしで、自身のものさしの長さを測るみたいに、計りがたいもの。

「バーチャルな私」は、本当の私とか、真実の私とか、本来の私とか、ありはしないんだけど、あることにしないと生きてゆけないし、話も進まない。
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この回答へのお礼

仮想の私は理想の私を想定しないと生きていけなくて、たいていはそうあろうと努める者で・・実在の私は不可解で両者にはギャップがあるってことでしょうか・・それは、ありますね。。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/06/22 13:13

カオスシュミレーター

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この回答へのお礼

混沌模擬実験装置?
よくわからないことをまねて実験してる装置でしょうか・・
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/22 13:02

 そういう言葉では考えてきませんでした。


 どうしてここにこうしているのだろう。
 なんだこれは、と自分と周りを不思議に思っていました。
 小学校に入る前です。
 
 こういうものに出会いました。 二つの死者存在論。http://blogs.dion.ne.jp/pensiero/archives/355864 …
2006/06/12
 6/10の土曜日、もの研を開催しました。詳細は、もの研のほうで報告するとして、そこで個人的に非常に記憶に残った「死者存在論」の問題を少々。
 社会人類学者の内山田康さんの発表の中で、「死者の存在論」について、非常に面白い話がなされました。その話は南インドでのフィールドワークにもとづくものだったのですが、当地では、死者を特定の墓地に埋葬したり川に流したりするのではなく、「畑に植える」ようにして、畑などの身近な土地に埋葬するそうです。それは単に「家を守ってくれるように」といったご利益的思想でないのは言うまでもなく、「先祖とそばにいたい」という友愛的-共同体的思想ですらない。そうではなく、そもそもその集落では、私の存在は他者と分有されているというか、もともと「私」なるものの境界自体がない「ディヴデュアルな存在様態」(cf. individual=分割された個としての存在様態)として考えられており、しかも、その「存在が分有される他者」には「死者」さえもが当然のように含まれている、というのです。
さらにその話の中では、そうした死者と生者が一つの地続きの質量的世界を生きる〈分有的〉存在論とはまた別の死者との「実存協同」(@田辺)のあり方として、昼は生者の世界を生き、夜は死者の世界を生き、そもそも生きている者がどっちの世界を生きているのかよく分からなくなっているような、〈シャーマン的-二世界論的〉存在論も存在することさえ述べられていた。まるで、『荘子』の胡蝶の夢(夢で胡蝶となったのか、荘子である今が夢なのかという、夢現の等価な二世界論)を思わせる、彼我の世界の軽やかな交感。しかもこの場合、夜の世界=死者の世界でもきっちり労働をしたり、家さえあるらしい。だから、いわば24時間活動しっぱなし。(以下省略)

 私はここで驚かれている胡蝶の荘子や南インドの方と同じ思いの中におります。でも夜がどうだとか、24時間活動しっぱなしという観念は全く有りません。
 私っていないのです。ある意識の結果なんです。

この回答への補足

たいへん貴重なご回答をありがとうございました。
「私がいない」という言葉には興味を持ちました。

私は哲学にシロウトで高い文脈も持ち合わせておりませんが、
こんなふうに考えてきました・・
http://whiteo.seesaa.net/

みなさんのいろいろなご回答をいただきたいと思っています。

補足日時:2009/05/25 02:02
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「私」とは、名前です。


同じ名前の人っていますよね。

そこに「あなた」という名前の人が登場すると
名前が違うから他者として区別できます。
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この回答へのお礼

「私」とは名前ですか・・
そっか!名前がなければ私が無いのか。。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/06/22 12:59

もう少し具体的な内容をご提示ください。

この回答への補足

例えば・・私とはこの個性化された常に今の主体である。
というのはどう思われますか?
参考http://whiteo.seesaa.net/#72

補足日時:2009/05/25 01:40
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