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自己責任だと言ってその人を応援しない人がいますが、これは矛盾していませんか。
自分で努力する→自己責任の履行であって、自己責任論は応援を伴うべきではないでしょうか。

A 回答 (13件中1~10件)

> つまり自己責任重視なら自己責任履行も重視するのが自然な流れではないでしょうか。



もし、「自己責任だと言っておいて、立ち直ったら自分が応援したおかげだというのは矛盾ではないか」という設問であれば、矛盾です。

しかし、どんな状況であれその状況にいたったことをその人の責任と主張することと、そこから抜け出すことを応援することは、全く別のことです。

したがって、まったく矛盾していません。

> 自分で何とかする事が原則だと言うのなら、自力で無事に解決出来る事を望むのが自然ではないかということです

とのことですが、根本的に、解決を望んでいるのか、或いはそれがどうでもよいのか、という点で対応が異なるでしょう。
例えば何かの問題で手助けを頼んだ場合、相手がその問題の解決に関心があるかないかと、そこに至ったのは自己責任だと考えることとは、全く関係がありません。

問題の解決はどうでもよい場合には、『相手がどうなっても構わないと考える』ことは全く自然なことですし、矛盾もしていません。


#5及び9の方も同様のことを言っておられますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/07 23:58

#9です。


私達人間は一筋縄ではいかない複雑で豊富で多様な存在です。日本人よりも遥かにおしゃべりなアメリカ人でも、意思の伝達の80%以上を言葉や理屈ではなくて、ボディーラングウェッジで行っているという研究結果が出ています。まして,それよりも遥かに歴史が長く文化が深いヨーロッパ人や日本人は、言葉の持つ厚み、言葉の裏に隠されている信号、文章の行間に書かれている内容、その理屈を展開されている時の前後の文脈や経緯、言葉と言葉の間の相関等々、全体を一望に眺めながら相手が何をこちらに伝えたいのか、そしてそれを解く鍵となるどんな信号を送っているのかに関して理解する訓練を受けており、その点に関して、単純で未熟なアメリカ人よりも遥かに高みに到達しております。(因に私はヨーロッパとアメリカに住んでウン十年になります)。

複雑な人間を理解するには、その状況の全体像をつかまなければなりません。その反対に、前後関係を一望に眺めず、目の前の言葉や理屈だけをこねくり回しても、理解できるものではありません。貴方は今回、成長した人間なら誰でも知っているようなこの人間の深みに遭遇して、戸惑っているのだと思います。

言葉と人間の内面の間の関係を理解する美しい文章が、吉田兼好の『徒然草』の第141段に載っております。その文章の「関東の人」を「アメリカ人」に、そして「京」を「ヨーロッパ」に置き換えながら読んで頂けると、人間の深みの一端が理解できて頂けると思います。

今回の経験で、貴方が人間についての理解を深める経験になったと肯定的に捉えられ、人間の深みと複雑さを楽しめる切っ掛けになれたと考えられるようになることを望んでおります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/08 17:35

矛盾などしていません。


(弁証法での使い方でない限りは)通常矛盾というのは両立不可能な事柄を言います。「Pであり、且つPでない」のように。

さて、「自己責任を言って応援しない」は「人物Aは人物Bが事態CのようになるのはBの自己責任であると主張する」と「AはBがCのようにならないように応援しない」という二つの命題の連言と分析できるでしょう。この二つの命題あるいは行動は「Pであり、且つPでない」のように論理的には両立不可能ではありませんし、実際においてもこの二つを共に行うことは可能です(現にしている人がいるわけですし)。したがって「自己責任を言って応援しない」のは矛盾などしていません。

ここからは私の単なる思いつきなのですが、「自己責任を言って応援しない」のはそう言う側の人の言われる側の人に対する単なる配慮の欠如にすぎないのでは。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/07 23:58

矛盾しています。

でき得る限りの支援をするべきです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/07 23:57

#5です。



>つまり自己責任を言っても自己責任を果たす事を望んでいるとは限らない。ということですか。

はい、そうです。前後関係は分かりませんが、貴方の文章の表現だけからすると、「わたしは関わりたくありませんね」という意味を、別の言葉を使って表現しているのだと私なら受け取ります。ですからその問題の解決のためにその人の援助を望んでも仕様がない。何か他の方法でその問題を解決しようと、私なら考えますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/07 23:57

#1です。

補足要求をしておきながら遅くなり済みません。

さて、書いて頂いた例で言うならば、その一件自体において”自己責任”という言葉を使う事が相応しいのか?という疑念が浮かびます。私だけでしょうか‥。
例えば、その引きこもった人に誰かが”そうなったのは君の自己責任だよ、もう知らんよ”と言ったとするのですよね。自己責任では、確かにあなた様の言われるように暗黙の了解のように”履行”が義務付けられる訳ですが、私がその冷たいお人なら、”自業自得だよ、もう知らんよ”と言うべきではなかったのでしょうか?
自業自得は、全て本人の中で完結しますから、その言葉を向けた人の心情を思うと”自業自得”をひきこもった相手(あくまで例え話ですが)に向けたかったのではないでしょうか?
それなら”もう知らんよ”は成立します。

>自己責任だと言ってその人を応援しない人がいますが、これは矛盾していませんか。

普段から自己責任という言葉自体を私は使い慣れないのでピンと来なかったのですが、突き詰めて行くとあなた様が仰る矛盾感は理解できない事もないですね。

この回答への補足

なるほど。
自業自得を突きつける言葉かもしれませんね。
因果応報、自分で蒔いた種とも言いますが、日本人的に合う感覚なのでしょうかね。
責任転嫁しているなら自業自得論は有効でしょうし、単に突きつけるだけなら無意味な文句で終わりそうです。

補足日時:2009/08/08 00:01
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/07 23:57

 相手にすいませんと言わせてしまったのは私の責任でもあります。



 まず、手を貸すことが必ずしも応援ではない。黙って見守ることが援助のひとつでも、あると思います。単に無責任、無関心からほっとくのは、そうではないでしょう。その場、その瞬間のその人の気持ち、意図思惑がどういうものであるか。それによって、実際に手を貸す、貸さないは関係なく、決まるのではないですか。

 自己責任という言葉が本当に個人に対しての思いやりから発せられたのか、それとも無責任から発せられたのか、区別しなくてはならないでしょう。

 おのおのがすべて独立した世界を持っていて、相互に関わって生きていないのであれば 自己責任 という言葉は間違いなく正しいと言えるでしょう。

 はっきり行ってしまえば、責任問題についても、中庸、中道が当てはまるのです。

 自分のせいと、相手のせいが半分ずつ。悪くもないのにすいません と言う人がいたとすれば、それは自分のせいにしすぎなので、引きこもっている。そういう人に必要なのは、他人のせいにする真の聡明さです。本来、誰の「せい」でもなく、ただ原因と結果があるだけでしょう。

 しかし、お前のせい、自分のせいと、私に向かって言い放つ人間がいるときは、100%確実に「いや、お前のせいだ」と、『バランスを取る意味でも言い返さなければならないでしょう』

 逆に、何でも他人のせいにする人間がいたとすれば、それは内省すべきでしょう。そういった人間は引きこもらないと思います。そういう人間には、厳しく、毅然とした態度を見せて、そいつを引き込もらせ、反省させるべきでしょう。

この回答への補足

見守る。と言いますが、実際に無関心なのではないのかもしれませんね。

補足日時:2009/08/03 20:03
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/03 20:03

自己責任だと言ってその人を応援しない人がいますが、これは矛盾していませんか。



矛盾する場合と矛盾しない場合がありますね。
いかに自己責任とはいえおぼれている人を助けない人はいませんね。
しかし、自己破産した人を助ける人は少ないですね。自己責任での破産なのだから自分で這い上がれということでしょう。
ここにあい矛盾した行動が見て取れるでしょう。もし相手が当人を十分な社会人と認めていればあえて応援しない場合もあるということですね。子供や精神的に病んでいる人の場合は応援することはあるでしょうが、それでも程度の見極めは難しいところがありますね。
つまるところ、社会人に対しては原則的には応援はないというのが現実でしょう。 
それでも応援してくれる人がいればよほどありがたい存在ですね。

この回答への補足

すいません。ここで補足させて下さい。
ここでの『応援』とは実際の手助けではなくて声援くらいの意味です。
つまり、
『相手が自分で何とかする事を望む』

『相手がどうなっても構わないと考える』
の違いです。
自分で何とかする事が原則だと言うのなら、自力で無事に解決出来る事を望むのが自然ではないかということです。

補足日時:2009/08/03 19:56
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/08/03 19:56

自己責任だといわれて応援してくれないとこに文句を言うのは、「考えておきます」と言われて、その数日後に「考えてくれましたか」と質問したり、京都で長話の後で「おぶぶ漬け(お茶漬け)を召し上がって行きませんか」といわれて「はい」というようなもので、そんなことしたら、貴方はまた未熟者だとレッテルが貼られるだけですね。



蛇足ですが、「考えておきます」は拒否、「おぶぶ漬けを召し上がって行きませんか」は、「忙しい、もう帰れ」の同義語ぐらい貴方もご存知でしょう?
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この回答へのお礼

つまり自己責任を言っても自己責任を果たす事を望んでいるとは限らない。ということですか。

お礼日時:2009/08/03 17:30

 がんばってください。

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この回答へのお礼

すいません。一般的な論についてです。

お礼日時:2009/08/03 17:27

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