A 回答 (13件中1~10件)
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No.13
- 回答日時:
そもそも中国浄土宗の僧である善導が、柳の木
より身を投げ“自殺”をしようとしたが失敗し、その
時に患った怪我が致命傷となり命を落としました。
残念ながら唱名念仏の臨終の相というのは、
こうした浄土思想をまに受けて、現世を恨み
極楽浄土ならぬ無間地獄に自らを追い込んで
しまいます。
>信心を持ち、念仏を唱えながら
自殺した場合でも「後生の一大事」から救い出され、
往生できるのでしょうか?
無間地獄というくらいですから、再び浮かび上
がる可能性は0%ということです。
“汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の
一善に帰せよ”
No.12
- 回答日時:
「分からない」が正な気がします。
理屈としては、「信心を持ち、念仏を唱えながら自殺」するという日本語が既に形容矛盾である、本当に信心があったら自殺しない…という理屈はありえなくはないとは思いますが、本当のところは分かりません。
なぜ分からないかというと、阿弥陀仏と私の関係は一対一だと思うからです。同胞とか同行とか、はたまた教団といったものを必ずしも否定するものではありませんが、信仰は、基本的に、阿弥陀仏とわたし一人の関係、パーソナルなものだと思います。
阿弥陀仏なら分かるのかもしれませんが、「私」には分かりません。
No.11
- 回答日時:
こんにちは。
▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ だそうですよ。あなたご自身は どうお考えなのでしょう? というより 一人ひとりそれぞれの主観が その世界のすべてなのではないでしょうか?
むろん わたしたちは 原典を歴史的に確定しそれにもとづき研究をしますし それらの批評をし合います。そこで このご質問のように互いに問いかけ見解を述べ合うこともします。
ですが すべては 最初に述べた《おのれの主観とその世界》におさまるという大前提に立ってのことです。
別の言い方をすれば
★ 教え
☆ がなんぼのものですか? 《わたしの主観》に 《浄土真宗の教え》もどの宗派の教えもほかの宗教の教えもすべておさまっています。と親鸞は言っているのではないですか?
そこから出発してください。
ご質問の答えはまだなお なぞのまま残るかと思いますが うたがいは消えたのではないでしょうか? 弥陀の本願が生きてはたらいているのではないですか? どうでしょう?
No.10
- 回答日時:
私達はこの世に生れた時から往生しています(救われている)、人間はそれに気づかないのです(自覚できない)。
真宗で言うと本願を信じ念仏を唱えている事が往生(救われている)ことです。
念仏を唱えながら自殺したから往生するのではありません。自殺する前のその人は往生しているのです、ただ気が付かないのです
卑しくも仏法が自殺を助長しては、釈迦が法然が親鸞が、いやいや阿弥陀仏、悲しみますぞ。
なむあみだぶつ合掌。
No.9
- 回答日時:
往生=救われた状態、と受け止めて。
他の質問、回答でも言ったことなのですが。
幼子(おさなご)は、母親の手から離れて不安になれば、泣いて母を求めます。
そして母のみ胸にい抱かれて安心します。
この安心した状態を“救われた状態”と定義したいと思います。
物心(ものごころ)がつけば、お父さん、お母さんと言って、父母を求めます。
この、お父さんお母さんと呼ぶ声、これが念仏の心ではないでしょうか。
言葉だけの南無阿弥陀仏では、“念仏”とはいえないと思います。
「理」のみに頼るべきではないと思っています。
No.8
- 回答日時:
「卒啄同時(そったくどうじ)」ですね。
仏は衆生一切を救いたい、しかし救われたいと思う者が殻にこもっていては救えない。
殻を自身で突付いて割ってくれば仏も手を差し伸べられ、救えるということですね。
念仏を唱えながら自殺ということですが、歴史的に修行僧は、断食や自ら火の中に飛び込んで死んだものもおりますから、自殺だからといって救われないというわけではないですね。
でもほとんどの人は、断食をすれば腹が減って、それが心に留まり餓鬼地獄に落ちてますし、また自殺に至る本人の精神的苦痛があるばあい、どのように念仏を唱えても本人の精神的苦痛が消えない、あるいは消そうと努力しない限り成仏はしないのですね。
念仏だけでは卒啄同時にはならないということですね。つまり自身が殻を割りながら念仏を唱えることで仏も手を差し伸べるということなんですね。
No.7
- 回答日時:
>>信心を持ち南無阿弥陀仏と念仏を行えば阿弥陀如来の本願により、無間地獄に落ちず極楽浄土に往生できる。
と言うのが、浄土真宗の教えかと思いますが>>信心を持ち、念仏を唱えながら自殺した場合でも「後生の一大事」から救い出され、往生できるのでしょうか?
「無間地獄」や念仏を称えるではなく「唱える」とお書きにおなられるところから見ると、日蓮聖人系の宗派の方、もしくは日蓮聖人の教えを勉強されておるお方でしょうか?
何点かお話させていただきます。
まず、浄土真宗というより浄土教における自殺について、最も有名な人物は善導大師でしょう。浄土宗をお開きになられた法然上人は善導十徳の第七項目に「七者遺身入滅徳」善導大師の自殺を入れておられます。また日蓮聖人も『念仏無間地獄抄』のなかでは自殺し損ねて苦しみぬいて死んだ善導大師は極楽にはいけないし、その門下も同じであると説いておられます。
しかし現在の史料研究において、善導自殺説は事実ではないということが言われています。
まず善導伝の最も信用できる史料は『続高僧伝』です。なぜなら、著者の道宣律師は善導大師の同時代の先輩で同じ長安に暮らしていた人物だだからです。
では、その『続高僧伝』には
「時に光明寺にありて説法するに、人あって導(善導のこと)に告げて曰く、『今仏名を念ず。定んで生まるるや不や。』と。導曰く『念仏せば定んで生まれん』と。其の人礼拝しおわって、口に南無阿弥陀仏を誦す。声声相次いで、光明寺の門を出て、柳の木の表に上り、合掌して西に望み、身を下に倒し投げ、地に至りて遂に死す。事は台省に聞こゆ」
とあって、これは善導大師自身ではなく、善導大師のお説教を聞いた人が、あまりの素晴らしさに柳の上から捨身したことが、当時の政府まで大きな反響を呼んだと書かれています。これが、後代の善導自身の自殺説につながるものといわれています。
また、善導大師自身が自殺を止めている話もあります。『瑞応刪伝』や『宋高僧伝』には、善導大師の弟子懷感禅師が、念仏往生に疑問を持ったときに善導大師は「心から念仏すれば、その霊験があらわれる」とと懷感禅師を励まされます。しかし、いくらお念仏を称えても霊験は現れず、自分の罪の深さを嘆いて懷感禅師は絶食して自殺しようと考えます。しかし、それを見た善導大師は、懷感禅師の自殺を許しませんでした。それを厳しく誡めて、より念仏に励むよう薦めます。そして、懷感禅師は三年目にして、念仏三昧発得されるのです。このように善導大師もまた自殺には否定的な考えを表しています。
このように、善導大師自身が自殺したかということに関しては史料を見ても否定的に捉えざるを得ません。しかし、ではなぜ善導自殺説のようなものがあらわれたのか?という疑問がでています。これには『妙法蓮華経』が大きな関わりをもってきます。
仏教で言う「遺身」「捨身」は単なる自殺という意味ではありません。遺身や捨身は、仏のため、全ての衆生のために、自分の身をなげうって供養することで、結果的には自殺と違いはないが、その動機は菩薩精神に基づく最高の布施でなければなりません。それを現在の感覚でどうこう言うのは現代人の傲慢といわねばなりません。当時においては宗教実践として高く評価されていました。経典の中を探しても、『涅槃経』には雪山童子の羅刹への捨身供養や『金光明経』の薩埵太子の捨身飼虎は、玉虫厨子などで有名ですが、他にも枚挙に暇がありません。
その中でも、中国において六朝時代から『妙法蓮華経』の説かれる「薬王菩薩本事品」の焼身供養が尊まれていました。先ほど紹介しました道宣律師の『続高僧伝』には、善導大師の記述の前に、会通律師が『妙法蓮華経』を読誦しながら焼身供養したことが記されています。
つまり、善導大師は信者の自殺を幇助したことになるが、当時の感覚では『妙法蓮華経』薬王菩薩本事品の焼身供養の影響は大きく、「捨身」は評価されるべきものでした。先に紹介した『続高僧伝』にも「事は台省に聞こゆ」とあって善導大師の名声が広がったとありますが、善導大師本人の意思とは別の、当時の社会環境の問題といえます。
「高僧伝」と呼ばれるもののいくつかを見てみると、「捨身」については、『高僧伝』には11人、『続高僧伝』には会通律師を含めて12人にその他に善導大師の説教によって自殺した人を含めた一般人は5人、『宋高僧伝』には24人と時代と共に捨身の人数が増えていきます。善導自殺説が始めて書かれたのは戒珠の『浄土往生伝』で、『宋高僧伝』の76年後に記されたものですから、「偉いお坊さんは普通の死に方じゃ駄目でしょ」ってことで、『続高僧伝』の出来事をアレンジしたと考えるのが妥当でしょう。
>>信心を持ち、念仏を唱えながら自殺した場合でも「後生の一大事」から救い出され、往生できるのでしょうか?
つまり善導大師の自殺一つとって考えても、この問の答えはNOとなりますね。それは浄土真宗においても同じことで、極楽浄土は自殺していく世界ではありません。善導大師は「上尽一形」と説いて、「一形」とは一生涯ということで、早くに念仏に出会うことができた人は一生涯念仏を称え続けなさいと説かれています。つまり、念仏に出会ってしまったからには一生涯の途中で自殺するって選択肢はないんですよ。
しかしすでに自殺してしまった方を持っている家族のかたは、きっと「その方も極楽に行ってほしい」と願われるのではないでしょうか?そのご家族の気持ちを阿弥陀様は汲み取ってくださらないわけがない。というのも、浄土教の姿であるとは思います。
急ごしらえの文章のため、誤字脱字乱文どうぞお許しください。参考にしていただければ幸いです。
合掌 南無阿弥陀佛
とても参考になる回答有り難うございます。
>「無間地獄」や念仏を称えるではなく「唱える」とお書きにおなられるところから見ると、
「称える」「唱える」については私の教義理解不足からきている、間違いです。
漢字の意味を見れば、唱えるを使用するのは違いますね。
気づかせて頂き、有り難うございます。
阿弥陀如来の本願についての理解を深めて活きたいと思います。
No.6
- 回答日時:
一介の真宗門徒です。
私には難しいことは分かりませんが、ご質問を拝見しながら、阿弥陀仏の本願について考えようとするとき、そもそも「信心を持ち、念仏を唱えながら自殺する」という命題そのものが存立しうるのだろうか? と疑問に思いました。
「信心を持ち」⇒「念仏を唱え」までは自明のこととしても、「信心を持ち」⇒「自殺する」にしても、「念仏を唱えながら」⇒「自殺する」にしても、いずれも「浄土真宗」の教義上からしてありえないのではないでしょうか。
>信心を持ち南無阿弥陀仏と念仏を行えば阿弥陀如来の本願により、無間地獄に落ちず
>極楽浄土に往生できる。と言うのが、浄土真宗の教えかと思いますが
とおっしゃいますが、親鸞は「阿弥陀如来の本願」が無量(無限)であるとは、ほかでもなく自力ではとても往生できないわれわれ愚かな凡夫を救済するためにであると説いているわけで、所詮「信心」も「念仏」も、本来こういう弥陀の無量の本願に対する感謝の念に発するというのが浄土真宗の教義なのではないでしょうか。
その意味では、阿弥陀仏の本願への帰依の証としての「信心」や「念仏」が「自殺」に結びつくということはありえないのではないでしょうか。
もちろん、世の中には、「信心を持ち、念仏を唱えながら自殺する」こともできると考える人が全くいないとは限りませんが、その人が阿弥陀仏の本願や、親鸞の教義を本当に弁えているかと問われると、私にはとてもそうだとは答えられません。
親鸞の「悪人正機説」にしてもそうですが、自分自身を省みると明らかなように、善を行おうとすればするほど、自分がどうしようもない悪人であることが浮き彫りになるという、人間ならだれもが一度ならず経験した事実から導き出されてきた素朴な人間観察にもとづいているのではないでしょうか。
要するに、「自殺をする人」は実は自らの内部の仏性を見失い、自らの「悪人」たることを忘れ、自力での解脱を思い立った人にほかなりませんよね。
こういう人は弥陀の本願で救済されるかどうか以前に、そもそも弥陀の本願による救済を自ら拒んでいることになるのではないでしょうか。
ということで、「自殺」をする人は、当人がどんなに主張しようしても「自力」を頼むことにほかならず、このことと「信心を持ち、念仏を唱える」こととは、すなわち「他力本願」とは相容れないのではないでしょうか。
回答有り難うございます。
自分自身の
親鸞聖人の「他力本願」について理解不足だと気付かせて頂きました。
教義の理解を深め、回答頂いた
>「自殺をする人」は実は自らの内部の仏性を見失い、
>自らの「悪人」たることを忘れ、自力での解脱を思い立った人にほかなりませんよね。
>こういう人は弥陀の本願で救済されるかどうか以前に、
>そもそも弥陀の本願による救済を自ら拒んでいることになるのではないでしょうか。
について、向き合いたいと思います。
No.5
- 回答日時:
ANO.2です。
おっしゃりたいことはわかります。
大乗仏教の経典の中から、阿弥陀如来と念仏を他宗派の迫害に遭いながらも光をあてて広めたのは法然であり、さらにその考えを特化させたのが親鸞です。
しかしそれを引き継ぐ者が江戸時代以降堕落し、本来の宗教の体を為さなくなった、つまりこの世での苦しみを救う受け皿とならなかったことが明治以降の新興宗教の乱立に繋がっています。
「私はこう思います」と自分の解釈を披露されるのなら、浄土真宗という機能を失った(他の宗派も同様ですが)特定の宗派の解釈を求める必要はないでしょう。
あなたが高僧でない以上、ご自宅近くの浄土真宗の寺の住職のほうがより理解しているはず(べき)であり、それがカウンセラーやアドバイザーの機能を果たしていない今日において浄土真宗に求めるものはありません。
あなたがお礼欄に書かれたことは法然・親鸞の言葉でなく、2000年前にインドで創作された浄土三部経の中の無量寿経の説明であり、それを800年前法然・親鸞が解釈されたもので、今を生きるあなたが新解釈をされることは自由です。
あなたがタイトルを「浄土真宗 自殺について」とされたから異論を申したものであり「無量寿経の法蔵菩薩四十八の誓願と自殺について」とされていたら私の回答も違っていたはずです。
お忙しい中、
再度の回答を投稿していただき有り難うございます。
本願寺で「いのちと念仏」相談センター専用電話の開設し
「教学相談」「心の悩み相談」について聴いてくれるそうなので
そちらに連絡して、今回の疑問を確認したいと思います。
No.4
- 回答日時:
>信心を持ち、念仏を唱えながら
自殺した場合でも・・・・・
自殺できないでしょう
この世の極楽に送り返されてくる
あの世の極楽へ行くのは、まだ早いって
この世の極楽で我慢しなさいって
極楽って、きっと信心の風景じゃないですか・・・
すべてがきれいに見える風景じゃないですか・・・
回答有り難うございます。
今現在、私が感じているのは
阿弥陀如来の信をいただけば、
みずからのいのちがいかに多くの
命が支えてくれているかを知ると言う事で
感謝せずにはおれないのですから、
自殺は出来ないと、思っています。
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