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非常に基本的なことで申し訳ないのですが、五蘊の色(肉体、あるいは広い意味で物質的なもの全般)、受(感覚)あたりは何となくわかる気がするのですが、残りの3つがよくわかりません。(古代インド人ならすぐ分かるのかもしれませんが。)
五蘊皆空、などと言っても「空とは何か」以前に五蘊がわからないとどうしようもないです。
表象作用、意志作用、認識作用、などと言われても言葉が変わっただけです。
たとえば、識を通常の意味の認識と考えた場合、お腹がすいていて、目の前に食べ物があるというのを、まず視覚や嗅覚で捕らえて「これは食べ物だ」と認識してから、「食べたいな」という心の動き(行?)が出てくるように思えます。しかし、それだと、行と識の順番が狂います。
取りあえず、現代日本人は肉体だけ(物質だけ)しか見ない癖があるようですが、お釈迦様から言わせれば、それは1/5でしかない、ということらしいな、とは思うのですが。
まあ、この3つは感覚でとらえた後の心の働きを3つの塊であらわしたものだ、と考えることもできますが、それだと心の世界が1/3になってしまって重みが変わってしまいます。お釈迦様は、心の働きが人間存在の3/5と、大変重いわけですから。

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A 回答 (5件)

 こんばんは、Hidocchiです。



> もしかしたら、別の答えの方もいるかもしれませんので、締め切りは少し延ばさせていただきます。

 この機会に、十分に思索をめぐらしてみるのも、妙案かと思います。従いまして、他の回答者様と建設的な会話をなされてみるのもよろしいかと存じます。

> 客観的世界なるものは存在しないという前提に立ちます
私の理解では「他のものから独立した、恒常的な実体」のようなものが存在しない、と思っていましたが、そこらへんも勘違いかも。

 ご質問者様の「他のものから独立した、恒常的な実体」のようなものが存在しない というのがむしろ正しかと考えられます(少なくとも、般若心経含む大乗仏教ではでございます)。
 愚生は飽くまで、事象を認識する“心の働き(以下の”五蘊“の定義をご参照ください)”という点から、“主観的”という表現を使用させていただきました。そしてその対義語である“客観的”を挙げ、説明させてもらっただけでございます。

五蘊(goo 国語辞典 からです)
〔仏〕〔「蘊」は梵語 skandha の訳で、集まったものの意〕諸存在を構成する物質的・精神的五つの要素。色(しき)・受・想・行・識の総称。
色は物質的存在、
受は事物を感受する“心の働き”、
想は事物を思い描く“心の働き”、
行は“心の意志的働き”、
識は識別・判断する“心の働き”。

因みに、十二縁起でございますが、般若心経におけます「無“無明”」の“無明”以下は、この“十二縁起”が省略されているというのが通説かと存じます。

> 五蘊皆空から苦しみからの解放につながるかどうか?という方向が問題なんですけどね。

 なお、愚生も同じきっかけでございました(笑)。また何かございましたら、ご返信くださいませ。

 それでは、ご参考まで。
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この回答へのお礼

般若心経では、無色無受想行識、あたりから、お釈迦様の教えそのものも無である、と、壮絶に「無」が出てきますね(^^;。
ここらへんの読み方はいろいろあるのでしょうが、仏教でのたとえだと存じますが、河を渡るときには筏が必要だ、しかし、向こう岸に渡ったあとは、いくら役にたったからといって筏を抱えて行く必要はない、という話に関係あるかな?と思います。お釈迦様の法そのものにさえ執着してはいけない、というような意味合いがあるかと。
ただ、そうだとすると「ちょっと待ってください(^^; いきなりそんな先の話をしないでください。私はまだ向こう岸に行っていないんです」ということになって困ってしまうんです。
大乗仏教関係の本などを読みますと、四諦、五蘊、八正道、その他その他は簡単に済ませて、さらに先の話をいきなりされることが多いのですが、まず、私は、お釈迦様の作った「筏」がどのようなものなのかを確かめたい、基礎をしっかりさせたいわけです。
ただ、お釈迦様は、方便とか対機説法とかを使われるので油断できません(T_T)。一応、十二支縁起さえも方便のひとつかもしれない、という可能性もふまえた上で、筏を知りたいわけです。(縁起の考え方をつきつめれば、「無明」さえ、その原因があるはずですから、その原因は、その原因は・・・とやっていくといつまでたっても終わらなくなるはずです。だから、もしかしたら、要するに「無明」を晴らせば苦しみも解消する、ということを納得させるための方便の可能性もなきにしもあらず、と思うのです。)

お礼日時:2009/10/07 23:40

 こんばんは、Hiocchiです。



> お釈迦様の”法”そのものにさえ執着してはいけない、というような意味合いがあるかと。
ただ、そうだとすると「ちょっと待ってください(^^; いきなりそんな先の話を

 大乗仏教(中間派)では、実際そのような解釈を致します。つまり、”法”なるものも”空”であると です。

 もし、お困りならば、初期仏教(とても素直な思想体系です)の本をお読みになられることをお薦め致します。愚生も「般若心経」から始めまして失敗致しました(涙)。
 初期仏教の本では、中村元氏のものがわかりやすく、評判も高いようです。愚生も20年以上も前のことになりますが、NHKでお世話になりました。

 それから、中間派の「龍樹」等をお読みになりますと、上座部仏教ー初期仏教(”法有”説)から大乗仏教(空観説・中間派)の経緯への理解が進むと思われます。

 得られるものは、確かに愚生にはございました。多少時間を要するかも知れませんが、ごゆっくり取り組んでみてはいかがでしょうか。

 ご参考なれば、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

中村元氏はよく引き合いに出されますね。1冊持ってます。
あと、増谷文雄氏の本とか。「行」も行動の意味もあるとも書かれた文献もあるようで。
龍樹に関しても勉強しなければ、とは思っているのですが、あまり哲学的思想的に考えすぎると(分別知を使いすぎると)、かえって迷路にはまってしまう危険を感じたので、後回しにしています。

質問の意図は、我(アートマン)が存在しないことを五蘊それぞれについて確認する、という初期仏教的な作業を自分でやってみたかったからです。そのためには五蘊を知らないと無理だということで。知的だけではなく体験もまじえなければ偏った理解になりそうで・・・。素直な思想体系だからといって、本当に理解するのは簡単ではないと思います。

大乗仏教でも、例えば道元禅師の「眼横鼻直」も、当たり前といえば当たり前のことですが、わざわざその当たり前のことを何故言うのか?と考えれば、仏教というのは、ちょっとやそっとで分かるもんじゃないなあ、と感じています。

それにしても、五蘊に関心を寄せる人は少ないんですかね。しばらくしたら、締め切らせていただきます。

お礼日時:2009/10/19 18:27

ちょっと長いけど参考になれば、


以下は12支縁起のとある解説ですが、
(1)無明(無知)によって(2)行(人間の行為を形成する思考。滞在的形成力)がある。この行によって、(3)識(識別作用。心)があり、識によって(4)名色(名称と形態=対象)がある。名色によって(5)六処(六入ともいう。心と対象を結ぶ六つの領域で、眼・耳・鼻・舌・身・意の感官)があり、六処によって(6)触(心が対象と接触する)がある。触によって(7)受(感受作用)があり、受によって(8)愛(渇愛。渇きに似た欲望、妄執)がある。愛によって(9)取(執着)があり、取によって、(10)有(生存)があり、有によって(11)生(出生、生まれること)があり、生によって(12)老死(老い死にゆくこと)愁い、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生起する。

● この解説は根本的におかしいんですね。
(2)番の「行」から(3)番の識別作用・心が出てくるのですが心は最初から存在しますからね。(1)の無明は間違った知識のことですからね。
また、(1)から(3)までは、想・行・識で置き換えてもおなじですね。

正しい解説は以下ですね。
(1)無明(無知=間違った知識に基づく考え)があるから(2)行(無明に従った行い・行動)がある。この行によって、(3)識(悪しき習慣が作られる)があり、識によって(4)名色(再び生まれ変わる:苦の転生)がある。名色によって(5)六処(眼・耳・鼻・舌・身・意の感官が生まれ)があり、六処によって(6)触(感覚)が生まれる。触によって(7)受(感受作用)があり、受によって(8)愛(渇愛。欲望)がうまれる。愛によって(9)取(いろんなものを手に入れる)があり、取によって、(10)有(心の悪しき傾向性、執着など)が生まれ、(11)老(12)死(老い死にゆく)。

(1)から(3)までが前世の業、それによって再び(4)から(12)までが生まれて死ぬ間の説明ですね。
これは昔の僧が作った縁起による苦の転生の説明ですね。
つまり、縁起で説明するやり方ですね。

「色、受、想、行、識」は5支縁起といって12支縁起の簡略バージョンですね。縁起、原因結果を使っての説明ですから順番に意味があるのですね。
この苦の原因は無明、間違った知識に基づいた考えや行動、つまり生きることですから、まず無明から脱出しないとこの苦の転生から出ることは出来ないということですね。
正しい仏法知識、それにもとづく正しい心のありかたや行動・生き方がその答えですといいたいのですね。
無明をゴミ知識という意味で砂上の楼閣とも、哲学では無知の智ともいいますね。
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この回答へのお礼

十二支縁起は、まだまだ理解していませんで(^^;
取りあえず、お釈迦様の教えとしては四諦とか五蘊あたりから攻めようかと思っている次第です。
ただ、五支縁起と五蘊はちょっと違うようなイメージを持っているんですけどね。

「愛」という言葉も、仏教とキリスト教ではぜんぜん扱いが異なりますね。もっとも、これは、教えの矛盾というより、日本語に翻訳するときに、違った言葉が同じ「愛」という言葉に翻訳されてしまった不運というのがあるように思います。

無明と無知の智との関係、という問題も面白いですが、取りあえず、まだそこまで考えるのは早すぎる、ということで、後回しにしております・・・。
「無我」と「我思う、故に我あり」との関係、なんてのも、追求したら面白そうではありますが。

お礼日時:2009/10/07 23:17

 ごさんこうになればと思い、筆をとらせていただきました。



 原則、仏教では、客観的世界なるものは存在しないという前提に立ちます(つまり、主観的世界です)。

・想:知識のようなもので、わざわざ”意識しなくても”知っているはたらきです。私たちは、これは○△だ、自分は○△だ、等々、考えるまでもなく既に知っているもの と考えてくださいませ。

・行:心の中に「何かをしたい」という気持ちが常にあることがわかります。それがこの”行”です。「パンが食べたい」と食べながら「紅茶を飲みたい」とかそういった”意志作用”のこととお考えいただければと。

・識:「”きれいな”バラだ」と”認識・判断”するのが”識”です。その「きれいだ、バラだ」という”識別判断”をするための”情報や価値基準”が”想”でございます。

 従いまして、ご質問者様の仰る通りの定義付けでよろしいかと考えております。

 ですが、順番はこの”五蘊”では問題視されないかと思うのですが....

  ご参考になれば、幸いでございます。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。
>順番はこの”五蘊”では問題視されないかと思うのですが....
言われてみれば、五蘊というものを、人間がものごとを認識するまでの「プロセス」を5つにとらえたもの、と思い込んでいたようです。私の思い込みでした。お釈迦様は、プロセスのことだよ、とはおっしゃってませんね(^^;。
大分、イメージがわいてきました。ありがとうございます。ただ、No.1さんとの答えとの食い違いがありますので、もしかしたら、別の答えの方もいるかもしれませんので、締め切りは少し延ばさせていただきます。

>客観的世界なるものは存在しないという前提に立ちます
私の理解では「他のものから独立した、恒常的な実体」のようなものが存在しない、と思っていましたが、そこらへんも勘違いかも。

まあ、私は哲学や神学そのものより、「ひとつの苦しみを解消するだけでも大変なのに、お釈迦様というのは、すべての苦しみから開放される方法がある、と言っている? 本当にそんなことがあり得るんだろうか?」という方向の興味なので、五蘊皆空から苦しみからの解放につながるかどうか?という方向が問題なんですけどね。

ともあれ、わかりやすいご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/27 15:19

☆お釈迦様は、心の働きが人間存在の3/5と、大変重いわけですから。


● 正しい考え方ですね。
さて、五蘊の仮和合というのは後代の説明だと思いますが、その意味は人を分析的に捉えると、「肉体」とそれ従う「感覚」(表面意識)、「思考」、「思考による行動」、及び「思考と行動の繰り返しによる知識(習慣)」の5つになるということですね。
釈尊が説いた仏教は、『思考』が一番大切ということですね。そのためには習慣的知識ではなく正しい知識(仏法真理)を学びなさいといっているのですね。
「肉体」とそれ従う「感覚」などは数十年しかないのだから仮のものですね。「思考と行動それに基づく習慣的知識」このうち思考と習慣的知識、つまり傾向性ですね。これが人の本質であるといいたいのですね。この思考の傾向性を「業」というのですね。
「惑・業・苦」とも表現します。間違った(習慣的)知識に基づいて生きるから悪しき傾向性が生まれ、それが原因で苦が生じる。それの繰り返し転生を断ち切るためにはまず、仏法真理を学び、思考を仏法真理にあわせて日々考え・行動して行きなさいということなんですね。
後代の僧達が説明のためにいろんな造語を持ち込んでいますので言葉で混乱してしまいますね。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
>「思考」、「思考による行動」、及び「思考と行動の繰り返しによる知識(習慣)」
なるほど、そういう風にとらえることもできますね。
ただ、これだと「行」は「行動」の意味なんですね?
>後代の僧達が説明のためにいろんな造語を持ち込んでいますので言葉で混乱してしまいますね。
そこが一番困っているところです(T_T)。
特に、日本の仏教は、オリジナルからかなり変化している様子ですので、私の脳みその混乱が激しくて・・・。

お礼日時:2009/09/27 15:08

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Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
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・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
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この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む

Q煩悩ってどういう意味ですか?

煩悩(ぼんのう)ってどういう意味ですか?
辞書で調べても難しくて理解できません。
具体的に、わかりやすく教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
 
  煩悩とは、わずらわしく、悩みになることだ、ということになります。しかし、そんなに煩わしく悩む、困ったことなのかというと、日常の用法では、ちょっとニュアンスが違います。ここは、仏教のお坊様に出てもらって、具体的な使い方の説明をしましょう。
 
  仏教では、覚りを開くため、修行する人が、元々「坊様」だった訳です。従って、元の仏教の「戒め」では、修行者は、例えば女性となれなれしく口をきいてはならないとか、女性の姿もまともに見てはならないなどとなっていました。女性の美しさなどは、「迷い」の元だというのです。
 
  しかし、坊様がすべてそうではないでしょうが、すけべな坊様もいる訳で、道で通りがかりの、和服の美人を見て、ほわ、と口を開けて見とれ、なんちゅう、綺麗なべっぴんさんや、いや目の毒じゃ、これも「煩悩、煩悩」などと云いながら、女性の後ろ姿を見送ったりします。別に和服でなく、洋装でも構わないのです。また、坊様も、そんな女を見るとすぐ見とれるような人は珍しいでしょうが、やはり、坊様も男ですから、美人と道ですれ違うと、ふと、心が動くこともあるのです。
 
  あるいは、仏教では、イスラム教と同様、精神の安定や、日常の心の状態を興奮させたり、おかしくする飲み物などは禁じています。例えば、麻薬などは無論駄目ですし、煙草やお酒も駄目なはずです。しかし、日本の坊様は、何時頃からか、「般若湯(はんにゃとう)」と称して、酒を店で買って飲んでいたりします。坊様が、良い酒を味わいながら飲みつつ、何という味わい、この酔い心地、さすがに銘酒は違う。極楽じゃ。しかし、考えてみれば、これも「煩悩、煩悩……仏様よ、お許しあれ、南無阿弥陀仏、いやもう一杯、何ともうまい」などと云っていると、どこが、煩い、悩みの煩悩か分からないでしょう。
 
  また仏教では、生き物のいのちを大切にせよと教え、殺生を禁じ、従って、動物の肉は無論、鳥の肉も、魚も食べてはならないことになっているのですが、それも何のことかです。酒のさかなに、コイのあらいを食べつつ、いい気分になって来て、坊様が、いや、浮き世もまた楽しいぞよ、酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗だ……などと歌っていると、「生臭坊主」ということになるのですが、以上は極端に戯画化しているので、日本では、昔から、坊様が、妻帯し、子供がおり、酒は飲み、魚も食べ、それで別に社会から糾弾などされていません。
 
  大酒を飲み、酔っぱらって、寺の本堂で乱交パーティを開くような坊様は、それは別に坊様でなくとも、普通の人でも社会から糾弾されます。
 
  仏教の坊様にとっては、女性と触れたり、メイクラヴすること、酒を飲んだり魚を食べたりすることは、仏教の教えに反することで、こういう「欲望」を、修行の妨げになる「煩悩」と呼ぶのですが、煩悩というのは、多くの坊様の日常生活から云うと、自然なことのようです。
 
  もう一つ、坊様ではありませんが、一般に、「子煩悩」という言葉があります。これは、別に、子供が煩わしく悩みの種で、何かの邪魔になるのかと云えば、そうではなく、子供が可愛く、何時も子供のことを考え、細かいことにも、子どものためにと、あれこれ気も身も使う親のことを、こう呼びます。別に、子どもが、何かの「妨げ」になっているのではないのです。親にしてみれば、ふと、思うと、「ああ、おれは、何と子どものことばかり思っているのか。これも煩悩か」などとなります。
 
  「煩悩」というのは、仏教の教えとか、人間の生き方はいかにあるか、などということの前では、何か安楽な、気持ちよい、楽しい方にばかり気が向くようで、困ったことだという考えもある他方、「自然な欲求」「自然な望みのおもむく方向」であって、煩悩だが、しかし、これもまた良しなどというものです。
 
  これは、仏教の教義として、煩悩に迷う人の姿こそ、すなわち、仏の姿に他ならないという考えもあるのです。
 
  煙草をやめないと、肺ガン確実と云われていて、それでも吸いたいという人の場合、煩悩とは云いません。また、大学受験中なのに、異性のことに意識が向いて勉強に集中できない高校生も、それを煩悩とは云いません。(ただし、高校生の親が、寺の住職だったりして、子どもに、そんな煩悩は振り払え、と説教するかも知れません)。
 
  煩悩というのは、本来の仏教の教えでは、たいへん厳しい、覚りの道にあって、克服せねばならない誘惑や欲望だったのですが、「煩悩すなわち仏」というような考えは、人間は自然に振るまい、自然に生きるのがやはり一番であるという考え方でしょう。
 
  肺ガン寸前の喫煙者や、受験勉強に必死な高校生にとっては、喫煙や、恋愛は、自然のままを楽しもうなどということではないのです。
 
  人間は、欲望が強すぎると、色々不都合なことが起こることが、或る程度分かっているともいえます。分からない人、自制がきかない人は、酒に溺れて身を滅ぼすとか、守銭奴になって、世人の顰蹙を買うなどとなり、そういう人自身は、煩悩も何もないでしょう。しかし、そういう人を横目で見ていると、酒を飲み、恋愛をし、ギャンブルで小銭を失い、自堕落な生活を少々しても、歯止めがかかっていて、ああ、これが煩悩というものか……で片が付きます。
 
  「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、確か古い歌の言葉ですが、そういう心境の「分かっている」のが、煩悩だと分かっているということで、度を超さなければ、やめる必要もない訳です。本格的な修行をしている坊様にとっては、厳しいことでまた別ですが、普通には、煩悩はまた楽しいことなのです。本来しない方がよい、というのをするのは何とも楽しいことなのでしょう。
 
  世界中の文化がそうだとは分かりませんが、日本は、煩悩を楽しむ文化です。
 

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
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Q般若心経の意味が、よく理解できません

こんにちは。よろしくお願いいたします。
般若心経を一日3回ほど唱えております。簡単な意味は理解し唱えておりますが、、よく理解できていません。ネットで調べるのですが、、、。
「色は空であり、空は色であり」、、、実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。などと、、、。

全体的にはイメージは出来来ているのですが、、、。この世のすべてのものは何もない空であるという意味なのでしょうか?苦しみをなくす修行法もありません。。。というのは、「考えて悩むこともない」といういみでしょうか?

最初は、仕事や人生で悩んだときに唱え始めて、2年ほどなります。
もっと理解したいので、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

私は、仏教、日蓮宗系の宗派、日蓮正宗の者です。
経は、法華経、日蓮大聖人様の書文、帰依を三大秘法の久遠元初の仏。
根を三大秘法とし、それなくして、僧侶(お坊)も経も書文も無意味とされる宗派です。

私なりの「回答させて」いただきますが、絶対に正しいということ自信は持てません。

私が少ない期間ですが、修行して感じた「空」というのは、かなり深いものと感じます。感じることは、容易ではなく、体験を通し、感じるものだと思います。だから、感じることなくして、「空」という説明を聞いても決して悟ることは不可能ではないかと思います。
傲慢になっていますね。あくまで私が感じた空というものです。

空の説明に入る前に、余計と思われることを書かせてください。

仏教とは、成仏、つまり、仏様に成るということです。
法華経を初め、諸経では、釈尊が、普通の人からすぐに仏に成ったという訳ではなく、数多くの修行やその生まれた人物や人生において修行をし、数々の悟りや、上級の教えや修行に巡り成仏されたとされています。

成仏するということは、私が解釈する限りと実感を通す限りでは、内在する仏性を開花、強めるということだと感じています。

知識や技術等を身につけ、成仏に至るのではなく、自分に秘められた仏性を開き成仏する。
しかし、その開きも徐々にしか開かないものとだと感じています。

ここから、空についての説明です。
人は、感覚を持っています。その感覚には、3つがあると私は感じています。
1つが攻、2つ目が恐怖、3つ目が、禅定なる幸です。

人は、傷つけら時、怒ったり、、憎むことがあります。これが、攻撃なる感覚です。
また、傷つけたれた時に、絶望や、深い悲しみ、苦しみ、恐怖となることがあります。これが恐怖です。

この攻と恐怖では、決しては、救われることはないと私は感じます。
攻の行動をすれば、誰かが傷つき、攻か恐怖を感じます。
恐怖では、自分がどんどん生気を失い、苦しみ喘ぎます。

この攻と恐怖というのは、要は、傷つけたれたこと(感じたこと)に対する反応です。
この感じたことに反応するということは、簡単に変えることは無理かと思います。ただ、それに基づいて行動はしないという「制御・我慢」という行動はできると思いますが。

この傷つけらたこと、上記で()で感じたこと、いろいろな感覚器官を通して感じて、攻・恐怖は発する訳です。


冷静に考えると、感じて、自分の感性が通し、攻・恐怖、哀れみ、哀しみ、救いの念が生じるものです。

空の第一として、攻・恐怖といういった決して救われることの無い感覚を消滅させ、哀れみ、哀しみ、救いといった仏の感性を生じることです。

ここで言う、空とは中道です。つまり、攻でも、恐怖でもない。冷静であり落ち着きがあること「禅定」です。クールとかそういったものではありません。感情はあっても、激情ではない感覚といいましょうか。
感じたことが無い人には理解認識し難いものかと思います。

そうやって物事を禅定になり、見ていくと、なんとなく、色と空というのが分けられてきます。
色とは、目に見えることです。私は、色よりも、「仮(け)」と言う方がしっくりします。
色、つまり、目に見えるものは、因縁によって生じます。
仏性を開いていけば、仏性が徐々が現れるように、
愚行をすれば、どんどん心が荒れ果てていくように
行動(因縁)によって、色が生じきます。

とは、言え、人間が条件に応じて結果生じることを、絶対的な法則として捉えるには限界があります。すべてが法則として存在し、その法則を把握し、その法則に基づいて何でもこうなると言える人はいないでしょう。

なんで、日本に生まれ、貧しい国に生まれる人が存在するのか、それは「運」というしか答えを出せないのが人間です。「運」と答えを出す以外にできないのが人間で、それが上記に書いたすべてのことにおいて法則に基づいてこうなると言えないと書いたことの説明です。

物事を禅定を持って追求し、攻・恐怖、快・不快というものに囚われず、終わることの感情・感覚を逸脱し、捨て、生きる活気に生ずる捉え方をしていくと、この肉体さえも、色であると感じてきます。たぶん、私は、死んでも、空としての存在は残り続けると。

>実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません

と言われるのは、かなりの功徳があり、禅定を持って悟る境地対して言われたことと存じます。
高い功徳を持った人は、仏教の話を聞いて、実感悟り得ることができると思います。私は、対して功徳を持っていなかったので、苦労を重ね、実感悟り得たことが多々あります。

このことについて日蓮正宗の宗派の解釈によりますと、釈尊時代は、正法と言い、今の時代は末法といいます。何が違えば言えば、仏教を聞く者の功徳の高さ・低さです。正法は、功徳が高く、末法は、功徳が低いとされています。功徳が高い=仏様に近いということを意味します。また、機根も同様にして、機根が低い=仏様に遠いということを意味します。

正法の者たちは、その前世及び過去世において功徳を得た者です。ですのえ、仏教にめぐり合えばこそ、その教えが知識ではなく、実感や道理として存在するという実感の元に悟り得ることができるものと思われす。

末法の者は、修行をせずに、功徳が低いく、禅定なる心がなく、攻・恐怖、快・不快、自尊心、卑下、得が好であって、嫌が排除となる感覚が強く、禅定なる心を持って、静かに考え、道理上に実感することは不可能とされています。

さらに、正法の時代に生まれ、(華厳)阿含、方等、般若というように、衆生の功徳に応じて得を積むように説かれています。
般若の教えを悟り得る衆生に対しては、
「実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません」のが解ったのだと思います。

以後、蛇足です。
私の読んだ宗派の教書では、
小乗の空を、肉体は色、魂は空というもの。これによって輪廻を解脱できるとされるという考え
大乗の空、般若の空は、物事の攻・恐怖ということの拘り、執着を捨て、禅定を持って、落ち着きを持って、真実・実相を悟るというもの
法華経の空?というか、法華経では、三諦円融(さんたいえんゆう)と考えがあります。「一念三千」、「十界互具」という考えとかなり関係があります。

簡単に言うと、一人の人間(あるいは存在)の中に、仏性、菩薩、縁覚、声聞、天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄という10の世界があるとあれています。世界という言い方が適切とは思いませんが、界では、伝わりにくいと思うのでそういった表現にしました。

上記に書いたように、仏性を開く修行をしていけば、仏様に近づき、餓鬼、畜生、地獄に落ちるようなことをしていけば、そうのようになるということです。

法華経では、提婆達多という者が出ており、過去において、釈尊(お釈迦様)に法華経を教えた者とされています。それが、釈尊が成仏して、長い時を得て、「事実であれば」今から3000年前に釈尊が仏教を説いた時でも、まだ、成仏しておらず、釈尊の邪魔をしたとされる者です。

話が逸れました。
空を悟り、因縁・徳と業によって色(仮)という目に見える世界、感じる世界が生じる。これは大乗の空と同じです。
法華経では、空も色(仮)としています。
法華経の三諦円融(さんたいえんゆう)とは、空、仮、中という3つ別れ、
中を成仏、
空は成仏によって悟り得る故に色(仮)として感じる者、
仮とは、空であり、中です。
つまり、
成仏することに、
空を感じ、
空を感じることは仮であり、
仮というのは、成仏の境地
それが、法華経の三諦円融(さんたいえんゆう)という私なりの解釈です。ここは実感してないところなので、解釈に過ぎません。

最後にもう2つ
人生は、悩み考えるものだと思います。悩み考え、それの本当の苦悩から救われる悟りを得た時に、1つ、人間性(仏性)が高まると感じます。
いくら、修行をしても、悩み考え、苦の因を見つけ、それを解消、救われたいと思わない人に、智慧というものは得られないものだと感じます。

仏性を開花、仏様に近づくことよって、
物事の実相、真理を悟り得る智慧
物事を正しく捉え、考える精神的落ち着きの禅定
物事の苦・救の繋がることを踏まえ、苦に繋がることをしない戒
が身につくとされています。

そして、最後の1つ。
私の宗派の教え上に書いているので、もしかしたら、私の宗派や法華経に興味を持たれるかもしれません。
私は、質問者さんの人生に肩代わりは決してできません。あくまで参考意見として述べただけであって、その正誤、幸・不幸、価値、無価値は質問さんが判断することです。誰かを信じることは裏切られる、騙される可能性があるからこそ、「信じる」という言葉を使うものだと私は思います。
自分の人生の責任を持って人の参考にしてください。
私は仏様ではなく、質問者さんを救える人間かも解りませんから。


長い回答で、誤字、脱字もあるかもしれませんが、
質問者の人生やそれ以上の広域において、何か参考や、ためになれば幸いです。
もし、最後までお読み頂いたのなら、ありがとうございます

私は、仏教、日蓮宗系の宗派、日蓮正宗の者です。
経は、法華経、日蓮大聖人様の書文、帰依を三大秘法の久遠元初の仏。
根を三大秘法とし、それなくして、僧侶(お坊)も経も書文も無意味とされる宗派です。

私なりの「回答させて」いただきますが、絶対に正しいということ自信は持てません。

私が少ない期間ですが、修行して感じた「空」というのは、かなり深いものと感じます。感じることは、容易ではなく、体験を通し、感じるものだと思います。だから、感じることなくして、「空」という説明を聞いて...続きを読む

Q仏教は「性欲」及び「恋愛欲」という煩悩をどうとらえているのか?

仏教の教えによれば、(簡単に言うと)「全ての苦しみは煩悩から来るものだ。だから修行をして煩悩をなくせ」ということになりますよね。

ですが、性欲は簡単に「処理」をすることができても「恋愛欲」については「処理」をすることも「なくす」こともなかなか難しいことだと思います。

私は一般人であり、修行僧でも何でもありませんので、山にこもって恋愛欲をなくそうとするつもりは(少なくとも今は)ありません。

ですが、この恋愛欲によって現に今、私は苦しんでいます。「大切な人」がおらず、孤独であることに苦痛を覚えています。

この解決方法として仏教はどのように答えてくれるのでしょう?

仏教にこだわらなくてもいいかもしれません。他の宗教や哲学・思想・学問等によってこの苦しみが癒されるのであればそれもいいと思います。

思想系に詳しいお方のアドバイスを頂ければと思います。どうぞよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

  性欲や戀愛感情は生命體としての基本的な欲求の一つですが、欲求そのものは、否定すべくも無いものです。色々な欲求に囚はれて苦しむことで「煩惱」となります。「自分には大切な人がゐない。大切な人と出逢ひたい。作りたい」などの欲求が心を亂し、囚はれるならば、日々の生活は狂おしいものになりかねません。
  自分から「大切な人を欲しい」と求めるのではなく、すぐ近くにゐる人の中に、「すばらしいところ。大切にしたいところ」を見出してみるのは如何でせう。自分の行爲、行動を意識的にして、周りの人から、大切に思はれる自分になれるやうに努めてみるのはどうでせう。
  この世の中は、關係の密度は異なるにしても、互ひに繋がりを持つてゐます。絶對的な孤獨といふことは許されてもゐません。そのやうな世界、あなたの周りに展開している世界を大切にし、あなたの周りにゐる人を大切にすることで、あなたの周りには「大切な人」が澤山出來ることでせう。
  まづ、朝、少し早めに起きることです。玄關前を掃除して、ついでに隣の家の前も掃除したら如何でせう。一年間續けると、お隣さんが、あなたにとつて大切な人に見えてくることでせう。毎日、顔を合はせる見知らぬ人に、挨拶をしてみませんか。毎日すれ違ふだけの人が、あなたにとつて大切な人に見えてくることでせう。
  「煩惱を無くす」などとは考へないことです。「煩惱も人生の調味料だ」くらひの考へで、「煩惱に囚はれない」ことを心がけませう。

  性欲や戀愛感情は生命體としての基本的な欲求の一つですが、欲求そのものは、否定すべくも無いものです。色々な欲求に囚はれて苦しむことで「煩惱」となります。「自分には大切な人がゐない。大切な人と出逢ひたい。作りたい」などの欲求が心を亂し、囚はれるならば、日々の生活は狂おしいものになりかねません。
  自分から「大切な人を欲しい」と求めるのではなく、すぐ近くにゐる人の中に、「すばらしいところ。大切にしたいところ」を見出してみるのは如何でせう。自分の行爲、行動を意識的にして、周...続きを読む

Q法華経の教えを簡単に言うと

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

どうぞ簡単に簡潔に教えてください m(_ _)m

Aベストアンサー

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦如来が実践したように、衆生伝道も含まれるのですね。これは菩薩が立てる四弘請願で明らかですね。簡単に言えば己を磨き、衆生を助ける「上求菩提下化衆生」ですね。
鎌倉期以降は「上求菩提下化衆生」が「上求菩提」と「下化衆生」型宗教に分かれてなにやらわからなくなってしまってますが、
1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。
3.学んだ教えを広めましょう。
の3点が本来的な主題ですね。仏教では正しく物事を観る、判断することを「正見」といいますがこれは「正信」つまり、正しい信仰を持つことと同じ意味ですね。
仏教では釈迦如来に帰依することが「正信」ですから、本尊は釈迦如来以外にはないですね。
釈迦如来を役割の違いで阿弥陀仏や大日如来と言い換えているだけですね。表現方法は寛容ですね。ということで仏教においては、弟子やお経は本尊には決してなりませんね。

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q陰陽道は神社か寺か?

私には中国人留学生のリンという友人がいます。
先日、自宅で【陰陽師】という映画のDVDを見たらしいのですが「日本では仏教は寺があり、神道には神社があるけど、陰陽道は何が有るの?」と興味津々に聞かれました。陰陽道は最近の学者の考え方では【陰陽思想と五行思想を組み合わせ、仏教や道教や神道などから様々な影響を受け取って日本特異の発展を遂げた結果誕生したもの】らしく、日本の宗教らしのですが、私は陰陽道を信仰する神社なんて聞いたことも見たことありません。根源である道教は海外では寺があるみたいなんですが、正確なところ陰陽道にはそういった専門の建物は存在するのでしょうか?回等をお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは
陰陽道は、平安時代には天文道の安倍家と歴道の加茂家によって継承されていきます。
その後両家は盛衰を経ながら、江戸時代(17c)になると安倍氏の宗家土御門家が全国の陰陽師の免状交付権をえて陰陽道(師)を統括します。もちろん、江戸時代にはかつてのような政治力は失い、また明治政府は陰陽道を「迷信」としたため、その後はわずかに暦や風水等としてその残滓が民間に伝わるのみです。
なお、「専門の建物」といえるものとしては、土御門家がひらいた天社土御門神道および天社土御門神道本庁(福井県遠敷郡名田庄村 御神像は安倍晴明座像)がありますね。
また、高知県香美郡物部村には、平安末期の起源とされる「いざなぎ流祈祷法」というものが伝わっているそうです。

ただし、陰陽道そのものは民間信仰であり、仏教など一般的な宗教とは異なると思います。教義・教典・施設(道場?)・指導者など、本来宗教が備えるべきものがない、もしくは非常に多様、曖昧ですから。

天社土御門神道本庁
http://www.eonet.ne.jp/~nunose/009kosya22.htm
いざなぎ流
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/9236/legend/tr3901.html
http://www.inax.co.jp/Culture/1999/09word.html

こんばんは
陰陽道は、平安時代には天文道の安倍家と歴道の加茂家によって継承されていきます。
その後両家は盛衰を経ながら、江戸時代(17c)になると安倍氏の宗家土御門家が全国の陰陽師の免状交付権をえて陰陽道(師)を統括します。もちろん、江戸時代にはかつてのような政治力は失い、また明治政府は陰陽道を「迷信」としたため、その後はわずかに暦や風水等としてその残滓が民間に伝わるのみです。
なお、「専門の建物」といえるものとしては、土御門家がひらいた天社土御門神道および天社土御門神道本...続きを読む

Q般若心経の意味 般若波羅蜜多について 

般若心経の最初に

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 
・・・

とつづきますが ここで 観自在菩薩は菩薩のお名前でいいのでしょうか

次は般若波羅蜜多を深く行じていたときに という意味でしょうか
ここで質問です
般若波羅蜜多というのはどのような行なのでしょうか
般若心経にはそのことがなにも書かれていないようですが

Aベストアンサー

「般若波羅蜜多」はあえて訳せば「悟りの世界に至る智慧(瞑想による根源的なる力)」となるでしょうが、ここでは般若波羅蜜多は般若波羅蜜多という固有名詞と考えてもいいでしょう。
 次に「心」ですが、これはサンスクリット語でフリダヤ。心臓を意味しますが、そこから「(生命の)中核」、それは同時に真言(咒)を意味します。旧訳の般若心経では『般若波羅蜜神咒』『般若波羅蜜大明咒経』など、フリダヤの部分ははっきりと咒であると説かれます(現存する最古のサンスクリット語の心経でも「以上が般若波羅蜜のフリダヤ(咒)である」と締めくくられます)。

 弘法大師による心経論『般若心経秘鍵』では観自在菩薩を「諸乗の行人」の意味と説きます。つまり「諸々の大乗仏教の修行者」という意味です。つまり礼拝対象の観音菩薩という意味にとどまらず、「観」は瞑想の意味であるから瞑想自在なる修行者。
 その瞑想とは「ギャテイ ギャテイ・・・」の般若波羅蜜多の咒を唱えるという修行です。その修行の結果として「五蘊皆空」という境地に達した故に「一切の苦厄を度した」。この苦厄を度する力が「ギャテイの咒」にあるからこそ心経は信仰されてきたのです(ちまたにあふれる心経解説書は“こだわりを捨てる心”などと説き、咒を付け足しぐらいに紹介していますが、それは心経成立の歴史を知らない不完全なものです)。
 『般若心経秘鍵』では「大般若波羅蜜多心経と者(いっぱ)、即ち是れ大般若菩薩の大心真言三摩地法門なり」と的確に説きます。般若菩薩とは般若波羅蜜そのものを尊格化した菩薩ですから、現代訳すれば“般若心経とは偉大なる般若波羅蜜多の大心真言による、深い禅定(瞑想)に入るための教えである”。ですから「観自在菩薩」から「咒即説咒曰」までがギャテイの咒の偉大さを説くものです。
 また羅什訳『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』、義浄訳『般若波羅蜜多心経』には末尾に「此の経を誦せば十悪五逆九十五種邪道を破す。若し十方の諸仏を供養し、十方の諸仏の恩を報ぜんと欲せば、当に観世音の般若を誦すること百遍、千遍にすべし。無間の昼夜に、常に此の経を誦せば、願ひとして果さ不といふこと無し」と読経と真言念誦の功徳を説きます。「観世音の般若」とはギャテイの咒のことですから、的確に真言念誦による瞑想を説いています。
 ですから般若波羅蜜の瞑想を行う者、自身がそれを行えば自分自身が観自在菩薩に成ることも意味します。

 より詳しくは『般若心経秘鍵入門』(村岡空著:大覚寺出版部)を参照ください。
http://www.sagagoryu.gr.jp/shop/hiken01.html

「般若波羅蜜多」はあえて訳せば「悟りの世界に至る智慧(瞑想による根源的なる力)」となるでしょうが、ここでは般若波羅蜜多は般若波羅蜜多という固有名詞と考えてもいいでしょう。
 次に「心」ですが、これはサンスクリット語でフリダヤ。心臓を意味しますが、そこから「(生命の)中核」、それは同時に真言(咒)を意味します。旧訳の般若心経では『般若波羅蜜神咒』『般若波羅蜜大明咒経』など、フリダヤの部分ははっきりと咒であると説かれます(現存する最古のサンスクリット語の心経でも「以上が般若波...続きを読む

Q「四苦八苦」の「五陰盛苦」

お世話になっております。よろしくお願いします。

「四苦八苦」の「四苦」ではないほうに、
愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦というのがあります。
この「五陰盛苦」というのは、どんな感覚なのでしょう。
他の3つは漢字から受けるイメージでだいたい分かるのですが・・。

直訳すると「五体満足がゆえの苦しみ」ということらしいのですが、
いまいちよく分かりません。
なるべく平たく説明していただけるとうれしいです。

Aベストアンサー

不親切な回答で失礼いたしました。
辞典を丸写しにしているような回答をする専門家が常連にいらっしゃるので、他の回答を期待していたのですが、ありませんね。

さて“五陰盛苦”ですが“五盛陰苦”ともいい、“盛”とありますので“五蘊”が盛んになることによる“苦”と捉えがちです。しかし、“五取蘊苦”ともいい、サンスクリットでは・・・(あ、行きすぎですね)。
この意味は、苦しみは感受作用である五蘊によって“苦”と感じることをあらわし、迷いの世界である娑婆世界の一切は苦であるということです。
平たく言えば、
「苦しみを苦しみと感じる苦しみ」
になり、仰るとおり広範囲の苦をさすだけではなく、実はすべてが苦である・・・
と、いうことです。

五蘊により苦しみを感じ、苦しみを感じるのは五蘊によります。

ひろさちやサンの説明はわかりやすいのですが、偏った解釈が多いんです・・・よくお会いするんですが。

 ANo.4 でした。

(^^)v

Q通信制大学(大学院)で仏教を学びたい

都内に住む30代の社会人です。
 大学で仏教を学びたいと思っています。
卒業した大学では哲学(西洋)を学びましたが、その時は仏教にあまり興味がありませんでした。(仏教学の授業もありませんでした。)
でも最近、華厳とか唯識の考えに興味をもつようになりました。
仕事の都合上通信教育を考えています。(東洋大学のイブニングコースにも興味がありますが、始業時間、学費等考えると通えそうにありません。残念)
通信課程で仏教を学べる大学として、佛教大学、高野山大学、武蔵野大学の3校があるようです。
今のところ密教にはあまり興味が無いので、佛教大学か武蔵野大学のどちらにするか、また3年次編入がいいか大学院に入るべきか迷っています。
 実は一時、佛教大学にしょうと思っていました。佛教と言う名前が気にいってますし、通信で博士課程まである。また京都は好きなところなので。
 でも最近、武蔵野大学も通信の大学院が来年度からできるようですし、書店で武蔵野大学編の「仏典を読むシリーズ」を何冊か買いましたがどれもわかりやすいです。(仏教大学のテキストはどこかで見ることはできないのでしょうか)
 佛教大学か武蔵野大学か、3年時編入か大学院か、アドバイスよろしくお願いします。

都内に住む30代の社会人です。
 大学で仏教を学びたいと思っています。
卒業した大学では哲学(西洋)を学びましたが、その時は仏教にあまり興味がありませんでした。(仏教学の授業もありませんでした。)
でも最近、華厳とか唯識の考えに興味をもつようになりました。
仕事の都合上通信教育を考えています。(東洋大学のイブニングコースにも興味がありますが、始業時間、学費等考えると通えそうにありません。残念)
通信課程で仏教を学べる大学として、佛教大学、高野山大学、武蔵野大学の3校がある...続きを読む

Aベストアンサー

現在、大学院でインド哲学・仏教学を勉強している者です。

「佛教大学 or 武蔵野大学」「3年編入 or 大学院」ということならば、私は、「佛教大学 & 大学院」を選択します。

◇佛教大学の方が、
  ・教育スタッフが多い
  ・図書館が充実している(これは重要)
  ・学生が多いので横のつながりが得やすい
◇大学院選択の理由は、
  ・3年編入では単位取得・卒論が大変
  ・大学院に入学できる学力があれば、学部に入る必要はない
と考えます。

まずは、大学院の過去問を入手して検討されてみてはいかがでしょうか。佛教大学大学院は結構難しいです。

「佛教大学のテキスト」は分かりません。大学に問合せるか、別に質問をたてられてはいかがでしょうか。

--(以下、参考情報です)---

仏教学を勉強する方法として、
(A)主に1次資料(サンスクリットやパーリ語など)を対象にする
(B)主に2次資料(日本語など)を対象にする
いずれを取られるのでしょうか。大学院では(A)がメインになるかと思います。

(A)の場合は、まず語学力を身につける必要があります。
通信制や独学では、難しいと思います。たとえば、
  ◇大学の科目履修生、研究生になる
    ・多くの大学で一般の方々に解放されています。
    ・ホームページで紹介されていないこともあります。
    ・申込期間(2~3月ごろ)が限られていることが多いので要注意です。
  ◇東方学院(@神田)に通う
    ・サンスクリットやパーリ語の講義があります。
    ・このほか学部・大学院レベルの講義が数多く用意されています。
    ・4月開講です。
なども検討されてみてはいかがでしょうか。

以上、何か少しでもお役に立てたら幸いです。

現在、大学院でインド哲学・仏教学を勉強している者です。

「佛教大学 or 武蔵野大学」「3年編入 or 大学院」ということならば、私は、「佛教大学 & 大学院」を選択します。

◇佛教大学の方が、
  ・教育スタッフが多い
  ・図書館が充実している(これは重要)
  ・学生が多いので横のつながりが得やすい
◇大学院選択の理由は、
  ・3年編入では単位取得・卒論が大変
  ・大学院に入学できる学力があれば、学部に入る必要はない
と考えます。

まずは、大学院の過去問を入手して検討...続きを読む


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