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 あやまちを犯したひとを 存在としてとうとび あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき やわらがしめられる。かも知れない。

 赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。
 (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。
 社会との根本的な和解が成るか? ということ。

 この不案内のまま 問います。

A 回答 (18件中1~10件)

 恩恵というものは――それが何なのかよく考えてみると、何となくそのようなものがこの世にはあるのかもしれないと、――それについて、生まれて初めてよく考えたとき、


 そのときにはすでに、恩恵を受け取った後だったのではないかと僕は思います。

 だから慌てて見直してみて、受け取った分だけはせめてお返ししたい――人間として真面目にそう思えたとき、自分は負った者だったのだと定義されるのだろうと思うんです。つまり人間は、(誰でもそうだと思いますが)気付いたときにはすでに、自らが負った債務に対して「赦されたい」という望みを抱く存在となっている、つまり債務者となっているはずです。

 信仰というものをひとまず置いて、自らの経験だけで真面目に自分を定義してみようと考えたとき、「自分は債務者である」という前提は、極めて重要な公理であり、この公理を抜きにしては社会人としての営みのほとんど全てが説明できないものになってしまうと僕は考えます。
 恩恵という言葉の意味をもしも知ったなら、そのとき、その人間は、債務者となっている筈なのであり、もしもそうではなく、自分が0から始められると思っていたのなら、その人は恩恵の意味を知らないというふうに言い換える事ができる。

 この短いセンテンスである古い時代の存在論が、「赦し」あるいは、「学び」、そして「労働」、これらのような全ての社会的営みの基礎となっている。ある・なしという極めてシンプルな存在論は、いつの時代かはわかりませんが、少なくとも自分の生まれる遥かむかしからずっと続けられており、このような掟があるなどとは終ぞ知らないうちに、ふと気付いたときには、どうやらそんな世界に自分は紛れ込んでいた――という状況です。

 誰かから受けた恩恵に対し、その価値に値するか否かはわからないまでも、自分の持つ力(すなわち労働力)を、自分と世界の境界線である肉体の行動によって提供する――これが労働の(そして赦しの)基本だと思います。
 その行動が、果たして受けた恩恵の価値に見合うかどうかはわからない。
 人と人との係わり、これは一種の交易だと思いますが、そうであれば尚のこと、より原初的なニューギニアの人々の交易に原型を見ることができるだろうと思います。10月に亡くなったレヴィ・ストロースの受け売りですが、海辺の住人たちは、隣村との境に漁で得た魚を置いて立ち去ります。すると、山の住人たちは魚を受け取った代わりに山芋を置いて立ち去る。
 このような言葉を介さない交易の習慣が古い時代にはあって、賢明な彼らは、来月はエビにして欲しいとか、蕎麦を食べたいとかいう要望を決して相手に要求したりはしない。交易の基本は恩恵であり、恩恵の基本は相手が何を求めているかわからない状態でなければ、意味がないからだと思います。決して等しくならない価値が前提になっているからこそ、数千年の月日を越えて、交易は続く。

 人間は言葉と通貨を用い始めたとき、この交易の基本を少しだけ限定したものにしたのだろうと思います。勝手に質問を閉じてしまった質問者に対し、少し書き残したことを補足する意味で、答えてみました。赦しというのは、信仰よりも古い、このような習慣のなかに織り込まれているだろうと思います。

この回答への補足

 よう モテモテ男。文学音痴(!! へへっ)の ri_rong さんにしては しゃれたご見解で。ご回答をありがとうございます。

 まづ 結論において使われている用語の定義の問題があります。半ば重箱の隅のほじくりですが でも必要だろうと考えます。
 ★ 赦しというのは、信仰よりも古い、このような習慣のなかに織り込まれているだろうと思います。
 ☆ もしこの《赦し》を 仮りに〔母や父の恩などを含めて〕もっぱら経験行為にかかわる債権債務関係をめぐってのものだとすれば 《信仰》とは――と言っても 信仰は結果的にその経験行為をつつむことになるようですが―― 次元がちがうと考えます。そういう定義です。
 ぎゃくに言いかえます。いわゆる《人生は貸しを与えたり その借りの返しっこの連続である》という意味での《負い目》についての《赦し》の問題であるとすれば 《信仰》とは直接にかかわらないと言っても――信仰は生きる姿勢のようなものですから―― 大きく同じ主題だと捉えなければならないでしょう。
 このげんみつさを据えてみるならば なるほどと合点のゆく――なみだのちょちょぎれる――すばらしいお答えであると思います。
 ★ 決して等しくならない価値が前提になっているからこそ、数千年の月日を越えて、交易は続く。
 ☆ つまり 赦し合い――やわらがしめられたこころどうしの――としてのおつき合いが続く。スサノヲ市民社会( die Susanowoschaft )は歴史のかまどである。(えっ? なんでマルクスなの?)( krya1998 さんの世界ですね。浅草下町だそうです)。

 長期の展望としての理論を提出していただきました。これが――つまりなお 現場における現実のやわらがしめられや臨床の応対実践がひかえているとも言わねばならないからですが―― 思想内容を別としたファビアン主義だと思いますし いわばハンニバルがジブラルタル海峡を渡って長期遠征に出るといった気構えであると思います。
 しかも いまここでただちに やわらがしめられる。と言ってしまうのは 信仰という安易な奥の手です。非思考というのは ときを超えていますから。
 レヰ゛ストロースの主義思想はおもしろくなさそうですが その個別の研究成果は生かされましたね。そう言えば トロブリアンド諸島で各島の各ムラのあいだで 円環貿易をしていたとか。Aムラから始まって Nムラまで交易の流れがたどりつくと このNムラは Aムラに品物を提供する。環が完結する。
 ということは あれですか つまり この円環をどこででも破ってもよいから 重層無尽に世界中に交通網を張り巡らせばよいとも考えられます。ま いまもそうなっていますかね。あとは こころだけでしょうか。

 あとは 《掟》などと言われると いわゆる《律法》のにおいがするので 過剰反応しときます。しかも安易な奥の手によって。
 《正義や善悪や裁き》などの律法規範は モーセによってもたらされたけれども 真理と恩恵とはかのイエスによって指し示された。そのときには 石の板に記された規範やムラムラの慣習法としての掟をとおしてではなく きみたちのむねに刻まれた愛のちからとして 真理がはたらき 恩恵は 恩恵の上に恩恵が与えられるというところまで――暗示のごとく――示されたようなのです。

 書き残したことがあるような感じですが いまは放っておきましょう。

補足日時:2009/12/04 20:23
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オコリザルです。


交通の話から景気なり(自発的に)働く事なりのお話が出ました。
20代の世代は私がおもちゃ屋さんに勤めて散々面倒みた世代です。
我が子に等しいです。
話を聞く限り正規雇用よりもアルバイトなり派遣労働なりの自由な労働を好む傾向は一定の割合で確かにあります。
当店に勤める愛すべきバイト君に聞いても見ました。
一日平均6時間の自由労働と拘束された8時間勤務のどちらが心地よいか。
心地良いかを聞いたんです。
返答は6時間の自由労働でした。
これはどういう事かと言うと、社会は十分に豊かでありただ生活するならば、消費を抑える、要するに給料を多くもらわなくてもいい、と言う前提で、社会的な豊かさを享受する楽園に住むような形の社会参加が出来る、餓死はテレビのニュースに出るような珍しい事で実感がない、現代に残る貧困なり経済的閉塞は飢餓から即座に死に結びついた過去の幻影であると言う認識で、生きている事をより多く楽しみたい、それには別にお金はかからない、そのように考える自由労働です。
このように理解した上でせめて年金を負担して社会的に一人前にしようと検証したのですが、税法に現れる過去の雇用形態にあり方が硬直していて、アルバイトのままにしか現状ではなりませんでした。
理想として一日六時間勤務の正社員にしてあげたい処です。
まだ20代前半ですので能力に見合った賃金は最低賃金が妥当ですが、この先高額な賃金を払える能力を発揮できればそうするのが理想です。
ところがこのようにバイト君たちの自由な労働と社会参加を理解しても社会制度が(憲法で保障する勤労の義務の内訳が)一日に8時間ぐらい働かないと一人前と見なさないがごとく硬直しています。
雇用する立場として自由労働を歓迎していても社会の仕組みが追いつきません。
このような社会制度の硬直が要するに非正規労働の不安定な雇用の温床です。
欲張ってガリガリ働くよりよっぽど見込みのある若者たちなんです。
制度として自由労働を前提にすれば話が違います。
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この回答へのお礼

 そうですね。
 おっしゃるように 仕事において安定している――転職があっても 全体として安定している――ことは 周り回って《ゆるしあい / やわらぎ》の基礎だと思います。

 その仕事の社会全体的な仕組みについては それとして――という意味は 哲学が基本的に考えたことにもとづいて という意味ですが――さらに考え合って行くようになると思います。いまもそうですが 新しい考えで 知恵を出し合っていくとよいと思います。

 (新しいという意味は 考え方が大きく二つに分かれていて ひとつは優秀な人びとが おもにお二階さんの利益や保守のために考えるやり方です。つまり 一階のことを考えに入れるのは 自分たちの二階の安泰に寄与するときにこそそうするという意味です。もうひとつの考え方は そうではないふつうのそれです)。

 現状の改善など細かいことは ここでは省きます。あしからず。

お礼日時:2009/12/08 10:38

オコリザルです。


さらに考えが及びました。
私は平均的な日本人であって仏弟子とでも言うような積極的な帰依はありませんが、哲学的に取り扱うのが難問だった「赦し」に説いて信仰を引き合いに出すことで、その面では説明が出来ました。
信仰を表ざたにして扱うのが難しいと言う問題点なり現象を「赦し」になぞらえて、主観内で収まる個人的な心情であるとする解釈から発展させることはできますか?
今日の回答ではスムーズに「我は無し」を信奉する軟弱ものを虐待する非思考を表ざたにできました。
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この回答へのお礼

 そうですね。
 哲学が 個人の感情を――それは あくまで個人の主観内におさまると見るという前提を立てて―― すべて起こるがままに任せた。このことは もし言ってみれば ひとが和らぎを得る道には 妨げがあってはならないということではないかと考えます。

 妨げという言い方をしましたが つまりは 赦せないという感情を抑えないという意味です。だれもこれを止(と)めないという意味です。
 これは ならわしの領域での出来事だと考えます。

 信仰は ふだんの生活でその歩みとして一歩奥にひっこんだこころのあり方だと思います。仕事と余暇のほうにかかわりきってもいいほどではないでしょうか?
 なぐさめや同情には むしろかかわらない。ならわしに任せる。という考え方です。

お礼日時:2009/12/07 23:56

オコリザルです。


一般閲覧者向けに噛んで含めるような説明です。
殺人の被害者たる故人が非業の死により未来を断たれたと解釈するのは遺族にあるべからざる失態です。
死ねばみな仏になるが葬式仏教に真髄でして、故人を知るものが率先して供養するには成仏した故人は殺人鬼にすらも微笑みを向けると成仏を信じることが信仰の忠実さです。
そのためには殺人鬼すらも慰霊に参加させる社会的土壌が必要です。
ニュースでは刑務所で毎日お経をあげているとかその手の報道もあります。
そのようなニュースを前向きに受け止めるすこやかさを養う事が、遺族の死を悼む心を和らげる事につながります。
ただの野次馬が他人事に赦さないなどとピーチクパーチク言う事は恥じるべきです。
信仰の在り方として私は別に仏教に思い入れはありませんが、仏弟子さんたちは、こんな失態を見過ごしながらお葬式でお経を読んだり聞いたりしています。
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この回答へのお礼

 今回のご見解は すべて哲学がご自由にと言って そのならわし――善良な風俗習慣――に任せた領域のことだと考えます。

 ★ ただの野次馬が他人事に赦さないなどとピーチクパーチク言う事は恥じるべきです。
 ☆ このひとつに関しては 当事者のならわしに任せるという考え方に反する部分が そうおっしゃるとおりなのだと考えます。

 習慣は 旧いものをあらためたほうがよいと考えますが いま《ゆるし》の主題のほうを問い求めていますから そこまでは 触れないこととします。

お礼日時:2009/12/07 23:39

オコリザルです。


一人っきりの思索が、孤独な内観、要するに閉じこもった考えならば確かに哲学ではありませんが、他者の見解に触発されながら自らの考えを真っ直ぐに伸ばすことは別の事です。
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この回答へのお礼

 そうですよ。そう申しております。
 思索は 独りでおこなうのだけれども その主題は いかなるものであれ 《わたしが社会にあるということ》が大前提になっているということです。
 独立主観と社会交通 これらふたつの側面が同時に成り立っていると考えます。

お礼日時:2009/12/07 23:31

オコリザルです。


哲学からの逸脱になると考えますが積極的に許す事のすすめだけは筋の通った説明が可能です。
遺族の立場として赦すと社会性に働きかけたりして犯人の回心を促せば犯人を故人の慰霊や供養に参加させる段取りを組むことが可能です。
純粋な信仰の在りようにお葬式がどう絡むかはともかくとして儀式の段取りとして効果的です。
赦すという個人の心情をあえて公開することの意義です。
お葬式を上げるための段取りですから、はらわたが煮えくりかえっていてオニみたいな顔になっても赦すと表明すると事態は好転します。

私個人は犯人に対して罪を背負うなと言いたい処ですがね。

赦せないは相手にできません。
感性や情動の話を哲学の場で実践すると霊感や第六感の話に行きつきます。
かみ合わない話。
手に負えない論争です。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 全体として 被害者が加害者から謝罪を受けて みづからが《赦す・赦さない》を決めてこれを加害者に伝えるということ これが一般に要請されているという前提でのお話だと考えます。
 たしかに一般にそういう形は そうなっています。言語の習慣としてでも 《ごめんなさい。→どういたしまして。 / または こちらこそ》というやり取りのかたちにならわしが成っています。またやはり一般にきちんとした通念として 加害者と被害者のあいだに そういうやり取りが行なわれることがのぞまれています。
 この習慣にのっとって
 ★ 赦せないは相手にできません。
 ☆ という見方は出てくるものと考えられます。不思議ではありません。
 
 そのとき加害者は 本当に――と言っても どういうあり方が本当であるのか分かりがたいところがありますが―― あやまちを詫びたのか。
 ★ 私個人は犯人に対して罪を背負うなと言いたい処ですがね。
 ☆ これは どういうことになるでしょうか? あやまることはしておくが 《罪を背負うな》ということでしょうか? 罪を背負う必要はないと考えて あやまることも必要ないという意味でしょうか?

 また被害者が 《ゆるします》と仮りに言ったとした場合 それについても 本当に赦したのか。つまり その本当とは どういうあり方を言うのか。

 このように心の奥底での赦す・赦さないの気持ちや判断は 他人には分からないし 自分でもほんとうのところを知らない場合があるかも知れません。

 つまりは そのような事情から考えた場合にも です。そういう場合にも考えられることは 赦す・赦さないは 人間の交通としては――これを哲学は考えているのですが―― 問わないこととする。のだと考えます。ということは 互いの再出発を願い望むというかたちになります。加害者は 罪のつぐないを経てからの更生です。
 
 そうして――そうしてですが そうして―― ここで見とおそうとしていることは ひとはすでに社会との和解じつはが成っている。心は ほんとうは やわらがしめられている。というところからさえも出発する。それは すでに社会的な交通としては 共生に土台を据えていることができる。助けあい・負い目の赦し合い・分業としてのおのおのの職業をつうじての互いの協力・協働の関係。
 同じく交通としては 良い品物・良い商品を互いに提供しあうこと。
 分業社会においては 大量に見込み生産をおこなうので 景気の循環が起こり はたらく者が 職にありつけなくなるのが つねである。これを互いに保障し合う。健康についても同じく互いに保障し合う。
 あやまちを犯した者の更生を 社会制度として・町の仕組みとして 確かなものにしてゆく。
 これが 哲学としての《ゆるし》という主題でありそのひとつの回答であるといういまの結論を得ることができたのです。

 もう少し時間を置いて 修正やらあるいはなお批判・反論を待って 締めることとします。

 * ★ はらわたが煮えくりかえっていてオニみたいな顔になっても赦すと表明すると事態は好転します。
 ☆ というならわしに従うことが賢明だとすれば そうするのだと考えます。哲学としては そのような習慣については 自由とする立ち場だと考えます。
 哲学が目指すのは――くどいように言うとすれば―― 《はらわたが煮えくりかえっている》ことなどを懐深く包みこみながら 《そのあやまちに関して しっかりと事実認識および事情分析をおこなっておく》ことだと考えます。そうして 社会一般の交通のあゆみに当事者のおのおのがふたたび戻るという事態です。

補足日時:2009/12/07 23:26
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オコリザルです。


いろいろと考えを巡らせたんですが、どうやら「赦し」も哲学て扱う議題じゃないようです。
これは自らに向き合うしかなく一人っきりで思索する問題です。
自らを赦せなければ他者に赦しを与えることはできない。
一例としてそんな感じです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ どうやら「赦し」も哲学て扱う議題じゃないようです。
 ☆ どうやら《赦し》は 個人の主観の内を出て外にはたらくというような意志行為ではない。特に基本的に ひとをA級・B級うんぬんと品物を分けて捌くように ひとを規定するべく裁く――という意味で《ゆるし》の対象とするのは 人間のやることではなさそうだ。その能力つまり特に意志行為のあり方にはないと言うべきだ。
 と規定しておいて 哲学は 《赦し》の主題から軍勢を引きあげる。

 ★ 自らを赦せなければ他者に赦しを与えることはできない。 / 一例としてそんな感じです。
 ☆ 考えてみれば われわれ人間の誰れひとりとして 自分がかわいくない者はいないようです。どんなわるいことをしでかしても そしてどれだけあやまちを詫び つぐないをしようとも 本音では 自分を赦しています。それはそれは かんたんに 赦してしまいます。どうしようもなくかわいいのでしょうね。
 〔まぁ その裏返しのごとく 自傷行為に向かう人もいるようには聞いていますが 裏返しだとすれば 同じようなことなのでしょう。かわいさ余っての反動のような行為なのでしょうか〕。
 この現実を 哲学は どうしようもないと知っているのだと考えます。ほかのところに活路を見いだしたはずなのです。

 念のためですが
 ★ これは自らに向き合うしかなく一人っきりで思索する問題です。
 ☆ その側面とともにですが 《ゆるさん。ゆるせん》と思いっきり叫んでもわめいてもいいのですよ。――という側面をも哲学は許容して そこから撤退したはずです。どうでしょう?

お礼日時:2009/12/07 11:04

回答番号7から続けています。



やはり、bragelonneさんは、不思議な頭脳の持ち主ですね。

私が凡人的頭脳のせいでそう思えるだけかもしれませんが(私の能力は経験の多さとか考えたこと視点の多さとかが 全部がまとまってきたことからそれらが頭の中で交通整理されて流れ出した後天的なものによります。 があいかわらず、記憶力自体とか考える速度自体とかは人より遅かったりもします) すごいなと おもわず思ってしまいます。

「むずかしさ」というカタチの論理を、わたしもある意味では肯定しています。

例えば ゲームがあまりにも簡単なだけだったら すぐに飽きてしまうでしょう。  そうでない場合もあるでしょうが、 そういうところがおおいにあり、 かえって難しい部分があることで、それに挑戦したい気持になったりもします。

bragelonneさんの質問に、多くの回答が付くのは、 まさにいろんな原因が考えられ 一言ではもちろん言えないし 言えるようなものではないでしょうが、 そこに「むずかしいから」という要素が 普通の常識を越えて存在しているとも言える面 もあるのかもしれません。

がゆえに、 その「むずかしい 言い回し」を肯定するとか、しないとかではなくて、

感心してしまうのは、 その議論がさらに複雑な交通網を作っているのにも関らず、けっきょくはbragelonneさんのお考え自体は 整合性の崩れないものであるということです。  即応で進めていきつつ、 さらに 変わったいいまわし(それ自体はよき独創性とは言えない)が膨らんでいってしまうにも関らず、 最後は バランスが取れていると思えます。

「非思考」という論理的定義の言葉も、 おそらくキリスト者と自称されてどんな誤解も受けて立つ、そのへんの大きな体験が、その裏にあってのそこから生まれた言葉ということなのでしょう。

存在自体が不思議とかは感じたことはたくさんありますが、人の思索力自体に不思議さを感じたことは記憶にはありません。

ほんとうに面白い方(かた)だと思います。


 》ともかく
 ○ ひとは やわらがしめられうるか?
 ○ 社会との根本的な和解が成るか? ということ。
 ☆ これが主題なのですから これなら分かると考えてよいと思うのですが どうでしょう?《

私の ひねくれた対応に対して(ひねくれたとうほど悪いイメージではないでしょが) レスの最後はちゃんと、 肝心な点を私に伝えてくれています。

あんなふうんな文で、私のほんとうに言いたいことの意味合いも 自然に捕まえているのが不思議です。

ご自分の力というよりも、それが「天」の力か ほんとうの「信仰の力」ということなのでしょうか?  

「天命」とかの 本当のところがつかめない私には、うらやましいところです。

ここで、 ひとつ私の方からは

いつしか私の脳の中に養われていた物事を整理する能力を生かして、 

目標と 現実の一歩一歩という点を 最後はこの《主題》にそうようにしながらも、 論点を明確にしていきたいと思います。

マシュマロ2さんとの間で途切れてしまっている

長期 中期、短期の目標の設定のあたりにも言及していけたらと思います。

エベレストに登るという目標があったときにも そこに「われ」は登らないでその登り方を「今ここ」の地点から いろいろ考えることで、応援したいという場合もあるかと思います。

この場合 エベレスト登頂自体が その「われ」の目標でななくて、いかに遠くからそれを観察することで 他の人の登頂目標を応援できるか自体が そこでの社会的なその人あるいは「われ」の目標となります。

が、 ここに共通なものは、 社会的な目標に向かって進む意志です。

役割が違うために目標が違うだけであって 「目標にむかって進むべし」という意志 あるいは「目標に向かって進みたい」という希求自体は 共通に 認識されています。

目標なんて それが見えたとしても「われ」には関係ない のんびりただぶらぶら楽しく生きて入られればいい、 自分さへ。

という考えの人にとっての その「目標」は、 そこに共有されていません。

もちろん、 「目標」が無い人こそ、きゅうきゅうとして幻想的な目標、安易な目標とかにまるで盲目であるかのようにじつは 人をけとばしてでも実現してしまったりするような「目標」を持っていたりするわけですが、 ここではそこは問わないことにしましょう。

で、 社会的な「目標」が その「われ」に見えているとします。

「われわれ」に共通認識されているとまでは しておかなくてもいいです。

「われ」の段階で 話を進めていきましょう。

主体内面の段で、 あるいは絶対個の内側で、というむずかしさをさそいがちな言葉をここに使ってもいいかと思います。

いずれにしても 「われ」の《その目標》は社会的価値があり、 他の人のその役割がそれぞれ違ってくるだろう《その目標》とも その価値の面がしていたとするのです。

それに向かって「進みたい」にしても「進むべし」にしても その意志や希求も一致してる場合です。

そうすると、ここにて、 次に考えを進めてゆくことが出きる形が生まれます。

その目標にむかって、 それを実現すべく より効率的に進んでゆく責任がそれぞれの社会的役割に生まれてくるということです。

眺めているだけで 自らは一歩も進まないで 観察されたことを報告することのなかに、どれだけの効率性があるか、

あるいは眺めないで、ともかく突っ走ることには どれだけの危険があるか?   

そのへんの それぞれの役割における学習や 過去の実践や 計画性や意思決定自体にまでいたる全体の検討が  その目標に向かって必要となるということです。 そして そうするとなのですが、

そこに じつは事前に それこそ その全体を検討するというじつはどの役割の人にとっても大きな価値のある『共通目標』がここに生まれます。

じつは私が ここで検討し整理したかったのは、

さて、 ここで では

「哲学とはどういう社会的役割なのか」 というあたりの検討を整理しておいてみたいと思ったという事なのです。

そして じつは哲学とは、 まずは《その目標自体が ほんとうに社会的に必要な目標であり 「われ」や「われわれ」のほんとうにそうすべきと思えるる、そうしたいと思える希求である目標なのか?》どうかから出発する思索の世界である。

 という点が まず 短期、中期 長期の目標であるかどうか以前に問われておく必要あるという社会的役割をもっているというふうに確かに言えることとなると思います。

例えば 理想的な社会像に見えてじつは管理社会に曲がっていってしまう危険がたくさんある目標であったりした過去の共産主義の失敗の例が それに対してでは これからはどうあるべきなのかを問う地点で なるほどそれを忘れてはならないなという事を想起させるでしょう。

目標なんて 馬鹿馬鹿しいだけという考えも、時に、裏に のほほんと生きてみることで気がつく あるいはその「心のゆとり」を持つことで気がつくことのある 大事な感性の扉の1つを開く哲学とつながっていたりしますが、 その場合は、その扉を開く目標の一つの歩みとして全体の中に考察したほうがより深く進めるのですから、上記の価値ある共通目標の1つとします。

そうではなくて、単なる虚無主義に陥ってるだけならば、 さてそれは哲学と言えるだろうか? それは単に幻想に惑わされた迷いの世界、或いは知的袋小路に陥ったその外が見えなくなってしまってる姿にすぎないのか?といったことの 検討ももちろん哲学の範疇でしょうが、 これって教育学という範疇であり それもふくんで総合的に考えてこそ 哲学は哲学なのだというふうに思いませんか?

けっきょく、目標の意味をより明確化すべく それをより具体的にも総合的にもさらに検討して しかして そこに向かって進みつつ また新たに考えてゆく、

つまり 実際に社会に役立つ 思索 考えることのすべて それこそが哲学であり、哲学とはそれ以下のものでもそれ以上のものでもない。 

というふうに、仮設しておきましょう。

ここから質問です。

裁いてはならない→人を誰一ひとり 見下したりしてはいけない。

昔 頭のいい人で「私は すべての人を赦す。けれど“人を赦せない人”だけは赦せない」と言った人がいましたが、  赦せない人をこの人は見下していたということでしょうか?

理論には、その力が無いということでしょうか?

芸術家は それがほんものならば、 その心のユトリから 赦さない人も赦してると思いますよ。   ただ いつかその苦しい心を助けてあげたいという気持になるだけだと思います。

プリメアペさんのように、存在に「おごそかさ」を感じるような宗教家も同じく、その視点からそれが可能と思います。

ゆとりと心の豊かさ その可能性の世界をどこまで深く感じるか、 

その教育(感性の教育というのは たしかに難しい)が進んだ社会でならば、 社会自体が 「われわれ」のさらに集合の世界自体が、すべてを和解させる日は 必ずくると私は思います。

でも、このそこまでの長期目標は、 今の地点で 論議して意味あるほどその地点が見えるような論議とはならないと思います。


が、 その時ならば、あるいはそのような前進しかないような人間社会が生まれるならば、なんらかの突然変異か、 なんらかの存在の力が働いて 人間は永遠の命を得るというのが bragelonneさんの「終わりから考える」ということであるのならば、

これは悟りを開いた人にもお伺いしたい事なののですが、

たしかに 私もそれがいつかとか時間的なこととかは全く解からなくても経験的な積み重ねの方からも同じ事を推理できると思っているのですが、

人間の命がそういうものだと達観したら あとは、 今しか、今苦しんでいる人しか、 私たちの心の中には見えなくなるのではないですか?

なにが、出きるかは解からない木の葉のような身でありつつ、 今を 目標にむかって  一歩一歩進んでゆくしか 実践してゆくしか、 見えなくなるのではないですか?

そこには長期も中期も短期もなくすべて総合化されつつ、 が 今の、そのための一歩一歩の より具体的検討にまで 進んでいかないわけにはいかなくなるのではないですか?

たった一人の人の大切さは その時 すべての人の大切さと同じになり、ここにもキリストの言葉を思い出すのですが、 bragelonneさんには、その言葉は書くまでも無いでしょう。

ふとこう書いてしまいましたが、 私自身は自分をキリスト者ではないと思うのですが、bragelonneさんと議論してると こうなってしまいます。

そして書いてる自分が 何か震撼とした気持にもなります。

bragelonneさんの信仰の世界は、このさらに一歩向こうの世界なのでしょうね。

今回は以上です。

私らしい役割をはたす回答となっていますでしょうか?

この回答への補足

 おぎないます。

 次を引くと やはりヘーゲルさんと呼ばれてしまうおそれがありますが 《長期の視点》というものが どういうものかがよく分かると思われますので 引きます。
 ▲ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 熱きにもあらず 冷やかにもあらず それゆえに吐き出されるようなしろものたる 真理にだんだん近づく哲学などでもっては理性は満足しない。
 他方また この現世ではたしかに万事がひどいか せいぜい中くらいの状態だということは認めるが そこではどうせましなものは得られないものとし それゆえただ現実との平和が保たれさえすればいいとするような 冷たい絶望でもっても理性は満足しない。
 認識が得させるものは もっと熱い 現実との平和である。
 (ゲオルク・W・F・ヘーゲル:法の哲学 序文 藤野渉・赤沢正敏訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/12/07 13:20
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ゆとりと心の豊かさ その可能性の世界をどこまで深く感じるか、 

 その教育(感性の教育というのは たしかに難しい)が進んだ社会でならば、 社会自体が 「われわれ」のさらに集合の世界自体が、すべてを和解させる日は 必ずくると私は思います。

 でも、このそこまでの長期目標は、 今の地点で 論議して意味あるほどその地点が見えるような論議とはならないと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これがご回答であると受け留めました。
 もっと早く言ってもらえば これまでにさんざ補足要求に応えて長々と書きこむこともなかった。こう言っておきたいところです。
 
 これでお応えのすべてです。
 この質問については No.6にすでにわたしの納得のいく答えをもらっていますので そのことを参考にしつつ なぜこれだけしかわたしが応えないかを もしそういう思いを持たれたとすれば考えてみてください。持たれなければ うっちゃってください。 

お礼日時:2009/12/06 22:08

原子の周りを電子が公転する数は、我々が一つと数える間に10の15乗回廻るそうです。

と言うことは、私が質問者さんに茶々を入れてから既に、10の21乗原子年以上の年月がな流れたようです。ですから、向こう30年は相手にしないと言う時間は、質問者さんがタイプしている間にそれ以上の原子年が経っており、もはや時効になったようです。

さて私の言い分ですが、#7さんの疑問に対しては、

http://210.132.71.11/qa4967451.html

の#26のモンテーニュからの文章を参考にして下さい。

次に、「やわらがしめられうるか」という言葉は不適切だと思います。やわらでは「締める」と言わず、「落す」と言います。締めるという言葉は、鶏に使う言葉です。
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この回答へのお礼

 おぎないがあって 対応します。

 わたしは 打てば響くの鐘です。
 打ち方によって いかようにも響きます。
 またいくら見事に撞木を撞いたとしても その撞木に何かが仕込まれてでもいれば それに対してもその中身や性質に応じて響きます。

 あなたとの対話は 言語学談義で終わりました。
 響き終えています。
 あらためて撞木の持ち方なり 力の込め方なりをあたらしくしなければ たぶん 鐘には当たることはないでしょう。

 ただ きょうおぎなおうと思ったことは ドラッグをやっているのではないかという可能性をふと思ったからです。何かに酔っている。長期間 酔っている。
 言いかえるとこの期間は 文章責任がまぬかれるかも知れないというものです。人格が人格ではなかったという事実としての可能性です。
 
 このように覚え書きをしておく必要を感じたというところです。

 * 《られ》を処理できないというところでしょう。ほかの部分は応答するほどには読んでいません。

お礼日時:2009/12/06 09:45

ごめんなさい。

私の言葉づかいって結構適当なんですよ。ほとんどあっています。和人は日本人です。でも特徴をよくあらわしてる言葉だなって思って和人って書いときました。

平和を願っているのか、それとも、平和を願って苦悩している自分が救われたいのか、なんて結局分からなくなっちゃいますよね。
いつも、あれ?またやっちゃったかなって感じです。

絶対精神はそれは素晴らしいと思うけど、マルクスは通俗的でルサマンチンかもしれないけど、でもかわいいんだもん。
ケーキは5人で分けるなら72度にしてね、絶対だよっ、わーん僕の71度しかないずるーい。
だめなのかな、ヘーゲルさん。
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この回答へのお礼

 ふうーう。これから何を書くかどう書くかを思うと まづはため息です。
 ご回答をありがとうございます。

 ご自分をつねにみづからの鏡に映してお考えを運ばれる方のようで その点もうわたしは悩まずに 主題の項目ごとにお応えしていけばよいかと思いますが 思うのですが そうなのですが こりゃまた ゲオルク・ヰ゛ルヘルム・何とかかんとかさんとカルルさんとを並べて出されたなら いったいどう対応すればよいか。
 とほほほほ。とまづは弱音を吐きまして。

 わたしは ほとんどいつも――へたをすると おやぢからも―― そのおまえの分度器が間違っているんぢゃと言われつづけてきた・か弱いひつじでして しかも三十歳くらいまでお人よしだったのです。その意味のある教訓に満ちたいぢわるを意に介さなかった歴史があります。
 (ただし 二人の妹と三人兄弟の中では 母親がいつも 少しはほかより余分におかずを食わせてくれました)。
 おやぢは わたしがちいちゃなことでももし意見なるものを言った場合には まづ ちがう そうぢゃないと言ってから その答えを言いました。つまり合っていた場合にも そういう形式が つねなのでした。おかげで 自分で言うのも何ですが  ものごとをばか精確に言うようになっております。
 たとえば
  ――みんながそう言っている。
  ――みんなって誰だ?
  ――友だちの○○ △△ □□・・・だよ。
  ――言っていない者もいるんだろう?
  ――いると思うけれど 承知していないので 名前を挙げることはできない。
 うんぬんという具合いです。

 ★ 絶対精神はそれは素晴らしいと思うけど、
 ☆ いいえ そうではありません。世界精神が歴史に姿を現わした日には おてんとさまが西から出て来ます。
 絶対を知らない者が 絶対に囲まれているからおもしろい。相対存在が そのこころに窓を明けているから たのしい。これほどの恵みが どこにありましょう。

 そう言えば 毎年クリスマスには妹に小さなケーキを持って行ってやるのですが 丸いケーキから分けて食べたのは果たして何年前だったかなぁと しょぼい思い出の話にて。
 だって マルクスがかわいいと言うひとに何を話せばよいのでしょう。

お礼日時:2009/12/05 14:49

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