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こんにちは失礼します。

ニーチェは著作の中で古代人の精神性やそれの移り変わりを述べたりしていますが、ニーチェは何を根拠にそういっているのでしょうか?
文献学を専攻していたということと関係があるのでしょうか。
ニーチェはその著作の中で、歴史学を学んだという記述があったのですが、具体的にはどんなことを彼は調べていたのでしょうか?
私も、かつての人がどのように考えていたか(例えば、高貴なものについて、性別について、などなど)について考えてみたいのですが、それを考えるための手掛かりが、わかりません。
ニーチェはどのようにしてあそこまでの根拠づけを行って、人間精神の系譜をたどっているのでしょうかを教えていただけませんか?

お願いします。

A 回答 (1件)

ニイチェは18歳でボン大学に入学した時に、その頃古典文献学の世界的泰斗リッチェルのもとで古典文献学を学び、優秀だったのでリッチェルの推薦で、若干25歳でバーゼル大学の教授になりました。


古典文献学というのはギリシャ古典の解釈学として始まったもので、当然ニイチェはギリシャの文学・哲学にひじょうに詳しい人でした。
そしてニイチエはギリシャ時代の歴史、哲学に詳しかったので、近代の人間とは違ってギリシャにおいて時間の概念が私たちとは異なっていることを知って、それで自分の思想をギリシャに範をとって作り上げてゆきました。
例えば、古代ギリシャでは時間は循環するもの、循環して元に戻ってくる、また時間は「今」にしかなく、その「今」が永遠に続くというプラトンの「イデア論」にも詳しかったので、そこから彼は「永遠回帰」という思想を唱えることとなりました。
ニイチェの西欧思想史において偉大たらしめているのは、かれがプラトン以来の「形而上学」の歴史に終止符を打ったことです。
西欧の哲学の歴史は「形而上学」の歴史であり、「神学」の歴史です。
私たちの頭の上には永遠の「イデア」とか神が君臨していて、そのような超・感性的な価値が君臨して人間を支配していた歴史です。
それが17世紀にガリレオとデカルトとニュートンによって「科学革命」が起こると人々は物事を科学的・合理的に考えるようになり、私たちの世界から神を追放してゆきました。
19世紀末にニイチエは「神は死んだ」と宣言し、キリスト教の神の時代が終わったことを宣言するとともに、西欧の「形而上学」と「神学」の歴史観が終わったことを宣言しました。
そのニイチエは若いときの娼館通いが災いして梅毒に感染し、30歳になると大学を休職し、ヨーロッパ各地の保養所を転々として暮すこととなりました。
37歳の時にスイスのシルヴァプラス湖畔を散策しているときに、突然啓示を受け、「人間と時間を隔てること6千フィート」と叫んで、「永遠回帰」の思想を思いついたといわれます。
しかし、だんだん梅毒が脳に及んで、40歳ころに書かれた「この人を見よ」とか「アンチ・クリスト」を書くころには半分頭が狂って、誇大妄想の症状が酷くなり、その頃に発狂し、精神病院に収容されて10年間を暮し、世紀が変わる1900年に母親と妹に見守られながら、50歳で死にました。
かれが「物知り」なのは保養所を転々としながら、本を読んで散歩するしか、することがなかったからです。
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