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キルケゴールの思想について、何でもいいのでおしえてください。

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A 回答 (4件)

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり


やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書くときに少し詳しく
書くのがよいかもしれません。
この段階では、とにかく自分の存在を神にゆだねてしまう
訳です。人間は罪から、絶望から、自分の力では逃れられない。
なぜなら、人は本当は神によってこの世界に置かれているから
です。その自己の根拠を自己に求めてしまっているところが
「罪」なのであって、自己が、神を尺度とする自己へと変わら
ない限り,どれほど内省的に自己意識を深めてみても,それは神に
対する罪、絶望という「死に至る病」を悪化させるだけに終わると
いうのです。
ここにおいては主体的な「決断」というのも重要です。そもそも
神と言うのは論理では計り知れない存在ですから、人間が
「神はいるかいないか」と考えてもそんなこと分かりません。
だから、信仰は論理によるのではなく、「信じるか信じないか」を
自分自身が「決断」することによって決まるのです。
キルケゴールの著書に「あれかこれか」というタイトルのものが
ありますが、これはその決断を表すものです。

こんなものでどうでしょうか。
なんか適当になってしまい申し訳ないです。

それでは。健闘を祈ります。
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    • 15
この回答へのお礼

お忙しい中、何回も説明してもらってすみません!!
本当にありがとうございました!!
とてもわかりやすかったし、勉強になりました。
これを参考にしてレポートを書こうと思います。
ありがとうございました。
 あい

お礼日時:2002/01/22 01:54

うーん、宗教的著作ですか・・・


キルケゴールは、『わが著作活動の視点』(1448年)で、
自分のそれまでの著作について、

「(自分の)著作の第一部門は美的著作であり、最後の部門は
もっぱら宗教的著作である。この二つのものに挟まって『結び
としての非学問的後書き』が転回点として横たわっている。」

と言ってるんです。
つまり、『結びとしての非学問的後書き』以降の著作が宗教的
著作だ、と本人は言ってるんで、それらの思想をおおまかに
説明すればいいのかな? (おおまかって言っても結構ムズカ
シイですが)

もし、レポートの課題がただ単に「キルケゴールの思想を○○
字程度でまとめよ」とかじゃなく、内容にいろいろ限定がある
なら、始めにそれを言ってもらえると説明しやすいです。
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この回答へのお礼

すみません・・・大学が一応キリスト教の大学で「キリスト教の歴史」という授業のレポートなので宗教的な思想も書いたほうがいいかな??と思って・・・。ちなみに課題は「授業で習った思想家の中で、自分が選んだ思想家の思想について」のレポートです。

お礼日時:2002/01/19 21:37

再びこんにちは。


レポートって、大学のですよね?
だったら前回のももっと詳しく書いたほうがよかったかな。
まあ、とりあえず、今回は彼の哲学の内容を少し書いてみます。
(僕の予想に反して、まだ他の方の回答も無いようですし。)

キルケゴール(Soeren Aabye Kierkegaard,1813~1855)は
「実存」を重視する、というのを前回書きましたが、
「実存」である人間が本来の自己に至るまでの過程には、3つの
段階がある、と彼は言います。

(1)美的実存
この段階の人は、感覚のままに、刹那的な美や快楽を求めて生きて
いる。しかし、この生き方は快楽に溺れて自己を見失い、後には
ただ空しさだけが残る。

絶望

(2)倫理的実存
快楽を追い求める生き方に絶望した人は、次に、倫理的に正しく
生きようとする。○○したい、ではなく、○○すべき、という基準で
行動するのである。しかし、人は完璧に倫理的な生き方はできないと
いう現実に気付き、良心の呵責に悩まされる。

絶望

(3)宗教的実存
人間の限界に気付き絶望した人は、神の前に「単独者」として
ただひとり立ち、自己の存在を神にゆだねる。この段階において、
人は本来の自己を獲得する。

キルケゴールによれば、こうして人は本来の自己を獲得するのです。
「絶望」を経験することによって次の段階の実存に飛躍できる、って
のがポイントですね。
ちなみに、キルケゴールには「死に至る病」という著作がありますが、
死に至る病というのは「絶望」を意味していて、その本では、絶望を
いくつかの種類に分け、それぞれの絶望を分析しています。結論は
結局、人間は神との関係を取り戻すことによってのみ、絶望から
抜け出せる、ということになってます。

こんなところかな。
なるべく分かりやすく書いてみました。
それでは、レポート頑張ってください。
(もし情報が足りなければ言って下さい。)

しかし、キルケゴールをレポートの課題にするって妙にマニアックな
授業だな・・・(笑)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。とてもわかりやすいです!!大学のレポートをしています・・・。質問なのですが、宗教的著作の思想とかわかりますか??

お礼日時:2002/01/19 02:44

こんにちは。


ごく基礎的でよければ・・・

キルケゴールは19世紀デンマークの人です。
その頃のヨーロッパは、17世紀のイギリスや
18世紀のフランスで起きた市民革命の影響で、
とにかく「平等!」ってのがもてはやされてました。

ところが、現代日本でもそうですけど、平等ってのは、
勝ち取った時の喜びは大きいんだけど、それが結構
当たり前になっちゃうと、単に「みんな同じ」みたいに
なってきちゃうんですね。
個々人が画一化されちゃって、みんな大衆の一部になっちゃう。

一方哲学界では、大哲学者ヘーゲルの影響で、精神とか歴史とか
国家とか、とにかく壮大なものをまとめて合理的に説明しちゃう
ような哲学が主でした。

ここに現れたキルケゴールは、思うわけです。
(1)社会に対して
みんな、「いま、ここに生きてる自分」(=実存)てのは、
他人と交換できない固有の生なんだぞ!!それを大切にして
生きなきゃだめだ!!

(2)哲学に対して
確かにヘーゲル哲学はすごい。
でも、哲学にとって本当に大事な問題は、そんな大げさなものに
ついて、誰もが納得するような理論をつくることじゃない!
誰にでもあてはまるようなものじゃなく、自分がそのために生きる
ことのできるような、自分自身にとっての真理(=主体的真理)を
見つけること、それが重要だ!!

というわけで、「実存」「主体的真理」を重視する哲学を始めます。
後にそれはヤスパースやサルトルなどに受け継がれ、実存哲学と
いう、哲学の一分野にまでなったのでした。

キルケゴールの具体的な内容としては、「絶望」の分析や「実存の
三段階」が有名ですが、僕ひとりであんまり長く書くのも悪いんで
とりあえずこれだけにします。
(多分他の方から解説があるでしょう。なければ僕が再び書きます。
というか、内容説明や伝記的説明をする方が多いだろうからそれを
補完する意味で時代背景を説明してみたのです。)

少しでも参考になれば幸いです。それでは。
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    • 9
この回答へのお礼

ありがとうございました。学校のレポートを書かないといけなかったので、すごく助かりました!! もう少し、回答を待ってみようと思います。

お礼日時:2002/01/18 22:31

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Q死にいたる病の「死」とは何ですか?

哲学の初心者です。

キルケゴールの「死にいたる病」の冒頭で、

 死にいたる病とは絶望のことである。

としながら、文中では

 こういう意味では絶望とは死にいたる病とは呼ばれえない。
 絶望者は死ぬことができない。
 死ぬことさえも出来ない希望のなさ

などと、絶望と死のつながりを否定している箇所があります。

いったい、彼のいっている「死」とは、何なのでしょうか?
ごく一般的に言われている、息が止まり心臓が止まる肉体の死をいっているのでしょうか、それとも精神的な死をいっているのでしょうか?

私は、この本を読む前に目次を読んで、直感的に絶望が引き金となって自殺を図るのかな、と考えていたのですが、それは単なる思い違いなのでしょうか?

広く解釈すれば、生物は生まれた瞬間から死にいたっているのですが、そんなことをいいたいわけではないですよね?

Aベストアンサー

キルケゴールは死に至る病について、ラザロの死をひいてきたと思うんですね。


クムラン宗団において、刑罰があり、重大な規律違反を犯した場合、処刑されるんです。
実質的な死ではなく、破門のことが 死。
死者の衣装を着せ 穴の中に3日間拘留したあと、集団から永久追放する。
これがクムラン式処刑。


イエスはラザロは死に至るまでの罪を犯してはいないとして、ラザロを復活させた。
つまり、穴の中に閉じ込められ死者として扱われていたラザロは、死に値するほどの罪が無いとイエスが抗議し、ラザロは復権した。 と。


で、キルケゴールは、人は肉体的な死と精神的な死とがあると考えた。

精神的な死が絶望。


>こういう意味では絶望とは死にいたる病とは呼ばれえない。

この文の前は どのようなことが書かれています?
調べてみましたが、その箇所が見つかれないので、よかったら教えてください。




【絶望である事を知らない絶望。
言いかえれば、人が自己を、しかも永遠的な自己を持っているという事についての絶望的な無知。】

とも言ったようです。


キルケゴールは、「全員赤になるべきだ ならないものは地獄に落ちる これは絶対である」というキリスト教の考えに猛反発したようなんですね。


「信仰が大きければ水の上を歩ける」と言う本人すら水の上を歩けないのに、「信仰で歩けるようになる」と言い張るこの虚構を鋭く突いた。


人々が盲目的に水の上を歩けるようになるようにと、絶対的支配者にかしづいているのをみて、この情況は絶望的で、支配の言うなりになり、自分独自の生というものを喪失し、既に死んでいるのにそれを知らないでいる大衆を無知者だ と嘆いた。


この既に死んでいるのに自覚していない人々の風潮が、死に至る病だと思ったんじゃないかと。



>彼のいっている「死」とは、何なのでしょうか?

彼は人は実存的に生きるしかないと悟った。
主体的真理は個人の中にある。
絶対的支配者の主体的真理と個人個人の主体的真理は違う と。


そして一人の主体的真理に統合され、自己を失なってしまい、生を失ってしまうことが、死。

そして人々は死に至る病を発病し、自己を手放し死のうと必死になっている。


キルケゴールに言わせれば、この風潮は病気。



「大衆は虚偽だ」「真理は常に少数の側にある」など、カーメルの笛に踊りながら崖に向かっていく大衆の背中に向かって叫んだわけです。

空しい叫びでしかなく、人々は崖に落ちていった。


ロマン主義の人は現実不可能なことを夢見て、それをさも実現可能であるかのように錯覚して、眠りこけるわけです。


キルケゴールはその逆。
人は実存的な生きかたしかできない限定的な存在であることを自覚し、実存的に生きるしかない と。


生きている以上 いろいろな困難な壁にぶつかる。
支配者の言う通りにするのではなく、一人で決断し、一人で飛んで超えるしかない。


この決断するのは誰か?
私でしかない。
私が飛ぶぞと強く意志を持って、壁を乗り越えるしか、壁を乗り越える手段は無い。


「壁の内側にとどまって泣いて私にすがっていれば神様が助けてくださる。だからわたしのそばを離れないように」という独裁者の撒く毒に、じわじわ犯されて死ぬより、毒を飲まされていると気づいて、奪われた自分だけの生を取り戻し、毒から離れればいいわけです。
そのままなら生きながら既に死んでいるわけですから、悪魔から逃げ、自分の人生を取り戻すしかない。

で、これを死者の復活と言うんじゃないかと。


ラザロの場合は、イエスは復権を与える権限があったから、ジャッジして復権させたのではないかと

これによりイエスは不利になった。
そして処刑され、死者として扱われ、イエスを復権させる権利を持っていた地位の人が彼を復活させた。

これが当時のやりかた。


キルケゴールが、その風習を知っていたかどうかわかりませんが。。。。


結局、肉体的に死がおとづれるより前に、大衆の毒により既に死んでしまっている人が多いってことを彼は指摘したんじゃないかと。

キルケゴールは死に至る病について、ラザロの死をひいてきたと思うんですね。


クムラン宗団において、刑罰があり、重大な規律違反を犯した場合、処刑されるんです。
実質的な死ではなく、破門のことが 死。
死者の衣装を着せ 穴の中に3日間拘留したあと、集団から永久追放する。
これがクムラン式処刑。


イエスはラザロは死に至るまでの罪を犯してはいないとして、ラザロを復活させた。
つまり、穴の中に閉じ込められ死者として扱われていたラザロは、死に値するほどの罪が無いとイエスが抗議し、...続きを読む

Q老荘思想とはどんな思想ですか

老荘思想とはどんな思想ですか

バカでもわかるようにやわらかくお教えください。
例え話なんかも助かります。

Aベストアンサー

老荘思想とは、老子や荘子という人物によって創始された思想です。老子と荘子は別に知り合いでも何でもありませんが、考え方がほぼ同じなので両者の思想をひとまとめにして老荘思想と呼ばれています。蛇足ですが、荘子とされる人物は複数(少なくとも3人)おり、老子も含めそれぞれ生まれた時代が異なります。

孔子の儒教が「人はこう生きねばならぬ」「物事はこうでなくてはならぬ」というガチガチに固められた道徳体系であるのに対し、老荘思想は「物事の善し悪しなんて考え方次第なんだから、気楽にあるがままでいいんだよ」という自由奔放さが特徴です。

自然を崇拝し、無私無我を理想とし、自然にあるがままにいるのを善しとします。
世の中に絶対的なものや、絶対的な価値観など存在せず、すべては相対的であると考えます。

たとえば・・・
・長生きすることは良いことだとされていますが、長生きするということはそれだけたくさんつらい思いや恥ずかしい思いをすることでもあるので、必ずしも良いというわけではない。
・ある人が60歳で死んでしまったとする。60年という寿命は春に生まれ秋に死んでしまう虫に比べればとても長いが、800年生きた仙人から比べればとても短い。その仙人の寿命だって、1万年生きる亀に比べればとても短い。長い短いなんて何と比べるかによって変わるもので、長い短いを決める絶対的な尺度なんかない。
・美人は多くの人に好かれるので良いとされる。でも、美人は悪党にも好かれてしまうし、妬みを買うこともある。神様への生贄にされたり暴君へ献上されたりすることもある。美人であるということが良いこととは限らない。
・大きいけど脆いヒョウタンがあった。大きいからたくさん水が入るが、脆いのでたくさん水を入れると自重で割れてしまう。なので水を入れるためのヒョウタンなのに使い物にならないと捨てられた。でも、そんなヒョウタンでもたくさん集めてつなげて水に浮かせば筏の材料になる。役に立つ立たない、有用か無用かは使い方次第だ。
・仁や義は美徳とされているけど、ヤクザも仁義を大事にしている。戦争になれば仁や義を名分に虐殺が行われたりする。世の中の悪行の多くが仁義を名分に行われていることを考えると、仁や義も絶対的に良いものというわけではない。
・あるところに染物を生業にしている一族がいた。一族は染めた布を冷たい川の水に晒しているので、アカギレやシモヤケの薬を愛用していた。一族の一人は領主である武将に献上し、武将はその薬を大量生産して兵に配った。おかげで武将の軍勢は冬の寒さにも耐えて敵を圧倒し、勝利することができた。薬を献上したものは褒美をもらって豊かになったが、ほかの一族はそれまでどおりの生活を続けた。同じ薬でも使い方次第で成功することもできる。
・知識人は知識をたくさんため込むけど、その知識の多さゆえに常識にとらわれて何もできなくなってしまう。知識は大事だけど知識に閉じこもるのではなく、知識を超えなければ意味はない。
・本には知識がたくさん詰め込んである。でも何かをするコツとか経験とか、文字にできないものこそ本当に大事なのであって、どれだけ文章を読んでも言外の知を読み取れなければ結局何も学べない。だが、知識人は本をたくさん読んで知識をたくさんもって、何もできないのに知った風な気分になって尊大な態度をとる。読書人の読書知らず・・・

老荘思想とは、老子や荘子という人物によって創始された思想です。老子と荘子は別に知り合いでも何でもありませんが、考え方がほぼ同じなので両者の思想をひとまとめにして老荘思想と呼ばれています。蛇足ですが、荘子とされる人物は複数(少なくとも3人)おり、老子も含めそれぞれ生まれた時代が異なります。

孔子の儒教が「人はこう生きねばならぬ」「物事はこうでなくてはならぬ」というガチガチに固められた道徳体系であるのに対し、老荘思想は「物事の善し悪しなんて考え方次第なんだから、気楽にあるがまま...続きを読む

Qハイデガーの思想で

ハイデガーによると
“死”は“現存在”の究極の可能性である。
ということですが…

よくわかりません(笑)。

どなたか、わかりやすく解説していただけないでしょうか??

Aベストアンサー

>“死”は“現存在”の究極の可能性である。

はい、ハイデガーの言う通りでして、われわれ人間だけが「自分はいつか必ず死ぬ」と知ることによって自らの生き方を根本的に規定された存在であり、その意味では石ころ、草木や、本能的プログラムに従って生きるだけの他の動物のような、単なる《存在者》とは本質的に異なるということで、彼は死を意識する存在を“現存在”と呼んだわけです。

たとえば、われわれが一度しかない人生だから精一杯享楽的に生きようとするにせよ、現世をそれよりもはるかに永い来世に安寧を得るための心の備えのための期間と考えるにせよ、いずれも時間の非可逆性、生の一回性を肝に銘じて弁えているからとしか説明しようがないわけです。

ですから、恥ずかしながら、私などは普段はのんべんだらりと生きていますが、それでも何かの拍子に死に隈取られた生を意識したり、いずれ自分にもお迎えがやって来ると思ったりしたときには、少しは自分の惰性的な生き様を恥ずかしく思わないわけでもありません。

もし、この世に不老不死の妙薬があると仮定すれば、もし、われわれが時計の針を逆に回せたりできると仮定したら、これまでわれわれの生を支えてきた、あらゆる生き甲斐も人生の目的意識も、つまり、ありとあらゆる世界の意味も価値もすべて消滅してしまうはずです。

>“死”は“現存在”の究極の可能性である。

はい、ハイデガーの言う通りでして、われわれ人間だけが「自分はいつか必ず死ぬ」と知ることによって自らの生き方を根本的に規定された存在であり、その意味では石ころ、草木や、本能的プログラムに従って生きるだけの他の動物のような、単なる《存在者》とは本質的に異なるということで、彼は死を意識する存在を“現存在”と呼んだわけです。

たとえば、われわれが一度しかない人生だから精一杯享楽的に生きようとするにせよ、現世をそれよりもはるかに永い来世に安寧を...続きを読む

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Qニーチェのいう超人とは一体どのようなものですか?

連続投稿ですみませんm(_ _;)m
哲学でニーチェ先生を勉強しているんですが、難しくてさっぱりです…;

極論ですが永劫回帰とは、ようは地獄(現実)が繰り返される事を意味するんですよね?;
それを受け止め(運命として)精神的に乗り越える人のことを「超人」と呼ぶ、でいいんでしょうか?;
運命を変える人の事を「超人」というわけではないのですね;

なんだか納得できるような納得できないような…;
あと、個人的に「虚無」についても勉強してるんですが、これに打ち勝てるようなものは存在しないのでしょうか?(この質問は任意で結構です;)
もし、何か御存知でしたら教えて頂けないでしょうか?
勉強し始めたばかりで、誰が何が良いかも分かりません(><;)
本も難しいのが多くてどれがよいやら…;

Aベストアンサー

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。しかし「超人」は、永劫回帰のニヒリズムに対してさえ、「これが人生だったのか、よし、さらばもう一度!」と自己の生を肯定して、より強く生きていこうとする人なのです。またさらに言うなら、「超人」とは、自らが自分の運命をつくり出していく意志を持った人ともいえます。

◎「きみたちが、きみたちの父祖の子孫であることを、きみたちは、きみたちの子孫たちによって償うべきだとは、『過去に囚われるな、未来を見よ』という事なのでしょうか?」について

 この文章の私流の解釈は、「自らの過酷な『運命』や悔恨の『過去』(ある意味では運命とも言える「過去」)を、きみたちは、積極的に『未来』に働きかけることによって、その意味をプラスにすべきなのだ」といった具合です。つまり、肯定的な「未来」を創造することによって、過酷な「運命」や「過去」は自分にとって大切な存在になるのです。ところが、それに「囚われ」ているということは、「運命」や「過去」を呪っている結果であり、「超人」の創造的な生き方ではないのです。

◎「運命(過去?)を愛せよ、という割には「償う」という表現を使うのは矛盾しているような…」について

 自分の「運命」を呪い、現にあるものと違ったものであればよかったのにという考え方は、能力や財力のある者・健康な者に対するねたみや恨みが隠されており、それは弱者の考え方なのです。「超人」は、あらゆる「運命」と向き合い、それを必然なものとして受け入れ愛する人間なのです。なぜならば、その過酷な「運命」が自己を高め、より強大にしてくれる起爆剤を内包していることを、「超人」は知っているからなのです。そして、その過酷な「運命」を、自分にとってプラスの意味あるものにすることが「償う」ということであり、またそれは、過酷な「運命」から逃げず、それと向き合い、それを必然なものとして愛する「超人」にこそ可能なのです。なお最後に、またニーチェの言葉を紹介して締めくくります。 

「いまだに決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない」
  

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Qニーチェの有名な言葉「神は死んだ」について

「神は死んだ」についてです。

何故にこの言葉が広まった?のでしょうか?ニーチェのこの言葉を重要視して有名な言葉として広めた人がいるのでしょうか?

自分で「ツァラトゥストラのかく語りき」を読んだのですが、その言葉はさほど重要な点ではないと感じましたが…

Aベストアンサー

 キリスト教批判については、西洋の思想史をさかのぼれば、無神論の思想家を見つけ出すことができますが、最も明確に筋道立てて隅々まで否定したのはニーチェだけでした。特に、日本人にとっては、キリスト教は世界宗教の一つにすぎませんが、ヨーロッパ文明にとってキリスト教は、文明のバックボーンであり、キリスト教を否定することはすさまじいものがありました。

 例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な言葉があります。この言葉は、貧しい者や無力な者、弱い者こそ神に祝福されるという意味ですが、ニーチェは、そこに無力な者が有力な者に持つルサンチマン(怨念、ねたみ)が隠れていると指摘したのです。実際、キリスト教は最初、ローマ帝国の奴隷の間に広まったものですし、キリスト教はさかのぼればユダヤ教を母胎として発展したもので、そのユダヤ教自体、他民族によって滅ぼされたユダヤ人の間に広まったものですので、そうしたことからも、弱者の強者に対するルサンチマンが含まれているとしたのです。

 ですから、キリスト教の根底には、弱者(能力のない者・病人・苦悩する者)が強者(能力のある者・健康な者)をねたみ、恨む気持ちが隠されているとニーチェは主張します。ですから、こうしたことからニーチェはキリスト教を「奴隷道徳」と批判し、そうした弱者に代表される、没落し衰退し滅んでいくべき存在に同情や憐れみを持つことは、人間の心の弱さから生じたものであり、自分自身を弱者の地位にまで引き下げるとしたのです。言い換えれば、弱者への同情や憐れみは、人間が本来持っている「生」へのたくましい欲求(支配欲・権力欲・性欲・我欲など)を押さえつけ、人間を平均化し、無力化してしまうとしたのです。そこで、ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、キリスト教的価値観を否定したのです。

 また、彼が否定したのは、キリスト教の「神」だけではありません。自己よりも崇高なものを認める価値観すべてを否定していったのです。ですから例えばそれは、イデア世界に永遠なる真・善・美を認めるプラトン哲学も、キリスト教の奴隷道徳の系譜に属していますし、その他、自己より崇高な価値観である「真理」「理想」「理念」もすべて否定していったのです。つまりそれらは、弱い人間が、自己から逃避した結果であり、自己の生を意味づけるためにねつ造したものであり、虚構であると暴露したのでした。そして真の価値基準は、「神」や「天国」「真理」ではなく、自分が生きている現実の「大地」に置くべきとしたのです。

 またニーチェは、キリスト教は「畜群本能」にとらわれた道徳であるとしています。畜群本能とは、自分を越えた特別な能力を持った者を危険視し、群れから排除しようとする「弱者」たちの本能であり、それは主体性を否定し、平均化し没個性的に生きることで安心しあう心理によって支えられているとしたのです。そのためニーチェは、民主主義や平等主義をキリスト教の俗化したものとして嫌悪したのでした。

 なお、ご質問の「ニーチェのこの言葉を重要視して有名な言葉として広めた人」は、特にいません。「ツァラトゥストラ」も当初、40部を自費出版しただけで、晩年は彼を敬愛する妹に見守られながら、次第に高まる名声を知ることなく静かに息を引き取っていきました。

 キリスト教批判については、西洋の思想史をさかのぼれば、無神論の思想家を見つけ出すことができますが、最も明確に筋道立てて隅々まで否定したのはニーチェだけでした。特に、日本人にとっては、キリスト教は世界宗教の一つにすぎませんが、ヨーロッパ文明にとってキリスト教は、文明のバックボーンであり、キリスト教を否定することはすさまじいものがありました。

 例えば、マタイの福音書に「貧しい人は幸いである。天国は彼らのためにある」という有名な言葉があります。この言葉は、貧しい者や無力な...続きを読む

Q形而上学とは

現在、国語の授業で
「広告の形而上学」という形而上学をテーマにした論文を扱っています。
文章の雰囲気は分かるのですが形而上学
というテーマそのものがよく分からないので
どうも、しっくりこないでいます。

「形而上学」というものをくだいて説明して
頂きたいのですが。。。

中学3年の私にも分かるくらいのレベルで説明して頂けたら嬉しいです。(教科書は高校1年生のものですが)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。



あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。

人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。

その「表現」の際に使われるのが「ことば」ですよね。ことばで考えを説明し、ことばで指し示しているものが何かをわかってもらおうとします。

けれども、ことばは【有限】の音の組み合わせですよね。「椅子」ということばがあれば、「い」という発音と「す」という発音の組み合わせです(厳密には違いますが)。発音できるものは【有限】というのは、五十音表を見てもわかると思います。

ここで矛盾にお気づきでしょう。我々は、無限の世界を有限の言葉でしか説明できないのです。

そうすると、ことばはある一つの意味を指すのでは使い切れません。ことばに複数の意味や広がりのある意味をもたせないと、無限の世界を表現できなくなってしまうのです。ことばに対してモノが一対一の対応関係をもつことはないのです。

たとえば「犬」ということばを聞いて、あなたと僕とが思い浮かべる「イヌ」は別のものでしょう。それは、「犬」という言葉が意味するものが広い範囲のものをカバーしているからです。

じゃあその範囲ってどこまでって考えると、それはあいまいなイメージでしかないのです。範囲を確定しようとすると、「狼」でもなく「豚」でもなく「猫」でもなく「馬」でもなく…と、延々と「犬ではないもの」を消去していくことしかできません。

ことば一つ一つの意味にはこういう広がりがあるわけです。すると、ことば一つ一つには意味はなく、他のことばとの違い、つまり、【差異】によってしか意味をなさないということがわかると思います。これを裏返せば、「差異が意味をつくる」ということになります。



ソシュールの話が長くなりましたが、重要なのは最後の段落です。「差異が意味をつくる」という結論が出ていますが、「広告の形而上学」でも同じようなことが言われてないでしょうか。

広告は「形がない」ものです。「形のない」商品、つまり形而上的な商品です。それが商品として成り立つのはなぜなんだろうと考えると、他の広告があって、その広告と違いがあるから商品として成り立つわけですね。広告同士の差異が広告の価値を決めて、商品として売れるわけです。たくさんのあふれる広告の中では「差異が意味(価値)をつくっている」わけですね。



おわかりいただけたでしょうか。長くなりすみません。。。

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。
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